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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)について 其の二

2022年04月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
字音と字訓とヤマトコトバ

 記紀の説話の場面は、海神の宮の門を出たところの井戸に設定されており、そこにカツラが生えている。井戸が門の外にある点は、子どもの安全を考慮したからではないか。小さな子は枢戸の門を押し開くことができない。キーキー言わせて開けるものである。重くてなかなか開きにくいし、キーキー音がすれば誰が開けているか、小さな子が開けているのではないかとあたりを見回して確認することができた。門の開閉に際して軋むように作ることは、鶯張りの床のような防犯上の要素からだけでなく家族の安全にも役立った。すなわち、井戸が門の外側にあると設定していることは、生活の実状を反映してわかりやすく、聞き手に受け入れやすいものであった(注18)。そして、必然的に、門の枢と同じように反復回転する轆轤の滑車がかけられることを予測させている。門の扉は最大180°開いてはまた閉じる。スイングドアにはなっていない。
 車井戸の仕組みは、一方の釣瓶を手元に引き寄せるために、滑車を跨いでもう一方についている蔓縄を引き下げる、その反復運動である。神代紀第十段一書第四に、屋敷に招き入れる際、「三床」を用意したら「於辺床則拭其両足」、「於中床則拠其両手」、「於内床則寛-坐於真床覆衾之上」と順を追っている。この動作が何に依るものか不明である。カエルが跳ねるようにも思われ、やがて帰る存在として描かれているものかもしれない。井戸の滑車によって両端の釣瓶は水を供し、再びまた帰ることを繰り返す。永遠に繰り返すシステムが車井戸である。クリ(繰)を次々に繰り出すことのできるからくりである。幡や帆や釣瓶を引きあげることも、繰ることである。古典基礎語辞典の「く・る【繰る】」の項の「解説」に、「糸・紐・綱など細長いものを、手もとに引き寄せる。引き出す。のちには、連続しているものを順々におくることもいう。」(453頁、この項、依田瑞穂)とある。轆轤と呼んで間違いないことが再検証される。

 水たまる 依網池よさみのいけの 堰杙ゐぐひ打ちが 刺しける知らに ぬなはり へけく知らに ……(記44)
 女郎花をみなえし ふるさはの 真田葛原まくずはら 何時いつかもりて 我がきぬに着む(万1346)
 河内女かふちめの 手染てぞめの糸を 絡りかへし 片糸にあれど 絶えむと思へや(万1316)

 第二・三例に見られるクルという語は、糸をクルことである。あっちへやりこっちへやりするのが糸の製造法である。永久機関のようにくり返すことこそがクリ(繰)の原義である。
 漢語そのままにヤマトコトバとされたという例に「双六すぐろく」がある。バックギャモンのことをいう「双六」については、音の古さから伝来の古さが指摘されている。時代別国語大辞典に、「「双」すなわち「雙」の字は江韻に属し、中古音では ɔŋ の音を表わすはずなのに、スグと uŋ の形でとり入れられたのは、江韻が ɔŋ となる以前の東冬鐘の韻と通用であった六朝中期以前の音を反映したものと考えられ、そこからスグロクの渡来の時期の古さが想像される。」(386頁)とある。それはその通りであるが、仏についてホトケという語が作られているのに、双六になぜスグロクという言葉として定着したのか、検討が必要である。筆者は、どこかロクロ(轆轤)に相同するところがあるのではないかと考える。ともにクロ(グロ)という音を中に伴っている。クル(繰・刳)ような動作がクロという語を呼んでいるようである。さいころを振る時、お椀状の胴筒を刳るように回し転がして、その数に応じて一方の側から他方の側へ駒を移動させている。
