サクラ(桜)という言葉
サクラの語源については、これまでにさまざまな意見が示されている。今日の主要な見解としては、次の3つの例があげられる。(1)サク(咲)+ラ(名詞にする接尾語)とする説、(2)サ(穀霊、稲田の神霊)+クラ(座、宿ります場所)とする説、(3)神名のコノハナノサクヤビメのサクヤの転とする説である。筆者は、地名を含めてすべての言葉について、言葉の語源を探るという立場に立たない。問題の焦点は、上代において、人々が当該の言葉をどのように捉えていたかにあると考える。それが上代人の心性を知るうえで最も重要であり、逆言すれば、言=事とする言霊信仰の時代にあっては、歴史という事柄を知る方法の基底に据えられるべきものであると考えている。文献史学にとっての文字史料である記紀万葉は、その時代の人々の認識を基に記されているのだから、ひとつひとつの言葉の当時の意味合いを知らなければ、問題をはき違えたり見逃したりすることになるであろう。
万葉集に載る植物としては、数え方にもよるが、萩は百四十一首、梅は百十八首、橘は六十八首、桜は四十首、藤は二十七首、撫子は二十五首、卯の花は二十四首である。サクラは今日考えられているほど花の代表格ではない。また、サクラの歌われ方を見ると、咲く花として二十二首、散る花として十六首と多く、ほかに、待つ花として四首、蕾として一首、木材として一首である。花の特徴としては、咲くことと散ることに目が行っているようである。本稿では、まず、万葉集におけるサクラの使われ方から、ついで、履中紀の「稚桜宮」記事から、サクラという語は、サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)であると感じられていたとする説を提唱する。
従来の(1)説によれば、ヤマザクラは雑木から成る春の山において、芽吹きに先立って花を咲かせるところから「咲く」ことに注目が行っているという。万葉歌の用字にサクラは、「櫻」、「佐宿木」、「作樂」、「佐久良」のみである(允恭紀八年二月条歌謡に「佐區羅」(紀67)とある)。うち、単独でサクラとあるのは、「櫻」(万1440・1887・3787・4151)、「佐久良」(万3967)である。連語でサクラバナは、題詞を含め、「櫻花」十七例(万257・260・971・1047・1212・1425(山櫻花)・1776・1855・1864・1866・1870・1872・3129・3305・4074・4361・4395題詞)、「佐久良婆奈」三例(万3970(夜麻左久良婆奈)・3973・4077)、「佐久良婆那」(万829)、「佐久良波奈」(万4395)、「作樂花」(万3309)各一例の計二十三例である。また、サクラノハナは、「櫻花」十四例(万1429・同題詞・1430・1456題詞・1458・1459・1747・1749・1750・1751・1752・1854・1869・3786)、「佐宿木花」(万1867)一例の計十五例である(履中紀三年十一月条にも「櫻花」とある)。単独でサクラと使う例に、カケタルサクラ ハナサカバ(「繋有櫻 花開者」(万3787))、サケルサクラノ ハナノミユベク(「開有櫻之 花乃可見」(万1887))とハナという語を伴う歌が二例ある。花を指す際に単独にサクラと使うのは、ヤマノサクラハ イカニアルラム(「山能櫻者 何如有良武」(万1440))、サケルサクラヲ タダヒトメ(「佐家流佐久良乎 多太比等米」(万3967))、ヲノヘノサクラ カクサキニケリ(「峯上之櫻 如此開尓家里」(万4151))の三例に限られる。ほかに、サクラダ「櫻田」(万271)、ヤマサクラド「山櫻戸」(万2617)、サクラコ「櫻兒」(万3786題詞)、サクラヲ「櫻麻」(万2687・3049)がある(履中記にワカサクラノミヤ(若櫻宮)、履中紀三年十一月条にワカサクラノミヤ「稚櫻宮」などとある)。このように、Cherry Blossom を表すのに、サクラバナ、サクラノハナと、説明調に語るところを見ると、サクラという語自体は樹種として捉えられていた可能性が高いといえる。
万葉集歌には、語呂合わせ的な言葉の連なりを好んだ例が数多い。サクラバナ コノクレシゲニ(「木乃晩茂尓」(万257)、「木暗茂」(万260))、サクラバナ コノクレゴモリ(「木晩窂」(万1047))とある。木が茂って下かげの暗いところを言う語を、桜の花の咲いた時の誇張表現として使っている。サクラのクラを暗い意と感じて連想したに違いあるまい。こういう例がありながら、サクラに、「咲良」、「開等」といった用字が一例も見られない。サクラという語の語源については措くとしても、万葉語においては、当時の人にとって、咲くからサクラであるとは意識されていなかったらしいとわかる。
(2)説によれば、民俗学で桜の花の付き具合で豊凶を占ったとされ、農耕の時期を知らせて咲くからとも説かれている。しかし、記紀万葉に、そのような民俗的視点から桜が取り上げられている例を見ない。証拠がひとつもないのに説がひとり歩きしている。また、早苗に見られる稲の霊を指すというサについても、桜の花は、早乙女が活躍する五月蠅なす旧暦の五月には咲かない。和名抄に、「櫻 文字集略に云はく、櫻〈烏茎反、佐久良〉は、子の大きさ栢の端の如し、赤、白、黒の者有るなりといふ。」とある。これらは木類に分類されており、果蓏類ではない。本草和名には、「櫻桃 ……和名は波々加乃美、一名に加爾波佐久良乃美」とある。櫻字は、中国ではユスラウメを指す。礼記・月令に、「是[仲夏]の月や、……羞むるに含桃を以てし、先づ寝廟に薦む。(是月也、……羞以二含桃一、先薦二寝廟一。)」とある。ここから仮に意訳したとしても、五月にサクランボをお供えしたという話にしかならない。そのうえ、日本における植物の桜はもとヤマザクラであり、人々の生活圏とは少し離れていたともされる。サ(穀霊)の乗るクラ(鞍)がお出でになるという話がどこから持ち上がっているのか不明である。
(3)説に関して、コノハナノサクヤビメには類音にコノハナチルビメがいる。「此の花散る姫」の対が、「此の花ノ咲くヤ姫」と過剰に助詞が入っている。曰く因縁を持った神名ということであろう。ヤは反語の助詞である。記紀と同時代と考えられる万葉歌に、桜の花は咲くものとも散るものともされている。二神を表す非対称な語の一方を取り上げて、サクラという語に思いが及んだと比定することは適当とは言えない。また、万葉集にコノハナノサクヤビメと関連させて作歌された例も見当たらない。以上のように、今日行われているサクラの語源説なるものは、記紀万葉の時代の言語感覚とは一致しないものばかりである。
