黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

広島の看護婦さんとしもやけ

2017年08月06日 | 思い出

広島からきた看護婦(師)さんに

はじめて会ったのは

昭和19年(1944年)

私は 国民学校(小学校)6年生で

 樺太(サハリン)の豊原(ユジノサハリンスク)に住んでいた

 軍国主義は子供まで及び

厳しい校長の命令で 

11月までは校内では素足でいるように指示されていた

靴下もはかず上靴も履けない 

北海道よりもっと北で寒い 

10月でも氷点下近くまで下がる日もある

  冷え性の私は

 足の裏が凍傷(しもやけ)になり 化膿して腫れあがり

歩くことも出来なくなった

母に連れられて

鉄道の診療所に行き切開してもらったが 

その時優しく手当してくれたのがお二人

嬉しくて

樺太にきて間もない二人の看護婦さんと

仲良しになり

傷が治っても よく遊びに行った

 

昭和20年戦局が悪化

ソビエトが参戦の気配がしてきたころ 

お二人は郷里の広島に帰られた

間もなく 8月6日に原爆投下 

家族で案じていたが 私たちも引揚げ生きるのに必死だった

 

 敗戦後数年経った頃 

お一人に偶然お目にかかり無事を知った

原爆投下の時は看護婦として

死に物狂いで働いたとお話していたが

口数は少なかった

 8月6日 

ふと お二人の優しい顔が浮かんできた

サハリン ユジノサハリンスク 

豊原第三国民学校の址には

今も学校が建っていた

 2012年7月26日撮影


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする