一
仁徳記に、皇后の石之日売命は大后と称され、とても嫉妬深い存在として描かれている。最初の紹介記事に、「其の大后石之日売命、嫉妬すること甚多し。」(仁徳記)とある。嫉妬とは、ウハナリ(後妻)+ネタミ(嫉、妬)の意である。そんな大后は、「豊楽」という宮廷主催の酒宴を開く準備のため、酒を注ぐ「御綱柏」を「木国」、紀州へ採りに行った。御綱柏とは、延喜式に「三津野柏」、皇大神宮儀式帳に「御角柏」とあるものと同じといい(記伝)、先が三つに分かれているもの、例えば、カクレミノやアカメガシワのことではないかとされている。ミツ(三)+ナ(助詞)+カシハ(柏)という語構成が考えられる。器に作るカシワの葉の類で、先を巻き込むようにして作ったとされる。そしてその留守中に、天皇は八田若郎女と懇ろな関係になっていた。それを知った大后は、御綱柏を投げ棄てて、難波宮に還らずに河の流れを遡って山代(山城)へ行き、天皇に対して帰還を拒む歌を歌ってその地に留まってしまった。
此より後時に、大后、豊楽せむと為て、御綱柏を採りに、木国に幸行す間に、天皇、八田若郎女に婚ひき。
是に大后、御綱柏を御船に積み盈てて、還り幸す時に、水取司に駆ひ使はゆる吉備国の児島郡の仕丁、是、己が国に退るに、難波の大渡にして後れたる倉人女が船に遇ひき。乃ち語りて云はく、「天皇は、比日矢田若郎女に婚ひて、昼夜戯れ遊ぶ。若し大后は此の事を聞こし看さぬか、静かに遊び幸行す」といふ。爾くして、其の倉人女、此の語る言を聞き、即ち御船に追ひ近づきて、白す状、具に仕丁が言の如し。
是に、大后、大きに恨み怒りて、其の御船に載せたる御綱柏をば、悉く海に投げ棄てき。故、其地を号けて御津前と謂ふ。即ち宮に入り坐さずて、其の御船を引き避りて、堀江より河の随に〓(⺡+𡱝)り、山代に上り幸す。此の時に、歌ひて曰はく、
つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の上に 生ひ立てる 烏草樹を 烏草樹の木 其が下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が花の 照り坐し 其が葉の 広り坐すは 大君ろかも(記57)
即ち、山代より廻りて、那良の山口に到り坐して、歌ひて曰はく、
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家の辺(記58)
如此歌ひて、還りて暫く箇木の韓人、名は奴理能美が家に入り坐しき。(仁徳記)
この段落に続いて、天皇側から帰還を促すために滞在先の山代の筒木宮へ使者が遣わされ、歌が献上される話へと続いている。
大后であった石之日売の嫉妬譚として歌が歌われている。大后は、宴会用にと持ち帰って来た御綱柏を棄て去っている。その地をミツノサキと言ったとしている。その流れのまま、「御船」で堀江や河を遡っている。どうやって遡ったかといえば、堀江や河の岸にいる人に船を引かせたのである。ミツ(三)+ナ(助詞)+カシハ(柏)をミ(御)+ツナ(綱)+カシハ(柏)と分解して連想される綱の力によっている。そのおもしろさを的確に伝えようと太安万侶は用字を工夫している(注1)。
左:綱で船を引く様子(摂津名所図会・江口、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959908/196/221を色調調整・トリミング)、右:窪手(木村蒹葭堂・蒹葭堂雑録、同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562884/28をトリミング)
地の文と歌謡とを一体のものとして考えた時、御綱柏に続いて烏草樹が登場し、さらに椿と続いていることになっている。この植物つながりのモチーフには意味があると考えねばならない。最初からモチーフに木が現れており、木国(紀伊国)へ採りに行ったと断っている。今日までのところ、「大恨怒」の状態にあるのに、記57歌謡で烏草樹から椿へ続き、大君はその椿のようにすばらしくあると誉め讃えていると捉えられている(注2)。地の文と歌謡とがミスマッチなのではないかと感じられていた。その支離滅裂な展開を落ち着かせ不自然な状況を脱しようとして、西宮1979.は次のような見解を唱えている(注3)。
この歌で、烏草樹の下に椿が生えているとあるが椿のほうが高木である点が疑問視されてきた。しかし、この歌を、あえて事実を倒置して表現した虚構とみる。つまり、神聖な椿─天皇を卑小化してみせたのである。その理解に立つと「照りいまし」も「広りいます」も、嫉妬心の言わせた強烈な皮肉となろう。自分以外の女性に対してだけは「堂々としていて寛容な」天皇への「讃歌」である。型どおりの天皇讃歌の、パロディー。(210頁)
椿を使った天皇讃美の歌い方は、記100歌謡に例がある。
倭の この高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の 語り言も 此をば(雄略記、記100)
記100歌謡は素直な誉め言葉と受けとれる。讃美の詞章の決まり文句なのであろう。それが、記57歌謡では山代河の途上で付け足されている。その際、烏草樹という別の植物を登場させ、つづけて椿を歌っている。同じ椿を用いた修辞であるが状況は異なっており、烏草樹を登場させたわざとらしさも手伝って、記57歌謡と記100歌謡とを同列に捉えることはできないと推測され、パロディと目されるわけである。
もともと石之日売大后が怒って捨てたのは、大きな葉っぱの柏である。「葉広 斎つ真椿」も同じく大きな葉っぱということになる。ならば椿の方も貶すために用いられていると解され得る。椿を用いた常套句を使って逆に皮肉を歌っている。まったくもってご立派な方でいらっしゃいますよ、私が居ない間に側室を抱えるぐらいですからねぇ、と。すなわち、烏草樹、今いうシャシャンボの木の下にツバキが「生ひ立てる」ことになっている。
シャシャンボは、樹高2〜10メートルほどになるツツジ科の常緑樹で、5〜7月頃にアセビのような花をつけ、果実は5ミリほどの液果で穂のように成り、秋には黒く熟して食べられる。甘酸っぱくてブルーベリーに似た実である。樹皮は赤褐色をしていて樹齢を重ねると縦に裂け、薄い縦長の裂片となって剥離するのが特徴である。また、新芽をふく時も赤味がかっており、材を伐った時も当初は赤味を帯びている。一方のツバキは今日、園芸品種が多いが、野生種は5~10メートルほどになる。シャシャンボ同様成長が遅く、寿命が長いのが特徴である。歌の解釈に烏草樹のほうが小さいはずで、その下に椿があることを疑問視する説が多かったが、山で木々のなかにシャシャンボを見つけても、周囲の木と成長を競い合って高く伸び、幹は見えても葉を確認することができないこともある。育つのが遅いため生垣などにされたところから出た説なのだろうか(注4)。
新編全集本古事記に、「写生的に歌っているわけではないから、サシブの下にツバキが生えているというのはおかしいとする説はあたらない。」(293頁)とある。目の前の様子を歌にして歌い、聞き手も同時に目にしながら確認するということではなく、観念的に歌っている。歌を聞いた人は何かおかしいぞと思う。木の大きさの問題では(そもそも)ないから、「事実を倒置して表現した虚構」(西宮1979.)ではない。どうして珍しいサシブをとり上げているのか。樹種としての珍しさではなく歌に歌われることの珍しさとして不思議である。聞く人は歌を耳にしながら大后が歌おうとしている意味を探ったことであろう。いろいろ思いをめぐらせてみれば、なるほど辛辣な皮肉を言っていると感心する。そういう流れを導くための仕掛けが、サシブの下にツバキが生えているという状況設定にある。古代の無文字時代において、歌は音であり、音でしかなかった。歌われた時にだけあり、歌う人と聞く人とに共有されて初めて成立した。
すなわち、烏草樹は大后のこと、斎つ真椿は天皇のことを譬え指しているのである(注5)。「豊楽」は天皇が諸豪族のために開催する接遇行事である。天皇は諸豪族の推挙によって支えられて擁立されていた。そのお返しとして、「豊楽」の用意は天皇がしなければならない。なのに天皇の代わりに大后が準備している。必要な御綱柏を採取しに木国まで出かけて行っている。天皇は、大后がいなければ国事行為がまっとうにできない人物のようである(注6)。大后は嫁いで来ている。もとは接待される側の豪族、葛城氏であった。だから、船は宮都を通り過ぎ、故郷の「葛城高宮」、それは宮があるわけではなくタカミヤという地名にすぎないが、それを見たいと記58歌謡中で願っている。難波宮よりも葛城高宮のほうが格が上ではないかと啖呵を切り、一連の話はまとめられている。
二
記57歌謡に、「…… 河の上に 生ひ立てる 烏草樹を 烏草樹の木 ……」と、烏草樹がくり返されている(注7)。歌でくり返される樹木は椿が知られる。
河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思な 巨勢の春野を(万54)
「河の上」とは河の岸のことである。当然、河には両岸がある。二つあるから、「つらつら椿 つらつらに」とくリ返される。ツラ(面)は横から見た顔のことだから、ツラツラとくり返してわかりやすいことになる。そのおもしろみを万56番歌は歌っている。だから、「河の上に 生ひ立てる」と歌い出せば、それが何であれ樹名をくり返すことがふさわしく、くり返してふさわしい木であることが求められる。論理的に正しい言葉づかいになるからである。
ツバキの木の場合、その硬い性質から棍棒に使われることがあった。幹が起ち上って一定の太さに成長する。それを伐り取れば打撃具とするに適いやすく、腐りやすいわけではなく樹皮が剥がれて持ちにくいこともない。上下で太さがほとんど変わらない棍棒となるから、握り持つのはいずれの側でもかまわない。刀剣類では、持ち手に鍔をつけて柄部分を握る。ツバキの棍棒の場合、特に鍔をつけることはないが、上下のどちらに鍔があると想定してもいいことになる。それはツラツラな状態になっているということに当たる。だから、「つらつら椿 つらつらに」という表現がヤマトコトバで修辞上適格であると考えられて使用されていた。