 ロク(六)という語は、大和言葉にムである。ム(六)はミ(三、ミは甲類)の母音交替形として数の倍数を表している。ヒ(一、ヒは甲類)~フ(二)、ヨ(四、ヨは乙類)~ヤ(八)、イツ(五)~トヲ(十)と同等の関係にある。そんな倍数的な旋回を与えるものが轆轤である。ヤマトコトバに、ム(曲)という上二段動詞が推定されている。時代別国語大辞典に、「上代には、めぐる意の上一段動詞ルがあったが、ル・ル・ルなどの上一段動詞が、古く上二段に活用したものであったのと同様に、ルにも古活用として上二段活用があったと思われる。したがって終止形はムであったと推定される。」(720頁)とある。下に示した万葉歌の例に見えるタム、往きるとかけたユキミのミが甲類であることから、上代語ムの存在が確かめられるという。そんなムにはぐるぐる感が既存する。そのぐるぐる感に中心軸を与えて円運動とするためには、大陸の技術移入を待たなければならなかった。敬意を込めて、ム(曲)と同音のム(六)の音読み、ロクという音をもって表そうとした。表してみてそのとおりであると納得できた。和訓せざりし和訓とでも呼べるヤマトコトバになっている(注19)

 沖つ島 鴨とふ船は 也良やらさき みて漕ぎと きこぬかも(万3867)
 …… 漕ぎむる 浦のことごと 行きかくる 島の崎々 ……(万942)
 徊徘たもとほり 往箕ゆきみの里に 妹を置きて 心そらなり 土は踏めども(万2541)

 倍数を示す際、ム(六、ロク)を選択的に選んでいるのは、双六にさいころの目の数ゆえであろう(注20)し、絞車、神楽桟と呼ばれる轆轤が軸から出た六本の力木を押し回すことが関係するかもしれない。和漢船用集に、「絞車ロクロ 雑字大全蒙図彙等に載たり。和名抄、俗云六路とするハ是也。船の軸の間左右にあり。絞車座と云。舟方に是を〓(車偏に造)廻カラクリ[ママ]と云。綱を巻胴マクドウタテに有て棒三本を通し六人して横に押す故に六路と云か。檣を立帆を巻、碇を上おろし、游艇及荷物上下皆是による。能人のおよぶべきにあらず。中船以上に用。薩摩にて神楽山と呼。」(句読点等を適宜ほどこした)とある。船の中に固定されているものにも力木が六本のものが見られる(注21)
左:絞車ロクロ(金沢兼光・和漢船用集、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018378/viewer/429をトリミング)、右:キャプスタン(絞盘)(帆船日本丸内展示写真、浅水嘉治夫氏撮影)
 そしてまた、音読みに同音の「勒」と関係があるのであろう。新撰字鏡に、「勒 六音、轡也、引也、久豆和くつわ、又、久豆和豆良くつわづら也」、名義抄に、「勒 陵得反、イダク、カキウタク、約勒、縛勒、節勒、カギル、クツワ、オモツラ、和ロク」とある。クツワとは馬の口に装着するくつわのことである。轡を口に嵌めて手綱をとることで意のままに馬を操ることができる。タヅナとはタ(テ(手)の古形)+ツナ(綱)の意とされる。非力な人の手の力だけで、大きな馬の体を意のままにできる、その操縦桿がタヅナである。タヅナは、読み方によっては、タヅ(鶴)+ナ(己・汝)とも読める。ナという語は、一人称にも二人称にも解される。ツル(鶴)のことを歌語にタヅという由来は知られない(注22)が、とにかくそう呼ばれているのだからそこを出発点として考えることが求められる。ツルといえば、蔓、吊、釣の意が思い浮かぶ。この説話の冒頭は、山幸が釣りをして失敗したことに始まっている。馬を制御する手綱は、馬という馬力あるものを引っぱることのできる魔法の道具である。その仕掛けは、轡に負っている。馬は口が痛いから、右の手綱を引けば右のほうへ向き、左を引けば左のほうへ向く。その場合、左右の綱は片方をゆるめて片方を引っぱることとなる。とが互い違いになっている。両方引いてしまうと馬は停止し、力を発揮しない。ブレーキとしても機能するが、基本はステアリング機能を担うのが手綱である。同様の仕掛けが滑車のついた井戸に再現されている。片方を下げればもう片方が上がってくる。小さな力で大きな仕事ができる。すなわち、馬の轡と井戸の滑車、総称して轆轤とは等価なのである。そのことを傍証するのがタヅという歌語である。鶴は英語に crane である。首を長く伸ばして上を向いて鳴いている。起重機はそのように見えるから crane と呼ぶ。crane が機能するのは轆轤によってである。ヤマトコトバでは、鶴の首の長いことを馬の首の長いことに見立ててタヅという言葉が生まれたのではないか。馬という自動車同様、起重機も大陸から導入されている。建設現場等で活躍していたことが語学的に証明されることになる。
