子どもの頃歌った「どんぐりころころ」だが、つい「どんぐりころころ どんぐりこ」と歌ってしまう。本当は「どんぐりころころ どんぶりこ」らしい。そう言われても歌っていた癖は、なかなか直せない。
誰も直してくれなかったものだから、間違ったまま記憶が確かなものとなっている。「どんぐりこ」でも「どんぶらこ」でも、何となく語呂があっていて正しく聞こえる。訂正されないまま大人になってしまう。
アルプス一万尺もそうだ。最初の「アルプス一万尺 小槍の上で」を「アルプス一万尺 小ヤギの上で」と覚えてしまっている。山とヤギの組み合わせは不思議ではない。ただ「アルペン踊りを さぁ 踊りましょ」と歌ってしまうと分からなくなる。
ヤギの上で踊りができるものかどうか。でもアルペン踊りを知らないので、ヤギをだしに使って踊れるダンスがあるのかと思ってしまう。そんな疑問を持ちながら大人になってしまう。
そして大人になったとき、この歌が29番まであることを知ってしまう。それならびっくりついでに、知らないアルペン踊りも、ヤギの上で踊れてしまうのだろうと納得してしまう。
正月に唄った歌も、勘違いをしている。「年のはじめの ためしとて 終りなき世の めでたさを」を、「年のはじめの ためしとて 尾張名古屋の めでたさを」と覚えてしまっている。「終り」を「尾張」と間違えてしまっている。
子どもの頃は、尾張と名古屋の関係を知らないので、歴史を勉強したときに、間違えるきっかけができたのかもしれない。
童謡の「ふるさと」も耳だけで聞いていると、「兎追いしかの山」が「ウサギ美味しいかの山」と聞こえてくる。向こうの山のウサギは、食べたら美味しいものだと聞こえてくる。
今流行の歌でも、歌詞を見るまで勘違いしている歌がある。目くじらを立てて訂正しなくても、あとからわかって笑いに変えられる。笑いは生活の潤滑油だ。大切にしたい。クジラの目は吊り上がって怒っているように見えないのに、目くじらと使われる。なぜだろう?
吊り上がっていなくても、目くじらを立てると吊り上がるということか。この世にはまだまだ勘違いしていることがありそうだ。刑事が最重要容疑者を見つけて、「一番星見つけた」と歌っているかもしれない。ウソ?ホント?