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大般若経転読世だめし粥占い(北黒田)~市指定無形民俗文化財~

2009-03-13 14:56:36 | 河芸の文化財

(写真は、粥の詰まり具合を確認する北黒田の皆さん。)

応永3年(1396)宝幢院(ほうどういん)住職の頼恵(らいけい)和尚は、若い二人の弟子に、

「人生50年というが、わたしはもう還暦をこえた。そこでこの里が繁栄し、五穀が豊かに実って人々が幸せにくらせるように、大般若経を写経し、毎年転読祈願しようと思う。」

と話した。

この発願(ほつがん)を聞いた二人は、

「それは誠にご奇特なことで。お師匠さんのこの仕事に私たちもぜひお手伝いさせてください。」

と答えた。

大般若経書写といっても、全部で600巻もあるから文字も莫大な数であり、途方もない事業であることを二人は知っている。

また頼恵和尚も、「完成はいつになるかまたく見通しはつかないが、万一途中で倒れたら、きっとこの若い二人があとを引きついでくれるだろう。」と信じてこの仕事に打ちこもうと決心した。

そう決心した和尚は、ただちに第1巻より写経をはじめた。

修行中の若い僧妙海(みょうかい)と頼円(らいえん)は、日々寸暇を惜しんで机に向かって懸命に書写する和尚の姿に感動し、寺務や作務(さむ)の間に、自分たちも写経に取り組んだのである。

三人の尽力によって、1年後の応永4年6月、和尚は第600巻目を写経し終わった。

この黒田の里に、あまねくみ仏の御利益(ごりやく)がいただけますようにとの三人の必死の努力が実を結び、目的を達した師弟はその完成を心から喜びあった。

しかし、体力を消耗し、精も根もつきた頼恵和尚は、視力が急に衰えついに盲目になってしまったと伝えられている。

その後、この大般若経600巻は、年月をへて津藩主藤堂公に献納された。それはこの宝幢院が藤堂家の祈願所であったからである。

記録によると北黒田の住民は、この大偉業に感謝し和尚の遺徳を偲んで、長享年間(1487~1489)より、自分たちの手によって、大般若経転読祈祷をはじめたのである。

そしてまた、黒田は農耕に適した土地であり、田畑の作物によって生計を左右されりことが多かったので、仏に祈り作物の豊凶を仏意に問うという占いの行事をしたのである。

この行事は、「世だめし粥占い」といわれ、通称「大はんにゃ」と呼ばれている。

長享年間から今日まで500年あまり、住民の手で滞(とどこお)りなく伝承されてきたのである。

行事内容は次のとおりである。

1 毎年2月14日、朝から津四天王寺の住職を導師に迎えて、釈迦十六善神図絵と釈迦涅槃図をかけ、その前で祈祷がはじまる。

2 前日の13日から本年の当番家において、当番せこの全員が集まり明日の準備をする。その時占いのための粥を炊きはじめる。

3 粥の中へ、用意した細い竹を3本入れておく、三種(早生、中生、晩生)の今年の出来具合を占うためである。細竹は10センチメートルぐらいの長さに切り、一度割ってからまたあわせて1本ずつ藁でしばっておく。この竹筒3本には印をつけておく。

4 14日朝から読経が始まるが、粥の中から取り出した3本の竹筒と、版木で刷った祈祷札とを供えておく。

5 祈祷が終わったら、供えられた竹筒が割られ、それぞれの竹筒の中に粥粒がどれだけ入っているかをみる。

(写真は、占いにつかわれた竹筒です。)

6 多く入っていた竹筒の品種が、今年の多収穫のものであると占うのである。村落繁栄、家内安全、五穀豊穣の祈祷札は後で全戸へ配布している。明治の初めごろまでは、畑作物も占い、麦作、綿作、稲作と収穫の季節順に決めて、3本の竹筒を入れていたが、いつの頃からか、米作り中心の農業になってからは、米の3種に限られるようになった。

7 第般若経は600巻あるので、読経は毎年10巻ずつ転読する。したがって60年で全巻の読経が完了するのである。


県下各地に残る粥占いはほとんど神事であるが、ここのは仏に祈り仏意に問い、それを区民のよりどころとしているのが特色である。

この「大はんにゃ」の行事が終わると、黒田の里に春がやってくる。

(かわげの伝承から)


追伸:河芸町北黒田地区に伝わるこの伝統行事は、津市の無形民俗文化財に指定されています。



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