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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

コノハナノサクヤビメについて 其の二

2021年10月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
鉄鑿(山梨県中央市大塚古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
 「あまひのみ」のノミ(ノ・ミは乙類)は助詞である。万葉集では借字として鑿の字を当てている。そんな工具の鑿は弥生時代から鉄製で、古墳時代には鍛造でいろいろな形のものが現れている。必ず表裏があって片側だけにある刃が斜めになっている。鑿によって物が加工される最たるものは仏像のような彫刻である。木の塊を彫ることで神や仏の像に化けるのである。轂に輻を嵌めることは「く」といった。人や神を紛らわすために姿が変わるのは「く」である。米が酒になるのも劇的な変化であり、そう言って妥当である。また、酒は適量ならほろ酔いになり、神憑りしたかのような化けた状態になるのであるが、悪くすると「く」ことになる。神代紀第十段一書第四に、海幸・山幸の話の呪詛の場面が紹介されている。釣針を返すときに呪いの言葉を言い、その後で「みたび下唾つはき」、つまり、三度唾を吐いてから返している。また、相手がそれを使って釣りを再開したら、「風招かざをき」のための「うそぶき」、つまり、口をすぼめて息を強く吐いている。この呪術の結果、兄は溺れて死にそうになる。そこで、「善きばけ」を使って助けて欲しいと懇願している。術の古訓にバケとあるのは、吐くこと(「下唾」、「嘯」)と対だからである。話の内容は命乞いである。上述のとおり、命のイは息のことで、呼吸というように先に吐くからその反動で吸うことができて生き長らえる。息を飲むとは、死にそうになるほどびっくりすることである。人は死ぬと神や仏になるとされていた。まとめると、鑿という道具の真髄は、片刃で斜めであるゆえに「く」ことにあると見なすことができる。
 「吐く」ほどの酒とはアルコール度数の高い酒、濃い酒である。醴酒こさけ(コは甲類、ケは乙類)は、和名抄に、「醴 四声字苑に云はく、醴〈音は礼、古佐計こさけ〉は一日一宿の酒なりといふ。」とある。令集解には、周礼の注に甘酒のことであるとし、大宝令の伝の古記を引き、「麹を多くし米を少なくして作る。一夜にしてむなり」としている。どろどろを飲む、濃酒こさけの意であるが、正倉院文書には「粉酒」とある。延喜式に、「醴酒は米四升、よねのもやし二升、酒三升を和合醸造し、醴九升を得」とある。ただし、その頃には糵をつくるときに黄麹菌が繁殖しており、米散麹こめばらこうじ(米蒔麹)になっていたようである(注17)。蒸米に米麹を混ぜ、すでに出来上がっている酒を加えて作ったカクテルであり、白酒のような甘い飲み物らしい。あるいは、濁り酒に似ている酒の子(コは甲類)ども、付け足して増した利子のような酒の意を含んでいるのかもしれない。そして、糵と麹とを混同している。黴が生えることも、芽が出ることも、ヤマトコトバではともに「かび(ビは乙類)」と言っており、概念的に同じことと捉えていた。それを「もやし」と呼んだようである。
 礼(禮)を尽くす酒として「醴」字が用いられる。レイは醴の初文で、古代中国では、臣下に醴を賜う礼があった。本邦の民俗行事にある甘酒祭りは、供物とする甘酒を作って神に捧げ、後でそれを下げてくること、そして、皆で飲むことを重視した祭りの呼び名のようである。いずれにせよ、礼酒とは賜酒のことである。「たまひ」はタ(手)+マヒ(幣)のこと、「あまひ」に似て非である。似て非なるとは似非えせである。違うけれどよく似ていることは、「たうばれり」(応神紀九年四月・雄略紀元年三月)と言った。タウバルは、タマハル(賜)の転かとされている。大系本日本書紀に、「タウバルは、似るの意。語源は「賜はる」か。本質的なものをいただく意から、似る意となる。……多く天皇などの貴人に似ている場合に使う。」((二)199頁)とある。似ているが違う紛らわしいものの形容に、アマヒという語はあると考えられる。吉野の国樔人は天皇にお酒を献上している。お酒なのであるが立場が逆である。饗宴を催す際には主人側が酒を用意しもてなすのがふつうである。紀にも、蝦夷などに「あへたまふ」という記事は、時代が下るとしばしば見られる。王化思想である。周礼・天官・酒正に、「酒の賜頒しはんつかさどる。(掌酒之賜頒。)」とある。
 漢書・楚元王伝には「醴酒を設けず」の故事が載っており、客として待遇する礼が衰えたことを表している。楚王は、食客として申公や穆生を招いていた。「初め元王、申公等を敬礼す。穆生酒をたしなまず。元王、置酒する毎に常に穆生が為に醴を設く。王戊が位に即くに及びて常に設く。後に設くを忘る。穆生退きて曰く、以て逝くべし。醴酒設けず。王の意怠らめり。去らずんば、楚の人将に我をして市に鉗せん。(初元王、敬礼申公等。穆生不耆酒。元王每置酒、常為穆生設醴。及王戊即位常設。後忘設焉。穆生退曰、可以逝矣。醴酒不設。王之意怠。不去、楚人将鉗我于市。)」とある。醴の切れ目が禮の切れ目という話である。本邦での例としては、「置酒おほみきをめして群臣まへつきみたちとよのあかりす。」(天武紀二年正月)とある。また、礼記・喪大記にも記述があり、喪礼にも使われている(注18)。早死にしそうな雰囲気も漂ってくる。禮は「ゐやまひ・うやまひ」で、やはり「あまひ」に似て非である。醴は甘酒だから、「あま」ひ酒であると洒落たらしい。呑んで酔っぱらっている。「呑」字は天に口と書いた「吞」字を正字とするが、よく使われるのは「呑」字である。酔うと天が斜めに見えるということなのだろう(注19)
