日本対パラグアイ戦一夜明けて会社に行ったわけですが、いろんな方から「残念でした」をいただきました。
典型的なパターンだと、目が合って、互いに目をあわせられず、ぼやくというパターン。これはお互いサッカー好き同士のケース。
それ以外だと、「よくがんばった」ということと「駒野」に大別できたように思います。
よくがんばった系の話しですが、この試合にはとにかく人をひきつける、感動させる要素があふれていたようです。普段サッカーを見ない人たちを動かしてくれたことがとてもうれしい。(回りくどい書き方をしていますが、僕は見過ぎの上にどんな試合でも入れ込んで見てしまうので、普通の人の感動のツボがわからなくなってしまっています)
それで、感動はよかったのですが、試合がこれでよかったのかという議論があります。
私は、「よくやった」というよりは「もったいなかった」です。残念でなりません。それは日本が主導権を取れたと思えなかったことにあります。たしかに日本はパラグアイの堅守速攻的な強みを消し去り、(たとえ相手のボール保有時間が長くなろうとも)パラグアイにやりにくさを感じさせていました。しかし日本がパラグアイを「押さえ込んだ」ことが試合の本質でしょうか?いやパラグアイは来ていませんでした。日本は個人能力や経験で「格上の」パラグアイに対して、受け身で試合をつくることは定石ですし、岡田サッカーの根幹となっています。しかしこの試合ではパラグアイは何らかの理由で「来ていなかった」といえましょう。そこに勝負のあやがあります。
来ない、すなわち弱みを見せたパラグアイに対して、日本は足下を見て攻撃に行くべきではなかったでしょうか。リスクを冒してでもゲームをつくりにいく、いや、出るのを躊躇する相手に、ガンガンガンとパンチを見舞ってほしかった。
「サッカーで失敗しても命を奪われることは無いだろう。私は医者からサッカーを見ることを止められている。でもここでリスクを冒して見てるんだ」とオシムさんがスカパーのいつだかの試合で言われていました。日本は行けなかったでしょうか?疲労、選手のオプション不足、色々な要素があって、たしかに限界まで闘っていたともいえます。しかしこの日の放送でオシムさんは、チーム全体の知恵やアイデアで打開できるはずだとの趣旨のコメントをされていました。ここは日本のサッカーにおける重要なテーマなので、また日を改め書きたいと思います。
一方、駒野系の話しです。僕の職場の人たちは優しいので、駒野同情されてました。
僕はあまり悲劇のヒーローを好まないので、サッカー選手は大丈夫だと言う話しをしました。その理由ですが、ひとつにはPKの失敗というのはプロのサッカー選手の仕事としてあり得ることの一つだということ。そしてもう一つには、こういった失敗というのは、実はサッカーをやっていると、生涯のうちに何度もあるはずだということをお伝えしました。おそらくサッカー選手として自分でも受け入れ難い失敗というのは1度や2度ではなく、それらも昨夜の失敗と同等にくやしかったはずです。しかし違いは見ている人の数。その分悲劇は増幅されますが、敗戦の悔しさは、ワールドカップであっても、Jリーグであっても、同じものではないかと感じることがあります。
サッカーは日常の中に突然あらわれる非日常空間です。そこには喜怒哀楽の全てが詰まっていて、それはJリーグの試合でも(稀に自分でする草サッカーでさえも)口を開けます。ワールドカップもその延長線上にある非日常空間です。ですから敗戦はくやしいのですが、駒野は悲劇のヒーローにはなりません。ということを考えます。
典型的なパターンだと、目が合って、互いに目をあわせられず、ぼやくというパターン。これはお互いサッカー好き同士のケース。
それ以外だと、「よくがんばった」ということと「駒野」に大別できたように思います。
よくがんばった系の話しですが、この試合にはとにかく人をひきつける、感動させる要素があふれていたようです。普段サッカーを見ない人たちを動かしてくれたことがとてもうれしい。(回りくどい書き方をしていますが、僕は見過ぎの上にどんな試合でも入れ込んで見てしまうので、普通の人の感動のツボがわからなくなってしまっています)
それで、感動はよかったのですが、試合がこれでよかったのかという議論があります。
私は、「よくやった」というよりは「もったいなかった」です。残念でなりません。それは日本が主導権を取れたと思えなかったことにあります。たしかに日本はパラグアイの堅守速攻的な強みを消し去り、(たとえ相手のボール保有時間が長くなろうとも)パラグアイにやりにくさを感じさせていました。しかし日本がパラグアイを「押さえ込んだ」ことが試合の本質でしょうか?いやパラグアイは来ていませんでした。日本は個人能力や経験で「格上の」パラグアイに対して、受け身で試合をつくることは定石ですし、岡田サッカーの根幹となっています。しかしこの試合ではパラグアイは何らかの理由で「来ていなかった」といえましょう。そこに勝負のあやがあります。
来ない、すなわち弱みを見せたパラグアイに対して、日本は足下を見て攻撃に行くべきではなかったでしょうか。リスクを冒してでもゲームをつくりにいく、いや、出るのを躊躇する相手に、ガンガンガンとパンチを見舞ってほしかった。
「サッカーで失敗しても命を奪われることは無いだろう。私は医者からサッカーを見ることを止められている。でもここでリスクを冒して見てるんだ」とオシムさんがスカパーのいつだかの試合で言われていました。日本は行けなかったでしょうか?疲労、選手のオプション不足、色々な要素があって、たしかに限界まで闘っていたともいえます。しかしこの日の放送でオシムさんは、チーム全体の知恵やアイデアで打開できるはずだとの趣旨のコメントをされていました。ここは日本のサッカーにおける重要なテーマなので、また日を改め書きたいと思います。
一方、駒野系の話しです。僕の職場の人たちは優しいので、駒野同情されてました。
僕はあまり悲劇のヒーローを好まないので、サッカー選手は大丈夫だと言う話しをしました。その理由ですが、ひとつにはPKの失敗というのはプロのサッカー選手の仕事としてあり得ることの一つだということ。そしてもう一つには、こういった失敗というのは、実はサッカーをやっていると、生涯のうちに何度もあるはずだということをお伝えしました。おそらくサッカー選手として自分でも受け入れ難い失敗というのは1度や2度ではなく、それらも昨夜の失敗と同等にくやしかったはずです。しかし違いは見ている人の数。その分悲劇は増幅されますが、敗戦の悔しさは、ワールドカップであっても、Jリーグであっても、同じものではないかと感じることがあります。
サッカーは日常の中に突然あらわれる非日常空間です。そこには喜怒哀楽の全てが詰まっていて、それはJリーグの試合でも(稀に自分でする草サッカーでさえも)口を開けます。ワールドカップもその延長線上にある非日常空間です。ですから敗戦はくやしいのですが、駒野は悲劇のヒーローにはなりません。ということを考えます。