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『中国食人史』7、首都で頻発する食人

2012-06-22 20:11:13 | 日記

『中国食人史』7、首都で頻発する食人
http://m.webry.info/at/marco-germany/200709/article_34.htm;jsessionid=25F2C2F74FF3E1B79215F3E6C3E9191D..32791bblog



『中国食人史』7、首都で頻発する食人

2007/09/18 23:38[下へ]

『中国食人史』で紹介したいあと二点は、「帝都」と「人肉市場」です。


まずは「帝都」。すなわち帝国首都ですが、食人は辺鄙な田舎よりもむしろ首都で頻発したこと、これがシナにおける食人の特殊性を象徴しているでしょう。それはいわゆる「未開の人食い人種」の食人とは異なり極めて政治的な出来事であったことを物語っています。


そのことは、いわゆる「南京事件」の捏造とも密接な関係を有するのです。


シナ帝国の首都は、

前漢(長安)
後漢(洛陽)
隋・唐(長安)
北宋(京)
南宋(杭州)
元(北京)
明(南京・北京)
清(北京)


と移り変わりましたが、いわゆる中原に位置する長安と洛陽の政変、兵乱の度の混乱と荒廃がひどかったようです。


例えば黄巣の乱で略奪され食い尽くされたかのように、その後長安は帝都として復活することはありませんでした。


帝都はもちろん政治・経済・商業の中心ですし、なにより皇帝の居住する権力と富の集中する都ですから、略奪もまた集中するのも故無きことではありません。

まがりなりにも統一を保っていた王朝の都城は、まだしも防衛も比較的しっかりしていたかもしれませんが、三国時代、南北朝・五胡十六国、五代十国などの分裂の時期は、戦乱による荒廃はより甚だしきものがあったようです。


とくに南北朝時代に六つの王朝(南朝)がそこに首都を定め「六朝時代」とも称される、首都・建康(南京)は、梁の武帝時代の「侯景の乱」による「南京大虐殺」が有名です。

梁の武帝の時代は、総人口も百万を超え、首都の人口だけでも二十八万戸、数十万人あったといわれます。またこの時代は仏教が栄え、首都の僧尼だけで十万人おり、「南朝四百八十寺、多少楼台煙雨中」と杜牧の詩に詠われているとおりです。

その栄華の夢を破ったのが「侯景の乱」でした。


侯景は、元来が西北地方出身の兵卒で、智勇兼ね備えた男ゆえ北朝の実力者・爾朱榮に抜擢されたものの、北朝・東魏の混乱時に梁の武帝に投降したものです。


後に、東魏と梁の南北和議の際に身の危険を感じて、548年梁に叛きます。翌年、建康を落とし、囚われの身となった武帝は憂憤のうえ死にます。


『資治通鑑』によれば、548年から550年の三年間に「南京大虐殺」が発生したようです。


「軍中食に乏しく、そこで士卒をして民の米、金帛、子女を掠奪させた。この後米は一升が七八万銭に至り、(米を買えない)人は相食う。飢えたもの十中五六」と。(梁記、武帝太清二年)


「初、閉城(城門を閉じて篭城)の日、男女十余万。甲(武装した)者二万余人。囲まれて久しく、人の多くは身体が腫れ咳き込み、死者は十中八九」と。(同、太清三年)


「景の乱より、道路は断絶し、数ヶ月の間、人は相食うに至る。猶餓死を免れたもの十中一二」と。同、太清三年)


さて、その虐殺の模様は詳しく述べられていませんが、二十八万戸で一家四人と見積もれば百万以上になり数十万よりずっと多くなりますが。半分の五十万人の八割が死亡したとすれば四十万人になります。