材としてのサクラ
筆者は、飛鳥時代において、サクラは材として利用されることが多かったから、それとの関連でイメージされていた語ではないかと考えている。材としてのサクラとしては、何よりもその樹皮である。色艶が美しく、薄く削っていっても丈夫で切れず、曲物の綴じ材や、弓や太刀、剣、斧、鍬などの柄の巻皮に用いられた。「桜皮」である。和名抄に、「朱櫻 本草に云はく、櫻桃は一名に朱櫻といふ。〈波々加、一に迩波佐久良〉」とある。「迩波佐久良」は「加迩波佐久良」であろう。
味さはふ 妹が目離れて 敷細の 枕も巻かず 櫻皮纏き 作れる舟に 真梶貫き 吾が榜ぎ来れば……(万942)
天児屋命・布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合ひまかしめて……(記上)
カニハが「皮」のことを特に指すところから、訛ってカバという。シラカバ、ダケカンバなどをカバとするのは、樹皮のさまが横に縞模様が入り、サクラと似ているからである。和漢三才図会に、「按櫻謂レ子不レ謂レ花何耶。」と、和名抄に花についての言及がないのを不思議がっているが、もともと実用性に注目が行っていた木であった。源氏物語・幻に「樺桜」とあるのは、ヤマザクラのことであろうとされている。万942歌では、纏くものとしてのカニハを導くのに、異性を纏くための道具のマクラをあげている。サクラと音が似通っている。この歌のこの箇所の機智はそこにある。また、記の天石屋条では、鹿卜の際に焼けた木の棒を鹿の肩の骨にあてがい、できたひび割れをみて占いをしている。その材料の「天之波々迦」もカニハザクラというヤマザクラである。伴信友・正卜考に、万葉歌の「天降りつく 天(神)の香具山 …… 櫻花」(万257(260))とあるのは、天石屋条の伝承によった作例かもしれないとする(注1)。さらに、象焼きでは熱が奪われて火が消えやすいから、燃えやすいカニハザクラの樹皮の付いた部分を使ったのであろうとも指摘している。実生活に用いられて木の名が現れている。ハハカ、カニハといった語が先に存在し、サクラという語を新たに作った可能性もある。
曲物をサクラの皮で綴じる点について、名久井2012.は、「弥生時代から現代に至るさまざまな時代の遺跡から発見されている「板製」曲げ物を見ると、例えば中世の遺跡から発掘された井筒のように分厚い板を曲げて作ったものから、現代の弁当入れのように薄い板を曲げて作ったものまで、その用途によつて大きさも形も側板の厚さもまちまちだ。そうした各様の大きさや形態の曲げ物でも、側板の端どうしを重ねて綴り合わせる素材として使われてきたのは一貫してサクラの表皮だった……。その薄さにも関わらずサクラの表皮ほど強靭で側板の綴じ紐に最適な素材がほかになかったからだろう。……「板製」 曲げ物の側板を綴じる紐の素材という、それほど長くなくても足りる樹皮の効率的な入手の仕方は、ある程度幅広く横に剥ぎ、そこから必要な幅を切り出すことだった。したがって「板製」曲げ物の製作技術があるところには必ずサクラの樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴ったとみてよいことになる。そんなわけで、弥生時代から現代まで途切れることなく受け継がれてきた「板製」曲げ物の製作技術には常に樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴っていたと言える……。」(153~154頁)とする。サクラという樹木は曲物技術として人々に分節、認知されていたのである。
ヤマザクラの樹皮剥ぎ(「角館樺細工」https://www.nigiwai-dougu.com/marche_category/221/pg-221-171122101228.pdf)
サクラという語は、(a)花樹の桜のこと、のほか、(b)馬肉、(c)店で仕込んだ偽装客のことをも指す。馬肉については、肉の色が桜の花の色のようであるとか、桜の花の咲く頃がおいしいという説があるが、説得力に乏しい。偽装客については、賑やかなさまが桜の花に似ているとか、すぐ散ってしまうことを譬えているという説もあるが、そう考えるとずいぶん婉曲的な表現ということになる。サクラという言葉を(b)(c)も含めて納得するためには、花の様子から離れないといけないようである。
もともと、樹の Cherry を見て、その桜皮にばかり気が行っている。実用的な用途から、特に曲物細工における綴じ材として注目されていた。箍で締める結桶が鎌倉時代に登場する以前は、「麻笥」に由来する捲桶が多用されていた。和名抄に、「桶 蒋魴切韻に云はく、桶〈佳惣反、上声の重、又他孔反、乎介〉は水を井に汲む器なりといふ。」、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、介〉は食を盛る器なりといふ。」とある。
左:「麻笥」、右:水桶(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055245をトリミング)
平城京跡出土漆塗り曲物(国立歴史民俗博物館展示品)
現代の発泡プラスチック製の弁当箱
猿の座
万葉歌や允恭紀などに、「櫻」の字が使われている。中国でユスラウメを表す櫻の字が、ヤマトでは Cherry に選択的にあてがわれている。旁の嬰は、女が首にかける首飾りのことで、めぐらすことを示したり、また、嬰児をいう。首飾りを思い出させるのは、猿回しの猿である。木の赤ん防を思わせるものは、木の子たるキノコ、サルノコシカケである。すなわち、サル(猿)+クラ(座)→サクラである。万葉集の原文に「佐宿木花」(万1867)とあったのをサクラバナと訓んでいた。神座→神楽と同様の転訛である。地名には、猿投、猿島などと訓む例がある。
ソメイヨシノについたサルノコシカケ
猿の座とは何か。(a)サルノコシカケ、(b)サルの座るようなところ、(c)まわし者のサルを懲らしめるために座らせるところ、の三つの意が考えられる。ヤマザクラの皮を剥いで採取すると当然ながらその木は弱る。サルノコシカケは、枯れ木や樹勢の弱った木に取り付いて大きくなる木の子(キノコ)である。いったん木にキノコ菌がとりつくと、木全体にまわってさらに弱らせながらキノコとして表面に現れる。表面に現れたキノコを取っても再び現れるから、榾木に菌を植え付けてシイタケ栽培などが行われている。木にくっついている子のことは、本邦に人間よりもひとまわり小さいニホンザルのことを思い浮かべたに相違あるまい。そしてまた、桜皮で綴じて曲物、曲げわっぱを作り、猿回しのサルの首輪とすることも可能である。サルが皮を剥いだとして、懲らしめるために首枷を嵌めることにしたのだと推量することもできる(注2)。
