広島からきた看護婦(師)さんに
はじめて会ったのは
昭和19年(1944年)
私は 国民学校(小学校)6年生で
樺太(サハリン)の豊原(ユジノサハリンスク)に住んでいた
軍国主義は子供まで及び
厳しい校長の命令で
11月までは校内では素足でいるように指示されていた
靴下もはかず上靴も履けない
北海道よりもっと北で寒い
10月でも氷点下近くまで下がる日もある
冷え性の私は
足の裏が凍傷(しもやけ)になり 化膿して腫れあがり
歩くことも出来なくなった
母に連れられて
鉄道の診療所に行き切開してもらったが
その時優しく手当してくれたのがお二人
嬉しくて
樺太にきて間もない二人の看護婦さんと
仲良しになり
傷が治っても よく遊びに行った
昭和20年戦局が悪化
ソビエトが参戦の気配がしてきたころ
お二人は郷里の広島に帰られた
間もなく 8月6日に原爆投下
家族で案じていたが 私たちも引揚げ生きるのに必死だった
敗戦後数年経った頃
お一人に偶然お目にかかり無事を知った
原爆投下の時は看護婦として
死に物狂いで働いたとお話していたが
口数は少なかった
8月6日
ふと お二人の優しい顔が浮かんできた
サハリン ユジノサハリンスク
豊原第三国民学校の址には
今も学校が建っていた
2012年7月26日撮影