その後、南朝は衰退し次の王朝・陳はついに隋に滅ぼされます。


唐以降は金陵と改名された建康(南京)は、五代時の南唐の首都として復活しますが宋に滅ぼされます。


朱元璋が天下を平定し明の太祖なり都をここに定め南京と改名します。しかし成祖の政変で都は北京に移ります。


この南京に首都を定めた王朝はみな短命におわり、その滅亡時には常に場と化したもようです。


とくに甚だしきは太平天国でしょうか。


1864年、曽国藩の湘軍が天京(南京)を囲むこと半年以上、湘軍はついに突入し殺人、強姦、放火、掠奪すること一ヶ月。南京は湘軍の場となりました。

さてその際、いったいどれほどの人が虐殺されたのでしょうか?太平天国最盛時の天京の人口は百万といわれています。湘軍の虐殺を経て十数年後の光緒帝が即位した頃でもまだ五十万に満たなかったといわれていますから、大体の想像をつけるしかないようです。

太平天国の女囚 


太平天国の女囚、その後


この太平天国の首都・天京(南京)が陥落した時の悲惨な様子が、いわゆる日本軍によるとされる「南京虐殺」の捏造に色濃く反映されていると考えるのはわたしだけでしょうか? また発掘されたその「南京虐殺」の被害者といわれる人骨は、この太平天国時代のものが多く混じっているとの説もあります。

イロマンゴ島の手長猿一族の風習である。

2012-06-22 19:11:46 | 日記

http://www.path.ne.jp/~millnm/incest.html

 

近親相姦


 聖書律法は、近親相姦を禁じており(レビ記18・7-17、20・11、12、14、17、20、21、申命記22・30、27・20、22、23)、ほとんどの場合、この罪に対して死刑が要求されています。

 近親相姦に関する律法は、簡潔に要約して述べることが可能です。母親や父親、継母、兄弟姉妹、異母または異父兄弟、孫娘、義理の娘(または義理の息子)、おじ(またはおば)、兄弟の妻、同時に母娘との性的関係及び(または)結婚が禁じられています。おじの妻、血縁のおば、または兄弟の妻との相姦は、罪とされましたが、刑罰は[死刑ではなく]子どもを残さずに死ぬことでした。それ以外の場合、刑罰は死刑です(レビ記20・19-21)。

 ここで「子どもを残さずに」という言い回しを理解することが大切です。これは、明らかに、子どもが生まれなかった、ということではありません。というのも、当時も今も、近親相姦による性交及び(または)結婚において、子どもが生まれることがあるからです。タルムードでは、社会において、近親相姦や姦淫の結果子どもが生まれても、それを正式な結婚と呼ぶことができない、と明言されています。1 そのようなカップルから生まれた子どもは、正当な相続者にはなれない、というのが「子どもを残さずに」という言葉の意味なのです。

 この点において、現代人が聖書律法を読む際に頭に浮かぶ疑問は、「なぜそのような魅力的ではない[性的]関係を禁止する必要があるのか。」ということです。ある大学教授は、英国の教会堂に刻まれている法律「汝の祖母と結婚してはならない。」をいつもあざ笑ってこう言いました。「いったい誰が自分のおばあさんと結婚したいと思うだろうか」と。彼は歴史についてまったく無知でした。歴史上、このような結婚はよく行われていたのです。もちろんそれは、セックスよりも財産が目的でした。結婚を強制することによって財産を獲得したり、家族のメンバーどおしが結婚することによって、財産の散逸を防ぐというようなことは昔から頻繁に行われてきました。ヨーロッパの王や貴族が没落したのは、ユダヤ系アメリカ人上流社会が勢いを失ったのと同様に、近親結婚によるところが大なのです。

 チベットにおける一妻多夫制の目的は、土地財産の散逸を防ぐことにありました。土地を分割せずに、無傷の状態で相続するために、兄弟全員が一人の妻を共有しました。その結婚制度は、社会の安定と土地の完全相続を確保するために編み出されたのです。

 近親相姦の律法は、モーセを通して与えられました。モーセ以前において、近親相姦は必ずしもはっきりと悪であるとみなされてはいませんでした。モーセの父親アムラムは、彼の父親の妹、つまり、おばであったヨケベデと結婚しました(出エジプト記6・20)。これよりはるかに後になっても、多くの地域において、近親相姦は引き続いて行われていました。アッシリアでは、近親相姦をめぐって一つの問題が起こりました。ある息子が「父親の死後に、彼の母つまり継母の腕の中で眠っていた」のです。その父親も、「[生前]自分の娘や義理の娘と関係してい」ました。2 このような記録から、当時のアッシリア社会における倒錯的な性風俗の様子がわかります。アムラム等の行動は、まだ律法が明示されていなかった時代の、無知からくる悪行でした。