 オホヤマツミは二人の娘を奉じるとき、「百取机代之物」(記上)を持たせていた。贈り物の品を示しているとされている。紀では、「持百机飲食奉進。」(神代紀第九段一書第二)とある。類例に、「百机ももとりのつくえあさへてみあへたてまつる。」(神代紀第五段一書第十一)、「饌百机ももとりのつくえものを設けて、主人あるじゐやを尽す。」(神代紀第十段一書第三)とある。また、「…… 小螺しただみを …… 高杯たかつきに盛り 机に立てて 母に奉りつや 刀自とじ ……」(万3880)とも見える。机の上に食べ物を載せ、酒食が進めば机の上には隙間が空いてくる。その机は、酔いの回った人々が脇息にして身体を支えるものであろう。いずれもツクヱと呼ばれていた。酒の肴を載せていることをツクヱという器物で端的に表しているわけである。
脇息(狩野養長模・一遍聖絵模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0062060.jpgをトリミング)
 麹糵キクゲツはコウジとされている。糵はコウジ、また、モヤシと言った。糵に似た字のゲツはひこばえである。孫のこともヒコといい、ホノニニギは天孫であった。また、蘖に似たゲツはわざわいである。わざわいは、天に災といい、地に祅という。祅は妖に通じる。笑や咲に見える夭の字が出ている。少しだけ芽生えさせて実らせることがないから、種にとっては中途半端で祅にあたる。麹は「加無太知かむたち」(和名抄)、かび立ちの意である。カムチ、カムシがコウジに転訛した。そして、麹は説文に正字を𥶶に作る。似た字の䕮は菊の初文で、説文に、「日精なり。秋を以て華さく。艸に从ひ、𥶶の省声」とある。アマテラスが日神なら、その子孫が菊を御紋にするのは当然のこととなる(注20)。そのうえ、天孫のホノニニギが米を握(掬)って降臨したとされている。麹に関係する氏族である点もまた然りである。蒸した米に種麹、すなわち、黄麹かび菌の胞子を植えつけて繁殖させ、花が咲くように膨らんだら麹のできあがりである。糀という国字は後代の作である。
 現在、日本酒に使うのは粳米である。醸造技術が進歩し、また酒造用に稲の品種改良が行われて粳米となっている。中国では紹興酒などの醸造用には今でも糯米を用いている。醗酵には小麦や米を粉砕したあと固めて一旦水に浸け、かびを生やした餅麹を使う。餅麹は保存が利く。糯米は収量が粳米より約一割少なく高価であったとされるから、ハレの日に餅を食べるようにしか作付けされていなかったという。応神記には、大陸から新酒造法を伝えた須須許理すすこりの名が見える。その名については、コリが朝鮮語マッコリのコリで漉す、濾過するの意、酒造りのことをいうものとされている。ただ、コノハナノサクヤビメの説話では醴酒が主役として扱われており、澄んだ酒や度数の高い酒は当面のテーマではないようである。また、須須許理が伝えたとされる新醸造法も詳しい記載はない。稲麹のついた稲穂が糯系の稲に見られ、それを用いて麹糵を作ったと想定する(注21)のが、言葉のなぞなぞからは整合性が高いことになる。稲穂にはまれに、濃緑色の大豆のように見える病原菌の菌叢ができることがあり、そのなかに黄麹かび菌が混ざって生息している。それを稲麹という。
稲麹標本(国立科学博物館展示品)
 ホノニニギの名義は、賑やかなことと握々することとに関係していた。麹かびに侵されていた糯種のイネがあったら、とても賑やかで握るのにもふさわしい。彼の父は忍穂耳命おしほみみのみことである。「此の御子は、高木神たかぎのかみむすめ万幡豊秋津師比売命よろづはたとよあきつしひめのみこと御合みあひましてれし子、天火明命あめのほあかりのみこと、次に日子番能邇邇芸命、二柱ふたはしらなり。」(記上)とある。ヨロヅハタトヨアキツシヒメノミコトは、一説に、蜻蛉の羽のように精細な布を織る機織の神と考えられている。逆に、機織の技を以て大量生産したようなたくさんの蜻蛉が飛び交う秋の神ともいえる。水田が開墾されてトンボが大発生した。アキツシのシは風のことかという。アメノホアカリノミコトは、松明に火の燃えるがごとく穂が実るさまを表すとされ、その弟に当たる神ホノニニギは黄麹かびの繁殖した稲穂と考えられる。ホノニニギが釜を表すイハナガヒメと関わらなかった理由は、稲麹ばかりでは炊飯してもおいしいご飯には炊き上がらなかったという意味合いにも取れる。
 天が斜めになると夭になるという洒落は、天にある月が斜めになっていることと関係があろう。月という字形は、満月ではなく上弦の月を表している。斜めに段梯子、つまり、階が懸かっているような形である。現在ではツキもニクヅキも同じタイプフェイスで示されるが、以前は別であった。つき(キは乙類)は尽きるからそう言い、餅、糯と同音のもちとは尽き始めである。糯米で造った酒が飲んだらなくなるように、命もどうしても尽きる。「まひ」は神への捧げ物である。幣帛というように絹を神に捧げた。偉い人に捧げて便益をはかってもらうことは「まひなひ」である。月の字がなかに斜めになって含まれている。つまり、「あまひ」がアマ(天)+マヒ(幣)であるとするなら、天神からの幣ではなくて天神への幣だから、天の字が斜めになっている夭の字が導かれることになる。高いところで斜めに網をかけているのは、木の花の咲いたように確かに見えてはいるものである。妖しげに化けた蜘蛛の網であったという連想が働いている。
 壮大なヤマトコトバの頓智世界にコノハナノサクヤビメ説話は創話されていたのだった。

(注)
(注1)思想大系本古事記に、「紀の一書第二には「此世人短折之縁也」。大山津見神の誓約の結果、歴代の天皇の寿命が長くないという話は、紀では、人間一般の寿命の短いこととしての説話になっている。この種の話は、バナナタイプの神話とされ、南方諸島に広く分布し、たとえば中央セレベスのボソ族の神話、すなわち部族最初の夫婦が、天地創造の神に、石よりもバナナの欲しいと願ったため、石のように永久不変ではなく、バナナのごとくはかない寿命になったという神話がそれである。」(102~103頁)とある。バナナタイプ神話による解釈は、松村1955.や大林1961.、福島1988.によっている。バナナがコノハナノサクヤビメ、石がイハナガヒメに相当するという解釈のようである。そして、神話学にいう死の起源神話が神婚神話に変形することで、後半の服属神話と結びついたとされている。筆者は、このような比較神話学の解釈によって、記紀の説話から何が得られるのか疑問である。コノハナノサクヤビメが具体的に果実を表すのならまだしも、人(神)名であってフルーツ感がない。コノハナノサクヤビメのことをサクランボと解釈する例は見ない。
