古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

神武東征譚における熊野での熊の話

2021年07月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
ほぼ全身髪の毛に包まれた大きな熊

 神武記の熊野の件に、紀にはない大きな熊の話が載る。

 故(かれ)、神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと[=神武天皇])、其地(そこ)より廻(めぐ)り幸(いでま)して、熊野村(くまののむら)に到りし時、大熊、髪、出で入りて即ち失(う)せぬ。爾(ここ)に、神倭伊波礼毘古命、倐忽(たちまち)に遠延(をえ)為(し)、及(また)御軍(みいくさ)皆遠延して伏しぬ。遠延の二字は音を以てす。此の時、熊野の高倉下(たかくらじ)此は人の名そ。一(ひとふり)の横刀(たち)を賷(も)ちて、天つ神御子の伏せる地(ところ)に到りて献りし時、天つ神御子、即ち寤(さ)め起きて、詔りたまはく、「長く寝(い)ねつるかも」とのりたまひき。故、其の横刀を受け取りし時、其の熊野山(くまののやま)の荒ぶる神、自づから皆切り仆(たふ)さえき。爾くして、其の惑(を)え伏せる御軍、悉く寤め起きき。(神武記)
左:「時大熊髪出入即失」、右:「化熊出爪天剣獲於高倉」(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクション、左:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185383/6をトリミング、右:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/5~6をトリミング合成)
 この話について、太安万侶はすでに序で触れている。

 熊と化(な)れるもの爪を出だして、天(あめ)の剣(つるぎ)、高倉(たかくらじ)に獲たまひき。(記序)

 新編全集本古事記に、「熊が出てきたのは、ここが「熊野村」だからであろう。」(145頁)とある。原文は、諸本とも「大熊髪出入即失」とある。しかし、「髪」は「髣」の誤りと見て、あるいは「髪」字のままにホノカニと読むことが多く行われている。「大き熊、髣(ほの)かに出で入りて、即ち失(う)せき。」という訓は意味不明である(注1)。「出入」を人目につくところへの出入りと解釈することはできない。森から村へ出てきたら居り、村から森へ入ったら失せるはずのものである。「大熊髣出即入失」とまで改変すべきなのか。あるいは、記序にある「爪」(注2)の話として、熊が威嚇してきたがすぐにいなくなったということか。しかし、「爪」と「髪」は違う。「爪」と関連しそうな点としては、文中にある「爲」字に冠としてあり、また、クマの爪は湾曲している。木登りや、針葉樹の樹皮の「クマはぎ」に用いている(注3)。我々は、それに似た道具を使う。潮干狩りに持っていくクマデである。話を要約していると思われる記序に、なぜだか「爪」が持ち出されており、曲っていて利器となるものが印象づけられている。それを頭の片隅に置いて検討を進める。
クマデ(徳田明子様「大潮を狙ってGWは潮干狩り~中部・関西編~〈レジャー特集|2018〉」日本気象協会ホームページhttps://tenki.jp/suppl/akiko_tokuda/2018/04/18/28035.html)
 クマ(熊)は、新撰字鏡に、「熊 〈胡弓反、久万(くま)〉」、和名抄に、「熊 陸詞切韻に云はく、熊〈音は雄、久万(くま)〉は獣の羆に似て小なる也といふ。」とある。いわゆるツキノワグマである(注4)。ツキノワグマは、胸に月の形をした白い紋がある。それ以外は黒い毛で覆われている。体のほぼすべてが髪の毛のような色である。暑いとすぐに水浴びし、全身シャンプーした後のような姿を見せる。すなわち、原文の「出入」しているものは「髪」であろう。ほぼ全身が「髪」であるけれど、ほとんど「髪」は「出」ているけれども、まれに「入」ることがある。それは、白い月の輪の部分にフォーカスが絞られるときである。その三日月形の白色は、刃物が光っているように見立てられる。そして、クマはなわばりの見回り行動で確認のため、人々の暮らす「村」、神倭伊波礼毘古命の目にとまるところで、髪の毛にあたるほぼ全身の黒い毛を「出入」させ、次のところを見張るためにすぐに「失」せたということであろう。なわばりの端まで来て後ろ足立ちになって大きく伸びをしてはまた帰っていくという行動をとっている。「髪出入」には、黒白の毛色となわばり行動の二重の意味が込められている。動物園では常同行動として観察される。
ツキノワグマ「髪出入」二態(上野動物園)

