Mr.Burkittの戯言

日々のうれしいこと、楽しいこと、悲しいことの記録

サイボーグとして生きる

2006-12-08 | BOOK
サイボーグとして生きる

少し前、「累犯障害者」という本をよみ、
なぜか妙に「聾者」について気になってました。

多分、それは、他の障害の方と違って、
聾者には独自のコミュニティがあるということ、
それも特別に強く結束された世界を持ち、
独自の文化を持つを考えておられるということ、
日本人であっても、日本語は第ニ外国語のような
ものだということ、など、まったく知らなかった
世界であると感じたことが主な原因だと思います。

「累犯障害者」を読んだとき、
聾者間で使われている手話と聴者が使う手話が
まったく別物であるということを知り、驚いた。

つまり、聴覚障害者とのコミュニケーションが
とれるように、と手話を勉強したとしても、
それはあまり意味のないことなのだということ。

本を読む限り、聴覚障害の方にとっては、
聴者の手話(日本語対応手話)と会話できるのは、
せいぜい20分程度。
それ以上は、翻訳のための集中力が持たないとか。
まさに外国語ですね。

さて、そんなこんなで気になっていたときに、
たまたま目に留まったこの本をよみ、改めて、
「耳が聞こえること」と「聞こえないこと」の
大きな違いを感じました。

それは、私が健常者であるが故に感じたことかも
知れないが強くそう感じました。

さらに、ほんの少しでも聞こえること、と
まったく聞こえないこと、の違いも大きいのだと
いうことも感じました。

何が大きく違いと感じたかというと、その人が
属するコミュニティが完全に変わってしまうと
いう現実です。

健常者による多数派のコミュニティと
聴覚障害者の少数派のコミュニティ。

決して、互いがコミュニティがとれないなどと
いうつもりはまったくないのですが、通常の生活で
交わりあう機会は限定的であり、現実の問題として
多くの健常者は日ごろ、聴覚障害者のことを気にする
機会もほとんどないに等しいでしょう。

それ故、現実の社会では、聴覚障害者の方にとって
不利に働く局面は少なくないと簡単に想像できるし、
社会制度的にも不十分であると思います。

が、それを現実として捕らえたとき、この本の
主たるテーマである、「人工内耳」というのは、
すばらしいものだと思えたし、もっともっと、
安全に効果的に利用できるようになればよいなと
思いました。

私は、現在、システムエンジニアをしていますが、
その昔、この職を選ぶきっかけとなったのが、
テレビでやっていた全身不随の方の話で、
口に加えた入力棒を使って、当時のパソコン通信で
世界が広がり、肉体的な障害があっても多くの
コミュニケーション、活躍の場が広がる・・・
というのを見たとき、すばらしい、こんな風に
役立つシステムを作りたいと思いました。

今でも考えており、いつかはビジネスではなく、
そんなシステムを、と考えたりしてました。

ですが、今回、少し気づいた(感じた)ことが
あります。
私が考えていたのは、あくまでも我々健常者が
考えた押し付けのものではないか、と。

我々のコミュニティへ無理やり参加させるための
ものを作ることがよいのではなくてもう少し、
広い視野で考えてみる必要がありそうです。

ちなみに、この本自体は決して重たい内容ではなく、
軽快で上手な文章であり、面白く読めましたので、
機会があればぜひ、読んでもらいたいですね。

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