 しかも、記では、天皇の寿命の話であって、さらに、その仮定は、オホヤマツミによって行われたウケヒという一種の占い事によっている。オホヤマツミは絶対神ではなく、端役の神さまである。ウケヒは言ったことが現実の事となるという、筆者の考える「言霊信仰」に基づいた決め事である(拙稿「ウケヒ考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/17c5fb4802fc5f42ee29614a5dec5644・「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照)。神が世界を創造したとする神話と同一視しようとしたり、また、比較検討の対象とされること自体、筋違いの考えと言わざるを得ない。そもそも、記紀の説話は「神話」ではない。記紀自身には、「伊奘諾尊いざなきのみこと伊奘冉尊いざなみのみこといたるまで、是を神世かみよ七代ななよと謂ふ。」(神代紀第三段本文)と明記されている。イザナキ、イザナミの誕生までを紀自身は神話と呼んでいるようである。
 オホヤマツミのウケヒは彼の語りのなかで展開されている。ウケヒをしたときに内容が公表されていない。ホノニニギがその内容を聞き及んでおらず、後になって実はこれこれこういう事情でなどと訴えられている。それは一方的なウケヒであり、ウケヒ本来の姿ではない。公言性がなかったらいくらでも嘘が罷り通ってしまう。言=事とする前提がひっくり返され、ウケヒの濫発は信用の収縮に陥って立脚点を失うことになる。
 話としては、イハナガヒメを使ったら、天神の御子の命は、風雪に耐える石のように堅く動かない。コノハナノサクヤビメを使ったら、木の花の栄えるように栄えている、とウケヒの言葉として予め言っておいて差し上げたのだから、イハナガヒメを返してコノハナノサクヤビメだけを留めた日には、天神の御子の命は、木の花のあまひのみありましょう、即ち、天皇らの寿命は短くなるでしょうというものである。
 イハナガヒメとコノハナノサクヤビメとが、男と女のように対立する二者択一の概念、ないし、集合と補集合の関係にあるとは考えにくい。結論として、オホヤマツミの言葉に、「木の花のあまひのみ坐さむ」という感慨が浮かんでいる。逆に、コノハナノサクヤビメを返してイハナガヒメだけを留めたらどうなっていたのであろうか。「石長のあまひのみ坐さむ」となっていたのではないか。コノハナノサクヤビメだけでもイハナガヒメだけでも良くないから、「我之女二並立奉」ったのであろう。
 筆者は本稿本文のなかで、イハナガヒメは羽釜の譬え、コノハナノサクヤビメは甑の譬えではないかと推定している。すなわち、お米を羽釜で炊いてご飯を食べることと、甑で蒸してそれをお酒にして飲むことと、両方ともにするといいというのがオホヤマツミという調理器具を司る土間の神さまの提言、つまり、ウケヒであったと考える。ご飯にしていつもながらに食べていれば力にはなるが堅物のしみったれた人生になる。といって、お酒に作って飲んでばかりいては、その時は気分がよくなって楽しいけれど身にはつかず短命に終わってしまう。狩猟採集の時代から農耕に酒造の加わる時代へと大きく舵を切った飲食生活の劇的変化と、その調理法への対応のうち、ヤマトの人たちが鉄製の釜を利用しなかった事情が説話化されているのである。
 ウケヒという概念を用いたオホヤマツミのお話である。イハナガヒメを使ったら……坐さむ、コノハナノサクヤビメを使ったら……坐さむ、というウケヒをしている。将来こうなるのなら、今こうなるだろう、という本来のウケヒの形ではなく、今そうしたら、将来そうなるだろうと推量している。推量に終始しているのは他人事だからといえる。他人事とは噂話のように「話」にすぎない。ホノニニギの面前でウケヒが行われたわけではなく、後になって聞かされている。言ってくれなければわからない。わからないことを前提にして話が進んで行っている。話というものには尾鰭がつく。いくらでも架空を仮構できるのが当て推量である。マサムマサムと重ねているのは、場所の設定が「笠沙かささ」であることと関係があるのであろう。水嵩がますます増すところが嵩々の地、カササに違いない。そして、推し量るますのようなものの具体的な物、容器の外見をしたもの、満たされる底のある釜と抜け落ちてしまう甑という器物のことを暗示している。
(注2)本居宣長・古事記伝に、「されば此御名も、何の花とはなく、たゞ木花のサキ光映ハヤながら、即ムネと桜花に因て、然会なるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/410)とある。
(注3)拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9213fa3866aceeafc581a5e09e326ab0参照。
(注4)アマヒという語についての説としては他に、物のアハヒ(間)の義とする説(飯田武郷・日本書紀通釈kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992401/134)、アマル・アマネシ・アマタなどの語根アマとアヒ(合)とが結んだとする説(日本古典全書本古事記277頁)、はかなくもろいさまの体言かとする説(尾崎1966.236頁)、アマアヒ(雨間)の約とする説(尾崎1972.98頁)などがある。
(注5)笹森1982.に、労働力貢納のために糒が携行食として重視され、その生産のために大形甑がかけられる堅牢なかまどが求められたとする説がある。「ほしいひ・ほしひ」は「乾飯かれいひ」ともいい、糯米を蒸して乾燥させたものである。和名抄に、「糒 野王案に、糒〈孚秘反、備と同じ、保之以比ほしいひ〉は乾飯なりとす。」、養老令・軍防令に、「凡そ兵士は、人別ひとごとほしひ六斗、塩二升備へよ」、同・倉庫令に「凡そ倉蔵にみ積まむことは、稲、穀、粟は九年支へよ。雑種は二年支へよ。糒は廿年支へよ」などとある。ただし、それは、旅程中に仕方なく食するものである。寺島良安・和漢三才図会に、「糯を用ひて、飯に煮て、晒乾し、粗く磨りて頭末を去り、中等の者を取りて用す。夏月、冷水に浸し、之れを噀る。奥州仙台、河州道明寺に作る所の者、最も佳し。多食すべからず。腹に在りて甚だ膨張す多く食ふ可からず。腹に在りて甚だ膨張す。」などとあり、糒は忍者の携行食に近いものと思われる。糒を食べながら峠を越えることはあったろうが、例えば大規模古墳を造営するのにかり出されて腹をすかせたときに、糒をばくつくものではない。寺島良安も注意喚起している。佐原1996.は、米を蒸すことには祭りの日のための餅や酒造りといった目的が認められ、列島の東西における品種の違いがあったとも推定している。