チェアとして、サルが座るようなものだとされるものに、胡床、床几などと呼ばれる折り畳みできる背もたれのない腰掛がある。今日、神社などを中心に尻受けに白布が張られたものを目にするが、古代に、革、縄などを張ったものもあったとされている。延喜式に、「大儀〈元日、即位及び蕃国の使の表を受くるを謂ふ〉」に際して列席する武官は、「並胡床に居れ〈少将以上の胡床は各虎の皮を敷け〉。」(左右近衛府式)とあり、上に虎皮を敷いている。規定に、「凡そ胡床三百基の緒の料の緋の糸は、基別に八両、塗る料の漆は基別に一合」(同)とある。X字状に支柱を組み違えて作られており、脚を畳んでいつでも移動することができる。跡形もなく去ることができるからサルの腰掛と言えるようである。支柱間の継ぎ手は枢構造になっていて、枢のことは猿とも言っていた(注3)。猿回しにくるくると回らせて楽しんでいるのは、枢を見ているのと同じということになる。
胡床(左:北斉校書図、ウィキメディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:北齊校書圖.jpg?uselang=jaをトリミング、右:年中行事絵巻、谷文晁写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591099/41をトリミング)
四脚を組んで立てた高くない脚立のことを鞍掛ともいう。馬の鞍は使わないときは馬の背から外し、同じく鞍掛と呼ばれる台に掛けておく。乗馬の練習のために使われ、鞍掛馬、また木馬ともいう。本来、鞍は馬に掛けて人がその上に座るものである。対して、鞍が主役になって座すことになるのが鞍掛である。一まわり小さな物だから、猿の腰掛と呼ぶに値する。つまり、猿の座は馬そのものということになる。だから、馬の肉はサクラである。猿回しの大道芸が始まると人々は集まって来て盛んだが、終わって見物料の御祝儀(纏頭)を貰い受ける段になるとお金を渋って人々はすぐ散っていく。それは、店側の仕込んだ偽装客が、契約時間が明ければ一気に消えてなくなるのに似ている。サクラの花の咲き散るさまによく似ている。
木馬(高槻市立しろあと歴史館展示品)
令制に、縫殿寮に属した猿女は人事考課に当たっていた。養老令・職員令に、「縫殿寮 頭一人。掌らむこと、女王、及び内外の命婦、宮人の名帳、考課のこと、……」とある(注4)。些細なことでも上の者に報告する、人の顔をした人でなしである。そんなまわし者の猿を懲らしめるには、相手が猿なのだから木馬責めがふさわしい。木馬の背を三角形に尖らせ、その上に跨らせて脚に重石を付け、股間をさいなませる私刑である。十訓抄(1252年)に、「俊綱大にいかりて「人をあざむきすかすは、其の咎かろからぬ事なり」とて、雑色所へくだして木馬にのせんとする間、成方いはく……」(巻七・第二十五)などとある。猿はお上の御用を働いており、鞭打ちや流罪といった公に存した刑罰にあてられず、また、仮にお上に知られたとしても、ただ座らせていただけだと抗弁できるものである。特に猿女の場合は女性だから、面白いことになるという理屈であろう(注5)。
稚桜宮
履中紀に「稚桜宮」、「稚桜部」と記されている。
三年の冬十一月の丙寅の朔の辛未に、天皇、両枝船を磐余の市磯池に泛べたまふ。皇妃と各分ち乗りて遊宴びたまふ。膳臣余磯、酒献る。時に桜の花、御盞に落れり。天皇、異しびたまひて、則ち物部長真膽連を召して、詔して曰はく、「是の花、非時にして来れり。其れ何処の花ならむ。汝、自ら求む可し」とのたまふ。是に、長真膽連、独り花を尋ねて、掖上の室山に獲て、献る。天皇、其の希有しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。故、磐余の稚桜宮と謂す。其れ此の縁なり。是の日に、長真膽連の本姓を改めて、稚桜部造と曰ふ。又、膳臣余磯を号けて、稚桜部臣と曰ふ。(履中紀三年十一月)
天皇は、両枝船に乗って遊んでいた。両枝船は、太い幹が枝分かれした部分を刳り抜いて作った船のことであろう(注6)。天皇は皇妃と二人で、枝分かれした二手に分かれて乗っていたのである。今日のボート遊びのように向かい合って乗っていたわけではない。ペダルを踏んで進むスワンのボートにように並んで乗っているのでもない。両枝船に乗りながら遊宴をしており、膳職に酒を次がれている。面倒くさい状況設定は深い意味があってのことであろう。すなわち、両枝船は、股が裂ける木馬のことや、ヤマザクラの株立ちを連想させて、サクラの花が散ってくることを伏線として導いているのである。
株立ちになるヤマザクラ
今日の感覚では、旧暦の十一月に花が咲く桜としてはヒマラヤザクラなどを思い浮かべるかもしれないが、「非時」とあるように狂い咲きをしたと考えるべきであろう。この「非時」のものを求めさせる話としては、垂仁紀九十年~九十九年明年条の「非時香菓」の話が名高い。田道間守という人が、天皇の命をうけて、「常世国」へ探しに行き、「非時香菓」なる橘を持ち帰ってきた。ところが、天皇はすでに亡くなっていて、悲しみのために御陵で自死したという話である。履中紀の場合、物部長真膽連は、一人で桜を探し、掖上の室山に見つけて獲ってきて献っている。掖上の室山は、「常世国」や「神仙秘区」には相当せず、里の裏山のようなところであろう。
天皇は、なぜ物部氏に依頼したのか。物部氏は、大和朝廷で軍事や刑罰に当たる戦闘員の部民である。それがこの出来事の結果、改姓させられて、稚桜部造長真膽連となっている。膳臣余磯の方は稚桜部臣と号したとあるから、一代限りの渾名が付けられたということであろう。物部氏が全員改姓させられたわけではなく、長真膽という名の一族が分家的に稚桜部造になっている。ナガマイという名からは、長い柄を細縄などで鍔元まで巻きつけた太刀のことをいう長巻のことが連想される。ナガマキのイ音便としてその名が語られていると思われる。天皇としては、桜の花のついた枝を取って来いと命じたつもりであったかもしれないが、ナガマイという人は、太刀の柄に巻くとすべらなくてよい桜皮を螺旋状に長く採ってきた(注7)。名に負うて職務に忠実だと顕彰して、武家のなかでも武具作りの専門職たるにふさわしい姓に改めさせたということであろう。
