毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

こんなところにパラレルワールド!

2016年02月25日 21時15分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


父と私が意氣投合して 一緒に見ることのできる 数少ないドラマ (ドキュメンタリーや紀行番組、音楽番組などは もっとつき合えるものが多いんですが) のひとつが、人氣の刑事ドラマ 「相棒」 。

夕べも二人して見始めたのですが。




この先、昨晩放映の 「相棒 シーズン14 ・ 第17話 物理学者と猫」 の内容について語っています。

知りたくないよという方は、ごめんなさい、ここまでになさってくださいね。
















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番組開始よりしばらく後、「シュレディンガーのネコ」 から タイムループ、並行世界と これまでにないストーリー展開に、ぐっと身を乗り出す貴秋と、なんじゃこりゃ? と テンションがどんどん下がってゆく父。。。。いささか仕事疲れの父は 途中から居眠り始めちゃいましたよ(笑)

一方で、わ~ 「相棒」 でパラレルワールドだ~ と俄然精彩を増した私。

パラレルワールドを 奇想天外 ・ 意味不明な作り事と捉えるか 日常に当たり前にあるものと捉えるかの違いでなのでしょうね




五感を超えた世界に興味を持つと、量子物理学や 「シュレディンガーのネコ」 と出逢う確率は、かなり高くなるような氣がします。

私も、知識としては 以前から知っていましたが、ぐんと理解と親しみが増したのは、以下の三つの続きもののブログ記事を読ませていただいてから。


       「ド ・ ブロイおじさんの動画」   「良く考えると怖い量子力学」   「この世界はパラレルワールド」


ブログタイトルや 散見される下ネタは ちょっと苦手なんですが、このブログからも 貴重な情報や氣づきをいくつも頂いています。

愛読書 「ONE」 との出逢い以来 身近なものに感じていたパラレルワールドが、自身の暮らしの分かちがたい一部として ぐぐっと深く入り込むようになったのは、この三つの記事のおかげ。




で、「相棒」 に話を戻すと、それが妄想であれ 実際に時間遡行したのであれ、「繰り返し遡り 見直される事件」 というテーマをもってくるなら、そのラストは ぜひとも希望に満ちたものであってほしいと 途中から強く願うようになっていました。

だから、あのエンディングには 心から満足だったなぁ♪




幸せとはいえない子ども時代や青春時代を送ったであろう堀井准教授、やっと巡り合えた よき理解者を失った悲しみからの暴走は、何度繰り返しても 辛い結末に。

そして、そのたびに口にするのが、「僕に他にどんな世界があるというんですか?」

それは、彼のそんな不幸ベースの思い込みがあってこそ 創り出される世界なのだけれど、彼自身は 結果のみならず 原因も自分由来であることに 氣づけない。

彼の意識を変えない限り、「何度繰り返しても 幸せな結末にたどり着けない」 のは、本人の言うとおり。

でもね、その思い込みを変えることができれば、あなたの世界も変われるんだよ、わかってよ、氣づいてよ。。。。と こちらは 祈る思い。




ここで そんな思いに応えてくれたのが、他ならぬ主人公の右京さん。

堀井氏に代わって 聡明で曇りない彼の目が解き明かして見せてくれた 思いもよらない現実に、堀井氏の前に 新たな道 (選択肢) が開ける。

チョークを握り、亡き恩師の教え 「RT(Re think = 考え直しなさい)」 を実践するその姿を眺めながら、名状しがたい温もりが 胸のうちに広がっていきました。




そう、なかなか理解できないことだけれど、握り締めたままの古い思い込みが 自分を不幸に縛りつけ、可能性を狭めるんだよね。

思い込みを手放せれば、世界は大きく変えられる。。。。希望が宿る 新しい人生の始まり、よかったねぇ (^^)




それにしても、この種の感動を アニメやSFではなく 刑事ドラマからもらえようとは思わなかったなぁ。

スピリチュアル系に対する 世の中の目も、変わりつつあるのかもしれないね☆

























思うがまま 望むがまま

2016年02月25日 08時29分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


夕べのピアノの話。

いくら意氣込んでも 隔靴掻痒という感じで、一番言いたいことがつかまえられないもどかしさを覚えながら 書いてたんだけれど、あのあと 布団に入った直後にひらめいたのです。