糒(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569777/27~28をトリミング接合)
(注6)本邦における最初の羽釜が金属製であったか、土器製であったか、よくわからない。羽釜は竈とともに渡来人によってもたらされたと言われているおり、移動式カマドとともに使われていた形跡や、古墳から副葬品として出てくるミニチュア竈に、竈・釜・甑がセットで出てくる。これらの釜は土器としての例であるけれども、それらが列島での原初的な形態であったか不明である。そもそも原初的な形態を追い求めること自体が設問として誤りなのかもしれない。寺での大掛かりな炊事例は正倉院文書から確認されるものの、それぞれの家々で幅広く実用に供されたわけではない。以下、事典等に見る。
 
 炊飯や湯沸しに用いるふたつきの器具。釜を「かま」とよむのは、古代朝鮮の音によるとも、かまどから転じたともいう。「正倉院文書しようそういんもんじよ」「えんしき」などの記録をみると、釜と竈はしばしば混同されていたようである。「倭名抄わみようしよう」では釜を加奈閉かなへ末路賀奈倍まろかなへと訓じ、足のない底の丸い釜としている。古くは土器で、ふんの副葬品としては、竈、釜、こしきがひとそろいで発掘されている。金属製の釜は、中国古代に現れた三本足のていを祖型として発達したものと考えられ、日本への渡来時期は不明だが、奈良時代にはさかんに用いられていた。多くはちゆうてつ製で、銅製もあった。(大角幸枝)(日本史大事典347~348頁) 
 かま【釜・竈・窯】名 🈩①炊事用具の一。「かなへ」が金属製の炊事用具一般をさすのに対し、土製・金属製を問わず湯を沸かすための用具を呼ぶ名であったが、「釜 カナヘ、カマ(前田本字類抄)」など同じ字にこの両訓を付しているものもある。㋑湯を沸かしたり、製塩したりする場合に用いる大型の炊事用具。湯沸し用は、初め土器、次いで金属製のものが普通になった。「かまど」の上の穴に下半分を差し入れて用いるので、これを支えるための鍔が腰の周囲にある。後に炊飯の用具をこの名で呼ぶようになったが、これは、元来、湯を沸かす釜の上に甑(こしき)を載せて米を入れ、蒸して飯を製したのが、釜の中にじかに米と水とを入れて煮る形が普通になったのでこの呼称が成立したのであろう。製塩用の塩釜(しほがま)は鉄製の大きい皿型である。(角川古語大辞典860頁) 
 かま 釜 煮炊容器の一つ。鍋が基本的に囲炉裏で使われるのに対し、釜はかまどに架けて使われる。口縁下の外側に落下を防ぐためのつば(羽)が廻らされているので、がまともいう。したがって胴部径は鍔の径よりも小さくなければならない。釜の淵源は古墳時代の長胴甕で、もとは米を蒸すためのこしき蒸籠せいろうと組み合わせて使われる湯沸し容器として始まり、のちこれで直接米を炊くようになった。羽釜としては鋳鉄製が最も古く、製品の遺存例こそ少ないが、鋳型に八世紀末から九世紀初頭の出土例がいくつかある。また鉄釜を模したとみられる須恵器製品が、十世紀前半ごろの群馬から長野にかけて分布する。長胴甕は十世紀後半から十一世紀にかけて近畿から東海を中心に丈夫な口縁部が横に短く伸びる形態に移行して終焉を迎え、代わって出現した土釜が中世後期まで存続する。陶器では十二世紀前半から十三世紀後半にかけて、常滑を中心とした東海諸窯に製品がある。このほか湯沸し用の土製茶釜が中世後期各地に出てくるが、これは囲炉裏にかけられるものである。なお中世後期の東国に鍔の径よりも胴部径の大きい土器煮炊具が普及し、これを「鍔釜」と称したりもするが、正しくは「鍔鍋」とすべきであろう。(馬淵和雄)(歴史考古学大辞典266~267頁)
 かま 縄文土器から弥生土器・土師器はじきまで,煮炊きには深鉢やかめと呼ぶ深い器を使っていた。7世紀後半になって,大きく開いた口径が器高をしのぐ丸底の浅鍋が朝鮮半島から伝来,近畿地方から普及しはじめ,現在の鍋につながる器がはじまる。『正倉院文書』ほかにみえるなべが浅鍋にあたり,ほとぎには深鉢と甕の系譜につながる。しかし,これよりさき,5世紀以降,米など穀物を蒸すこしきの下に重ねて湯沸し用に使った土師器の長手の甕があり,5世紀後半には外反する口縁部の下につばがつくがま状の甕が大阪猪木塚古墳などにある。6・7世紀には米を甑で蒸すことも広まるが,羽釜状の甕は少なく,甑の下におく湯沸し用には長甕を使用する。8・9世紀には,米を蒸すよりも土師器の甕・鍋で煮ることが一般化する。多人数が飲食する平城・平安宮などでは大型の鉄釜も使用し,これに木製の甑をのせて蒸すこともあり,容量2石(約146ℓ)の釜や甑がある。鉄釜は京から農村有力層にも普及している。近畿中央部では,8世紀末~9世紀前半にはりよく釉陶ゆうとうや須恵器の現在の釜につながる形の羽釜があり,9世紀後半~10世紀初めには丸い体部の土師器の羽釜が,12世紀以降には瓦器がきの羽釜が普及し,米の焦げつきからすると,羽釜で飯を炊くことが定着したとみてよい。蒸すことが有力だった関東その他でも10世紀以降土師器の羽釜が普及する。鎌倉・室町時代には,口縁部がほぼ直立し,その下に鍔がめぐる現在の鉄釜に似た土師器・瓦器系の羽釜が鉄釜とともに普及する。中国では7000年前の初期農耕遺跡の浙江省河姆渡遺跡では米を煮ており,仰韶・龍山文化には三足のれきと甑とを組合わせて蒸し,漢代には土・鉄・銅製の釜を甑と組合わせて使用したが,唐代には鍋が煮炊具の主流となる。(木下正)(日本考古学事典145頁) 