長巻の握り部分(呉竹鞘御杖刀、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010090&index=0をトリミング)
「花ぐはし桜」
允恭紀に「桜」の登場する歌のやりとりがある。
八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息を察たまふ。是夕、衣通郎姫、天皇を恋ひたてまつりて独り居り。其れ天皇の臨せることを知らずして歌して曰はく、
我が背子が 来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕著しも(紀65)
天皇、是の歌を聆しめして、則ち感でたまふ情有します。而して歌して曰はく、
ささらがた 錦の紐を 解き放けて 数は寝ずに 唯一夜のみ(紀66)
明旦、天皇、井の傍の桜の華を見して、歌して曰はく、
花ぐはし 桜〔佐區羅〕の愛で こと愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。(允恭紀八年二月)
天皇は、「衣通郎姫」への恋慕の情を歌っている。彼女は皇后の妹で、天皇のお召しになかなか応じず、仁徳紀にあった倭直吾子籠の家に留まったりしている。
弟姫、容姿絶妙れて比無し。其の艶しき色、衣より徹りて晃れり。是を以て、時の人、号けて、衣通郎姫と曰す。(允恭紀七年十二月)
記には、允恭天皇の娘の一人の別名に、「衣通郎女」とある。
軽大郎女、亦の名は衣通郎女。〈御名を衣通王と負はせる所故は、其の身の光、衣より通し出づればなり。〉(允恭記)
ソトホシ、ソトホリという名は、肌の美しさが衣を通して光映えていることの表現とされている。それはその通りなのであろうが、衣を通して美しい体が見えるのは、オーガンジーのような透け感のある着物だったからであろう。シースルーの上等の着物としては、錦のうちでも薄手の「綺」が挙げられる。文様が斜めになっており、蟹が斜めに進むところから、カニ(蟹)+ハタ(機)が語源であろうとされている。和名抄に、「綺 蒋魴切韻に云はく、綺〈虚仮反、岐、一に於利毛能と云ひ、又、一に加无波太と云ふ〉は錦に似て薄き者なりといふ。釈名に綺は棊なりと云ふ。方丈の棊の如きを謂ふなり。」、華厳音義私記に、「綺 加尼波多と訓む」とある。垂仁紀三十四年三月条に、「綺戸辺」という美人を後宮に入れたという記事が載る。綺麗な人ということである。
カニハタからはカニハ(桜皮)が連想され、ほんのりと赤みを帯びた肌が美しかったのであろうとわかる。つまり、紀66歌で彼女の衣を脱がせて一夜を共にしたのは、まるで桜の木の皮を横剥ぎにすることと同じであったということである。桜の皮を剥ぐ好機は、後述のように、花の咲いた頃のみずみずしい時季である。そこが紀67歌の巧みさである。やっとかなった情事を、桜の皮剥ぎに譬えている。弟姫という言葉には、妹の姫という意味と、年若い姫といういう意味がある。
ワカという形容
履中紀では、磐余の地の宮の名が稚桜宮になっていた。宮号が、ワカと冠したサクラノミヤという名になっている。ワカという語は、古語拾遺に注目すべき記述がある。「天照大神、吾勝尊を育したまひて、特甚に愛を鐘めたまふ。常に腋の下に懐きたまふ。称けて腋子と曰ふ。」とある。時代別国語大辞典の「わくご【若子】」の項の【考】にこの例が載り、「上代人の一つの語源解釈を示すものであろう。」(816頁)とする。上代人の語源解釈とは、ことほど左様に怪しいものであり、駄洒落解釈を示したものがきわめて多い。しかるに、それこそが言=事とする言霊信仰に生きた当時の人にとっては大事なことなのである。
白川1995.に、「わかし〔若・稚〕 「わか」の形容詞形。生れてまだ多くの年月を経ていないことをいう。「わかゆ」「わかやる」は動詞形、「わかやか」は副詞形。類義語の「をさなし」は「長無し」で未熟の意。「いたいけらし」は見るからに心がいたむほどの愛らしさをいう。……国語の「わか」の語源は明らかでないが、人には「をさなし」「いたいけ」という。「わか」を冠した語には、若草・若薦・若竹・若木・若海藻など、草木の類をいうことが多いことからみて、そのようにあらたに生え出たものをいう語であったかと思われる。それならば穀の未熟なことをいう「稚し」と、同様の発想をもつ語である。」(798~799頁)とある。
このワカの語については、同書の「わく〔沸・涌〕」の項に、「国語の「わく」も湧き水の意が原義。沸騰する意に用いるのは、おそらくその展開義であろう。」(800頁)とあることと関係があろう。春、草木の芽が出て勢いがつくと、葉先から水滴があふれ出ることがある。そんなみずみずしい状態を、ワカシと表現したのではなかろうか。それは、サクラの木についても同様である。名久井2011.には、「新芽が萌え、樹種ごとに少しずつ色を異にする新緑が日ごとに濃くなって、やがて全山がしたたる緑に包まれる。どうかするとサクラの葉先から滴がこぼれ落ちたり、切られたヤマブドウの蔓が盛んに樹液を出すのもこの季節である。梅雨どきから七月にかかるこのころ、樹木の活動は最も活発となって水分の吸い上げが著しいのである。樹皮を剥いで利用しようとする人々が山に入るのはちょうどこの時期で、……サクラは花が咲けば樹皮を剥ぐことができるようになるという。」(98頁)とある。そんな時期のサクラの皮を剥いで水を汲む桶は作られている。類推思考によって水が涌いてくることを導いているわけである。掘り井戸の内側の井筒も曲物で作られていることが多い。サクラという語に冠する語としては、ワカばかりが適切ということになる。
曲物の井筒の例(後通遺跡、平安時代前期、「文化財センター速報」公益財団法人千葉県教育振興財団、平成24年5月http://www.echiba.org/pdf/sokuhou/120501_ushirodori.pdf)
井戸側の上の曲物(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055270をトリミング)
