黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

戦中 戦後 昭和ひと桁生まれの思い出 (樺太 豊原)

2020年08月12日 | 戦争

敗戦後75年の月日が経った

敗戦時12歳だった私も87歳

戦争を知っている人たちも少なくなった

忘れられない

二度と起きてはいけないあの時代を振り返ってみることにする

 

昭和18年(1943年)札幌市の国民学校(小学校)5年生の秋

父の転勤で

樺太 豊原市(サハリン ユジノサハリンスク市)に移ることになった

当時は稚内から樺太 大泊まで連絡船で約8時間

 

ネットから 稚内港 連絡船 亜庭丸

 

大きな桟橋から船に乗ったのを覚えている

 

宗谷岬からは樺太が微かに見える 2012年撮影

豊原市は人口4万人くらい 札幌を小さくしたような街だった

駅から客馬車に乗って宿舎まで行ったが外国に来たようだった

昭和18年秋には戦局が不利になり 物も不足し

衣類も食べ物も配給だったが樺太は何でも豊かで

 不安に思うことは全くなかった

豊原市第三国民学校に転校した 一学年5学級

女子は2クラス すぐ友達もでき

札幌からの転校生ということで 勉強も進んでいると思われ

担任の女の先生からも期待された

札幌ではダメダメ生徒だったのに 褒められたら

苦手だった算数もすらすら解けて大好きになり学校が楽しかった

 

学校では 天孫降臨神の国 天皇陛下は現人神と教えられ

毎日 宮城遥拝 奉安殿に最敬礼 戦争は絶対勝つと思っていた

先生にも絶対服従だったが音楽専攻の担任は優しく

教科書にない「この道」などをこっそり教えてくれたり

 

翌年

昭和19年6年生になったころから戦争の不安が大きくなってきた

お米がとれない土地 海峡が閉鎖したら樺太は孤立してしまう

家々でも自給自足のために土地を借りてジャガイモ・カボチャ作り

 

学校でも5年生6年生は川向こうの市のごみ捨て場に

カボチャ・ジャガイモ・ルタバカ(蕪)などを植えた

人出のない農家への援農で(ジャガイモの草取り)

勉強時間が少なくなった

ゴミ捨て場の土地が良かったのか 秋には大豊作

カボチャ・ジャガイモ・ルタバカなどは給食に具沢山の味噌汁になり

毎日お腹いっぱい食べられ美味しかった

 

ルタバカ(ネットより)

軍国主義に固まった校長の指示で

全校生徒11月までは校内を素足で歩くように言われ

霜焼けが化膿したが容赦なく 

上半身裸で乾布摩擦させられたり

薙刀や敵が攻めてきたときの護身術を教わったり

空襲はなかったが ソビエトの脅威を感じ暗い日々になっていった

 

つづく


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