記57歌謡では、烏草樹が持ち出されている。サシブという呼び名は、サ(接頭語)+シブと聞こえる。シブという植物はシブクサ、古語にシ(羊蹄)、シノネ、別名をギシギシという。和名抄に、「羊蹄菜 唐韻に云はく、荲〈丑六反、字は亦、蓫に作る、之布久佐、一に之と云ふ〉は羊蹄菜なりといふ。」とある。ギシギシの名は、水脈に沿って群生しやすいところから来ているともいう。冬場、地面にロゼットをなして春の訪れとともに茎を伸ばして花をつける。木ではなく草である。サシブを漢字表記に烏草樹と書き表している。その理由はともあれ、シブクサの意を包含したものとなっている。ギシギシのことなのだから、サシブの木は川の両岸、ギシギシ(岸々)に生えているのではないかと類推され(注8)、ヤマトコトバの言葉づかいは理にかなうものといえる。 「河の上に 生ひ立てる 烏草樹を 烏草樹の木」という表現は、論理的に正しい修辞である。
左:シャシャンボ(赤い幹はたまたま屈曲している)、右:ギシギシ(スイバかもしれない)
サシブという言葉(音)からは、サシ(狭)やサシ(射・差)という意を汲み取ることもできる。「狭し」の対語が「広し」である。そこで、「葉広 斎つ真椿」と続いている。「射(差)し」には色を帯びるという意がある。葉広のツバキで染め物に関係することといえば、媒染剤として椿灰が使われたことが思い浮かぶ。
…… 天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど ……(万892)
茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(万20)
紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰(万3101)
色彩に関して直接サスと使う語は、枕詞ともされるアカネサスに限られる。アカ(赤・明)という語は、明るく日が差すことと赤系統の発色のいい色の目立つこととが同根的に認識されて成立している。茜染、紫染ではアルミニウムを多く含む椿灰が好まれた(注9)。染色作業の縁の下の力持ち的な存在が椿なのである。水取司や倉人女が登場しているのも、染色作業の水汲みや繊維製品の保管に当たる人だったからである。歌のモチーフが分かりやすいように配役されている。
当たり前の話だが、媒染剤があるだけでは色は染まらない。シャシャンボが染料に使われたことは知られないが、新芽、木の肌、熟していく実には赤系統の色が垣間見える。今、天皇がきれいな衣を身にまとうことができているのも、大后がいればこそであり、媒染剤だけでは何もできないのだからつけあがるなと言っている。
この点は、記57歌謡中の言葉と記100歌謡中の言葉が微妙に異なることからも検証される。和田1996.に適切な指摘がある(注10)。
天皇讃歌である記一〇一番歌謡は、「ゆつ真椿」(大君)を代名詞「そ」によって指示しているが、当該の五七歌謡は「し」を用いている。これは、各々の詠歌主体が大君を別の関係概念によって把握していることを意味する。「そ」は事物を対象化し、主体の領域外にある事物を指示するのに対して、「し」は主体の領域内のものや主体に属する事物を指示する代名詞である。したがって、一〇一番歌謡が「ゆつ真椿」(大君)を主体の外なる存在として対象化しているとすれば、当該歌謡はそれを主体の内なる存在と捉えていると考えられる。すなわち前者は、「ゆつ真椿」(大君)を尊敬すべき外的存在として、後者はそれを主体と同等、もしくは主体に属する内的存在として把握しているのである。……記一〇一番歌謡と五七番歌謡の結びの表現も、両者が性質を異にする歌謡であることを証している。一般に天皇讃歌や寿歌には、「高光る……高照らす 日の御子」「やすみしし わが大君」等、天皇を讃える表現が用いられている。しかし「大君ろかも」を用いた寿歌は存在しない。実際一〇一番歌謡が、寿歌にしばしば用いられる讃辞の表現「高光る 日の御子に」を用いて、「豊御酒 献らせ」で結ばれているのに対し、当該歌謡は「大君ろかも」で一首を括っている。特に「ろかも」は、「夫ろ」「妹ろ」「家ろ」等の「ろ」と「かも」からなる複合的な終助詞であり、親愛の情にもとづく詠嘆を表している。……「……は大君ろかも」で結ぶ当該の五七番歌謡は、対等な関係、もしくはそれ以下の者への親愛的詠嘆の情で一首が包括されており、これを寿歌(讃歌)と見なすことはできない。(132~133頁)
天皇讃歌のパロディどころか、常套句を用いた皮肉、身近な相手への抑圧を歌い込めているといえる。
三
記58歌謡については、「国見的望郷歌」を基本としているとみる説が一般的である(注11)。また、記57歌謡の、「つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば ……」の再掲として記58歌謡の「つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば ……」があるとする説もある。「河上り」と「宮上り」は同じようなものとする考えである。だが、わざわざ言葉を変えて言っている。「宮上り」という場合の「宮」がどこを指すかについて、これまで三つの候補地があげられている。①仁徳天皇の都した難波高津宮、②歌に出てくる石之日売命の故郷の葛城高宮、③石之日売命が滞在することになった山代筒木宮である。①難波高津宮説は、本居宣長・古事記伝に、「難波ノ宮を避過て泝り賜ふを詔へり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/346)とするのに従う(注12)。②葛城高宮説は、橘守部・稜威言別に、「十句目の筒豆羅紀多伽瀰椰の、瀰椰てふ地名を指て詔ひたる也。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/143)とする説に従う(注13)。③山代筒木宮説は、契沖・厚顔抄に、「筒城宮ヲ作テ、坐マサムト思召セハ、カクハノタマヘリ」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1913153/1/28)とする説に従う(注14)。それぞれに問題点がある。宮を通り過ぎて河を遡ることを「宮上り」と言うとは思われず、葛城高宮というのは地名で宮殿を備えているわけではないし、この歌の歌われた時点で筒木宮は未完成である。
筆者は、この「宮」を、大后が居るところ、その場所のことと考える。通常、天皇皇后両陛下がお住まいになられるところが「宮」である。別居は稀な事態である。「豊楽」は天皇主催の晩餐会で準備は本来天皇が行う。なのに仁徳の代わりに大后が御綱柏を採りに行っている(注15)。天皇の国事行為を大后が代行している(注16)となると、大后が居るところのほうが「宮」と呼ぶにふさわしいことになる。言い換えれば、天皇の任務である行為をするほどに権限を持った皇后のことを、古事記では「大后」と定めているのである。女帝との違いは、推古天皇のように未亡人ではなく、天皇が在位していながら天皇が行うべき国事行為を代行しているところである。記において、石之日売命の行程は、「幸行」、「還幸」、「上幸」と記されている。
ただし注意すべきなのは、石之日売命の存在自体を天皇と同格と捉えているのではない点である。天皇が行うべき国事行為を代行していることからそのように記されているだけである。ミヤはミ(御)+ヤ(屋)の意である。天皇のなすべき行為の一つを「御船」で行い、そのまま遡上していれば、河に浮かんだ「御船」が「宮」そのものということになる。よって、記58歌謡の「宮上り」とは、「御船」の遡上のことを言っている。「豊楽」の準備をするために行幸している限りにおいて宮なのである(注17)。平城山を越えて大和盆地や葛城へ行くには船を下りて行かなければならない。「御船」から離れ遠ざかったら「宮」を去ること、そしてまた、天皇に対して「大恨怒」する態度も罷り通らなくなる。「大后」ではなくなり、あるいは逆賊の汚名を着せられかねない。究極のところ、天皇という存在は、課されている国事行為をする限りにおいて「幸」的な敬意をもって受け止められていたにすぎない。祭政一致の時代、国事行為のマツリゴトをするから崇められはするが、そのマツリゴトをさぼったり、手抜きをしたら、その時点で古代の人々の集合意識において失格とみなされた。
それが確かなことを示す言葉が歌の終わりに出てくる。「葛城高宮」である。大后の出身地の葛城の故郷に、たまたまミヤと付く地名が存在するのがなによりの証拠であると歌っている。自尊の根拠を提示している。記57・58歌謡は、どちらの歌からも天皇に対する大后の「大恨怒」ぶりが聞き取れる。
「大恨怒」しつつ「大后」の立場を捨てなかった。「御船」から離れず、木津川に沿って少し下流の箇木の韓人、名は奴理能美の家に停留している。ヌリノミ(ノは乙類、ミは甲類)という名で語られている。ヌリ(塗)+ノ(助詞)+ミ(水)のことと察せられよう。サシブ、ツバキの話の続きとして、色を付ける汁のことを言っている。「宮」にいるということ、すなわち、国を統治することは、ヤマトコトバで「知る」ことをすることだから「汁」の話になっている。和名抄に、「藍〈澱付〉 唐韻に云はく、藍〈魯甘反、木は都波岐阿井、菜は多天阿井、本草に見ゆ〉は染草なり、澱〈音は殿、阿井之流〉は藍澱なりといふ。本草に云はく、木藍は澱に作るに堪ふといふ。」、「醨 唐韻に云はく、醨〈音は離、之流、一に毛曽呂と云ふ〉は酒、薄きなりといふ。」などと見える。現在の藍染めはタデアヰを原料とすることがもっぱらだが、ツバキアヰとある木藍、いわゆるインド藍、さらにヤマアヰ(山藍)を使うこともあった。ヤマアヰを摺染めした衣は今日でも祭祀に用いられている。すなわち、当時の新技術として、藍染めの原料にタデアヰやツバキアヰが大陸からもたらされ、それらは染液、すなわち、汁で染めることなった(注18)。そのことを暗示するように、韓人の家に滞在したことになっているとわかる。また、うすい酒のこともシルと言っている。「汁にも穎にも称辞竟へまつらむ」(延喜式・祝詞・祈年祭)とある。