物部長真膽は、冬なのに花が咲いたサクラを探しに行った。それは、樹勢が盛んで葉先から滴が霧のように立つものである。つまり、サクラの木(ケは乙類)には、サクラの気(ケは乙類)が満ち溢れていた。樹皮を採って曲物を綴じることなどに用いるのが目的である。サクラで笥(ケは乙類)を作るためである。見つけた場所は、ワキのカミ(ミは甲類)のムロのヤマである。ムロのヤマとは、食糧の越年保存のために山の斜面などに作られた土坑のあるところをイメージしているであろう。橋口2006.によれば、縄文時代から貯蔵穴は確認されており、弥生時代には稲籾用のものが普遍化していったという。ただし、西日本を中心にした貯蔵穴は後期になると激減し、古墳時代に入るとまったくなくなっているという。この点については、人は「室山」をやめたが、猿はまだやっているという頓智を紛れ込ませているとも解釈できよう。人に顔のワキのほうにもカミ(髪、ミは甲類)がある人は少なく、対して猿には必ずあるということとも関連してこよう。髪の毛の脇の方へ伸びたところで室のような穴倉の上の山とは、獣であるサルの顔のもみあげのところということである。もみあげに、揉み上げと籾上げとを掛けているのかもしれない。<ruby毛>
サクラの語源については、これまでにさまざまな意見が示されている。今日の主要な見解としては、次の3つの例があげられる。(1)サク(咲)+ラ(名詞にする接尾語)とする説、(2)サ(穀霊、稲田の神霊)+クラ(座、宿ります場所)とする説、(3)神名のコノハナノサクヤビメのサクヤの転とする説である。筆者は、地名を含めてすべての言葉について、言葉の語源を探るという立場に立たない。問題の焦点は、上代において、人々が当該の言葉をどのように捉えていたかにあると考える。それが上代人の心性を知るうえで最も重要であり、逆言すれば、言=事とする言霊信仰の時代にあっては、歴史という事柄を知る方法の基底に据えられるべきものであると考えている。文献史学にとっての文字史料である記紀万葉は、その時代の人々の認識を基に記されているのだから、ひとつひとつの言葉の当時の意味合いを知らなければ、問題をはき違えたり見逃したりすることになるであろう。
万葉集に載る植物としては、数え方にもよるが、萩は百四十一首、梅は百十八首、橘は六十八首、桜は四十首、藤は二十七首、撫子は二十五首、卯の花は二十四首である。サクラは今日考えられているほど花の代表格ではない。また、サクラの歌われ方を見ると、咲く花として二十二首、散る花として十六首と多く、ほかに、待つ花として四首、蕾として一首、木材として一首である。花の特徴としては、咲くことと散ることに目が行っているようである。本稿では、まず、万葉集におけるサクラの使われ方から、ついで、履中紀の「稚桜宮」記事から、サクラという語は、サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)であると感じられていたとする説を提唱する。
従来の(1)説によれば、ヤマザクラは雑木から成る春の山において、芽吹きに先立って花を咲かせるところから「咲く」ことに注目が行っているという。万葉歌の用字にサクラは、「櫻」、「佐宿木」、「作樂」、「佐久良」のみである(允恭紀八年二月条歌謡に「佐區羅」(紀67)とある)。うち、単独でサクラとあるのは、「櫻」(万1440・1887・3787・4151)、「佐久良」(万3967)である。連語でサクラバナは、題詞を含め、「櫻花」十七例(万257・260・971・1047・1212・1425(山櫻花)・1776・1855・1864・1866・1870・1872・3129・3305・4074・4361・4395題詞)、「佐久良婆奈」三例(万3970(夜麻左久良婆奈)・3973・4077)、「佐久良婆那」(万829)、「佐久良波奈」(万4395)、「作樂花」(万3309)各一例の計二十三例である。また、サクラノハナは、「櫻花」十四例(万1429・同題詞・1430・1456題詞・1458・1459・1747・1749・1750・1751・1752・1854・1869・3786)、「佐宿木花」(万1867)一例の計十五例である(履中紀三年十一月条にも「櫻花」とある)。単独でサクラと使う例に、カケタルサクラ ハナサカバ(「繋有櫻 花開者」(万3787))、サケルサクラノ ハナノミユベク(「開有櫻之 花乃可見」(万1887))とハナという語を伴う歌が二例ある。花を指す際に単独にサクラと使うのは、ヤマノサクラハ イカニアルラム(「山能櫻者 何如有良武」(万1440))、サケルサクラヲ タダヒトメ(「佐家流佐久良乎 多太比等米」(万3967))、ヲノヘノサクラ カクサキニケリ(「峯上之櫻 如此開尓家里」(万4151))の三例に限られる。ほかに、サクラダ「櫻田」(万271)、ヤマサクラド「山櫻戸」(万2617)、サクラコ「櫻兒」(万3786題詞)、サクラヲ「櫻麻」(万2687・3049)がある(履中記にワカサクラノミヤ(若櫻宮)、履中紀三年十一月条にワカサクラノミヤ「稚櫻宮」などとある)。このように、Cherry Blossom を表すのに、サクラバナ、サクラノハナと、説明調に語るところを見ると、サクラという語自体は樹種として捉えられていた可能性が高いといえる。
万葉集歌には、語呂合わせ的な言葉の連なりを好んだ例が数多い。サクラバナ コノクレシゲニ(「木乃晩茂尓」(万257)、「木暗茂」(万260))、サクラバナ コノクレゴモリ(「木晩窂」(万1047))とある。木が茂って下かげの暗いところを言う語を、桜の花の咲いた時の誇張表現として使っている。サクラのクラを暗い意と感じて連想したに違いあるまい。こういう例がありながら、サクラに、「咲良」、「開等」といった用字が一例も見られない。サクラという語の語源については措くとしても、万葉語においては、当時の人にとって、咲くからサクラであるとは意識されていなかったらしいとわかる。
(2)説によれば、民俗学で桜の花の付き具合で豊凶を占ったとされ、農耕の時期を知らせて咲くからとも説かれている。しかし、記紀万葉に、そのような民俗的視点から桜が取り上げられている例を見ない。証拠がひとつもないのに説がひとり歩きしている。また、早苗に見られる稲の霊を指すというサについても、桜の花は、早乙女が活躍する五月蠅なす旧暦の五月には咲かない。和名抄に、「櫻 文字集略に云はく、櫻〈烏茎反、佐久良〉は、子の大きさ栢の端の如し、赤、白、黒の者有るなりといふ。」とある。これらは木類に分類されており、果蓏類ではない。本草和名には、「櫻桃 ……和名は波々加乃美、一名に加爾波佐久良乃美」とある。櫻字は、中国ではユスラウメを指す。礼記・月令に、「是[仲夏]の月や、……羞むるに含桃を以てし、先づ寝廟に薦む。(是月也、……羞以二含桃一、先薦二寝廟一。)」とある。ここから仮に意訳したとしても、五月にサクランボをお供えしたという話にしかならない。そのうえ、日本における植物の桜はもとヤマザクラであり、人々の生活圏とは少し離れていたともされる。サ(穀霊)の乗るクラ(鞍)がお出でになるという話がどこから持ち上がっているのか不明である。