 エジプトでは、王は、実の兄弟姉妹と結婚しなければなりませんでした。紀元2世紀になっても、エジプトのある地方においては、大部分の結婚がこのような組合せによるものでした。エジプトにおいて、このような結婚が広範に行われ、受け入れられていたために、モーセ律法の導入がそれだけその社会にとって過去とのラジカルな絶縁となりました。

 アダムの子どもたちは、兄弟同士で結婚しましたし、その後の歴史においても、親戚同士で結婚が行われたことは明らかです。聖書によれば、アブラハムは、恐らく実の妹であったと思われるサラと結婚しました(創世記20・12)。二人の父親は同一人物であった可能性が高いのです。もう一つの例、アムラムの結婚については、すでに触れました。

 記録によれば、古代において近親結婚には遺伝的な問題が伴わなかったことが明らかですが、今日では、近親結婚は深刻な問題を生じます。人間の遺伝形質は当時許容の程度が大きかったために、ごく近親の血縁者たちの間での結婚が不可能ではなかったのです。エデンにおけるアダムとエバの遺伝的な潜在能力は、きわめて高いものでした。人間の全体に影響を与えることとなった堕落の後、たしかに[遺伝的]欠陥はあったものの、それは劣性であり、近親結婚を繰り返してはじめて出現するものでした。アーサー・C・カスタンスは、現代の近親結婚の実状について次のように述べています。

 

数学的な観点から見ると、現状についてはこのように述べることができるだろう。すなわち、(例えば、ダーウィンや、彼の姉妹カロラインの場合のような)いとこ同士の結婚では、同じ遺伝子を1対7の割合で持つ子孫が生まれることになる。これらの遺伝子の多くは、劣性の変種であり、それゆえ、劣性同士が掛け合わされるときに、その所有者にとって有害となるのである。おじと姪または、甥とおばとが結婚すると、この比率は1対3になる。兄弟姉妹の間での結婚になると、これがしばしば1対1の割合という悲惨な結果になることがある。3

 

 このような危険は、原初の時代にはありませんでした。創世記において、例えば、殺人が罪であるという意識は人々の間にありましたし、姦淫、盗み、偽証も罪であるとされていました。しかし、近親者同士の結婚が悪であるとか、間違った行為であるとは意識されていなかったのです。その当時にはそのような危険は存在しなかったのです。近親相姦は生物学的な罪ですが、それでもやはり恐るべき罪であり、神は死刑を適用されました。『ランセット』紙(ロンドン)の1967年2月25日号(436
ページ)は、遺伝学上の危険について次のように述べています。
 

 開業医は、近親相姦によって生まれた子どもを養子として受け入れるよう勧めてもよいものかどうか質問を受けることがある。このような子どもたちは、劣性遺伝による病気にかかる可能性が高いのである。この危険性を調査するために、私は、
1958 年に、官庁の児童担当者を呼んで、一等親の男女の近親相姦が原因で発生した妊娠や出産について尋ねたことがある。
 私は、児童担当者たちを通じて、これらの子どもたちの発育過程を調べた。私は子どもたちの名前を知らされず、通信はすべて彼らに付けられた番号によった。
1958 年と 1959 年に、13 例の近親相姦(父と娘の間に生まれた子ども6人と、兄姉の間に生まれた子ども7人)が報告された。彼らの生育過程について最も新しい報告は、1965 年の中頃のものである。子どもたちは4歳から6歳になっていた。これらの 13 人の子どもたちの状況について要約すると次のようになる。
 3人が死亡した。すなわち、1人は膵臓
のう胞性繊維性により生後 15 か月で死亡(死体解剖により確認)。1人は、生後2歳6カ月で、失明を伴う進行性大脳変質により死亡。もう一人は7歳 11 カ月でファロット・テトロロジーにより死亡(この子は、知能指数が 70 しかなかった)。他にも、発育が非常に遅れた子が一人おり、どの能力においても標準をはるかに下回っていた。彼女は4歳9カ月になっても能力測定不能で、話せる言葉は数語しかなかった。他の子どものうち4人は、知能が標準よりも低く、3人の知能指数はそれぞれ、59、65、76 であった。それ以外の子どもたちは、正常であった。
 