薄い酒のことをいう「醨」の別名は、和名抄にモソロと記されている。モソロには、モソロモソロという語がある。国引き神話として名高い詞章で、出雲風土記では四度くり返されている。
三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来と引き来縫へる国は、……(出雲風土記・意宇郡)
シルはモソロだから綱でモソロモソロと国引きすることで知行が行われている。ここに、御綱柏に始まっていた話はクライマックスとしての“オチ”を迎えている(注19)。綱で引くことは国引きすること、すなわち、シルことなのである。御船を引きはじめたのは堀江であり(注1)、川の流れは淀んでいて澱のようだったから、まるで藍汁のように見えたという謂いなのであろう。すべて大后の歌うとおり、言葉は矛盾なく体系化されている。
以上、記57・58歌謡を中心に大后、石之日売命の嫉妬譚を精読した。上代の人たちの言葉づかい、彼らの観念に確かに基づいて読むことで、はじめて記の歌謡を正しく理解することができる。
(注)
(注1)これまでの解説書に、船を引かせたことについては「引二-避其御船一」とある点から注されているが、「綱」で引いたことについて言及がない。言葉が音でできていることについて思慮が足りない。また、真福寺本古事記に、〓(⺡+𡱝)字が用いられていることについても関心がなく改字に甘んじている。𡱝は犀の異体字である。名語記に眉唾の説が載る。「問 ケダモノ、名ニサイ如何。答 犀也。ソノ角ヲモチツレハ水ノサリノクトキコユル獣ノ事歟。文字ノマヽニヨフ名ニハ別ノ尺ヲハツクラス。反ノ沙汰ナシ。」
大きな御船の船首の突起、ならびに船を引くために両岸から渡した綱を、犀の角と牙に見立てて、〓(⺡+𡱝)字(𡱝は犀の異体字)を用いて表そうとしたのかもしれない。
〓(⺡+𡱝)字の訓みについては、サカノボル、ヒキノボルが考えられるが、言葉が重ならないようにサカノボルが正解であろう。その際、「即不レ入二-坐宮一而、引二-避其御船一、〓(⺡+𡱝)下於二堀江一随上レ河而上二-幸山代一。」とし、「〓(⺡+𡱝)於堀江随河而」をひとまとめに考え、「於」字は通訓のニではなくヨリと訓むべきである。運河である堀江を通って淀川に入りさかのぼるという意である。堀江は高低差に乏しく水は澱のように淀み、時にはアオコが大発生して藍汁のようになる。
堀江より 水脈さかのぼる 楫の音の 間なくそ奈良は 恋しかりける(万4461)
八月の戊申の朔にして壬戌に、茨田池の水、変りて藍の汁の如し。(皇極紀二年八月)
なお、〓(⺡+𡱝)字の異体字と目される漽(⺡+犀)字は、米を研ぐ杵のことをいう。研ぎ汁が濁ることを含み伝えたいのであろうか。
(注2)橘守部・稜威言別に、「是真実の人情にて、妬きばかりに、其君をおほす御心より、心いられに、ふと背き来給へども、ありしより勝に、恋しさ増りて、御面影の、御目のあたりを立離れぬ御心持にて、かくは詔ひしなり。若今世の人ならましかば、如此る時からは、憎げなる事をいひなましを、古への人情は、かくこそ有けめ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/141)、武田1956.に、「非常に遊戯的であり、内容が天皇讃称であって、大后の立腹の情を写すにふさわしくない。元来天皇讃嘆の意に成立した詞章なのであろう。」(141頁)、土橋1972.に、「この歌、天皇の多情を怒って皇居から脱出して来た皇后の歌とは思われず、むしろ天皇を寿ぐ寿歌の様相を備えている」(241頁)、西郷2006.に、「仁徳の面影を想う歌に転用されている格好」(64頁)、山路1973.に、「「恨怒」の情とは無関係なものである。……あるいは、川辺にサシブの木が生い茂って曳船の難渋をいう山城地方の舟曳き歌……の断章が、天皇讃歌に結びついたものか、あるいはサシブを呪力を持つ樹木とし、その呪力の下に生い立つ椿を……更に一層呪力に富むものとして、「照り坐し、広り坐す」の比喩に生命を吹き込むための机上作品であったのか、そうしたことの思われる歌謡である。」(140頁)、烏谷2016.に、「歌い手が目ざす描写の中心は、葉広五百箇真椿に喩えられる天皇であり、背後には結婚の寓意があろう。」(375頁)、居駒2018.に、「儀礼用の御綱柏を投棄することは……大后の専権に属する宮廷の祭祀儀礼の放棄であった。……宮に入らず……故郷葛城に帰るために山代河を上って行く旅は、まさに大后の失意、傷心の旅であった。その複雑に交錯する石之日売の思いとその姿を、山代河を上って行く時の「つぎねふや」歌群、記57と記58の歌と散文に読み取らなければならない。」(104頁)、曽倉2020.に、「文脈と矛盾する歌謡は伝説の装飾化」(96頁)、石田2023.に、「散文と歌の表現が相俟って、難波帰還を拒み山代川を遡上するという怒りの行動が、そのじつ敬愛ゆえの他意のないものであることを浮き彫りにしているのである。」(198頁)と説かれている。土橋説のように、宮廷寿歌と見られる天語歌との合体作、独立歌謡と物語歌との継ぎ合わせとする考えも行われている。
また、椿による大君讃辞の常套表現が更新されていった背景に、漢籍教養が存在し、ツバキが「椿」という漢字表記で落ち着き、荘子以来の伝説が関係しているとする議論が瀬間2015.にある。しかし、記では歌謡中にしかツバキ(都婆岐)は現れず、「椿」字は記されない。
(注3)西宮1979.の解釈については、内田1992.は、「深読みに過ぎるかも知れない。」(192頁)とし、「天皇を寓する椿を烏草樹の下に置くこと……[は]単なる対比があるのみとも言えよう。」(同頁)とし、大脇2015.は、西宮1979.の解釈が正しいとするなら「かなり文学性の高い部分」(27頁)と評価しようとしながら、以後の「故郷である葛城に思いを向けながら筒木の韓人宅に留まるという石之日売命の行動」を、新編全集本古事記の「大和に戻ることは決定的な天皇との決裂となるので避けた。そうさせたのが天皇への思慕の思いであることを先の賛美の歌が語る。」(294頁)を採っている。
(注4)また、木には幼木も矮性種もある。大きさを単純比較できるものではない。
(注5)後述する和田1996.に、天皇と大后の二者をそれぞれに象徴としたとする説がある。(注10)参照。
(注6)仁徳記のはじめに、民の竈から煙が立たなかったか三年間、課役を免除したとする話が載っている。「聖帝」と称えられたとする有名な話である。紀にはより詳しく記されており、人民の困窮は三年で解消しているのになかなか課税を復活させなかった。問題が生じることになろうと自治体に当たる諸国から奏上されている。それでもさらに三年間、課税しなかったと記されている。「聖帝」という言い回しには、政治的な無能ぶりへの揶揄が込められていると感じられる。拙稿「仁徳天皇は聖帝か?」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3b6bf7b7b6923362822f33da0c609948参照。そしてまた、天皇は足が不自由であったらしく、だから代りに大后が豊楽の準備のために出掛けたという次第であったようである。拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注7)土橋1972.は、「「川の辺」と「葉広斎つ真椿」との取り合わせが不似合いと考えたからであって、そのために川べに多く見られ、かつ呪的な花をつける烏草樹を、クッションとして置いたのであろう。景物を二つ重ねて提示する方法は、こういう事情によるものであり、寿歌的パターンが守られさえすれば、烏草樹の「下に」椿が生えているという現実的な不自然さなどは、さして問題ではなかったのである。」(241~242頁)としている。「川の辺」と「葉広斎つ真椿」が不似合いとする言が何に基づくのか、また、烏草樹の花が呪的とされた事例があるのか、不明である。
(注8)シャシャンボの生態として、山中において、やせた尾根や林のなか、また、谷筋など、特に選ぶものではないが、山に入る人の交通が谷筋に多ければ岸に生えるものと思われていたかもしれない。
(注9)雄略記の記100歌謡は、「…… 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 ……」と歌われていて、建物の近くにツバキの大木があるという設定である。居駒2003.は、「[記57の]「斎つ真椿」と「大君」との関係……の間をつないでいるのは、神の寄り憑く樹木の生命力・呪力を「大君」の姿に幻想するという古代的な思考法である。……その根底にあるのは「木は大君である」とする、人間が木に抱く<同類共感>なのである。」(52頁)とする。それを受けて、猪股2013.は、「地の文の言説世界では椿は椿であり、人は人であり、両者が混融することはあり得ない。しかし、歌の言葉を体験しつつある者にとっては、植物と王たるべき人とは融合し得るのである。地の文の言葉の世界と歌の時空とは次元の異なるものであったことがあらためて確認される。」(53頁)としている。
古代の人にとってツバキの木が尊ばれたのは、その有用性においてであろう。棍棒とするのに堅くて長い材を得ることができること(「則ち海石榴樹を採りて椎に作り、兵にしたまふ。」(景行紀十二年十月))、そして、椿灰が染め物の媒染剤として効果がすぐれていたからである。仁徳記には染織関連の説話が続いている。拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c73643f004b118e1e58d824cffb7c96aほか、「仁徳記、黒日売説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3119671fe33190160800616b792d247a参照。