 本稿はソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)の役割についての検討から始まった。ソラ(中空)にあるヒコ(孫)についてである。ヒコ(孫)とはマゴ(孫)のことである。同音にマゴ(馬子)がある。馬引きである。今日、競馬場のパドックでお目にかかる光景としては、一本のリードを頭絡(面懸おもがひ)につないでそれを引いている。荷を載せた駄馬について、歴史的にどのように引かれたか全例を調査することはもはや不可能であるが、下の例では手綱同様に左右二本あって、それを束ねて引いている。井戸の滑車と同じく縄綱が左右へ伸びている。そして、相手は動物である。力は一馬力あってとても強く、言うことを聞かなくなって暴れられたら怪我人も出かねない。制御するためには日頃からの信頼関係の構築が必要である。とともに、噛みつかせないように、また、道草を食わせないようにする仕掛けが求められる。口を覆って口を使えなくしておく。口籠くちこの装着である(注23)。井戸の滑車の仕様同様、ロックがかかっていて外れないようになっている。井戸同様、扱い方を誤れば凶器となりかねない代物だからである。
左:口籠をはめた馬(石山寺縁起、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055271をトリミング)、右:左:このこ、右:このわた(長崎県佐世保市ふるさと納税特設サイトhttps://furusato-sasebo.jp/items/detail.php?id=a25d773e0ab20e4bf17b99df3005d7b9)
 クチコには同音に海鼠の卵巣、コノコの塩辛の意がある。古代、都で食される海産物のほとんどは、干物や塩蔵品であった(注24)。海鼠のことを一般にナマコというのは、生のものだからであり、火にかけて煎ったものがイリコ、日に干したものがホシコ、腸の塩辛はコノワタ、卵巣を干したものはナマコの子のことからコノコといい、塩辛にしたものがクチコである。また、クチコでコノコのことを表した。和名抄に、「海鼠 崔禹食経に云はく、海鼠〈和名は、本朝式等に熬の字を加へて伊利古いりこと云ふ〉は蛭に似て大き者といふ。」とある。平城宮、平城京の木簡に、「熬海鼠○斤」とあって、イリコが能登国、志摩国から貢進されていたようである。クチコ(コノコ)のことは木簡に見られないが、人々は全国から集まってきているのだから、都でクチコ(コノコ)が知られていなかったと考える方が難しい。珍味は酒の肴にもってこいだからである。川上2006.に、「紅梅腸こうばいわた海鼠子このこ口海鼠くちこはともに真海鼠まなまこの卵巣の塩辛である。」(278頁)とある(注25)。コノコとは、すなわち、子の子のこと、孫のこと、ソラツヒコのヒコに当たる。馬の口を覆った口籠くちことは、ヒコ(孫)のことであるということになる。それがヤマトコトバの定義である。口籠で口が覆われている馬は、その間は草を食べようと首を垂れても食べられない。首は中空にある。したがって、ソラツヒコの状態、「虚空」にヒコ(孫=子の子=海鼠子=クチコ=口籠)があることになっている。そんな荷物運びとしての馬の利用と等しい役割を、井戸滑車のバケツ吊り上げに見出した。そして一つのストーリーに仕立てた。それが、このソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)の話であると、鳩が豆鉄砲を食らったように素っ頓狂な納得へと至る(注26)
 以上、ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)と名を変えた彦火火出見尊(火遠理命)の役割について、語学的論証を行った。ヤマトコトバの辞書的記述こそ、コト(言)をコト(事)とすることを信条としていた無文字時代の人々にとって、伝承するに足る説話であった。

(注)
(注1)紀本文には、「就其樹下、徒倚彷徨。…有一希客。在門前樹下。」とあるが、それを受けるところは、水を汲もうとして「因挙目視之。」であるから見上げていることがわかる。
(注2)拙稿「記紀にいわゆる海神の宮門について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/89bf4ee32b502bc6d5da89511ed67c32参照。
(注3)拙稿「古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべき論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f19f8bb2ddc8d9f797f67b1e7cd6f94e参照。
(注4)高いところにひっかける揺り籠状のものとしては、他に、野猿と通称される谷渡りの道具がある。
渡し籠(越中五箇山の庄川筋に明治初め頃まで使用、日本民家園展示品)
 鋼鉄の架線を用いた林業用の野猿も近代になって見られた。それには現代の公園遊具に見られるロープウェイのように滑車がついている。前近代の人が乗って谷渡りをする野猿に滑車付きのものがあったか不明である。索状の強靭性と均一性とが確保されたとは考えにくい。林業用のものを利用して人が行き来した事例は近代にはある。
(注5)図13は、南京博物館・呉県文管会「江蘇呉県澄湖古井群的発掘」文物編纂委員会編『文物資料叢刊』第9期(文物出版社、1985年、4頁)によっている。
(注6)船の帆に関係する蝉も同様の作りになっていることが多い。
舵につけられた蝉(菱垣廻船模型(10分の1)、神奈川大学日本常民文化研究所所蔵、近藤和船模型コレクション、近藤友一郎氏製作、神奈川大学展示ホール展示品)
 井戸の滑車のことも古くセミ・セビ(蝉)と呼ばれていた可能性が高い点については、拙稿「万葉集3617番歌の「蝉」はツクツクボウシである説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2c41457e96da363fe351e45377f730f8参照。公的な写経所には井戸滑車が存在していたようである。
(注7)車井戸のことを俗に釣瓶井戸と呼んでいるのは、その一種だからであって、言葉で峻別することをしなかったものと思われる。器のことを指して、蔓で吊って井戸の水を汲む用途としてツルベといい、その容器自体の名はあるいはモタヒ(甕・瓮、ヒは甲類)と言ったかもしれない。被籠式かどうかはわからないが、蔓の絡んだ状態をもってツルベと言った。和名抄に、「甕 方言に云はく、関より東に甖〈烏茎反、字は亦、罌に作る〉は之れを甕〈烏貢反、字は亦、瓮に作る、毛太比もたひ〉と謂ふといふ。」、「罐 唐韻に云はく、罐〈音は貫、楊氏抄に都流閉つるべと云ふ〉は水を汲む器なりといふ。」とある。
 記では、「従婢まかたち」が「玉器たまもひ(ヒは甲類)」を持って水を汲んでおり、火遠理命の存在に気づく。貴人風の男に水が欲しいと請われて器を渡したところ、水を飲まずに、首に巻いていた「たま」を解いて口に含んで唾を吐くように入れた。璵がもひについて離れなかったとあるから、同じくタマモヒというのだというギャグを交えている。そのままにして豊玉毘売に渡したら、璵のついているのを見て門の外に誰か来ているのではないかとあやしんだとある。璵は美しい玉のことであるが、旁の「與」を意味符と解せば、数珠つながりに巻かれた玉を意味することになる。すなわち、すぐれたチェーンが水を汲む器にくっついたと考えられ、車井戸の技巧を示唆してくれている。ヤマトコトバの音としても、タマモヒが絡まって縮約したらモタヒとなる。
(注8)詳しくは杉本2008.を参照のこと。
(注9)今日、車井戸に使われたり飾られたりする滑車に、車部分の下方が解放されているものが見られる。長期にわたって多用することを考えると、車軸の安定にはごつい作りの方が適しているように思われる。舟木本洛中洛外図に描かれた二条城内の井戸滑車は、車の輪に幅があってタイプが違うようである。
(注10)同じ水関連の道具に、「漏刻ろこく」(斉明紀六年五月是月、天智紀十年四月)がある。天智天皇が自ら造ったとされる時計である。「碾磑みづうす」(推古紀十八年三月)、「水碓みづうす」(天智紀九年是歳)というものもある。高麗から来た僧曇徴が初めて造ったとされ、大宰府の観世音寺に残るのもその一つであろうかとされている。また、飛鳥の石神遺跡からは須弥山石、石神像という石造の噴水装置が出土し、今日でも機能し得る。
(注11)頭部が虎のような想像上の海獣、鯱鉾しやちほこが、城郭などの大棟の両端に飾り瓦として据えられるのは中世以降のことである。古代から行われる鴟尾の変形で、中国で鴟吻が起こった影響かとされている。
(注12)狩猟や漁撈にシャチという語彙を見つけ、海幸・山幸の話の理解のために引きつけて考えられることがある。狩猟の民俗語彙にシャチという語があることは、早川1974.に、「シヤチを継ぐ」、「シヤチ丸」、「シヤチ祭」(以上344~345頁)、「シャチを獲る」、「シャチをつぐ」、「シャチマツリ」、「シャチダマ」(以上397頁)と紹介され、「誰それがシャチを獲た等と特別に話題になる。三河の……[老猟師の言では、]初猟にこれを言われた経験があると語っている。」(397頁)とある。また、千葉1971.に、「シャチはさちで、山幸のことである。シャチをつぐとは幸運を継続させることを意味した。銃がよく当らぬ場合にシャチがきれたと考え、これを改めようという祈禱をしたのである。」(121頁)と決められている。本当にシャチ=幸であるのか、いつ頃からそう言われるようになった言葉なのか、実のところほとんどわからない。せいぜい100年の単位でしか確かめられないことから、8世紀に成った記紀、それは飛鳥時代までの言語活動の集大成のようなものであるが、それを説明しようとするのは本末転倒である。筆者は、鯱や車知には語感的な連関があるのではないかと考える。その万倍力のシャチによってもたらされるものは、もっけの幸いのサチと呼んで理解されたと語学的に解釈されるからである。
(注13)小林1962.によれば、正倉院文書、天平宝字四年(760)の「造金堂所解」に、

熟麻二百五十六斤。〈二百卌斤自内裏給出。十六斤自司内請。〉
用一百十六斤。
 二斤轤綱料、一百卅二斤白土之藁料、
 十二斤固□料、十斤奉於河内殿
残一百斤。(26~27頁。下線部は四角で囲まれる部分)

とあるといい、轆轤を引く縄綱は麻で作られていたという。この記事は、現在の「大日本古文書」では字の不明とすることの多い箇所で、「天平宝字六年閏十二月。造石山院用度帳」(続々修四十五帙七裏、大日本古文書十六(追加十)225頁)に当たるかと思われる。小林氏の時代には原文ではまだ読めたということらしい。また、「六斗二升轆轤縄引卅一人料」(天平廿年(748年)七月十日・東大寺写経所解案)とあるから、轆轤で鉋をかける人とは別に轆轤の縄を引く専門職がいたようである。
(注14)小林1962.に、「用途や構造を異にする種々の機械が、古代においては同じ轆轤の名でよばれていたとすれば、その間には、なんらかの共通性が認められていたにちがいがない。おそらくそれは、回転軸にかけた手綱を手でひいて操作するという、動作の類似によるものであろう。」(39頁)とある。
(注15)実を刳ることは、クルミという語の語感に近いものがありそうである。
(注16)今日のインターネット社会において、検索エンジンの google を使って調べることを日本語にググルと言っている。偶然の賜物とはいえ、その語感には、物事を掘り下げて考えようとするとき、比喩として彫刻刀の使い方を捩っていて興味深い。同じ方向にしか刃をたてていないように、同じような結果しか導き出せないところまでよく似ている。
(注17)拙稿「記紀にいわゆる海神の宮門について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/89bf4ee32b502bc6d5da89511ed67c32において、ハマグリとグリハマの転倒の面白さについて垣間見た。