「為遠延」とは “do the ヲエ”

 倐忽為遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。

 訓注をもってヲエと記されている。ヲユは下二段動詞で、毒気に当てられて意識がなくなったり、病気などに悩まされて衰弱することをいう。

 時に神、毒気(あしきけ)を吐き、人物(ひと)咸(ことごとく)に瘁(を)えぬ。(神武前紀戊午年六月)
 是より、信濃坂を度(わた)る者(ひと)、多(さは)に神の気(いき)を得て瘼(を)え臥せり。(景行紀四十年是歳)
 而るを人に困事(をえつか)へ、牛馬を飼牧(か)ふ。(顕宗前紀清寧二年十一月)

 新撰字鏡に、「瘁」という字は「疩 辞酔反、染病」とある。また、和名抄には「瘼臥 日本紀私記に云はく、瘼臥〈乎江不世理(をえふせり)、瘼の音は莫〉といふ。」とあり、その字は新撰字鏡に「瘼 莫各反、入、病也」とある。
 新編全集本古事記には、「ヲユは、毒気に当てられて意識朦朧(もうろう)となるの意。原文で仮名表記するのは、訓字表記の困難な語であるため。」(145頁)とある。紀には、相当する箇所に「瘁」字がためらわずに用いられている。訓字表記が困難との考えは当たらない。例えば、瘁の字を使った時、ヲユと終止形になったり、ヲユルと連体形になったりといった別音に読まれる可能性が出てくる。それを避け、ヲエと読ませたいからであろう。
 原文にある「為(爲)」の字の使い方は、チンするなどといった例に見られるように、名詞を動詞化するものである。三矢1925.に、「為」字の用法として、「(イ)将欲に通ずる者……(ロ)所に通ふ者……(ハ)目的を表す動詞として用ゐたるもの……(ニ)被役の義……(ホ)使役の義」につづいて、「(ヘ)動詞の補助語尾的に用ゐたるもの」という項目を立て、例をあげている。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085/55~58、漢字の旧字体は改め、引用箇所の指示、句読点などは適宜変えた。)

 ……須勢理毘売命、甚為嫉妬。(記上)
 ……神倭伊波礼毘古命、倐忽為遠延、……(神武記)
 ……枕其后之御膝、為御寝坐也。(垂仁記)
 ……答曰、既為泥疑也。(景行記)
 ……詔、為刀。(景行記)

 そして、「此等の「為」の字は、為無くても通ずべき中に、「遠延[をえ]」「泥疑[ねぎ]」など仮字がきなるは、語尾を書かざるより、其の動詞なるを明にする為には「為」の字を添ふる必要あり。「為嫉妬」は「性甚嫉妬」など書けば可なるも、国語には「モノネタミ」など名詞に云へば、其の語法より「為」を独立動詞に用ゐたるなるべく、「御寝」は、漢文にて動詞になれども、「ミネ」といへば名詞なるより、之を動詞にして下の「坐」に続けむとて「為」の字を加へたるなるべし。」(87頁)と解説している。さらに記に例を見る。

 「然者、吾与汝、行-廻-逢是天之御柱而、為美斗能麻具波比。」(記上)
 「悔哉、不速来、吾者為黄泉戸喫。……」(記上)
 ……為神懸而、掛出胸乳、裳緒忍-垂於番登也。(記上)
 ……其女須勢理毘売出見、為目合而、相婚。(記上)
 故、其夜者不合而、明日夜為御合也。(記上)
 如此歌、即為宇伎由比而、……(記上)
 爾、少女答曰、「吾勿言。唯為詠歌耳。」(崇神記)
 故、今聞高往鵠之音、始為阿藝登比。(垂仁記)
 爾、為言挙而詔、……(景行記)
 「……亦、山河之物悉備設、為宇礼豆玖」、……(応神記)
 
 ミトノマグハヒ、ウケユヒ、アギトヒ、ウレヅクなどと仮名書きの例が多い。
 5番目の例では、前者の「合」は動詞、後者の「御合」は名詞である。すなわち、Therefore he didn’t have sex with her last night, and he did the sex tonight. と言っているようである。他の例でも、do “the ……”の形(the 嫉妬、the ヲエ、the 御寝、the ネギ、the 易刀、the ミトノマグハヒ、the黄泉戸喫、the神懸、the目合、the ウケユヒ、the詠歌、the アギトヒ、the 言挙、the ウレヅク)を「為(す)」ると言いたいらしい。通常のものとは比べ物にならない、尋常ではない特別な程度の何ごとかをしている。
 この do the ……の形として、動名詞的に使われる例は、「為楽」(記上)、「為漁」(記上)、「為釣」(神武記)、「為儛」(雄略記)、「為名告」(雄略記)、「為詠」(清寧記)なども挙げられよう。ただ、どこまでが動名詞か、補助動詞かといった峻別は難しく、そもそもが倭習なので不明瞭である。「釣る」と「釣りす」に別があるのは、上記の「為」のようないわば格調高い意味合いを持たせる意図からか、ツルという語が fishing に限られたものではないこととも関係があるのかもしれない。いずれにせよ、三矢氏の「(ヘ)動詞の補助語尾的に用ゐたるもの」は、むしろ、「為」の後に来る動名詞の意味合いの強調にこそ注目すべき語法ということになる。
 神武記に「為遠延」とあって、訓注に、「遠延二字以音」とまで断られてあるのは、太安万侶にとって、ヲエ(woye)という音が必須だから、そのように着実に訓ませたいがために行われた記述法である。筆者は、ここに、ヲとエ(ヤ行のエ)にまつわる洒落を見出す。

造成地クマノはツカ・ハカであることとヲ・エの関係

 設定は熊野村である。クマノ(ノは甲類)という場所は、飛鳥時代において、クマという形状の野のようなところをいうと解され、捉えられていたのであろう。語源ではなく、語感においてである。新撰字鏡に、「堓 豆衣・居移二反、曲岸也。久万(くま)、又太乎利(たをり)、又宇太乎利(うたをり)」とある。他との境界にあって、奥まった場所のことで、見えにくくなっているところをいう。道や川などが屈曲しているところ、曲り角のところである。「河隈(かはくま)〔箇波区莽〕」(仁徳紀三十年九月、紀歌謡53)、「道の隈〔道隈〕」(万17)などとある。ほとんど直角に曲っているから先が見えなくなる。ところが、野という語は周囲よりも少し高いところで水がかりが悪い場所をいう。小高くて直角に曲っているような野とは何か。自然界は風化、浸食が進んでしまっているから、計画的、人工的に造らない限りなかなか出現しない。そのような特殊な地形として見られるものを我々は知っている。古墳である。方墳や、前方後円墳の前方墳部は、「曲野(くまの)」と呼ぶに値する。
 考古学用語の古墳は、ヤマトコトバに塚(つか)、または、墓(はか)である。白川1995.に、「つか〔冢・塚(塚)〕 土を小さくもりあげて死者を葬るところ。動詞の「く」の名詞形である。「はか」は墓所としての意に重点があり、「つか」はその形状を主とする語である。墓を「つか」とよむこともあり、同義語である。」(500頁)とある。新撰字鏡に、「壟 力勇力隴二反、上、地之□山高大□也、塚也。豆加(つか)也」、和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ、豆賀(つか)〉は塚塋地也といふ。広雅に云はく、塚塋〈寵営二音〉は葬地也といふ。方言に云はく、土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉は並(とも)に塚の名也といふ。」とある。俎上にのぼっているヲエなる語のヲとは、ツカのことから連想すると、大刀(たち)の緒(を)のことが思いつく。ツカは大刀の握り手部分、柄(つか)である。白川1995.に、「つか〔束・拳〕 手の指を握ったときの、四本の指のはばを「つか」という。「つかむ」「つかぬ」は、その動詞形である。それを単位として長さをはかり、八拳やつか十握とつかのようにいう。またたばねて一くくりとしたものを、十そくのように助数詞に用いる。手で握ることから、剣の柄のところもつかという。短いところであるから、時に移して「つかのあひだ」、また「つかのま」という。」(500頁)とある。記に「横刀」と用字されている。大刀を佩く様は、下げ緒をもって腰の左側に横に帯びる様子をしていた。横刀の柄(つか)を掴むのは右手である。切れ味の鋭い刃によって敵に致命傷を負わせることができる。左手は、鯉口を切ったり、抜刀に当たって鞘を握ったりする。
左:大刀の緒(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055242をトリミング)、右:抜刀の様子(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/17をトリミング)
 一方、柄は本来、エ(ye)と訓む。クマなるもの、曲れるものを念頭にして野の草を刈るのなら、同じく鉄製の刃物である草刈り鎌のことが思い浮かぶ。草を根本から刈り取る際に効率がいい。移動の際は柄を腰帯の背中側に指して行った。刃は、切れ味もさることながら耐久性も求められる。石ころなどにぶつかったとしても刃が欠けないことが重要である。そして、刃に対して直角に備わる柄が、梃子の原理が効いて力が入り使いやすい。曲れる刃物である。横刀、小刀等の形状のものでは、柔弱な草を刈るには対象物が逃げていって使いづらい。刃に食(は)まないからである。仕事が捗(はかど)らない。ハカとは、埋葬場所のほか、仕事量の単位をいう語でもある。古典基礎語辞典の「はか【計・量・果】」の項の「解説」に、「ここまでと割り当てた労働の量。ハカは、ハカル(計る)・ハカナシ(果無し)・ハカバカシ(果果し)などの語根。ハカルは、分量を確かめること。ハカリ(計り)は、そのための見当や道具。ハカナシは、目当てとする確かなもののないさま。ハカバカシは、仕事の進行の目当てとする量が進む感じをいう。」(964頁、この項、依田瑞穂)とある。草刈り作業は、一般の右利き用の鎌であれば、左手が草の束(つか)を掴(つか)み、右手がハカを取っている。横刀とは「ツカ」が左右逆になる。そのうえ、「D」字のカーブする部分について、古代の平造形式の横刀ではカーブしている「)」側が刃になっているが、鎌ではそれとは反対の「|」側が刃になっている(注5)。同じ鉄製の刃物の把手でも、横刀の場合はツカ、鎌の場合はエである。
 以上から、ツカ、ハカ両語は、墳墓と計量の両義のある言葉として対称関係にあることが確かめられた。築(つ)いて造った古墳に草がぼうぼうに生えてしまい、鎌の登場をお願いしたくなる理由はよくわかる。植生の遷移は、大略として、造成地(裸地)→草原→陽樹林→陰樹林である。
左:刀(古墳時代終末期、御嶽塚10号墳出土)、右:鎌ほか(8~10世紀、武蔵国府関連遺跡出土)(いずれも府中市教育委員会所蔵、府中市郷土の森博物館展示品)
「鉈鎌」(世田谷区岡本民家園展示品)
 太安万侶が、ヲエという語の音にこだわったのは、稗田阿礼の語る鉄製品刃物の意味合いの洒落を正確に伝えたかったからである。神倭伊波礼毘古命方は、征服が目的だから横刀としての機能を表したい。それを象徴するのは横刀のヲ(緒)である。ところが、熊野の荒ぶる土着神「大熊」は、その意味をエ(柄)に転化しかねない輩であった。それは、クマノ(ノは甲類)という言葉、その音に発端し、すべての由来になっている。征服物語が草刈り譚に成りかけている。古墳の被葬者の立場に転じかねない。敗者に対して古墳は作られないという見方ではなく、自ら墓穴を掘るといった体のことである。墳丘上に一斉に生えた雑草を刈る仕事にまさにかり出され、疲れ切ってしまった。すなわち、月の輪印に象徴される鎌としての機能、エ(柄)が浮かび上がってきている。おかげで、ヲ→エさせられることとなった。登場人物も困るが、話者としても困ったことになっている。鎌なす熊には困ったものである。母音交替にて連携している(注6)

罷ることと曲ること

 ツキノワグマは、クマ科の哺乳類で、体長は1m50cm程度になる。胸に三日月形の白斑が顕著に見られる。大きい獣でグワーオと大きな恐い声を立てるが、元来、人を食べるために襲うことはない。木の実、葉、根、果物、どんぐり、ハチミツ、ハチノコ、昆虫、サナギ、魚などを好み、木にも上手に登って食べている。雑食性で、ホッキョクグマのような肉食獣ではない。ツキノワグマのほうが危害を加えられると感じ、人を威圧したり、戦いに臨んでくることはある。その示威行為が、「大熊髪出入即失」ということであろう。獣道を作ることとは、鎌をもって草を刈って来ることと同じであるという理屈である。そして、冬眠することでも知られる。ツキノワグマに付き合っていると、神倭伊波礼毘古命軍も冬眠ということになる(注7)
 支配者の意向に従って出入りすることは、古語に「罷(まか)る」という。お言いつけによりまして罷り参じました、といった使い方は今日に残る。行く、来る、の謙譲語である。行ったり来たりする行為の主体が、命令者の下位にあることを示している。熊野村の大熊は、神倭伊波礼毘古命の軍に対して戦闘を仕掛けてきたわけではない。「出入」という不思議なパフォーマンスをしたにすぎない。神倭伊波礼毘古命の軍は、少し前、瀬戸内海を進む時に、「槁根津日子(さをねつひこ)」に遇っている。

 ……亀の甲(せ)に乗りて釣を為(し)つつ打ち羽挙(はふ)り来る人、速吸門(はやすひのと)に遇ひき。爾に、喚び帰(よ)せて問ひしく、「汝は誰そ」ととひしに、答へて曰ひしく、「僕(やつかれ)は国つ神ぞ」といひし。又、問ひしく、「汝は海道(うみぢ)を知れりや」ととひしに、答へて曰ひしく、「能く知れり」といひき。又、問ひしく、「従ひて仕へ奉らむや」ととひしに、答へて白しく、「仕へ奉らむ」とまをしき。(神武記)