また、古橋1988.に、記58歌謡について、「この旅の〈叙事〉は神の巡行だった。そして神に見出されたものであるゆえ最高にすばらしいものとなるのであり、それゆえ大君を讃美する比喩になるのである。」(100頁)、都倉1994.に、「「川の辺」は両義的境界であり、そこに存在するものも、また優れた呪力を負うものである。「泝る」「川の辺」の「烏草樹」から「椿」へと寿詞の呪力が累加され、結句の「大君」の霊威がいやますという構造である。「山代川」を遡行し貢納していた部民の存在も十分想像される。」(111頁)とある。これらの議論は、烏草樹や椿である必要のない議論である。話に具体性が欠けていたら、歌を聞いた人たちに理解されることはなく、歌として存立し得るものではない。
(注10)和田1989.は、「古代の歌謡や和歌の序詞は、単なる修辞や実景描写ではなく、古代的な自然把握の所産とも言うべき象徴表現である。」(131頁)、「「新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿」(記一〇一)と「さしぶ」の「しが下に 生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿」とを同一視することはできない。」(132頁、傍線省略)と指摘する。そして、「物語との関係から、山代川の「川の辺に 生ひ立てる さしぶ」は葛城氏の娘である磐之媛を、「しが下に 生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿」は仁徳天皇を象徴的に表していると考えられる。」(132頁)としている。
(注11)そのうえで大脇2015.は、「父の勢力範囲である大和国、葛城に帰郷すれば、仁徳天皇の立場がなくな」るから筒木に留まっており、その状況は「夫と父との間で揺れるイハノヒメの「こころ」の葛藤」、「心の逡巡」(35頁)を思い起こさせるとしている。「宮上り」という語については触れられていない。
(注12)西宮1979.に「高津宮を素通りして川を遡り、の意。」(210頁)、相磯1962.に「難波の宮に上るように山代河を私が溯って来るとの意。」(186頁)、新編全集本古事記に「この「宮」は高津宮とみられるから、高津宮を通り過ぎて川を遡ると、の意ととる。ただし、「宮上り」は宮へ上る意だから、なお不審が残る。」(293頁)、山路1973.に「あるいはこの「宮上り」は、当時山城川に沿って、都の倭の方へ向うのを、「宮上り」といい慣わしていたもので、その呼称は難波人たる曳船者流の間のものであったようにも思われる。」(141~142頁)とある。
(注13)尾崎1966.に、「ここは、葛城の高宮の地にある宮を指しているのかもしれない。」(576頁)、土橋1972.に、第二の可能性として、「葛城氏の居宅を葛城氏側の物語述作者「葛城高宮」と呼び、「上り」の語を用いたのではないかということも考えられる。」(244頁)、倉野1980.に、「これは宮をめあてに河を泝る意と解するのが自然である。(その宮は、強ゐて言へば葛城高宮であらう。)」(48頁)、猪股2013.に、「末尾に歌われる葛城の高宮をめざして、の意と考えられる。」(57頁)、山崎2013.に、「自分の故郷の葛城の家を「宮」、すなわち皇居と同等のものととらえ、そこへ上京するということを意味するものである。」(221頁)、烏谷2016.に、「「宮上り」は葛城高宮へ上ること」(375頁)とある。また、西郷2006.に、「伝承上のコラプションがそこにはあり、下の「葛城高宮に引かれて、「河上り」が「宮上り」に転じてしまったのではないかと推測される。」(65頁)とある。なお、佐佐木2010b.に、「「宮泝り」とあるのは、あとに出る「葛城高宮」に向かうことをさす。」(66頁)としながら、佐佐木2010a.に、「「宮上り」の状態で私が(山代河を)上って行くと、ということ。」(81頁)とある。紀54歌謡と記58歌謡は、「つぎねふ」と「つぎねふや」の違いしかない。
(注14)思想大系本古事記に、「元来は前の歌謡五七の初四句の中の「河」を此の歌謡五八の主題に即して「宮」に変えただけのもので、特定の「宮」ではない。強いて解すれば、夫の居る難波にも実家のある葛城高宮にも行きあぐねた女主人公が、落ちつくべき宮(結局は筒木宮)を求めて遡る意か」(442頁)とある。
(注15)古事記の「大后」という名称については、山崎2013.に、「祭祀、皇位継承、政務など、天皇の様々な役割を受け持つ、女帝に近い立場の后」(464頁)という“定義”は間違いではなかろう。その場合、天皇という地位の代わりを務めているというよりも、天皇が行うべきマツリゴトの代行をしていると捉えたほうが妥当と考える。「適后」という名称ともども、稿を改めて論じたい。
(注16)仁徳記の後段に、天皇の弟の速総別王と異母妹の女鳥王が、天皇に不敬な行動に出たため、追討軍をたてて討伐された話が載る。その将軍は山部大楯連であった。その事後に、「豊楽」が行われている。各氏族の夫人も列席したが、そのとき、大楯連の妻は、女鳥王の玉鈕を手に纏いていた。それを目にした大后、石之日売命は、大御酒を注ぐ柏の葉を与えずに退出させ、大楯連を呼び出した。そして、速総別王と女鳥王は不敬だったから討ったことは問題がないが、仕える身であった大楯連が主君の手に纏いていた玉鈕を、まだ膚の温もりも残るうちに剥ぎとって自分の妻に与えるとは何ごとか、と言って死刑に処している。大后の一存で将軍を死刑にしている。それは許されることだと、記の話を聞いている人たちに共有されている。記57・58歌謡を含む当該説話同様、「豊楽」、「柏」と出てくる。「豊楽」に関して石之日売命は過大なる権限を持ち、「大后」として最高裁判所判事の役割まで担っていたというわけである。
故、其地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇に到りし時に、御軍、 追ひ到りて殺しき。其の将軍、山部大楯連、其の女鳥王の御手に纏ける玉鈕を取りて己が妻に与へつ。此の時の後に、豊楽為むとする時に、氏々の女等、皆朝参る。爾くして、大楯連が妻、其の王の玉鈕を以て、己が手に纏きて参ゐ赴く。是に、大后石之日売命、自ら大御酒の柏を取りて、諸の氏々の女等に賜ふ。爾くして、大后、其の玉鈕を見知りて、御酒の柏を賜はずて、乃ち引き退けき。其の夫大楯連を召し出でて詔はく、「其の王等、礼無きに因りて退け賜ひき。是は、異しき事無けくのみ。夫の奴や、己が君の御手に纏ける玉鈕を、膚も煴けきに剥ぎ持ち来て、即ち己が妻に与へつ」とのりたまひて、乃ち死刑を給ふ。(仁徳記)
仁徳記の石之日売命は、当初から、天皇が関係すると思われる女性に対して嫉妬深い存在として語られている。古事記研究においては、そのことを拡張的に解釈している。嫉妬は愛に由来するものである、女神の怒りを始原としたものである、一女性の感情レベルを超えて公的、呪的要素を窺わせている、出自の葛城氏が朝廷の一翼を担いながらも、葛城系統ではない天皇と対立することがあったことを語るものである、編纂された持統・元明朝の影響がある、国土に新しい秩序と安寧をもたらす天皇と大后の和合を生み出すものである、王者にふさわしかるべき「色好み」を語っている、聖帝と並び立つ大后に成長していく原動力である、など様々な説がある。吉井1976.、牧野2000.、青木2015.、山崎2013.、寺川1989.、都倉1994.、神野志1987.、烏谷2016.などに所論が見られる。これらは、ひとつひとつの歌謡物語についてよりも、石之日売命の人物像をテーマに据えて論じている。それは、古事記というお話を聞く態度として適当ではない。
記紀に残されている説話は、それが編纂され始めた天武朝をはるかに遡る時代の仁徳朝の事柄について、書記されることのみによって伝えられてきたものとは考えられない。基本的に無文字文化の時代において、後の時代にまで伝わっていることとは、口頭で人に話して伝わった事柄である。聞いた人がその場で納得し、その話(咄・噺・譚)を共有した。すなわち、その話は、話として独立して成っているものである。大后、石之日売命の御綱柏投棄の話は、記57・58歌謡と筒木停留までをもって一連の話である。その具体的な話を聞いただけで、あぁ、なるほどね、と得心が行って記憶された。石之日売命の性格づけとして考慮の必要があるのは、前段に示される「其の大后、石之日売命は、嫉妬すること甚多し。」だけである。いくつものお話から石之日売命の人物像を抽象するには及ばない。むしろ、そのようなことが“研究”であること自体、古事記を“読む”姿勢として誤りである。一度聞いてわかること、一度しか聞くことができないものが話(咄・噺・譚)である。
(注17)土橋1972.に、記58歌謡の「問題は「奈良を過ぎ」「大和を過ぎ」という道行き風の詞章で、……しいて合理化すれば奈良・大和を過ぎて、その向こうの葛城高宮ということになろうが、望郷の歌に葛城高宮に至る途中の地名を並べる必然性がわからないのである。」(245頁)とある。歌を歌っている那良山の入り口になる木津川の「訶和羅之前」(応神記)付近から奈良、奈良から上つ道などを通って大和、今の天理市付近、さらに大和盆地の西南に当たる葛城へと向かう場合、みな陸路である。水路がなければ「御船」は進めないことを強調している。また、出身地である葛城高宮という地名の高宮を訴えることで自分の居るところ、そこが「宮」である、自分は「大后」であると弁述している。この歌謡の趣旨は、言葉の定義を、述べて作らざるものである。
(注18)今日の藍染めは、藍の葉を寝かせて発酵させて製した蒅を使って染められている。発酵を伴うこの方法は室町時代ごろに始まるといわれている。それ以前は、藍から色素を絞り出して沈殿させ、その汁を使って染められたものと考えられている。
(注19)なぜ「醨」のことをモソロともいい、国引き神話にモソロモソロと引くというか、語源的理解は問題ではない。言葉とは使用されているものである。
(引用・参考文献)
