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スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その1

2015年11月03日 08時47分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


少し前 たまたま目にしたブログで、スピリチュアル系? (こういうくくり方好きじゃないんだけど、やむなく。。。ごめんなさい) の指導者さんと 元お弟子さんらしき方々との諍いについて 読む機会がありました。

なんとなく関心が湧いて、双方の関係者さん方のブログに目を通させてもらいましたが、そこからいろいろと思うところがありまして。

どちらの側にも、「う~んわかるなぁ」 というところと 「あ~でもちょっとそれは・・・」 となるところがあって、おおいに考えさせられました。




またまた続き記事になりそうな氣配、ご容赦を m(__)m




このブログでもさんざん書かせてもらっていますが、そもそも 「言葉」 って とても扱いにくくて 不完全な伝達ツールです。

五感を超える世界を 言葉で伝え切るのは、まず不可能な話。

また 五感の世界の物事であっても、言葉というのは それこそ人の数だけとりようがあるので、同じ言葉を使ったからといって、きちんと伝わっているとは限らない。。。というか、多少なりともズレが生じて当然なんですね。




そんなあやふやな道具を駆使して、魂とか心とかについて教える。。。。軽くめまいがしそうです (T_T)




言葉には、「分け出す」 という働きがあります。

リンゴと言った時点で、リンゴのイメージが リンゴ以外のあらゆるものから分け出されて 示される。

つまり、リンゴとそれ以外のものが くっきり線引きされるんですね。




しかし、いのちの世界というのは、境界線がことごとくあいまいです。

昼と夜、生と死、暑さと寒さ、子どもと大人、ここと定められる境界はなく、グラデーションのように じわじわと変化する世界です。

そんなものを、言葉という制限された道具で、どうやって伝えればよいのでしょう。




人間が作ったものなら、最初にそれを分け出した人の思考の枠組みを そっくり伝えることで、教えたり学んだりすることが 可能です。

が、五感を超える世界 ・ いのちの世界は、私たちを超えるものであって、とうてい 私たちが分け出したり つかんだりできるものではありません。




いのちの世界における “答え” は、最初から私たちの中にあります。

それは、つかむのではなく 感じるもの。

もし 教える、伝えるということができるなら、それは、内にある答えを目覚めさせる という形で、初めて実現するのだと思います。

情報は 外から与えられるけれど、内なる答えは 呼び覚ますしかないのです。

そして、呼び覚ますのは あくまで本人の仕事、それ以外の人にできるのは 手助けだけです。




ここら辺を押さえておかないと、「これだけ言ってるのに なんでわからないんだ~」 「なんでわかるように教えてくれないんだ~」 ということが起こるのは避けられない氣がします。























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