(3)説に関して、コノハナノサクヤビメには類音にコノハナチルビメがいる。「此の花散る姫」の対が、「此の花ノ咲くヤ姫」と過剰に助詞が入っている。曰く因縁を持った神名ということであろう。ヤは反語の助詞である。記紀と同時代と考えられる万葉歌に、桜の花は咲くものとも散るものともされている。二神を表す非対称な語の一方を取り上げて、サクラという語に思いが及んだと比定することは適当とは言えない。また、万葉集にコノハナノサクヤビメと関連させて作歌された例も見当たらない。以上のように、今日行われているサクラの語源説なるものは、記紀万葉の時代の言語感覚とは一致しないものばかりである。
材としてのサクラ
筆者は、飛鳥時代において、サクラは材として利用されることが多かったから、それとの関連でイメージされていた語ではないかと考えている。材としてのサクラとしては、何よりもその樹皮である。色艶が美しく、薄く削っていっても丈夫で切れず、曲物の綴じ材や、弓や太刀、剣、斧、鍬などの柄の巻皮に用いられた。「桜皮」である。和名抄に、「朱櫻 本草に云はく、櫻桃は一名に朱櫻といふ。〈波々加、一に迩波佐久良〉」とある。「迩波佐久良」は「加迩波佐久良」であろう。
味さはふ 妹が目離れて 敷細の 枕も巻かず 櫻皮纏き 作れる舟に 真梶貫き 吾が榜ぎ来れば……(万942)
天児屋命・布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合ひまかしめて……(記上)
カニハが「皮」のことを特に指すところから、訛ってカバという。シラカバ、ダケカンバなどをカバとするのは、樹皮のさまが横に縞模様が入り、サクラと似ているからである。和漢三才図会に、「按櫻謂レ子不レ謂レ花何耶。」と、和名抄に花についての言及がないのを不思議がっているが、もともと実用性に注目が行っていた木であった。源氏物語・幻に「樺桜」とあるのは、ヤマザクラのことであろうとされている。万942歌では、纏くものとしてのカニハを導くのに、異性を纏くための道具のマクラをあげている。サクラと音が似通っている。この歌のこの箇所の機智はそこにある。また、記の天石屋条では、鹿卜の際に焼けた木の棒を鹿の肩の骨にあてがい、できたひび割れをみて占いをしている。その材料の「天之波々迦」もカニハザクラというヤマザクラである。伴信友・正卜考に、万葉歌の「天降りつく 天(神)の香具山 …… 櫻花」(万257(260))とあるのは、天石屋条の伝承によった作例かもしれないとする(注1)。さらに、象焼きでは熱が奪われて火が消えやすいから、燃えやすいカニハザクラの樹皮の付いた部分を使ったのであろうとも指摘している。実生活に用いられて木の名が現れている。ハハカ、カニハといった語が先に存在し、サクラという語を新たに作った可能性もある。
曲物をサクラの皮で綴じる点について、名久井2012.は、「弥生時代から現代に至るさまざまな時代の遺跡から発見されている「板製」曲げ物を見ると、例えば中世の遺跡から発掘された井筒のように分厚い板を曲げて作ったものから、現代の弁当入れのように薄い板を曲げて作ったものまで、その用途によつて大きさも形も側板の厚さもまちまちだ。そうした各様の大きさや形態の曲げ物でも、側板の端どうしを重ねて綴り合わせる素材として使われてきたのは一貫してサクラの表皮だった……。その薄さにも関わらずサクラの表皮ほど強靭で側板の綴じ紐に最適な素材がほかになかったからだろう。……「板製」 曲げ物の側板を綴じる紐の素材という、それほど長くなくても足りる樹皮の効率的な入手の仕方は、ある程度幅広く横に剥ぎ、そこから必要な幅を切り出すことだった。したがって「板製」曲げ物の製作技術があるところには必ずサクラの樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴ったとみてよいことになる。そんなわけで、弥生時代から現代まで途切れることなく受け継がれてきた「板製」曲げ物の製作技術には常に樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴っていたと言える……。」(153~154頁)とする。サクラという樹木は曲物技術として人々に分節、認知されていたのである。

サクラという語は、(a)花樹の桜のこと、のほか、(b)馬肉、(c)店で仕込んだ偽装客のことをも指す。馬肉については、肉の色が桜の花の色のようであるとか、桜の花の咲く頃がおいしいという説があるが、説得力に乏しい。偽装客については、賑やかなさまが桜の花に似ているとか、すぐ散ってしまうことを譬えているという説もあるが、そう考えるとずいぶん婉曲的な表現ということになる。サクラという言葉を(b)(c)も含めて納得するためには、花の様子から離れないといけないようである。
もともと、樹の Cherry を見て、その桜皮にばかり気が行っている。実用的な用途から、特に曲物細工における綴じ材として注目されていた。箍で締める結桶が鎌倉時代に登場する以前は、「麻笥」に由来する捲桶が多用されていた。和名抄に、「桶 蒋魴切韻に云はく、桶〈佳惣反、上声の重、又他孔反、乎介〉は水を井に汲む器なりといふ。」、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、介〉は食を盛る器なりといふ。」とある。




猿の座
万葉歌や允恭紀などに、「櫻」の字が使われている。中国でユスラウメを表す櫻の字が、ヤマトでは Cherry に選択的にあてがわれている。旁の嬰は、女が首にかける首飾りのことで、めぐらすことを示したり、また、嬰児をいう。首飾りを思い出させるのは、猿回しの猿である。木の赤ん防を思わせるものは、木の子たるキノコ、サルノコシカケである。すなわち、サル(猿)+クラ(座)→サクラである。万葉集の原文に「佐宿木花」(万1867)とあったのをサクラバナと訓んでいた。神座→神楽と同様の転訛である。地名には、猿投、猿島などと訓む例がある。