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青木2015. 青木周平『青木周平著作集 中巻 古代の歌と散文の研究』おうふう、平成27年。
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※本稿は、2019年7月稿に対して大幅に加筆訂正したものである。
仁徳記に、皇后の石之日売命は大后と称され、とても嫉妬深い存在として描かれている。最初の紹介記事に、「其の大后石之日売命、嫉妬すること甚多し。」(仁徳記)とある。嫉妬とは、ウハナリ(後妻)+ネタミ(嫉、妬)の意である。そんな大后は、「豊楽」という宮廷主催の酒宴を開く準備のため、酒を注ぐ「御綱柏」を「木国」、紀州へ採りに行った。御綱柏とは、延喜式に「三津野柏」、皇大神宮儀式帳に「御角柏」とあるものと同じといい(記伝)、先が三つに分かれているもの、例えば、カクレミノやアカメガシワのことではないかとされている。ミツ(三)+ナ(助詞)+カシハ(柏)という語構成が考えられる。器に作るカシワの葉の類で、先を巻き込むようにして作ったとされる。そしてその留守中に、天皇は八田若郎女と懇ろな関係になっていた。それを知った大后は、御綱柏を投げ棄てて、難波宮に還らずに河の流れを遡って山代(山城)へ行き、天皇に対して帰還を拒む歌を歌ってその地に留まってしまった。
此より後時に、大后、豊楽せむと為て、御綱柏を採りに、木国に幸行す間に、天皇、八田若郎女に婚ひき。
是に大后、御綱柏を御船に積み盈てて、還り幸す時に、水取司に駆ひ使はゆる吉備国の児島郡の仕丁、是、己が国に退るに、難波の大渡にして後れたる倉人女が船に遇ひき。乃ち語りて云はく、「天皇は、比日矢田若郎女に婚ひて、昼夜戯れ遊ぶ。若し大后は此の事を聞こし看さぬか、静かに遊び幸行す」といふ。爾くして、其の倉人女、此の語る言を聞き、即ち御船に追ひ近づきて、白す状、具に仕丁が言の如し。
是に、大后、大きに恨み怒りて、其の御船に載せたる御綱柏をば、悉く海に投げ棄てき。故、其地を号けて御津前と謂ふ。即ち宮に入り坐さずて、其の御船を引き避りて、堀江より河の随に〓(⺡+𡱝)り、山代に上り幸す。此の時に、歌ひて曰はく、
つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の上に 生ひ立てる 烏草樹を 烏草樹の木 其が下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が花の 照り坐し 其が葉の 広り坐すは 大君ろかも(記57)
即ち、山代より廻りて、那良の山口に到り坐して、歌ひて曰はく、
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家の辺(記58)
如此歌ひて、還りて暫く箇木の韓人、名は奴理能美が家に入り坐しき。(仁徳記)
この段落に続いて、天皇側から帰還を促すために滞在先の山代の筒木宮へ使者が遣わされ、歌が献上される話へと続いている。
大后であった石之日売の嫉妬譚として歌が歌われている。大后は、宴会用にと持ち帰って来た御綱柏を棄て去っている。その地をミツノサキと言ったとしている。その流れのまま、「御船」で堀江や河を遡っている。どうやって遡ったかといえば、堀江や河の岸にいる人に船を引かせたのである。ミツ(三)+ナ(助詞)+カシハ(柏)をミ(御)+ツナ(綱)+カシハ(柏)と分解して連想される綱の力によっている。そのおもしろさを的確に伝えようと太安万侶は用字を工夫している(注1)。


地の文と歌謡とを一体のものとして考えた時、御綱柏に続いて烏草樹が登場し、さらに椿と続いていることになっている。この植物つながりのモチーフには意味があると考えねばならない。最初からモチーフに木が現れており、木国(紀伊国)へ採りに行ったと断っている。今日までのところ、「大恨怒」の状態にあるのに、記57歌謡で烏草樹から椿へ続き、大君はその椿のようにすばらしくあると誉め讃えていると捉えられている(注2)。地の文と歌謡とがミスマッチなのではないかと感じられていた。その支離滅裂な展開を落ち着かせ不自然な状況を脱しようとして、西宮1979.は次のような見解を唱えている(注3)。
この歌で、烏草樹の下に椿が生えているとあるが椿のほうが高木である点が疑問視されてきた。しかし、この歌を、あえて事実を倒置して表現した虚構とみる。つまり、神聖な椿─天皇を卑小化してみせたのである。その理解に立つと「照りいまし」も「広りいます」も、嫉妬心の言わせた強烈な皮肉となろう。自分以外の女性に対してだけは「堂々としていて寛容な」天皇への「讃歌」である。型どおりの天皇讃歌の、パロディー。(210頁)
椿を使った天皇讃美の歌い方は、記100歌謡に例がある。
倭の この高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の 語り言も 此をば(雄略記、記100)
記100歌謡は素直な誉め言葉と受けとれる。讃美の詞章の決まり文句なのであろう。それが、記57歌謡では山代河の途上で付け足されている。その際、烏草樹という別の植物を登場させ、つづけて椿を歌っている。同じ椿を用いた修辞であるが状況は異なっており、烏草樹を登場させたわざとらしさも手伝って、記57歌謡と記100歌謡とを同列に捉えることはできないと推測され、パロディと目されるわけである。
もともと石之日売大后が怒って捨てたのは、大きな葉っぱの柏である。「葉広 斎つ真椿」も同じく大きな葉っぱということになる。ならば椿の方も貶すために用いられていると解され得る。椿を用いた常套句を使って逆に皮肉を歌っている。まったくもってご立派な方でいらっしゃいますよ、私が居ない間に側室を抱えるぐらいですからねぇ、と。すなわち、烏草樹、今いうシャシャンボの木の下にツバキが「生ひ立てる」ことになっている。
シャシャンボは、樹高2〜10メートルほどになるツツジ科の常緑樹で、5〜7月頃にアセビのような花をつけ、果実は5ミリほどの液果で穂のように成り、秋には黒く熟して食べられる。甘酸っぱくてブルーベリーに似た実である。樹皮は赤褐色をしていて樹齢を重ねると縦に裂け、薄い縦長の裂片となって剥離するのが特徴である。また、新芽をふく時も赤味がかっており、材を伐った時も当初は赤味を帯びている。一方のツバキは今日、園芸品種が多いが、野生種は5~10メートルほどになる。シャシャンボ同様成長が遅く、寿命が長いのが特徴である。歌の解釈に烏草樹のほうが小さいはずで、その下に椿があることを疑問視する説が多かったが、山で木々のなかにシャシャンボを見つけても、周囲の木と成長を競い合って高く伸び、幹は見えても葉を確認することができないこともある。育つのが遅いため生垣などにされたところから出た説なのだろうか(注4)。
新編全集本古事記に、「写生的に歌っているわけではないから、サシブの下にツバキが生えているというのはおかしいとする説はあたらない。」(293頁)とある。目の前の様子を歌にして歌い、聞き手も同時に目にしながら確認するということではなく、観念的に歌っている。歌を聞いた人は何かおかしいぞと思う。木の大きさの問題では(そもそも)ないから、「事実を倒置して表現した虚構」(西宮1979.)ではない。どうして珍しいサシブをとり上げているのか。樹種としての珍しさではなく歌に歌われることの珍しさとして不思議である。聞く人は歌を耳にしながら大后が歌おうとしている意味を探ったことであろう。いろいろ思いをめぐらせてみれば、なるほど辛辣な皮肉を言っていると感心する。そういう流れを導くための仕掛けが、サシブの下にツバキが生えているという状況設定にある。古代の無文字時代において、歌は音であり、音でしかなかった。歌われた時にだけあり、歌う人と聞く人とに共有されて初めて成立した。
すなわち、烏草樹は大后のこと、斎つ真椿は天皇のことを譬え指しているのである(注5)。「豊楽」は天皇が諸豪族のために開催する接遇行事である。天皇は諸豪族の推挙によって支えられて擁立されていた。そのお返しとして、「豊楽」の用意は天皇がしなければならない。なのに天皇の代わりに大后が準備している。必要な御綱柏を採取しに木国まで出かけて行っている。天皇は、大后がいなければ国事行為がまっとうにできない人物のようである(注6)。大后は嫁いで来ている。もとは接待される側の豪族、葛城氏であった。だから、船は宮都を通り過ぎ、故郷の「葛城高宮」、それは宮があるわけではなくタカミヤという地名にすぎないが、それを見たいと記58歌謡中で願っている。難波宮よりも葛城高宮のほうが格が上ではないかと啖呵を切り、一連の話はまとめられている。
二
記57歌謡に、「…… 河の上に 生ひ立てる 烏草樹を 烏草樹の木 ……」と、烏草樹がくり返されている(注7)。歌でくり返される樹木は椿が知られる。
河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思な 巨勢の春野を(万54)
「河の上」とは河の岸のことである。当然、河には両岸がある。二つあるから、「つらつら椿 つらつらに」とくリ返される。ツラ(面)は横から見た顔のことだから、ツラツラとくり返してわかりやすいことになる。そのおもしろみを万56番歌は歌っている。だから、「河の上に 生ひ立てる」と歌い出せば、それが何であれ樹名をくり返すことがふさわしく、くり返してふさわしい木であることが求められる。論理的に正しい言葉づかいになるからである。
ツバキの木の場合、その硬い性質から棍棒に使われることがあった。幹が起ち上って一定の太さに成長する。それを伐り取れば打撃具とするに適いやすく、腐りやすいわけではなく樹皮が剥がれて持ちにくいこともない。上下で太さがほとんど変わらない棍棒となるから、握り持つのはいずれの側でもかまわない。刀剣類では、持ち手に鍔をつけて柄部分を握る。ツバキの棍棒の場合、特に鍔をつけることはないが、上下のどちらに鍔があると想定してもいいことになる。それはツラツラな状態になっているということに当たる。だから、「つらつら椿 つらつらに」という表現がヤマトコトバで修辞上適格であると考えられて使用されていた。
