神海(シンカイ)‐ハルノウミナナキソナキソ…arena8order 慧會隴

私腹ノート。黒革の…It's wonderland!!!

Twitter…@arena8order 他

ナチス「殺人光線」の謎…

2014-05-21 16:18:42 | 日記

#ккк #オウム真理教 #兵器 #戦犯 #世界大戦 #レーザー

#ナチス 「#殺人光線」の謎…
http://inri.client.jp/hexagon/fl
http://p203.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0521QyQkDSlE8c9n/6t?_jig_=http%3A%2F%2Finri.client.jp%2Fhexagon%2FfloorB1F_hss%2Fb1fha650.html&_jig_keyword_=%CB%C4%D7%B0%20%95%BA%8A%ED&guid=on&_jig_xargs_=SKeywords%3Djmobv%2520%25CB%25C4%25D7%25B0%2520%2595%25BA%258A%25ED


(左)StG44の先端に取り付けた90度曲射銃身 (右)30度曲射銃身用のプリズム利用の照準装置

曲射銃は、撃つ方が身を隠したままでも射撃でき、市街戦や塹壕戦での撃ち合いにはもってこいの武器である。

しかし、照準器のコストや銃身加工の精密さなどのため大量生産ができず、また射撃のショックで緩んだり破損することも多く、あまり実用的ではなかったようだ。

ちなみに、ドイツから曲射銃身の資料を入手したアメリカ軍は、戦後、彼らのM3A1サブマシンガンにこの装置を付けた。


■■第5章:「殺人光線」の謎

●ナチスは、「太陽光線」を集めて敵を攻撃する対空兵器の研究もしていたようだが、これは実現しなかったようだ。

また、ナチスは「殺人光線」の研究をしていたと言われているが、これに関しては専門家の間で意見が大きく分かれている。

前出のブライアン・フォードは、「殺人光線」の存在をきっぱりと否定している。

●しかし、ナチス軍需大臣アルベルト・シュペーアは、1945年4月、ドイツの労働大臣ロベルト・ライから、ドイツが「殺人光線」を所有していることを聞いた、と述べている。

『Uボート977』の著者ハインツ・シェファーもまた、1945年4月に「殺人光線」のデモンストレーションを見学するようSSから勧められた、と述べている。

だが、彼は潜水艦の艦長としてのスケジュールの都合がつかず、参加することができなかったという。

●ちなみに、第二次世界大戦中、日本もまた異常な兵器の研究に取り組んでいた。

このことは、ロンドンの帝国戦争博物館付属図書館の資料で証拠づけられる。

『非公開付録I・E:殺人光線』と題された1945年10月3日の記録文書は、下田中将ほかの日本人士官たちを尋問したグリッグス、モアランド、ステェフェンソンの各医師の記録を要約したものである。

文書はこう語る。

「日本軍は、5年半にわたり『殺人光線』に携わっていた。これは強力光線の中に集められた極く短い電磁波が、哺乳類の体に生理学的変化を起こし、死に至らしめるという原理に基づいている。光線を向けられた人間に麻庫や死をもたらすような兵器を開発することが、この研究の狙いだった。」

●文書はさらに、この装置にもっとも適した軍事的応用(対戦闘機)について述べ、日本はこの開発に200万ドルに相当する資本を費やしていた、と記している。

また、「殺人光線」を使っての各種の実験、違った種類の動物を殺すのに要する時間についても述べ、最後にこう結んでいる。

「より強力で短い波長の発振器が開発されていれば(これは連合軍のレーダー研究によって可能になりはじめている)、10ないし15キロ彼方から人間を殺せるような『殺人光線』ができよう。」

●さて、最後になるが、大戦が終結した時、連合国側はドイツが開発していた諸々の兵器を目の当たりにして、そのレベルの高さに驚嘆している。

ヨーロッパ戦線の連合軍総司令官アイゼンハワー将軍は、大戦後、ドイツ軍の新兵器の全貌を知るに及んで、次のように語っている。

「もしドイツ軍がこれらの新兵器の開発をもう6ヶ月早く完成させていたなら、我々のヨーロッパ進攻は不可能になっていただろう…」(アイゼンハワー著『ヨーロッパでのクルセード』)

ヨーロッパのアメリカ軍司令官

ドワイト・アイゼンハワー将軍(のちの第34代アメリカ大統領) ─ 完 ─


■■追加情報: ナチスの「巨大戦車」

●ポルシェといえば、カーマニアだけでなく、 一般人さえも知っている高級車の代名詞というべきドイツのスポーツカーである。

しかし、そのポルシェが第二次世界大戦中、戦車を作っていた事実は、あまり知られていない。

「ポルシェ社」の創業者フェルディナント・ポルシェ博士は、世界的に有名なフォルクスワーゲンの設計で知られるが、彼は戦車の設計にも並々ならぬ興味を示していたのである。

(左)フェルディナント・ポルシェ博士 (右)シュツットガルトの「ポルシェ設計事務所」

戦時中、ポルシェ博士は軍需大臣直属の 「戦車製造委員会」の委員長に任命された。

「ポルシェ設計事務所」は多忙をきわめ、事務所からは各種兵器の設計図が続々と生まれていった。

※ ボヘミア出身の天才科学者であるポルシェ博士はフォルクスワーゲンを手がける前は、優秀な技師として多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの混合動力車、「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、 「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。

※1931年に彼は「ポルシェ社」の前身である 「ポルシェ設計事務所」をシュツットガルトに設立していた。(設立年については1930年という説もある)。

●ちなみに、自動車専門メーカーとしての「ポルシェ社」が設立されたのは、戦後の1948年である。

念のため。

詳しくは、別ファイル「ポルシェ博士とヒトラーのVW計画」をご覧下さい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