 [大阪府蔀屋北遺跡においては、]煮炊具として古墳時代前期以来の球胴甕に加えて、多くの韓式系土器が出土しており、それらのなかには長胴甕、甑、中国の明器に見るような二連式のものを含む移動式カマド、小型平底鉢といった布留式土器の組成にはない器種が多く含まれている……。また、多くの竪穴建物に造り付けカマドがともなう。大庭重信らの使用痕分析によれば、球胴甕では、主に炊く調理がなされたのに対し、韓式土器の長胴甕および甑では、蒸す調理が行われたという(大庭ほか2006[大庭重信・杉山拓己・中久保辰夫「スス・コゲからみた長原遺跡古墳時代中期の煮炊具の使用法─小型鍋(平底鍋)を中心に─」『大阪歴史博物館研究紀要』第5号、2006年])。弥生時代の有孔鉢が甑であるか否かについては、議論のあるところだが、少なくとも古墳時代前期にこれに該当する器種はなく、中期における甑およびカマドの普及が食膳に与えた影響はきわめて大きなものであったと考えられる。(三好2013.75頁、漢字の異体字は改めた)

 以上見てきたところから、大陸における竈使いが、竈・釜・甑のセットであるのに対し、本邦では、竈・甕・甑にすり替わっている。(朝鮮半島での仕様が、地域によって竃・長胴甕・甑であったこと、ならびに中国からの、また、列島への伝播については、庄田2012.参照。)甕を支える支柱や、嵌め殺しの粘土固めの行なわれていた点から、明らかに仕様が異なっている。半島での調理の仕方を尹2005.に見る。

 韓国では紀元前四世紀頃に、中国の鉄器文化を導入することによって鉄器文化が始まったが、それ以前にはかなり発達した青銅技術を持っていた。亜鉛や青銅の優れた合金技術が、新羅や高麗に続き朝鮮朝時代まで引き継がれ、「高麗銅」と呼ばれる名産品になった。この合金技術は、中国のものとは異なる特殊なものである。この優れた合金技術があるところに鉄器文化が入ってきた。加えて慶尚南道一帯から鉄が生産されたことで、鉄の冶金・加工技術がいっそう伸長した。こうした状況から、鉄製農具が広く用いられ、厨房用具が早くから普及するようになった。この鉄製厨房用具の普及は、食生活文化を高度に伸ばす要件となった。『三国遺事』〝真定師孝善双美〟に、鋳鉄釜が一般化されたことを教えてくれる次のような話がある。「法師の真定シンジョンは新羅人であった。家が貧しくて妻もめとらず、賦役の合間に労力を売ってやもめの母を養っていた。家の財産には脚の折れた釜が一つあるだけだった。ある日、僧が戸口に来て、寺を建てるための鉄物を布施に求めたので、真定の母は釜を与えた。しばらくして真定が帰ってくると、母がそのわけを話し、子の気持ちを探った。真定はうれしそうな顔をしながら〝仏事に布施することはどんなに良いことでしょう。たとえ釜がなくてもかまいません〟と言って、釜に代えて素焼きの陶器で料理を煮て、母に食べさせた。」真定は新羅の名僧・義湘ウィサンの弟子になった法僧で、七世紀の人である。この話では、彼が仏門に入る前の家がひどく貧しく、鉄製品としては脚の折れた鋳鉄釜が一つあるだけで、これが飯を炊く平素の道具であったことがわかる。このように、この時期にすでに、鉄製の釜が飯を炊くための基本用具として、きわめて一般的なものであった。それ以降最近に至るまで、韓国の厨房の基本用具は鋳鉄釜であった。鋳鉄釜は蓋が密着するように作られているので、飯を炊くときの水分の蒸発が少なく、とてもおいしく炊くことができる。(276~277頁)
 煮て蒸らす飯炊きの一般化 ……韓国は鉄の生産と鉄製用具の製作技術が早くから発達して、三国時代後期頃には鋳鉄釜……が一般に普及した。こうして、早くから鋳鉄釜を用いて、腰があり艶やかな飯を炊くことができた。(287頁)

 日本の文献資料としては、三宝絵・中に、「七大寺、古は室に釜・甑を置かず」、更級日記に、「いなや心も知らぬ人を宿し奉りて、釜ばしも引き抜かれなば、いかにすべきぞと思て、え寝でまはり歩くぞかし」とある。竈が導入された当初の古墳時代、ならびに記紀の書かれた飛鳥時代に、釜について記録が残されていない。筆者は、本稿で、その理由が、釜をそのままの羽(鍔)によって落ちずに煙のも逃がさない物として受け入れずに、甕で代用したことによるのではないかと論考している。その技術的要因は、第一に、鉄素材が乏しく、鉄器として渡来人によってもたらされた釜が、もったないからと土器の甕を据え付けることで対応したこと、第二に、鉄鍛造技術は優れていたが鋳造技術がさほど根づいていなかった可能性があって、それは製鉄技術が未発達であったことと相俟って自ら進んで鋳造製作しなかったのではないかと思われること、第三に、原理的に構わないと知れば、土器によって代用し、何も鍔をつけた形態にこだわることなく、竈に湯沸し用の甕を置くために支脚を設けたり粘土で隙間を塞いで嵌め殺しにしてしまうことで十分に役に立ったことによると考えられる。第四に、翻って考えるならば、鉄の鍋釜を使わずに土器を使っていた点は、古代日本の文化の特徴であると言える。多くの民族が最初の容器として瓢箪を使っていたのに対して、先んじて土器であったことと何らかのつながりがあるのかもしれない。
 すなわち、列島において鉄器とは、鍛造製の剣や甲冑の類であった。朝岡1993.には次のようにある。

 考古学の研究結果によると、日本列島に鉄器がもたらされたのは弥生時代で、青銅器とほぼ同時期に伝来したものらしい。しかし、この場合の鉄器とは、青銅器が「鋳造」によるものであったのに対して、「鍛造」によるものに限られていた。すなわち、当時の鉄器は「鍛冶屋」が作るものであった、ということになる。したがって、ここで問題にする鋳造鉄器、「鉄鋳物師」による製品はそれよりもはるかに遅れて伝えられたものである。古い時代にも鋳造鉄器の出土例がいくらかあるようだが、それは日本で鋳造されたものではなく、大陸で作られたものが舶来したのではないかと考えられる。考古学で鉄器鋳造技術の伝来がいつごろに想定されているのか私は知らないが、先行する青銅器鋳造技術に重なって奈良時代あたりから実用されるようになったものと推測できる。(23頁)
 韓国は日本に比べて、はるかに早い段階で鉄器文化に入った。なかでも、鉄鋳造については相当の時間的な落差があったように思われる。韓国の場合、三国時代の遺跡からすでに、現代のものとほとんど変わらない鉄の湯釜が出土しているのである。(119頁)