 敵か味方かわからないとき、問答をして確かめることをする。記紀の伝承は口伝えの言い伝えである。言い伝えるということは、話すことが前提条件である。話の内容も、話すという状況設定から始まっていると考えてよい。話すことによって話が始まる。話すことをしなければ、お話にならないのである(注8)。ところが、熊野村にさしかかった時、「大熊髪」はグワーオと吠え鳴いていた。話をしようにも怖くて話しかけることができない。問答せぬまま「即失」となった。わからず仕舞いである。槁根津日子も、当初は得体が知れなかった。それでも奇妙な漁師とは話し合うことができた。そして、「仕奉」ことを認め、言いつけに従って神倭伊波礼毘古命のもとに出たり入ったりした。罷ることをした。
(kamekei様「ツキノワグマの鳴き声」YouTube動画https://www.youtube.com/watch?v=-Rcwp7UPDvEをトリミング)
 しかるに、「大熊」は、言いつけに従う従わない以前の問題として、「出入」したのである。その特徴は、胸の三日月形をした刃物様の白紋である。それ以外は、すべて真黒い「髪」の毛をしていた。すなわち、「大熊」のした「髪出入」とは、マカル(罷)ではなくマガル(曲)ことに値した。クマ(隈・曲・阿・堓)の意に符合している。罷という字と羆(ひぐま)という字はよく似ている。羆ではなく熊であることは、曲ることとしてより深く理解される。羆の罒(网)(あみがしら)は見えないことを表す。ヤマトの人にとって、ヒグマは皮は目にするが、生きているところを実見することはない。斉明四年におそらく檻に入れられるなどして連れて来られ、初めて目にして驚いた次第である。一方、ツキノワグマは、隈にいるとの洒落が常々行われていたとすれば、見え隠れしつつも見ることがあり、曲るところにいる曲れるものとの認識があったであろう。曲ることは、「「まが」[=まがごと(禍言・禍事)]と同根で、正・直に対して不正・勾曲の意があり、邪曲のことをいう。」(白川1995.692頁)のである。困ったものに出たり入ったりされている。この洒落の成立の正当性は、鎌や横刀の素材がマカネ(鉄)である点、そして、その両者がこんがらがって見間違えていること、すなわち、マガフ(紛・乱)ことになっていることから確かと言えよう。
 神倭伊波礼毘古命の一行が、「遠延而伏」してしまったのは、この弓なりに曲った刃物に恐れをなし、あるいは、そのような形の刃物は大きな鎌のことだから刈られて薙ぎ倒されたこと、ないしは、一緒に冬眠する羽目になってしまったこと、または、耳元で大声をあげられて鼓膜が破れてしまったことを表す。ツキノワグマは木の洞や山の穴などに籠る。毒気に当てられたという意味には、精神的に引っ掛けられたということでもあろう。ツキノワグマの論理に翻弄されたということである。鎌の形が印のツキノワグマとは、グワーオと大きな声を立ててうるさい連中であるが、冬には勢いが衰えて穴(あな)に籠る。まさに、「あなかま」な奴らである。「囂(かま)」という語は、「あなかま」(ああ、うるさい)という口語慣用句として語幹のみで用いられる。まわりでうるさくされると、悩まされ、うんざりして、嫌になって、布団にくるまって寝てしまいたくなるものである。
 和漢三才図会の熊の項に、「按ずるに、熊は深山の中に在り松前に出づる者最も多し。全体黒くして胸の上に白毛有りて偃月(ゆみはりづき)の如し。俗に月の輪と称す。常に手を以て之れを掩ふ。猟人、其の月の輪を窺ひ之れを刺せば則ち斃れ、若し然らずんば則ち刀鎗を挫く。其の強勢敵ふ可からざる也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569722/15を訓読した。)とある。ツキノワグマというのだから、いつまで寝ていたかと問われれば、月(つき、キは乙類)が尽き(キは乙類)るまでである。月(moon)が尽きて、その月(month)、二月なら二月が終わる、ということである。復活する時、「詔『長寝乎』」とある「長」は、一カ月寝ていたことを示すものと思われる。動物のツキノワグマの冬眠(冬ごもり)は、一般に一カ月では済まないが、餌の有無によって期間は変わる。動物園で餌を与え続けた個体は冬眠せず、一年中見学することができる。古代においても、クマの生態に関する知識の上に、神倭伊波礼毘古命の一行がツキノワグマの「強勢」に力尽きることに加え、月が尽きることとして話が成立している。
 そこへ、熊野の高倉下(たかくらじ)が横刀(たち)を神倭伊波礼毘古命に献上して、熊野の山の荒ぶる神は自づから皆切り仆れされている。「自皆為切仆」の「自」とは、横刀を高倉下が振るうことによって切り倒されたことばかりか、熊が持っているツキノワの刃物文様がそのまま熊自身に向けられたという意味である。鎌の刃の形の「D」字の「偃月」模様が、月の巡りで細長い横刀形に転化している(注9)にもかかわらず、いつものクマデ方式に使ってしまい、刃と峰とを誤って自ずから傷を負ったという頓智になっている。目には目を、歯には歯を、刃物には刃物を、によって、熊野の山の神は鎮静化されたということである。