あの喜びのかなめは、望みや最善の予想が なんの引っかかりもなく すんなり実現するのを体験した、というところにあったのだ、と。

こう弾きたい、もっとこんなふうに手が動けばいい、と望むと、そのためにはどうすればいいか ワクワクのアイデアが 間髪を入れず浮かび上がり、すぐさま行動に移されて たちまちのうちに現実となる、そのうれしさ、心地よさ。





眠くて もう一度PC立ち上げるまではいかなかったけれど、いそいで起き上がってメモだけはしっかりとりましたよ




うれしい予想やインスピレーションが、狙い過たず すんなり事実に変わる。

このところ 心の内も外も そんな大当たりの連続という かつてない日々を過ごしています。

そんなの 珍しいことでもなんでもないじゃない、と思われますか?

貴秋には、とんでもなく珍しいことなのです。

つまり、以前は 望みは叶わなくて当たり前、期待は裏切られて当たり前、が日常だった ということ。




ひそかに 「負の期待」 と呼んでいるのですが、望みが浮かんだとき 同時に現れるのが、「どうせまただめだろうな」 というセリフ。

それほど強い思い込みがあっさり実現するのは当然自然、すべて自分の思いが起こしたことと 今ならわかるのですが、当時の何もわかってない私が そんな悲しい現実に 「ほら やっぱりね。。。。どうせ私はだめなのよ、いいことなんか実現しないのよ」 という思い込みをせっせと強化し続けたのもまた 無理なからぬこと。

私の母は、この思考パターンの名手でした。

私は 母を通して 自分のこのパターンに氣づかされ、かつ 感覚フォーカスという解除手段を得て 今に至ることができましたが、母はさいごまで 負の期待に囚われたまま、希望を失い 生きる氣力を失い、記憶も思考能力も 自ら封じるようにして 旅立っていきました。




ちょっと恐ろしいことを言うようでためらわれるのですが、世を震撼させるような事件のニュースでたびたび耳にする、「むしゃくしゃした」 「相手が誰でもよかった」 という 短絡的ととれる言葉、これを聞くたび 心のどこかで 「わかるなぁ」 という声がします。

わけもわからないまま 負の期待ばかり膨らんだ 焦燥 ・ 絶望地獄に閉じ込められて、そんな目に遭う訳も そこを抜け出す手段も見つからない、こんな閉塞状態に長いこと置かれると、その今にも爆発せんばかりのフラストレーションは 行き場を求めて とんでもなくいびつな形で爆発しかねないものだ、ということが、かつての自分の心理と照らし合わせて よくわかるのです。

私だって 最悪の時には、限界ギリギリまで押さえ込んだ怒りが 自他を巻き込んで暴走寸前だったのですもの。

あの犯罪に手を染めてしまった人たちと 自分との差は、紙一重だったと感じます。

私は、少し運が 巡り合わせがよかっただけなんだ、って。




そして今、その地獄を脱出する鍵を、私は握っている。

それが、このところ 金太郎飴のように どの記事を切っても出てくる、「自分の心の闇や ほんとうの思いと 目を背けず向き合い 受け入れる」 こと。

醜い、苦しい、こんなもの絶対見たくない、と 明確に意識する間もないほど 瞬時に押し込めて なかったことにしてしまう、自身の影の部分、そこにこそ 鍵はあったのです。

自分をがっちり捉えて離さない どうすることもできない強大な力と思われていたものが、実は幻に過ぎなかった、その力を失わせるには ただまっすぐ見つめ、感じ 味わう、それだけでよかったのだと、生前の母に教えることができたなら。

それは叶わぬ望みだけれど、今危うい瀬戸際にいる人には、もしかしたら届くかもしれないもの。

それが、こんな 世間の大半の方々には 「なにこれ?」 であろうブログを書き続ける動機のひとつだと思っています。




あの、まかり間違えば 扇情的なワイドショーの主役になりかねないほど 怒りや不安や恨みに満ち満ちていた私と、今の 文字通り “毎日がしあわせ日和” な私、そのビフォーアフターの落差のすごさよ。

かつての苦しさを知っているから、今の幸せが かけがえのないものに思える。

そして、その鍵が 望めば誰でも手に入るものだということも ついつい語らずにおれなくなります。




そんな動機に支えられて、きょうもまたせっせと こんなブログを書いています。

なんか 通常運転に戻ったな~っていう感じ(笑)




“毎日がしあわせ日和” は、自分を見つめることをためらわないすべての人の 当たり前の日常なのです