記57歌謡では、烏草樹が持ち出されている。サシブという呼び名は、サ(接頭語)+シブと聞こえる。シブという植物はシブクサ、古語にシ(羊蹄)、シノネ、別名をギシギシという。和名抄に、「羊蹄菜 唐韻に云はく、荲〈丑六反、字は亦、蓫に作る、之布久佐、一に之と云ふ〉は羊蹄菜なりといふ。」とある。ギシギシの名は、水脈に沿って群生しやすいところから来ているともいう。冬場、地面にロゼットをなして春の訪れとともに茎を伸ばして花をつける。木ではなく草である。サシブを漢字表記に烏草樹と書き表している。その理由はともあれ、シブクサの意を包含したものとなっている。ギシギシのことなのだから、サシブの木は川の両岸、ギシギシ(岸々)に生えているのではないかと類推され(注8)、ヤマトコトバの言葉づかいは理にかなうものといえる。 「河の上に 生ひ立てる 烏草樹を 烏草樹の木」という表現は、論理的に正しい修辞である。


サシブという言葉(音)からは、サシ(狭)やサシ(射・差)という意を汲み取ることもできる。「狭し」の対語が「広し」である。そこで、「葉広 斎つ真椿」と続いている。「射(差)し」には色を帯びるという意がある。葉広のツバキで染め物に関係することといえば、媒染剤として椿灰が使われたことが思い浮かぶ。
…… 天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど ……(万892)
茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(万20)
紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰(万3101)
色彩に関して直接サスと使う語は、枕詞ともされるアカネサスに限られる。アカ(赤・明)という語は、明るく日が差すことと赤系統の発色のいい色の目立つこととが同根的に認識されて成立している。茜染、紫染ではアルミニウムを多く含む椿灰が好まれた(注9)。染色作業の縁の下の力持ち的な存在が椿なのである。水取司や倉人女が登場しているのも、染色作業の水汲みや繊維製品の保管に当たる人だったからである。歌のモチーフが分かりやすいように配役されている。
当たり前の話だが、媒染剤があるだけでは色は染まらない。シャシャンボが染料に使われたことは知られないが、新芽、木の肌、熟していく実には赤系統の色が垣間見える。今、天皇がきれいな衣を身にまとうことができているのも、大后がいればこそであり、媒染剤だけでは何もできないのだからつけあがるなと言っている。
この点は、記57歌謡中の言葉と記100歌謡中の言葉が微妙に異なることからも検証される。和田1996.に適切な指摘がある(注10)。
天皇讃歌である記一〇一番歌謡は、「ゆつ真椿」(大君)を代名詞「そ」によって指示しているが、当該の五七歌謡は「し」を用いている。これは、各々の詠歌主体が大君を別の関係概念によって把握していることを意味する。「そ」は事物を対象化し、主体の領域外にある事物を指示するのに対して、「し」は主体の領域内のものや主体に属する事物を指示する代名詞である。したがって、一〇一番歌謡が「ゆつ真椿」(大君)を主体の外なる存在として対象化しているとすれば、当該歌謡はそれを主体の内なる存在と捉えていると考えられる。すなわち前者は、「ゆつ真椿」(大君)を尊敬すべき外的存在として、後者はそれを主体と同等、もしくは主体に属する内的存在として把握しているのである。……記一〇一番歌謡と五七番歌謡の結びの表現も、両者が性質を異にする歌謡であることを証している。一般に天皇讃歌や寿歌には、「高光る……高照らす 日の御子」「やすみしし わが大君」等、天皇を讃える表現が用いられている。しかし「大君ろかも」を用いた寿歌は存在しない。実際一〇一番歌謡が、寿歌にしばしば用いられる讃辞の表現「高光る 日の御子に」を用いて、「豊御酒 献らせ」で結ばれているのに対し、当該歌謡は「大君ろかも」で一首を括っている。特に「ろかも」は、「夫ろ」「妹ろ」「家ろ」等の「ろ」と「かも」からなる複合的な終助詞であり、親愛の情にもとづく詠嘆を表している。……「……は大君ろかも」で結ぶ当該の五七番歌謡は、対等な関係、もしくはそれ以下の者への親愛的詠嘆の情で一首が包括されており、これを寿歌(讃歌)と見なすことはできない。(132~133頁)
天皇讃歌のパロディどころか、常套句を用いた皮肉、身近な相手への抑圧を歌い込めているといえる。
三
記58歌謡については、「国見的望郷歌」を基本としているとみる説が一般的である(注11)。また、記57歌謡の、「つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば ……」の再掲として記58歌謡の「つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば ……」があるとする説もある。「河上り」と「宮上り」は同じようなものとする考えである。だが、わざわざ言葉を変えて言っている。「宮上り」という場合の「宮」がどこを指すかについて、これまで三つの候補地があげられている。①仁徳天皇の都した難波高津宮、②歌に出てくる石之日売命の故郷の葛城高宮、③石之日売命が滞在することになった山代筒木宮である。①難波高津宮説は、本居宣長・古事記伝に、「難波ノ宮を避過て泝り賜ふを詔へり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/346)とするのに従う(注12)。②葛城高宮説は、橘守部・稜威言別に、「十句目の筒豆羅紀多伽瀰椰の、瀰椰てふ地名を指て詔ひたる也。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/143)とする説に従う(注13)。③山代筒木宮説は、契沖・厚顔抄に、「筒城宮ヲ作テ、坐マサムト思召セハ、カクハノタマヘリ」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1913153/1/28)とする説に従う(注14)。それぞれに問題点がある。宮を通り過ぎて河を遡ることを「宮上り」と言うとは思われず、葛城高宮というのは地名で宮殿を備えているわけではないし、この歌の歌われた時点で筒木宮は未完成である。
筆者は、この「宮」を、大后が居るところ、その場所のことと考える。通常、天皇皇后両陛下がお住まいになられるところが「宮」である。別居は稀な事態である。「豊楽」は天皇主催の晩餐会で準備は本来天皇が行う。なのに仁徳の代わりに大后が御綱柏を採りに行っている(注15)。天皇の国事行為を大后が代行している(注16)となると、大后が居るところのほうが「宮」と呼ぶにふさわしいことになる。言い換えれば、天皇の任務である行為をするほどに権限を持った皇后のことを、古事記では「大后」と定めているのである。女帝との違いは、推古天皇のように未亡人ではなく、天皇が在位していながら天皇が行うべき国事行為を代行しているところである。記において、石之日売命の行程は、「幸行」、「還幸」、「上幸」と記されている。
ただし注意すべきなのは、石之日売命の存在自体を天皇と同格と捉えているのではない点である。天皇が行うべき国事行為を代行していることからそのように記されているだけである。ミヤはミ(御)+ヤ(屋)の意である。天皇のなすべき行為の一つを「御船」で行い、そのまま遡上していれば、河に浮かんだ「御船」が「宮」そのものということになる。よって、記58歌謡の「宮上り」とは、「御船」の遡上のことを言っている。「豊楽」の準備をするために行幸している限りにおいて宮なのである(注17)。平城山を越えて大和盆地や葛城へ行くには船を下りて行かなければならない。「御船」から離れ遠ざかったら「宮」を去ること、そしてまた、天皇に対して「大恨怒」する態度も罷り通らなくなる。「大后」ではなくなり、あるいは逆賊の汚名を着せられかねない。究極のところ、天皇という存在は、課されている国事行為をする限りにおいて「幸」的な敬意をもって受け止められていたにすぎない。祭政一致の時代、国事行為のマツリゴトをするから崇められはするが、そのマツリゴトをさぼったり、手抜きをしたら、その時点で古代の人々の集合意識において失格とみなされた。
それが確かなことを示す言葉が歌の終わりに出てくる。「葛城高宮」である。大后の出身地の葛城の故郷に、たまたまミヤと付く地名が存在するのがなによりの証拠であると歌っている。自尊の根拠を提示している。記57・58歌謡は、どちらの歌からも天皇に対する大后の「大恨怒」ぶりが聞き取れる。
「大恨怒」しつつ「大后」の立場を捨てなかった。「御船」から離れず、木津川に沿って少し下流の箇木の韓人、名は奴理能美の家に停留している。ヌリノミ(ノは乙類、ミは甲類)という名で語られている。ヌリ(塗)+ノ(助詞)+ミ(水)のことと察せられよう。サシブ、ツバキの話の続きとして、色を付ける汁のことを言っている。「宮」にいるということ、すなわち、国を統治することは、ヤマトコトバで「知る」ことをすることだから「汁」の話になっている。和名抄に、「藍〈澱付〉 唐韻に云はく、藍〈魯甘反、木は都波岐阿井、菜は多天阿井、本草に見ゆ〉は染草なり、澱〈音は殿、阿井之流〉は藍澱なりといふ。本草に云はく、木藍は澱に作るに堪ふといふ。」、「醨 唐韻に云はく、醨〈音は離、之流、一に毛曽呂と云ふ〉は酒、薄きなりといふ。」などと見える。現在の藍染めはタデアヰを原料とすることがもっぱらだが、ツバキアヰとある木藍、いわゆるインド藍、さらにヤマアヰ(山藍)を使うこともあった。ヤマアヰを摺染めした衣は今日でも祭祀に用いられている。すなわち、当時の新技術として、藍染めの原料にタデアヰやツバキアヰが大陸からもたらされ、それらは染液、すなわち、汁で染めることなった(注18)。そのことを暗示するように、韓人の家に滞在したことになっているとわかる。また、うすい酒のこともシルと言っている。「汁にも穎にも称辞竟へまつらむ」(延喜式・祝詞・祈年祭)とある。