(注18)井戸祭祀について、井戸からの出土品によって検討されている。水のありがたさ、神聖さを強調する考え方が強いように見受けられる。また、役目を終えたものとして祭ったとする見解もある。中国の思想の影響もあるらしい。それらとは別の話として、筆者は、もし自分の家の井戸で幼い子を亡くした場合、さて、そのあと再びその井戸を使う気になれるのか考えさせられる。そのような考えは、「昔の人に聞いてみなければならない」ことであると一笑に付されるものであるが、昔の人の生活実感に近づくことを拒否する歴史研究とは何であろうか。現代人の視点、尺度によって合理としようと傾き、その範疇外のことは古い祭祀と関係すると述べて憚らないことになる。
 考古学上の知見としては、導水施設が確認され、それを模した埴輪も見られるから、水の祭祀が行われたことは定説となっている。ただ、それが井戸祭祀とリンクするものなのかは不明である。
門の内の井戸(星光寺縁起絵巻 巻上、紙本着色、室町時代、15世紀、東博展示品)
 井戸と門の位置関係については、設定としては記紀に記されるとおりである。「到其神御門者、傍之井上、有湯津香木」(記)、「門前有一井」(紀本文)、「門外存井」(紀第一)、「門前有一井」、「宮門井上」(紀第四)とある。門の外側のすぐのところにあったと考えるのが妥当であろう。絵巻物には、信貴山縁起絵巻に門の近くの内側の垣根に沿って描かれることがある。条坊制を敷いた都では、お屋敷では門の内側の敷地内に井戸が設けられていたと考えられる。反対に外側にあるのは共同井戸とする捉え方もあり、融通念仏縁起絵巻には家々の立ち並ぶ道の道端に描かれている。いま、考察すべき対象は、上代の、海神の宮の話の設定である。古墳時代から飛鳥時代の屋敷のあり方を反映して話(咄・噺・譚)が作られていると想像される。あくまで話である。海神の宮だから「如魚鱗造之宮室」(記)としながらも、だからこそ瓦屋根を指して言っているものと推測される。「台宇玲瓏」(紀本文)、「楼台壮麗」(紀一書第一)と形容されている。茅葺、板葺、杮葺、檜皮葺などに比して、瓦の太陽光反射率は数段上である。倭の国にあってそれに近いものは、聖徳太子のいた斑鳩宮があげられる。斑鳩宮は現在の法隆寺東院の地に営まれていたとされ、海外の賓客を招き入れ、大陸の最先端の文化をとり入れていた。隣接する斑鳩寺(法隆寺)は、焼失前には若草伽藍と呼ばれる場所にあった。瓦を焼く窖窯でせん(甎)も焼かれて石畳にされ、井戸枠にも磚が使われて組まれている。秋田・大橋2010.によれば、磚組井戸は、「現時点では、斑鳩いかるが町法輪寺旧境内に現存するものと、奈良市大安寺旧境内から発掘されたものの二基しかない。」(220頁)という。磚や瓦は須恵器に同じ還元焼成である。轆轤の技術もともに導入されている。須恵器や瓦、磚は土師器のように赤くはなく、白黒なものである。種も仕掛けも轆轤にある。起重機の轆轤の呼び名である「車地」に通じる海獣のシャチの白黒のおかげであったと理解される。そこに井戸滑車が実在していたとしても語学的な齟齬はない。
(注19)白川2004.に、「漢字は、その音訓を通して国語の表記に用いられる限りにおいて、それは国字に外ならぬものである」(2頁)というのを真似て言えば、漢字音によって得られた言葉が上代に俗に用いられている限りにおいて、それは和語に外ならぬものである、ということができる。
(注20)スグロク(双六)については、スグ(過)+ロク(六)の意ともとれる。
(注21)移動式の神楽桟では、十字になっていて力木は四本のものがよく見られる。
神楽桟(荒川水運用、板橋区立郷土資料館展示品)
 数字に何か意味があるのか不明である。ヤ(八)はヤマタノヲロチ(八岐大蛇)、ヤタガラス(八咫烏)、ト(十)はトツカノツルギ(十握剣)など、専売特許のような用例が見られる。数を冠する語について、その数は聖数であると論じられたものを目にする。縁起を担ぐような事柄らしい。しかし、聖数論にはなぜその数が聖なる数と見なされたのかについて議論は深められておらず、まず初めに聖数ありきとして説かれている。
(注22)万葉集に、鶴のことはタヅとばかり訓んでいる。タヅは歌語で、ツルは日常語と分け隔てられている。なぜそのような現象が起こっているのか、これまでの説は説得力を持たない。