 舶来しても使われなかったらしい。当時の遺跡から鉄鋳造品である鉄の釜、鍑は出土してもみな伝来品とされている。ヤマトの人たちには、鉄器=鍛造品の武具や馬具という想念があって、渡来する鍋・釜は土器で代用できるから、もったいない鉄器は鉄素材としてリサイクルしてしまおうという鍛冶屋勢力の強かったことも理解されよう。鉄斧などは威信財として愛玩されたとも考えられている。日本では、青銅器時代と鉄器時代が同時に起るだけでなく、鉄器時代の隆盛と同時に須恵器や瓦といった窯業技術も流入しており、安くて済むものは代用しようという発想が起こっても何ら不思議ではない。より正しい言い方では、文化の違いといえる。技術的に可能であるかどうかではなく、文化にないものは作らないということである。時代的には南部鉄器の普及まで遅れる。
(注7)釜の蓋については木とは限らなかった点、反りを防ぐために太い摘み部分をつけたとの意見、縁べりのない蓋のある点など、考古学にさまざまな課題が残されており、議論も錯綜しているが、記紀万葉とのつながりは今のところ見出せない。
(注8)池田2003.に、「閉こしき closed hub」、「開こしき open hub」、「無こしき no hub」といった類型化が行われている。網の張り替えについても同書に負っている。
(注9)横穴式石室と黄泉国とを関連づける見解は一つの仮説にすぎない。筆者は否定的に捉えている。
(注10)魏志倭人伝に、喪中の期間、「他人就きて歌舞・飲酒す。(他人就歌舞飲酒。)」とある。また、集まりは無礼講で、「人性酒を嗜む。(人性嗜酒。)」とある。そして、跪いて拝する相手というのは、長生きの人で、百年近くも生きるといっている。これがどんな酒であったか、正確なところはわからない。大隅風土記逸文に、酒の醸造法についての記述がある。「一家に水と米とをまうけて、村に告げてめぐらせば、男女一所ひとところに集りて、米を嚼みて、酒槽さかぶねに吐き入れて、散々ちりぢりに帰りぬ。酒のの出でくるとき、又集りて、嚼みて吐き入れし人等ひとども、これを飲む。名づけて口嚼くちかみの酒と云ふと、云々。」とある。噛んでは吐いてできたのが酒であった。これは、しとぎを材料にした神酒ではないかとされている。粢とは、水に浸した米を臼で潰してできた粉を丸め固めたものである。今日も各地で神饌にされており、神酒を作ったと口伝されている神社も残っている。これがもともとの一夜酒であったらしい。
 穀物酒は、澱粉を糖に変え、さらにアルコール発酵させてできる。唾液にはアミラーゼが含まれるから糖化し、酵母があればアルコールになる。糖化剤としては、古くから米を発芽させたゲツという芽米が利用された。糵は和名抄に「与彌乃毛夜之よねのもやし」とある。これを使って醴酒レイシュを作った。応神紀には、吉野の国樔くずひとが来朝したときの様子が記されている。

 時に国樔くずひと来朝まうけり。因りて醴酒こさけを以て、天皇すめらみことたてまつりて、うたよみしてまをさく、
  橿かしに 横臼よくすを作り 横臼に める大御酒おほみき うまらに きこし持ちせ まろが(紀三九)
 歌既にをはりて、則ち口を打ちて仰ぎて笑ふ。今国樔くずひと土毛くにつもの献る日に、歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ笑ふは、蓋し上古いにしへ遺則のりなり。(応神紀十九年十月)

 後文では未開の人々の暮らしぶりが紹介されている。記には、「国主くずども」とあり、延喜式には「国栖くず」とあって、大嘗祭で古風を奏することになっている。
 なお、石毛2009.には、「日本への稲作の伝来はただ一度の出来事ではなく、長江下流地域や朝鮮半島南部からの、何度もくりかえした移民の波にともなって導入されたものである。……酒器などの出土例から、長江下流域では新石器時代から酒造がなされている。歴史時代から現在にいたるまで、稲作地帯である長江下流域ではコメを原料として酒をつくってきた。したがって、日本や朝鮮半島南部には、稲作と一緒にコメのバラコウジを使用する酒造技術が長江下流域から伝来したと推定される。……この稲作文化にともなう酒つくりが、現在につながる日本酒のルーツであると考える。『大隅國風土記逸文』にあらわれる口噛み酒が日本におけるコメを原料とする最初の酒であり、のちの時代になってバラコウジを利用する技術が適用されるようになったと考えることもできよう。それは、単純な技術を古い時代に、複雑な技術をあたらしい時代に位置づける考えかたであって、一見自然な発想であるようにみえる。しかしながら、日本に稲作が導入された時期における中国や朝鮮半島における稲作地帯での酒つくりが、口噛み酒の段階にあったとは考えづらい。稲作にともなって、バラコウジで酒を作る技術が最初から日本に伝えられたものと考えるべきであろう。」(313頁)とあり、技術的に複雑であることと歴史的に経過していることとを短絡的に結び付けることは慎むべきと指摘されている。
(注11)外山1989.は、「甑が盛行する時期や出土状況は東日本という単位で同一の様相がとらえられるようで、その背景を考える上で重要である。甑の盛行時期には米を常食とできたのか、米を蒸したとしてその米は「うるち」なのか「もち」なのか、問題は多い。いずれもすぐには答えが出せないが、現在栽培されている陸稲はほとんど「もち」種であるという事実は参考に出来ないか。古墳時代中期から後期にかけて、東日本では新しい灌漑技術の導入による水田の耕作地拡大がおこなわれたとされている。群馬県地域では集落立地が沖積地近辺から台地内部へ変化していく過程と、生産域の拡大を明確に分析した見解が示[ママ]されている注43[小島敦子「初期農耕集落の立地条件とその背景」「群馬県史研究」24 群馬県史編纂委員会1986/10]。私は、水田耕作地の拡大とともに稲作指向がさらに強まり、畠作にも技術的革新がおよび、陸田が拡大し、その基盤の上にさらに水田の拡大があると予測したい。推測に推測を重ねることになるが、陸田で栽培された陸稲が「もち」種であったとはいえないだろうか。」(112頁、漢字の異体字は改めた)といった仮説を立てている。