猿の座とは何か。(a)サルノコシカケ、(b)サルの座るようなところ、(c)まわし者のサルを懲らしめるために座らせるところ、の三つの意が考えられる。ヤマザクラの皮を剥いで採取すると当然ながらその木は弱る。サルノコシカケは、枯れ木や樹勢の弱った木に取り付いて大きくなる木の子(キノコ)である。いったん木にキノコ菌がとりつくと、木全体にまわってさらに弱らせながらキノコとして表面に現れる。表面に現れたキノコを取っても再び現れるから、榾木に菌を植え付けてシイタケ栽培などが行われている。木にくっついている子のことは、本邦に人間よりもひとまわり小さいニホンザルのことを思い浮かべたに相違あるまい。そしてまた、桜皮で綴じて曲物、曲げわっぱを作り、猿回しのサルの首輪とすることも可能である。サルが皮を剥いだとして、懲らしめるために首枷を嵌めることにしたのだと推量することもできる(注2)。
チェアとして、サルが座るようなものだとされるものに、胡床、床几などと呼ばれる折り畳みできる背もたれのない腰掛がある。今日、神社などを中心に尻受けに白布が張られたものを目にするが、古代に、革、縄などを張ったものもあったとされている。延喜式に、「大儀〈元日、即位及び蕃国の使の表を受くるを謂ふ〉」に際して列席する武官は、「並胡床に居れ〈少将以上の胡床は各虎の皮を敷け〉。」(左右近衛府式)とあり、上に虎皮を敷いている。規定に、「凡そ胡床三百基の緒の料の緋の糸は、基別に八両、塗る料の漆は基別に一合」(同)とある。X字状に支柱を組み違えて作られており、脚を畳んでいつでも移動することができる。跡形もなく去ることができるからサルの腰掛と言えるようである。支柱間の継ぎ手は枢構造になっていて、枢のことは猿とも言っていた(注3)。猿回しにくるくると回らせて楽しんでいるのは、枢を見ているのと同じということになる。


四脚を組んで立てた高くない脚立のことを鞍掛ともいう。馬の鞍は使わないときは馬の背から外し、同じく鞍掛と呼ばれる台に掛けておく。乗馬の練習のために使われ、鞍掛馬、また木馬ともいう。本来、鞍は馬に掛けて人がその上に座るものである。対して、鞍が主役になって座すことになるのが鞍掛である。一まわり小さな物だから、猿の腰掛と呼ぶに値する。つまり、猿の座は馬そのものということになる。だから、馬の肉はサクラである。猿回しの大道芸が始まると人々は集まって来て盛んだが、終わって見物料の御祝儀(纏頭)を貰い受ける段になるとお金を渋って人々はすぐ散っていく。それは、店側の仕込んだ偽装客が、契約時間が明ければ一気に消えてなくなるのに似ている。サクラの花の咲き散るさまによく似ている。

令制に、縫殿寮に属した猿女は人事考課に当たっていた。養老令・職員令に、「縫殿寮 頭一人。掌らむこと、女王、及び内外の命婦、宮人の名帳、考課のこと、……」とある(注4)。些細なことでも上の者に報告する、人の顔をした人でなしである。そんなまわし者の猿を懲らしめるには、相手が猿なのだから木馬責めがふさわしい。木馬の背を三角形に尖らせ、その上に跨らせて脚に重石を付け、股間をさいなませる私刑である。十訓抄(1252年)に、「俊綱大にいかりて「人をあざむきすかすは、其の咎かろからぬ事なり」とて、雑色所へくだして木馬にのせんとする間、成方いはく……」(巻七・第二十五)などとある。猿はお上の御用を働いており、鞭打ちや流罪といった公に存した刑罰にあてられず、また、仮にお上に知られたとしても、ただ座らせていただけだと抗弁できるものである。特に猿女の場合は女性だから、面白いことになるという理屈であろう(注5)。
稚桜宮
履中紀に「稚桜宮」、「稚桜部」と記されている。
三年の冬十一月の丙寅の朔の辛未に、天皇、両枝船を磐余の市磯池に泛べたまふ。皇妃と各分ち乗りて遊宴びたまふ。膳臣余磯、酒献る。時に桜の花、御盞に落れり。天皇、異しびたまひて、則ち物部長真膽連を召して、詔して曰はく、「是の花、非時にして来れり。其れ何処の花ならむ。汝、自ら求む可し」とのたまふ。是に、長真膽連、独り花を尋ねて、掖上の室山に獲て、献る。天皇、其の希有しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。故、磐余の稚桜宮と謂す。其れ此の縁なり。是の日に、長真膽連の本姓を改めて、稚桜部造と曰ふ。又、膳臣余磯を号けて、稚桜部臣と曰ふ。(履中紀三年十一月)
天皇は、両枝船に乗って遊んでいた。両枝船は、太い幹が枝分かれした部分を刳り抜いて作った船のことであろう(注6)。天皇は皇妃と二人で、枝分かれした二手に分かれて乗っていたのである。今日のボート遊びのように向かい合って乗っていたわけではない。ペダルを踏んで進むスワンのボートにように並んで乗っているのでもない。両枝船に乗りながら遊宴をしており、膳職に酒を次がれている。面倒くさい状況設定は深い意味があってのことであろう。すなわち、両枝船は、股が裂ける木馬のことや、ヤマザクラの株立ちを連想させて、サクラの花が散ってくることを伏線として導いているのである。

今日の感覚では、旧暦の十一月に花が咲く桜としてはヒマラヤザクラなどを思い浮かべるかもしれないが、「非時」とあるように狂い咲きをしたと考えるべきであろう。この「非時」のものを求めさせる話としては、垂仁紀九十年~九十九年明年条の「非時香菓」の話が名高い。田道間守という人が、天皇の命をうけて、「常世国」へ探しに行き、「非時香菓」なる橘を持ち帰ってきた。ところが、天皇はすでに亡くなっていて、悲しみのために御陵で自死したという話である。履中紀の場合、物部長真膽連は、一人で桜を探し、掖上の室山に見つけて獲ってきて献っている。掖上の室山は、「常世国」や「神仙秘区」には相当せず、里の裏山のようなところであろう。
天皇は、なぜ物部氏に依頼したのか。物部氏は、大和朝廷で軍事や刑罰に当たる戦闘員の部民である。それがこの出来事の結果、改姓させられて、稚桜部造長真膽連となっている。膳臣余磯の方は稚桜部臣と号したとあるから、一代限りの渾名が付けられたということであろう。物部氏が全員改姓させられたわけではなく、長真膽という名の一族が分家的に稚桜部造になっている。ナガマイという名からは、長い柄を細縄などで鍔元まで巻きつけた太刀のことをいう長巻のことが連想される。ナガマキのイ音便としてその名が語られていると思われる。天皇としては、桜の花のついた枝を取って来いと命じたつもりであったかもしれないが、ナガマイという人は、太刀の柄に巻くとすべらなくてよい桜皮を螺旋状に長く採ってきた(注7)。名に負うて職務に忠実だと顕彰して、武家のなかでも武具作りの専門職たるにふさわしい姓に改めさせたということであろう。

「花ぐはし桜」
允恭紀に「桜」の登場する歌のやりとりがある。