 劣性遺伝が発現する可能性は、いとこ同士から生まれる子どもよりも、一親等の関係にある男女から生まれる子どものほうが4倍も大きかった。4
 

 カスタンスは、この他にもいくつかのデータから、非常に重要な結論を引き出しています。今日、非常に多くの場合、近親相姦によって引き起こされる遺伝的な影響はきわめて悪質です。世代を経るにつれて、有害な遺伝子の数は減少するどころか、かえって増加しています。これは、進化論者が教える人間の進化の歴史がいかにありえないものであるかを示しているのです。なぜならば、時を経るにつれて遺伝的な状態は悪化するからです。

 

聖書では、アダムからキリストまでたったの 77 世代でしかない。それに 2000 年を加えたとしても、人類の歴史はまだ100 代から 120 代くらいしか経過していないことになる。欠陥遺伝子の蓄積がなぜ問題になるかというと、それが後の世代の基礎に対して影響を持つからである。それ以外に欠陥遺伝子の蓄積は問題にならない。それゆえ、最初の人類(つまり、アダムとエバ)が本当に完全な状態にあったということがあながちあり得ないことではないと言えるのである。また、堕落に引き続いて起きたダメージがこれまで累積されてきたと言っても、兄弟婚が「わずかながらであっても」今日問題なく行われているという程度の累積でしかなかったということが言えるのである。今日の遺伝学の理論によれば、各世代にこれだけの比率でこれらの変異が発生し、人類の歴史が何千世代にも及ぶのであれば、今、個人が受け継ぐ遺伝子のあらゆる部分に損傷が残るということになるだろうし、人類の間において兄弟婚が一切成立しないほどに、損傷は致命的なものになっているはずなのである。

 

他方、聖書の記述をそのまま受け入れるならば、アダムの息子、娘たち(創世記5・4)--カインとカインの妻もその中に含まれていた--は、単なる損傷遺伝子蓄積の徴候を示すだけで十分であり、何かそれよりも深刻なものを保有する必要はなかった。また、そのような結婚が子孫を危険にさらす恐れもなかったのである。

 

驚くべきことに、聖書には、出来事をこのように解釈することはまったく正しいということをはっきりと示す証拠があるのである。まず何よりも、聖書には、アダムからノアまで10世代にわたる直系の人々の名前が記されており、彼らはきわめて優れた生存能力を備えていたことが明らかにされている。この期間にどのようなことが起こっていたか少し考えてみていただきたい。恐らく洪水以前、大気の上空にはある種のバリアがあって、人々は、遺伝子に有害な宇宙線から守られていたと考えられる。このバリアは、洪水の時に消え失せ、洪水の出来事と密接な関係があったのであろうと多くの者は考えている。それゆえ、こういった環境条件のおかげで、人間であれ動物であれ洪水前の生き物の遺伝子は、何世代にもわたって保護され、ほとんどダメージを受けなかったのであろう。5

 

 明らかに、歴史は遺伝状態の悪化を証言しています。しかし、キリスト教国における配偶者選別は、ある程度遺伝欠陥者の減少に貢献してきました。アルメニアでは、第一次大戦までお見合が広く行われており、縁談を進める前に、互いの両親は、7代前までの家系図を提出するよう求め合うのが決まりでした。その結果、アルメニア人の間では、多くの遺伝的欠陥は取り除かれ、そういった事例を見聞きすることはなくなりました。どのキリスト教国においても、こういった基準が何らかの形で広く社会に受け入れられていました。

 

 さらに、神は、人間の堕落と同時に遺伝的問題を引き起こされましたが、それと同時に、贖いの御業が徐々に進むにつれて、新しい生活環境が確立されるようになるということを私たちは期待できるのです。しかし、進化論者たちはただひたすら事態の悪化しか期待できません。それを恐れるあまり、彼らは全体主義を通じて人間を完全に支配しようとしているのです。