薄い酒のことをいう「醨」の別名は、和名抄にモソロと記されている。モソロには、モソロモソロという語がある。国引き神話として名高い詞章で、出雲風土記では四度くり返されている。
三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来と引き来縫へる国は、……(出雲風土記・意宇郡)
シルはモソロだから綱でモソロモソロと国引きすることで知行が行われている。ここに、御綱柏に始まっていた話はクライマックスとしての“オチ”を迎えている(注19)。綱で引くことは国引きすること、すなわち、シルことなのである。御船を引きはじめたのは堀江であり(注1)、川の流れは淀んでいて澱のようだったから、まるで藍汁のように見えたという謂いなのであろう。すべて大后の歌うとおり、言葉は矛盾なく体系化されている。
以上、記57・58歌謡を中心に大后、石之日売命の嫉妬譚を精読した。上代の人たちの言葉づかい、彼らの観念に確かに基づいて読むことで、はじめて記の歌謡を正しく理解することができる。
(注)
(注1)これまでの解説書に、船を引かせたことについては「引二-避其御船一」とある点から注されているが、「綱」で引いたことについて言及がない。言葉が音でできていることについて思慮が足りない。また、真福寺本古事記に、〓(⺡+𡱝)字が用いられていることについても関心がなく改字に甘んじている。𡱝は犀の異体字である。名語記に眉唾の説が載る。「問 ケダモノ、名ニサイ如何。答 犀也。ソノ角ヲモチツレハ水ノサリノクトキコユル獣ノ事歟。文字ノマヽニヨフ名ニハ別ノ尺ヲハツクラス。反ノ沙汰ナシ。」
大きな御船の船首の突起、ならびに船を引くために両岸から渡した綱を、犀の角と牙に見立てて、〓(⺡+𡱝)字(𡱝は犀の異体字)を用いて表そうとしたのかもしれない。
〓(⺡+𡱝)字の訓みについては、サカノボル、ヒキノボルが考えられるが、言葉が重ならないようにサカノボルが正解であろう。その際、「即不レ入二-坐宮一而、引二-避其御船一、〓(⺡+𡱝)下於二堀江一随上レ河而上二-幸山代一。」とし、「〓(⺡+𡱝)於堀江随河而」をひとまとめに考え、「於」字は通訓のニではなくヨリと訓むべきである。運河である堀江を通って淀川に入りさかのぼるという意である。堀江は高低差に乏しく水は澱のように淀み、時にはアオコが大発生して藍汁のようになる。
堀江より 水脈さかのぼる 楫の音の 間なくそ奈良は 恋しかりける(万4461)
八月の戊申の朔にして壬戌に、茨田池の水、変りて藍の汁の如し。(皇極紀二年八月)
なお、〓(⺡+𡱝)字の異体字と目される漽(⺡+犀)字は、米を研ぐ杵のことをいう。研ぎ汁が濁ることを含み伝えたいのであろうか。
(注2)橘守部・稜威言別に、「是真実の人情にて、妬きばかりに、其君をおほす御心より、心いられに、ふと背き来給へども、ありしより勝に、恋しさ増りて、御面影の、御目のあたりを立離れぬ御心持にて、かくは詔ひしなり。若今世の人ならましかば、如此る時からは、憎げなる事をいひなましを、古への人情は、かくこそ有けめ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/141)、武田1956.に、「非常に遊戯的であり、内容が天皇讃称であって、大后の立腹の情を写すにふさわしくない。元来天皇讃嘆の意に成立した詞章なのであろう。」(141頁)、土橋1972.に、「この歌、天皇の多情を怒って皇居から脱出して来た皇后の歌とは思われず、むしろ天皇を寿ぐ寿歌の様相を備えている」(241頁)、西郷2006.に、「仁徳の面影を想う歌に転用されている格好」(64頁)、山路1973.に、「「恨怒」の情とは無関係なものである。……あるいは、川辺にサシブの木が生い茂って曳船の難渋をいう山城地方の舟曳き歌……の断章が、天皇讃歌に結びついたものか、あるいはサシブを呪力を持つ樹木とし、その呪力の下に生い立つ椿を……更に一層呪力に富むものとして、「照り坐し、広り坐す」の比喩に生命を吹き込むための机上作品であったのか、そうしたことの思われる歌謡である。」(140頁)、烏谷2016.に、「歌い手が目ざす描写の中心は、葉広五百箇真椿に喩えられる天皇であり、背後には結婚の寓意があろう。」(375頁)、居駒2018.に、「儀礼用の御綱柏を投棄することは……大后の専権に属する宮廷の祭祀儀礼の放棄であった。……宮に入らず……故郷葛城に帰るために山代河を上って行く旅は、まさに大后の失意、傷心の旅であった。その複雑に交錯する石之日売の思いとその姿を、山代河を上って行く時の「つぎねふや」歌群、記57と記58の歌と散文に読み取らなければならない。」(104頁)、曽倉2020.に、「文脈と矛盾する歌謡は伝説の装飾化」(96頁)、石田2023.に、「散文と歌の表現が相俟って、難波帰還を拒み山代川を遡上するという怒りの行動が、そのじつ敬愛ゆえの他意のないものであることを浮き彫りにしているのである。」(198頁)と説かれている。土橋説のように、宮廷寿歌と見られる天語歌との合体作、独立歌謡と物語歌との継ぎ合わせとする考えも行われている。
また、椿による大君讃辞の常套表現が更新されていった背景に、漢籍教養が存在し、ツバキが「椿」という漢字表記で落ち着き、荘子以来の伝説が関係しているとする議論が瀬間2015.にある。しかし、記では歌謡中にしかツバキ(都婆岐)は現れず、「椿」字は記されない。
(注3)西宮1979.の解釈については、内田1992.は、「深読みに過ぎるかも知れない。」(192頁)とし、「天皇を寓する椿を烏草樹の下に置くこと……[は]単なる対比があるのみとも言えよう。」(同頁)とし、大脇2015.は、西宮1979.の解釈が正しいとするなら「かなり文学性の高い部分」(27頁)と評価しようとしながら、以後の「故郷である葛城に思いを向けながら筒木の韓人宅に留まるという石之日売命の行動」を、新編全集本古事記の「大和に戻ることは決定的な天皇との決裂となるので避けた。そうさせたのが天皇への思慕の思いであることを先の賛美の歌が語る。」(294頁)を採っている。
(注4)また、木には幼木も矮性種もある。大きさを単純比較できるものではない。
(注5)後述する和田1996.に、天皇と大后の二者をそれぞれに象徴としたとする説がある。(注10)参照。
(注6)仁徳記のはじめに、民の竈から煙が立たなかったか三年間、課役を免除したとする話が載っている。「聖帝」と称えられたとする有名な話である。紀にはより詳しく記されており、人民の困窮は三年で解消しているのになかなか課税を復活させなかった。問題が生じることになろうと自治体に当たる諸国から奏上されている。それでもさらに三年間、課税しなかったと記されている。「聖帝」という言い回しには、政治的な無能ぶりへの揶揄が込められていると感じられる。拙稿「仁徳天皇は聖帝か?」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3b6bf7b7b6923362822f33da0c609948参照。そしてまた、天皇は足が不自由であったらしく、だから代りに大后が豊楽の準備のために出掛けたという次第であったようである。拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注7)土橋1972.は、「「川の辺」と「葉広斎つ真椿」との取り合わせが不似合いと考えたからであって、そのために川べに多く見られ、かつ呪的な花をつける烏草樹を、クッションとして置いたのであろう。景物を二つ重ねて提示する方法は、こういう事情によるものであり、寿歌的パターンが守られさえすれば、烏草樹の「下に」椿が生えているという現実的な不自然さなどは、さして問題ではなかったのである。」(241~242頁)としている。「川の辺」と「葉広斎つ真椿」が不似合いとする言が何に基づくのか、また、烏草樹の花が呪的とされた事例があるのか、不明である。
(注8)シャシャンボの生態として、山中において、やせた尾根や林のなか、また、谷筋など、特に選ぶものではないが、山に入る人の交通が谷筋に多ければ岸に生えるものと思われていたかもしれない。
(注9)雄略記の記100歌謡は、「…… 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 ……」と歌われていて、建物の近くにツバキの大木があるという設定である。居駒2003.は、「[記57の]「斎つ真椿」と「大君」との関係……の間をつないでいるのは、神の寄り憑く樹木の生命力・呪力を「大君」の姿に幻想するという古代的な思考法である。……その根底にあるのは「木は大君である」とする、人間が木に抱く<同類共感>なのである。」(52頁)とする。それを受けて、猪股2013.は、「地の文の言説世界では椿は椿であり、人は人であり、両者が混融することはあり得ない。しかし、歌の言葉を体験しつつある者にとっては、植物と王たるべき人とは融合し得るのである。地の文の言葉の世界と歌の時空とは次元の異なるものであったことがあらためて確認される。」(53頁)としている。
古代の人にとってツバキの木が尊ばれたのは、その有用性においてであろう。棍棒とするのに堅くて長い材を得ることができること(「則ち海石榴樹を採りて椎に作り、兵にしたまふ。」(景行紀十二年十月))、そして、椿灰が染め物の媒染剤として効果がすぐれていたからである。仁徳記には染織関連の説話が続いている。拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c73643f004b118e1e58d824cffb7c96aほか、「仁徳記、黒日売説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3119671fe33190160800616b792d247a参照。