八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息を察たまふ。是夕、衣通郎姫、天皇を恋ひたてまつりて独り居り。其れ天皇の臨せることを知らずして歌して曰はく、
我が背子が 来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕著しも(紀65)
天皇、是の歌を聆しめして、則ち感でたまふ情有します。而して歌して曰はく、
ささらがた 錦の紐を 解き放けて 数は寝ずに 唯一夜のみ(紀66)
明旦、天皇、井の傍の桜の華を見して、歌して曰はく、
花ぐはし 桜〔佐區羅〕の愛で こと愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。(允恭紀八年二月)
天皇は、「衣通郎姫」への恋慕の情を歌っている。彼女は皇后の妹で、天皇のお召しになかなか応じず、仁徳紀にあった倭直吾子籠の家に留まったりしている。
弟姫、容姿絶妙れて比無し。其の艶しき色、衣より徹りて晃れり。是を以て、時の人、号けて、衣通郎姫と曰す。(允恭紀七年十二月)
記には、允恭天皇の娘の一人の別名に、「衣通郎女」とある。
軽大郎女、亦の名は衣通郎女。〈御名を衣通王と負はせる所故は、其の身の光、衣より通し出づればなり。〉(允恭記)
ソトホシ、ソトホリという名は、肌の美しさが衣を通して光映えていることの表現とされている。それはその通りなのであろうが、衣を通して美しい体が見えるのは、オーガンジーのような透け感のある着物だったからであろう。シースルーの上等の着物としては、錦のうちでも薄手の「綺」が挙げられる。文様が斜めになっており、蟹が斜めに進むところから、カニ(蟹)+ハタ(機)が語源であろうとされている。和名抄に、「綺 蒋魴切韻に云はく、綺〈虚仮反、岐、一に於利毛能と云ひ、又、一に加无波太と云ふ〉は錦に似て薄き者なりといふ。釈名に綺は棊なりと云ふ。方丈の棊の如きを謂ふなり。」、華厳音義私記に、「綺 加尼波多と訓む」とある。垂仁紀三十四年三月条に、「綺戸辺」という美人を後宮に入れたという記事が載る。綺麗な人ということである。
カニハタからはカニハ(桜皮)が連想され、ほんのりと赤みを帯びた肌が美しかったのであろうとわかる。つまり、紀66歌で彼女の衣を脱がせて一夜を共にしたのは、まるで桜の木の皮を横剥ぎにすることと同じであったということである。桜の皮を剥ぐ好機は、後述のように、花の咲いた頃のみずみずしい時季である。そこが紀67歌の巧みさである。やっとかなった情事を、桜の皮剥ぎに譬えている。弟姫という言葉には、妹の姫という意味と、年若い姫といういう意味がある。
ワカという形容
履中紀では、磐余の地の宮の名が稚桜宮になっていた。宮号が、ワカと冠したサクラノミヤという名になっている。ワカという語は、古語拾遺に注目すべき記述がある。「天照大神、吾勝尊を育したまひて、特甚に愛を鐘めたまふ。常に腋の下に懐きたまふ。称けて腋子と曰ふ。」とある。時代別国語大辞典の「わくご【若子】」の項の【考】にこの例が載り、「上代人の一つの語源解釈を示すものであろう。」(816頁)とする。上代人の語源解釈とは、ことほど左様に怪しいものであり、駄洒落解釈を示したものがきわめて多い。しかるに、それこそが言=事とする言霊信仰に生きた当時の人にとっては大事なことなのである。
白川1995.に、「わかし〔若・稚〕 「わか」の形容詞形。生れてまだ多くの年月を経ていないことをいう。「わかゆ」「わかやる」は動詞形、「わかやか」は副詞形。類義語の「をさなし」は「長無し」で未熟の意。「いたいけらし」は見るからに心がいたむほどの愛らしさをいう。……国語の「わか」の語源は明らかでないが、人には「をさなし」「いたいけ」という。「わか」を冠した語には、若草・若薦・若竹・若木・若海藻など、草木の類をいうことが多いことからみて、そのようにあらたに生え出たものをいう語であったかと思われる。それならば穀の未熟なことをいう「稚し」と、同様の発想をもつ語である。」(798~799頁)とある。
このワカの語については、同書の「わく〔沸・涌〕」の項に、「国語の「わく」も湧き水の意が原義。沸騰する意に用いるのは、おそらくその展開義であろう。」(800頁)とあることと関係があろう。春、草木の芽が出て勢いがつくと、葉先から水滴があふれ出ることがある。そんなみずみずしい状態を、ワカシと表現したのではなかろうか。それは、サクラの木についても同様である。名久井2011.には、「新芽が萌え、樹種ごとに少しずつ色を異にする新緑が日ごとに濃くなって、やがて全山がしたたる緑に包まれる。どうかするとサクラの葉先から滴がこぼれ落ちたり、切られたヤマブドウの蔓が盛んに樹液を出すのもこの季節である。梅雨どきから七月にかかるこのころ、樹木の活動は最も活発となって水分の吸い上げが著しいのである。樹皮を剥いで利用しようとする人々が山に入るのはちょうどこの時期で、……サクラは花が咲けば樹皮を剥ぐことができるようになるという。」(98頁)とある。そんな時期のサクラの皮を剥いで水を汲む桶は作られている。類推思考によって水が涌いてくることを導いているわけである。掘り井戸の内側の井筒も曲物で作られていることが多い。サクラという語に冠する語としては、ワカばかりが適切ということになる。


物部長真膽は、冬なのに花が咲いたサクラを探しに行った。それは、樹勢が盛んで葉先から滴が霧のように立つものである。つまり、サクラの木(ケは乙類)には、サクラの気(ケは乙類)が満ち溢れていた。樹皮を採って曲物を綴じることなどに用いるのが目的である。サクラで笥(ケは乙類)を作るためである。見つけた場所は、ワキのカミ(ミは甲類)のムロのヤマである。ムロのヤマとは、食糧の越年保存のために山の斜面などに作られた土坑のあるところをイメージしているであろう。橋口2006.によれば、縄文時代から貯蔵穴は確認されており、弥生時代には稲籾用のものが普遍化していったという。ただし、西日本を中心にした貯蔵穴は後期になると激減し、古墳時代に入るとまったくなくなっているという。この点については、人は「室山」をやめたが、猿はまだやっているという頓智を紛れ込ませているとも解釈できよう。人に顔のワキのほうにもカミ(髪、ミは甲類)がある人は少なく、対して猿には必ずあるということとも関連してこよう。髪の毛の脇の方へ伸びたところで室のような穴倉の上の山とは、獣であるサルの顔のもみあげのところということである。もみあげに、揉み上げと籾上げとを掛けているのかもしれない。<ruby毛>