(注23)寝藁を食べさせないためにもつけることがある。いちばん困るのは、農耕に使役する際、作物を食べてしまうことであったろう。口籠には竹製、藁製などがある。クチゴ、クツゴ、クチビン、クチモッコ、クツノゴ、フグツなどとも呼ばれる。和名抄・農耕具に、「口籠 蒋魴切韻に云はく、〓〔竹冠に兒〕〈音は鯢、久都古くつこ〉は牛馬の口の上の籠なりといふ。」、名義抄に、「〓〔竹冠に兒〕 字音鯢、クツコ」とある。
(注24)古代、生ものを冷凍・冷蔵して、日数をかけて長距離輸送することはできにくかったし、強いて行おうとはしなかった。塩辛にしたものを食べていたと考えられる。ただし、その場合、できなかったのとしなかったのとでは意味が異なる。楊貴妃が茘枝れいし・らいちを好み、嶺南から都のある長安まで早馬を使って運ばせたといったことは、やろうと思えばできたことである。冷蔵技術についても、令制に主水司もひとりのつかさが氷室を管理しており、延喜主水式に山城・大和・河内・近江・丹波に計10か所ある。権力者は夏でも氷を得ることができた。仁徳紀六十二年是歳条に「氷室ひむろ」の記述があり、「其のつかふこと、即ちあつき月に当りて、水酒にひたして用ふ。」とある。それを大々的に展開すれば、チルド配送に使えそうであるが、どの程度活用したかわからない。冷蔵目的としては、御遺体の霊安には用いられたようである。
 このことは、井戸滑車の出土品がなかなか見られないことや、絵巻物などの絵画資料に描かれていないことにも通じる。日本史上の井戸滑車の確例は一乗谷朝倉氏遺跡にある。筆者は、もっとずっと以前から知っていて、どこかで使われてはいたが広まってはいなかったのであろうと考えている。電動歯ブラシやジューサーミキサーの素晴らしさを知っていても使わない人が多いのと同じである。歯科医からの強力なプッシュや、スムージーに凝ることでもなければなかなか手にすることはなく、替えブラシの値段や後始末の煩わしさから放置されることもしばしばである。井戸を車井戸にする必要性は、条件として深井戸から大量に水を汲みあげたいときに生じる。疲れるから車井戸や撥ね釣瓶の井戸にする。撥ね釣瓶は場所を取るから、窮屈な都市生活でこそ車井戸の滑車は求められたであろう。引き揚げる回数が少ないといったことで大した労力と感じないのであれば、設置するには及ばない。屋形を含め、掘立柱でたてると腐るから修繕が必要で、その際、下手に掘って井戸枠を崩落させては元も子もない。いま、子の子のこと、ひこのこととして井戸の滑車を考えている。元が井戸、子が釣瓶の器、孫が滑車というように宛がって考えればよいのであろう。
 寺院は合宿所である。衛生が重んじられたから井戸は普及していたと考えられている。僧侶はきれい好きである。天平十九年の法隆寺伽藍縁起并流記資材帳に、「温室壱口 長七丈八尺 広三丈三尺」とあって、早くも何かサウナ風呂らしきものがある。一遍上人絵伝に記載の撥ね釣瓶も、横の風呂場へ水を供給するために設置されている。令集解の職員令主水司には、「宮内礼仏之時、僧等洗手湯者、当司設。若有僧数多湯者、仍請主殿寮。」とある。また、寺院の井戸は、染色や酒造の目的でも活躍していたように見受けられる。正倉院文書には、写経所のものとして、経巻関係品の製作にまつわる染色作業として臈纈染めが行われていたことが見えている。当麻曼荼羅縁起の上巻第三段に、「はじめて井をほるに、みづ湛々として、なみ溶々たり。いとをひたしてそむるに、そのいろ五色をそめいだせり」とあり、繊維の染色に当たってわざわざ井戸を掘っていたらしい様子が描かれている。そのような寺院の井戸が滑車を伴った車井戸であったのか、今のところ不明である。法輪寺旧境内、大安寺旧境内の磚組井戸にどうであったか、否定も肯定もできない。礎石の上に屋形の柱を立てたのか、筆者は勉強不足で承知していない。
(注25)海鼠の卵巣を水洗いし、紐に吊るして乾燥させた干物のこともコノコと称する。形が三味線のばちに似ているので撥子ばちことも呼ばれる。一つ作るのに大量のコノコが必要であるためとても高価である。また、小さな棒状をした棒子ぼうこと呼ばれるものもある。いずれも干物で茶褐色をしている。これらがなぜそのような形状に作られているのか、また、味がどのようなものであるかについて述べることができない。