また、古橋1988.に、記58歌謡について、「この旅の〈叙事〉は神の巡行だった。そして神に見出されたものであるゆえ最高にすばらしいものとなるのであり、それゆえ大君を讃美する比喩になるのである。」(100頁)、都倉1994.に、「「川の辺」は両義的境界であり、そこに存在するものも、また優れた呪力を負うものである。「泝る」「川の辺」の「烏草樹」から「椿」へと寿詞の呪力が累加され、結句の「大君」の霊威がいやますという構造である。「山代川」を遡行し貢納していた部民の存在も十分想像される。」(111頁)とある。これらの議論は、烏草樹や椿である必要のない議論である。話に具体性が欠けていたら、歌を聞いた人たちに理解されることはなく、歌として存立し得るものではない。
(注10)和田1989.は、「古代の歌謡や和歌の序詞は、単なる修辞や実景描写ではなく、古代的な自然把握の所産とも言うべき象徴表現である。」(131頁)、「「新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿」(記一〇一)と「さしぶ」の「しが下に 生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿」とを同一視することはできない。」(132頁、傍線省略)と指摘する。そして、「物語との関係から、山代川の「川の辺に 生ひ立てる さしぶ」は葛城氏の娘である磐之媛を、「しが下に 生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿」は仁徳天皇を象徴的に表していると考えられる。」(132頁)としている。
(注11)そのうえで大脇2015.は、「父の勢力範囲である大和国、葛城に帰郷すれば、仁徳天皇の立場がなくな」るから筒木に留まっており、その状況は「夫と父との間で揺れるイハノヒメの「こころ」の葛藤」、「心の逡巡」(35頁)を思い起こさせるとしている。「宮上り」という語については触れられていない。
(注12)西宮1979.に「高津宮を素通りして川を遡り、の意。」(210頁)、相磯1962.に「難波の宮に上るように山代河を私が溯って来るとの意。」(186頁)、新編全集本古事記に「この「宮」は高津宮とみられるから、高津宮を通り過ぎて川を遡ると、の意ととる。ただし、「宮上り」は宮へ上る意だから、なお不審が残る。」(293頁)、山路1973.に「あるいはこの「宮上り」は、当時山城川に沿って、都の倭の方へ向うのを、「宮上り」といい慣わしていたもので、その呼称は難波人たる曳船者流の間のものであったようにも思われる。」(141~142頁)とある。
(注13)尾崎1966.に、「ここは、葛城の高宮の地にある宮を指しているのかもしれない。」(576頁)、土橋1972.に、第二の可能性として、「葛城氏の居宅を葛城氏側の物語述作者「葛城高宮」と呼び、「上り」の語を用いたのではないかということも考えられる。」(244頁)、倉野1980.に、「これは宮をめあてに河を泝る意と解するのが自然である。(その宮は、強ゐて言へば葛城高宮であらう。)」(48頁)、猪股2013.に、「末尾に歌われる葛城の高宮をめざして、の意と考えられる。」(57頁)、山崎2013.に、「自分の故郷の葛城の家を「宮」、すなわち皇居と同等のものととらえ、そこへ上京するということを意味するものである。」(221頁)、烏谷2016.に、「「宮上り」は葛城高宮へ上ること」(375頁)とある。また、西郷2006.に、「伝承上のコラプションがそこにはあり、下の「葛城高宮に引かれて、「河上り」が「宮上り」に転じてしまったのではないかと推測される。」(65頁)とある。なお、佐佐木2010b.に、「「宮泝り」とあるのは、あとに出る「葛城高宮」に向かうことをさす。」(66頁)としながら、佐佐木2010a.に、「「宮上り」の状態で私が(山代河を)上って行くと、ということ。」(81頁)とある。紀54歌謡と記58歌謡は、「つぎねふ」と「つぎねふや」の違いしかない。
(注14)思想大系本古事記に、「元来は前の歌謡五七の初四句の中の「河」を此の歌謡五八の主題に即して「宮」に変えただけのもので、特定の「宮」ではない。強いて解すれば、夫の居る難波にも実家のある葛城高宮にも行きあぐねた女主人公が、落ちつくべき宮(結局は筒木宮)を求めて遡る意か」(442頁)とある。
(注15)古事記の「大后」という名称については、山崎2013.に、「祭祀、皇位継承、政務など、天皇の様々な役割を受け持つ、女帝に近い立場の后」(464頁)という“定義”は間違いではなかろう。その場合、天皇という地位の代わりを務めているというよりも、天皇が行うべきマツリゴトの代行をしていると捉えたほうが妥当と考える。「適后」という名称ともども、稿を改めて論じたい。
(注16)仁徳記の後段に、天皇の弟の速総別王と異母妹の女鳥王が、天皇に不敬な行動に出たため、追討軍をたてて討伐された話が載る。その将軍は山部大楯連であった。その事後に、「豊楽」が行われている。各氏族の夫人も列席したが、そのとき、大楯連の妻は、女鳥王の玉鈕を手に纏いていた。それを目にした大后、石之日売命は、大御酒を注ぐ柏の葉を与えずに退出させ、大楯連を呼び出した。そして、速総別王と女鳥王は不敬だったから討ったことは問題がないが、仕える身であった大楯連が主君の手に纏いていた玉鈕を、まだ膚の温もりも残るうちに剥ぎとって自分の妻に与えるとは何ごとか、と言って死刑に処している。大后の一存で将軍を死刑にしている。それは許されることだと、記の話を聞いている人たちに共有されている。記57・58歌謡を含む当該説話同様、「豊楽」、「柏」と出てくる。「豊楽」に関して石之日売命は過大なる権限を持ち、「大后」として最高裁判所判事の役割まで担っていたというわけである。
故、其地より逃げ亡せて、宇陀の蘇邇に到りし時に、御軍、 追ひ到りて殺しき。其の将軍、山部大楯連、其の女鳥王の御手に纏ける玉鈕を取りて己が妻に与へつ。此の時の後に、豊楽為むとする時に、氏々の女等、皆朝参る。爾くして、大楯連が妻、其の王の玉鈕を以て、己が手に纏きて参ゐ赴く。是に、大后石之日売命、自ら大御酒の柏を取りて、諸の氏々の女等に賜ふ。爾くして、大后、其の玉鈕を見知りて、御酒の柏を賜はずて、乃ち引き退けき。其の夫大楯連を召し出でて詔はく、「其の王等、礼無きに因りて退け賜ひき。是は、異しき事無けくのみ。夫の奴や、己が君の御手に纏ける玉鈕を、膚も煴けきに剥ぎ持ち来て、即ち己が妻に与へつ」とのりたまひて、乃ち死刑を給ふ。(仁徳記)
仁徳記の石之日売命は、当初から、天皇が関係すると思われる女性に対して嫉妬深い存在として語られている。古事記研究においては、そのことを拡張的に解釈している。嫉妬は愛に由来するものである、女神の怒りを始原としたものである、一女性の感情レベルを超えて公的、呪的要素を窺わせている、出自の葛城氏が朝廷の一翼を担いながらも、葛城系統ではない天皇と対立することがあったことを語るものである、編纂された持統・元明朝の影響がある、国土に新しい秩序と安寧をもたらす天皇と大后の和合を生み出すものである、王者にふさわしかるべき「色好み」を語っている、聖帝と並び立つ大后に成長していく原動力である、など様々な説がある。吉井1976.、牧野2000.、青木2015.、山崎2013.、寺川1989.、都倉1994.、神野志1987.、烏谷2016.などに所論が見られる。これらは、ひとつひとつの歌謡物語についてよりも、石之日売命の人物像をテーマに据えて論じている。それは、古事記というお話を聞く態度として適当ではない。
記紀に残されている説話は、それが編纂され始めた天武朝をはるかに遡る時代の仁徳朝の事柄について、書記されることのみによって伝えられてきたものとは考えられない。基本的に無文字文化の時代において、後の時代にまで伝わっていることとは、口頭で人に話して伝わった事柄である。聞いた人がその場で納得し、その話(咄・噺・譚)を共有した。すなわち、その話は、話として独立して成っているものである。大后、石之日売命の御綱柏投棄の話は、記57・58歌謡と筒木停留までをもって一連の話である。その具体的な話を聞いただけで、あぁ、なるほどね、と得心が行って記憶された。石之日売命の性格づけとして考慮の必要があるのは、前段に示される「其の大后、石之日売命は、嫉妬すること甚多し。」だけである。いくつものお話から石之日売命の人物像を抽象するには及ばない。むしろ、そのようなことが“研究”であること自体、古事記を“読む”姿勢として誤りである。一度聞いてわかること、一度しか聞くことができないものが話(咄・噺・譚)である。
(注17)土橋1972.に、記58歌謡の「問題は「奈良を過ぎ」「大和を過ぎ」という道行き風の詞章で、……しいて合理化すれば奈良・大和を過ぎて、その向こうの葛城高宮ということになろうが、望郷の歌に葛城高宮に至る途中の地名を並べる必然性がわからないのである。」(245頁)とある。歌を歌っている那良山の入り口になる木津川の「訶和羅之前」(応神記)付近から奈良、奈良から上つ道などを通って大和、今の天理市付近、さらに大和盆地の西南に当たる葛城へと向かう場合、みな陸路である。水路がなければ「御船」は進めないことを強調している。また、出身地である葛城高宮という地名の高宮を訴えることで自分の居るところ、そこが「宮」である、自分は「大后」であると弁述している。この歌謡の趣旨は、言葉の定義を、述べて作らざるものである。
(注18)今日の藍染めは、藍の葉を寝かせて発酵させて製した蒅を使って染められている。発酵を伴うこの方法は室町時代ごろに始まるといわれている。それ以前は、藍から色素を絞り出して沈殿させ、その汁を使って染められたものと考えられている。
(注19)なぜ「醨」のことをモソロともいい、国引き神話にモソロモソロと引くというか、語源的理解は問題ではない。言葉とは使用されているものである。
(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註解』有精堂出版、昭和37年。
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※本稿は、2019年7月稿に対して大幅に加筆訂正したものである。