音声言語=話し言葉の書記化

 記序に、「化熊出爪、天剣獲於高倉。」とある。上述の頓智話を要約するとこのような一行に収まり、意味合いを汲みとることはできない。潮干狩りのクマデ vs. 天の剣、ばかりから理解できる人はいない。本文の話の展開について行けば、洒落の面白さが伝わってくる。洒落は解説されるものではなく、すとんと腑に落ちて悟るものである。熊野村に古墳(つか、はか)はあるかと考古学に問うことはおよそナンセンスである。クマノという言葉、ヲエという言葉、その音に反応しなければ、口伝えに伝えられた口承の文芸(?)、無文字文化の精髄は理解できようはずがない。科学的実証が不可能であるとする見解は、たかだか近代に起った思想上の断片にすぎない。古事記が科学の対象たりうるのかもまた不明である。稗田阿礼の誦み習わしたお話(噺・咄・譚)である。口から放たれた言葉群、毎度おなじみのばかばかしいお笑いである。それが、太安万侶の工夫によって、meta-poetical prose style で筆記されている。古事記の書記は、ユネスコの推進したそれとは目的において真逆であったことに気づかなければならない(注10)
 万葉歌や記紀歌謡の源流について、どこか他所のところに求めようとする向きがあったり、記紀神話の内容と他民族の神話を比較しようとする研究が見られる。しかるに、歌も話も言葉でできている。ヤマトコトバが未だ文字を獲得していないとき、ないし、ようやく獲得しつつある飛鳥時代に、言葉の環境はどのようなものであったか。歌も話もすべてヤマトコトバに立脚してつくられている。と同時に、それらによってヤマトコトバはつくられている。つくることの返し合いによって音声言語=話し言葉は保たれていた。律令、続紀の時代に、支配者層では読み書き能力が広がるが、それ以前の段階で、読み書きのできない人の間に、他所からの翻案はわずかにあったかも知れないが、今日当たり前になっているカタカナ語の氾濫現象のようなことは起こりにくい。大陸からの移住者は絶対数として少なく、ヤマトコトバを揺るがすことはなかったと思われる。ピジン・クレオール語のような状況下にはなかった。
 紀の記述の字面に漢籍の引用が見られても、記述定式と口頭陳述とは別物である。人々に通じないから歌謡や宣命体は存在する。そしてまた、今日の人に意味不明の枕詞の意味は、当時の人々の間で共有されていたに違いあるまい。今とは別世界の言語としてヤマトコトバは存していた。漢文訓読からいわゆる和訓なる語を作ったということは、まず先にヤマトコトバが確かにあったことを如実に表している。納得ずくでしか言葉をつくっていない。そうしなければ互いに通じることがない場面が生じてしまう。音声言語として、瑕疵があって失格ということになる。話す相手は聞いている。識字能力のない人相手に筆談はあり得ず、図解しようにもせいぜい数えるときに縦線を並べ書いたり、使い捨てられる簡単な地図を描く程度であったろう。寺子屋も勧学院もなく、聖徳太子の講話や南淵請安の教授も口頭で行われたと推測される。「上代文学」なるものがあるとしても、ヤマトコトバのつくり返し合いの場そのものが上代文学自体であると言える。上代言語世界を対象として捉えるために上代文学という用語は継続されてかまわないであろう。そのヤマトコトバがいつからあったかは知る由もないが、縄文時代にはあったであろう。すでに民族は成立していた。記紀万葉の世界とはヤマトコトバの創世記に当たる。当たり前の話であるが、創世記は創世時点では記されない。他民族との接触から民族としての自覚が進み、自意識が芽生えた時、当該言語によって語られるものである。そのとき記されるようになった記紀万葉の研究は、ヤマトコトバというチャンネルそのものへのアプローチにかかっていると言える。

(注)
(注1)本居宣長・古事記伝に、「 シ然らば所見ミエテといふべきを、イデとあれば然は非じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/483)とある。中村2009.は、「髪」をクサと訓んで「「草」に同じ。山の草本。」(91頁)と解している。
(注2)「爪」字を「川(巛)」や「山」に改変する注釈書が多い。
(注3)宮崎2008.参照。クマはトラと違って爪を出し入れすることはできない。
(注4)ここに登場している「大熊」は、今日、北海道に生息するヒグマ(羆)の話ではない。新撰字鏡に、「羆 彼宜反、平、畜也。志久万(しくま)〉」、二十巻本和名抄に、「羆 爾雅集注に云はく、羆〈音は碑、和名は之久萬(しくま)〉は熊に似て黄白にして又猛烈に多力、能く樹木を抜く者也といふ。」とある。

 是歳、越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけたおみひらぶ)、粛慎(みしはせのくに)を討ちて、生羆(しくま)二つ・羆皮(しくまのかは)七十枚(ななそひら)献る。(斉明紀四年是歳)