(注26)言語のもつ論理学的な自己説明性からこのように導き出している。今日までこのような解読が行われた試しがないのは、文字時代になって言葉と向き合う姿勢が転換してしまったからである。筆者の議論はどこかほかに根拠とするものがあるものではない。外側から記紀の記述を解説するものではなくて、記紀に記されているテキストをそのままに読むことによってのみ達しており、反証可能性も有している。ただし、テキスト以外からの反論は反証にはならないことは、縷々述べてきたとおりである。

(引用・参考文献)
秋田・大橋2010. 秋田裕毅著・大橋信弥編『井戸』法政大学出版局、2010年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第二巻』角川書店、昭和59年。
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
川上2006. 川上行蔵著、小出昌洋編『日本料理事物起源』岩波書店、2006年。
木立2017. 木立雅朗「回転運動を利用した成形─ロクロと回転運動─」小林正史編『モノと技術の古代史 陶芸編』吉川弘文館、2017年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
小林1962. 小林行雄『古代の技術』塙書房、昭和37年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂。1967年。 
白川2004. 白川静『新訂 字統』平凡社、2004年。
杉本2008. 杉本つとむ「近代訳語を検証する57─理科・理学 滑車(3)─」『国文学 解釈と鑑賞』第73号5号、至文堂、2008年5月。
千葉1971. 千葉徳爾『続狩猟伝承研究』風間書房、昭和46年。
陶器大辞典 『陶器大辞典 巻六』五月書房(復刻)、昭和55年。
橋本1979. 橋本鉄男『ろくろ』法政大学出版局、1979年。
早川1974. 早川孝太郎『早川孝太郎全集 第四巻』未来社、1974年。

(English summary)
In this article, we will examine the role of “Fikofofodeminömikötö” as “Soratsufiko” in Koziki and in Nihon Shoki. In Koziki 1st volume and in the tenth stage of Nihon Shoki 2nd volume, the hero “Fikofofodeminömikötö” was called “Soratsufiko” and was active in the palace of sea deity. When the ancient Japanese people told the story, “Soratsufiko” meant as a metaphor of the well-pulley technology. And it meant the Japanese word “轆轤ろくろ(rokuro)” which was not only the well-pulley, but also the pulley attached to the tip of the mast, the lathe, the potter's wheel and the winch. The Yamato Kotoba system was the structure in which story-telling explains the words.

※本稿は、2018年1~2月稿を2022年4月に整理、改稿し、2024年12月にルビ形式にしたものである。

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