毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その2

2015年11月03日 12時50分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


内なる答えに目覚める瞬間は、語りつくせないほどの喜びを伴います。

つかえがとれて、ふわっと浮き立つように軽くなり、世界が大きく開けて 怖いものなど何もないと感じる、あのぞくぞくするようなうれしさ。

そして、その喜びを 誰かに伝えずにはおれなくなります。

美味しいケーキ屋さんを見つけたって、素晴らしい映画と出会ったって、誰かに伝えて 共感してほしくなるのは、自然なこと。

ましてや、そんな五感の喜びをはるかにしのぐ歓喜を、どうして伝えずにおれましょう。

・・・・・と ここまではいいのですが。




内なる成長は、留まるところを知りません。

「今」 という最先端では もっとも鋭い氣づきも、次の 「今」 がやってくれば、その不完全さを いやでもつきつけられます。

氣づきは、新しいものが次々やってくる、というよりも、同じものが繰り返されることで 深まっていくので、同じことに覚える感動も 回を重ねるごとに深まる分、振り返ると あれほど輝かしく思えた以前の氣づきが、妙に幼いというか 色あせて見えてしまいます。

ちなみに、私貴秋が 過去ログを読み返す氣があまり起こらず、「たしか前にも書いたような氣がしますが」 なんてことばっかり言ってるのは、まさにこのせい (^_^;)

「あれっぽっちのことがわかっただけで、あんなに大はしゃぎしてたの? わかった~! って有頂天になりながら、あの程度にしかつかめてなかったの?」 っていうことの連続で、氣落ちしたり 恥ずかしくなったりするのがしんどくて ( ̄∇ ̄*)ゞ




さらに。

観念として目覚めた氣づきは、それだけで深い感動や臨場感があるので、つい すっかり自分のものとなったように思い込みやすいのですが、実際には それが自分の言葉や行動に落とし込まれて ごく自然に現れるようになって初めて、自分のものになったといえます。

恥ずかしながら かくいう貴秋も、これだけさんざん氣づき体験について書いておきながら、このことがはっきりわかったのは、ごく最近のこと (〃∇〃)

観念の目覚めだけでも 深く感動し おおいにうなずけるので、すっかりわかった氣になってしまうのですが、それを身をもって表せるようになるまでには、いささかの距離があったのです。




これを知ることができたのは、去年から3ヶ月ずつ 三回にわたって行くことになった 仕事のおかげ。

きっかけは 金銭的必要に迫られてのことでしたが、それを “氣づきの実地研修” と位置づけたのは、今から思うと大正解でした。

楽しいばかりではない仕事現場で、あれほどわかっていたはずの学びが およそ機能しないことに氣づいて、落胆し 焦ったものです。

仕事から戻るなり その日の自分を省みて 日記にしたため、持参した 「神との対話」 や 「津留晃一メッセージ集」 などを読み返しながらの内省や内観が 日課となりました。

そこで得たものが、私の人生最大の宝物。

それは、人に示すものでも 誇るものでもなく、自分を安心させ 力づけて、地に足つけて どっしり立たせてくれるものだったのです。




というわけで、今だからこそ見える ・ 言えることなのですが、上の二つがぴんとこないまま 人に伝えることを始めてしまうと、後から矛盾が生じたり わけがわからなくなったりして、信頼を失う事態が起きても 不思議ないように思うのです。





















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