 紀の記事に、「羆」とあるから、ヤマトの人には、ふだん毛皮でしか知られていなかったということであろう。敷物にするからシキ(敷)+クマ(熊)と呼ばれたかは定かではない。
(注5)「D」字形によって説明したが、周知のとおり、柄に近い方の身幅はすぼまらない。
(注6)ヲユに「困」(顕宗前紀清寧二年十一月)字を用いていることから、クマ→コマルという隠喩としての洒落を見ているが、明文化されていないので是非は不明である。
(注7)クマと付き合ってしまったから冬眠的な「倐忽為遠延、及御軍皆遠延而伏。」ことになっているが、その付き合い方には食べ物のことも関係する。クマの真似をして毒キノコを食べて「遠延而伏」ことになったということであろう。拙稿「高倉下(たかくらじ)とは誰か」参照。
(注8)今日の都市生活者たちが挨拶を交わさずにいることが常態化しているのは、動物史的に見て奇異なことであろう。
(注9)月の形の意味合いの転換はさまざまに受け取られたと考えられる。月が尽きると卒わるが、新しい意味合いを加えればよみがえることと捉えられる。新しい月が生れる。その新しい意味合いを加えるための魔法使いの道具が、この件では「横刀」であった。新しい魂を入れることは、枕詞で言えば「あらたまの」であり、「月」に掛かる。改まるからアラタマノであるとともに、「熊野山の荒ぶる神」の荒ぶるからアラタマノかもしれない。枕詞は連想を多重させた言語遊戯である。記にはそもそも何月条といった表記はない。紀にこの「大熊髪」の話は載らない。展開においても、神武前紀戊午年六月条に一括されており、月は改まっていない。とはいえ、「瘁」字を選択的に用いてヲエと訓ませている。「卒(を)ふ」こととの関係を表したものかもしれない。古典基礎語辞典の「を・ふオウ【終ふ】」の項の「解説」に、「ヲフのヲは「緒」、フは「経」の意に発し、機織りで糸がすべてなくなる意が原義か。」(1367頁、この項、白井清子)とある。ヲユことがヲフ、つまり、鎌の柄(え)から横刀の柄(つか)に代わって再出発した。卒業とは出発でもあり、征服物語に戻ることができたと謂わんとしているとも解釈可能である。
(注10)中村2014.に、「文字の歴史は、人類史上で最も古い文字体系と考えられているシュメールの楔形文字やエジプトの象形文字でも、5500年ほどさかのぼることができる(Crystal 1997)。この5500年ほどの期間は、音声言語=話し言葉の歴史が200万年以上と考えられているのに比べて比較にならないほど短い期間である。……国連教育機関(UNESCO)が行っている調査によれば、今日でもいわゆる機能的識字能力(functional literacy)――日常生活に必要な読み書き能力――を持っていない人々の割合は、世界人口のおよそ25パーセント程度と推定されている(Carr-Hill 2008)。このように考えてみると、人類の長い歴史を通じて、読み書き能力が広く普及して社会全体で共有されるようになったのは、極めて新しいごく最近の文化的現象であることが理解できる。つまり、読み書き能力は、極端に言えば、楽器を演奏したり、自転車を乗り回したりするのと同じく、学習・訓練などの後天的な経験によって獲得されるスキル=技術なのである。このような意味では、……楽器や自転車に合わせて脳ができているのではないのと同様に、文字に合わせて脳ができているのではなく、むしろ、人の知覚・運動能力などの体の仕組みに合わせて文字がデザインされてきた、と考える方がもっともらしい感じがしてくるのではないだろうか。」(28~29頁)とある。無文字社会に暮らす人々を認知心理科学の対象に加えて、比較研究されることを願うばかりである。人類が文字を獲得することによって得たもの(いわゆる文明)と、失ったものが何であったかについて、より深く想い起すことができるであろう。

(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
中村2014. 中村仁洋「読み書き能力の脳内機構」苧阪直行編『小説を愉しむ脳』新曜社、2014年。
三矢1925. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、1925年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085
宮崎2008. 宮崎学『クマのすむ山』偕成社、2008年。

※本稿は、2015年6月稿を2021年7月に加筆、修正したものである。

(English Summary)
The story of Emperor Jimmu's conquest to the east in Kojiki tells the story of his encounter with a bear in Kumano Village. The original text denotes "大熊髪出入即失", and the interpretation has not been decided. In this paper, we will reproduce what ancient Japanese were telling us with various jokes, based on the observation of them who had a good grasp of the nature of Asian black bears that had a white crescent shaped mark on its throat. And we will have to think about the meaning of writing spoken language.

この記事についてブログを書く
« ヤマタノオロチ退治譚の創作... | トップ | 万葉集のトイレットペーパー... »