 西念2021.は、うるち米を蒸しても食するに足るほど軟らかくならず、奈良時代にうるち米を蒸していたとする考えは調理科学的に困難であるとしている。
(注12)新釈全訳日本書紀に、「アマヒの語義は未詳だが、「如」の字義は、あきらか。」(229頁)などとある。
(注13)山口2005.は、「○天つ神御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみいまさむ(古事記)○の生めらむみこは、必ずはなの如に、ちりちなむ(日本書紀)の二文は、それぞれの文章において占める文脈的な位置が全く異なると言わなければならない。したがって、この両文から〈アマヒ=如〉の等式を導き出すことは、甚だ短絡的なやり方だということになる。」(179頁)という。文脈が違うから違う言葉であるに違いないと導き出すことも、やはり短絡的と言わざるを得ず、また、山口氏は日本書紀の「如」について、ゴトと訓むことに黙然している。
 比況表現に使われた古典語としては、ゴトシ、ゴトクナリ、ヤウナリなどが挙げられる。万葉集では、ゴト、ゴトシ、ゴトク、ゴトキといった活用がある。白川1995.に、「「ごと」「ごとし」の語源は明らかでない。類似したさまをいう朝鮮語 kat や満州語 gese と同源とする説もあるが疑わしく、「ことでは」「ことけば」の形でみえる「こと」と同源とする説もあり、その方が穏当のようである。橋本進吉〔上代語の研究〕に詳論がある。……如・若いずれも「ごとし」とよむ。「ごとし」とはさながらであること、神と一体となることで、神のりつく意。すなわちエクスタシーの状態になることである。「ごと」「ごとし」もそのことと一体となる意で、そのことから比況の意を生ずる。それは重要な「こと」が「ことごと」となり、「ごとに」に転じてゆくのと相似た関係といえよう。……「ごと」とは、本来はその「こと」と一体化することであり、如・若には「この」「かくのごとき」という強い指示的性格をもつ語である。」(330~331頁)とある。
 つまり、雑駁にいえば、ゴト(如)という語は、コト(言=事)の進化形である。そして、いま語られているのは、ウケヒの文脈である。「こう言えば、こうなる」という命題のひっくり返しの呪術場面である。完全なる等号が求められるなか、ゴトシなどという比況表現が現れることに戸惑いを隠せなかったことであろう。言と事とはどうしたって違うという内実がばれてしまうのである。それは言霊信仰を揺るがしかねないゆゆしき事態である。さらに、その比況表現たるや、等式よりも不等式に近いようなものであった。例示するなら、
 XはYのようだ。(XはYの如し。)
 Xは「YのようであってYではない何か」のようだ。(XはYあまひに坐す。)
の関係ではなかろうか。直喩ではなく、反(半?)直喩である。提題しているのはイノチである。イノチという言葉のニュアンスについては本文に述べたとおりである。山口2005.に、「天つ神御子の御寿は、木の花のアマヒのみ坐さむ。という一文は、〈天つ神御子の命は、木の花のように満ち足りることだけがおありになるだろう〉という意味になる。そして同時に、助詞ノミの働きによって、〈岩石のように満ち足りることはおありにならないだろう〉ということが含意されるのである。」(184頁)とある。文意から語義を捻くり出しているが、それでこの比喩は通じるだろうか。イノチと掛けまして、木の花(岩石)と解く、そのココロはと問われても答えが見つからない。ヤマトコトバでは論理的整合性を保ちながら言葉を適切に取り扱っている。言=事とする言霊信仰のもと、対偶は真であることを活用したウケヒの言葉として語られている。言葉の発せられた状況設定、言語空間から切り離しては、何のための比喩かわからない。イノチを木の花や岩石に譬える必要性、十分性も感じられない。
 イノチといった抽象的で捉えにくいものを具体的なイメージとして捉えようとする際、すなわち、「語り得ぬもの」(ウィトゲンシュタイン)を語ろうとするとき、私たちは類比によって表そうとする。その方法は、「概念メタファー」(レイコフ&ジョンソン1986.)と名づけられている。そして、状態を容器の比喩で捉えることを私たちは頻繁に行っている。常日頃から「イメージスキーマ」(image schema)(ジョンソン1991.)が形作られている。イノチは、量として計り得るものと捉えれば、器に盛られた嵩高として比喩表現されるだろうことは容易に了解される。漲っていたイノチが漏れ出し、器に残った油が少なくなるようにイノチが風前の灯火となる、といった表現が可能である。すなわち、
 イノチは巌のようだ。
 イノチは木の花のようだ。
と言っているのではなく、
 イノチは巌のようであって巌ではない羽釜のようだ。
 イノチは木の花のようであって木の花ではない甑のようだ。
と器を以て譬えているのである。そういう饒舌な表現を簡潔化させるため、アマヒという語を考案し、その一語のなかに閉じ込めてしまっているのであろう。アマヒという語には、論理階梯を撞着させた意味が含意されていると考えられる。言=事の進化形のゴト(如)の意味の背面を示している。羽釜のようなイノチとは、溜まっている水量は多いが常温からたぎるまでに時間がかかる。まさにゴトゴトとじっくり煮込むしかない。じれったい持って回っただらだら人生である。甑のようなイノチとは、水嵩はなくなっているが、上に置けば蒸気によって100℃の高温加熱がすぐ可能である。瞬間湯沸器的な人生である。コメの調理法の煮て食べるか、蒸して食べるかについて、ホノニニギというお米の象徴のような神さまを持ち出して、そのイノチに準えつけた話をでっち上げて論じているわけである。似て非なるとは、似ているが似ていないこと、つまり、コメを煮ているようであって、煮てはいないで蒸かして調理していることを捩っているのである。
 「如」という文字で表す義において、カクノゴトシという指示の強調された和訓では表し得ない義、似(煮)ているけれど似(煮)ていないこと、だからこそ口噛み酒の伝統に女の口を使って醸造した由縁を「如」字に見出し、アマヒという言葉で語ろうとしている。似ている点よりも似ていない点に力点が置かれた語である。比況とは、ふつうは似ている点に注目が行くが、似ているが同じではない点、似非の方に関心が向いている。そんな言葉があると知れば、その言葉がいつ作られたものかは不明ながらも、記であれ紀であれその記述者は、それをなんとか巧みに写し取ろうとしたものと思われる。一語一語の言葉に対する情熱において、文字を持たなかった上代人と文字に甘んじて暮らすその後の人たちとの間には隔たりがある。言葉に対する緊張感が違うのである。
(注14)命を緒に見立てる譬え方は、より具体的に、へその緒によって命が継がれていくことを実感しての言葉使いと考えられる。
(注15)甑につく「耳」の機能的意味は、取っ手兼引っ掛かりなのかもしれないが、上向きのU字、ないしJ字のフック形態がどのような造形的意味合いを有するのか不明である。なぜこのようなパスタのコンキリエみたいな形状を表すに至ったのか。「耳」としての表現とすれば、二つしかないことや取って付けたさまなどはある程度納得は行くが、機能的に座りは悪くかしぐことになる。かしぐことを促進させるとなぞなぞ的に考えたということかもしれないが、ヤマトコトバとは無縁の朝鮮半島ですでに現れている。列島ではその形状がやがて形骸化していっている。
(注16)甑落としの習俗については、徒然草や平家物語に記述があり、山塊記などから実際にあったと確かめられ、永昌記の天治元年(1124)五月廿八日条(「……大夫属宗房奉仰団甑御所上……」)から記されている。後産についての呪い事で「御胞衣とゞこほる」ことを防ぐことのように徒然草にあるが、詳しいところは知られていない。
 上代、お産に関する話として最もユニークなものは、神功皇后が鎮懐石によって応神天皇の生まれるのを新羅親征後へと先送りした話である。当たり前のことであるが、実際にあったことではない。人々に親しまれた話(咄・噺・譚)のレベルである。どのようにして生まれないようにしたか記されている。「其の懐妊はらめるを産むときに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰にきて」(仲哀記)とある。パンツのような形であてがったと想定したのだろう。そのような石器(玉器)は、中国にはあるかもしれないが本邦では発掘されていない。それに似た石器らしきものは甑である。
 甑落しをこの応神天皇の誕生譚に関連するものと考えると、甑を割ることが「其の御子は、あれ坐しき。」(仲哀記)に相当する。山塊記、治承二年十一月十二日条の割書きに、「兼ねて之れを破り、麻を以て仮に之れを結び、落した後破らせしむ也。召使之れを持ちて兼ねて棟北に在り、其の告げるに随ひて之れを落とす可き由、誡仰すと云ふ。……件の甑、社所有の大原より内膳に渡り、大炊、之れを用ゐせし後庁に渡り、庁に於て破り結ぶ云々。」とあって、予め割っておいたことが知られる。割らないと生まれない点は神功皇后のお産に始まる。すなわち、もとはお産の習俗であって、後産の習俗となったのは後の時代のことだろう。筆者は、斉明天皇の征西途中の船上で、大伯皇女誕生の際、甑落としの行事が行われたのではないかと推論している。拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069ほか参照。
甑落とし(?)(古田雅憲「彦火々出見尊絵巻」図像私註(六/完)─幼児・低学年児童の古典学習材として再構成するために─」『西南学院大学人間科学論集』第7巻、2012年2月、134頁図版⑥をトリミング。西南学院大学機関リポジトリhttp://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/507。原本は12世紀末成立かとされる。かわらけを踏み割っているが、妊婦はまだ出産していない。)
(注17)上掲の上田1999.に、糵はもともと芽米であったが、九世紀の延喜式の頃には麹菌汚染蒸米、つまり、米散麴づくりになっていたのではないかとあった。筆者は、それ以前から、酒蔵によっては麴菌の繁殖が進んだところがあったものと考える。
(注18)礼記・喪大記に、「君の喪には、……祥して……、始めて酒を飲むには、先づ醴酒を飲む。」、「既に葬りて、……若し酒醴有れば則ち辞す。」などとある。竹内1977.は、「醴酒」は「一夜酒・甘酒の類。」(672頁)、「酒醴」は「「濃い(強い)酒」と解しておく。」(674頁)としている。
(注19)アマヒノミという言葉を使うに当たり、筆者は、「呑」と「吞」、「夭」と「天」の字釈もしていると考えている。漢籍を繙いて難しい漢字を読んでいるのではなく、図形として見て楽しんでいるレベルのことである。記紀の説話を創話した天才は、識字能力に長けていたということではなく、人に説明する時に初歩的な文字を使って理解の助けになることをも企図していたらしいと考える。言葉の要件は相手に通じることだからである。
(注20)天皇家が菊の御紋であることに違和感を覚えるという意見を耳にするが、植物のことではなく、麹→菊→ chrysanthemum(略称 mum)という流れによっているものと思われる。ホノニニギはその役を果たしている。
(注21)小泉1998.は、「古い文献によれば稲贅花オンクワと呼ばれる稲穂の上に生ずる青き玉・稲麴を素種として麴造りを行っていたという。……この稲麴こそが、散麴の原点と考えれば、米麴による日本の酒造りの発生を解明するのに当たって重要な手がかりとなるような気がする。」(170~171頁)として醸造実験を行っている。

(引用・参考文献)
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新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
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※本稿は、2016年3月稿を2021年10月に誤りを正して改稿したもので、さらに一部を2022年4月に訂正し、さらに一部を2024年10月に訂正しつつルビ形式にしたものである。

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