(承前)
イザナキを追って来たのは「予母都志許売」(泉津醜女)である。和名抄に、「醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古女(しこめ)〉は或る説に黄泉の鬼也といふ。今、世の人、恐れを為す小児の称〈許々女(ここめ)〉は此の語の訛り也といふ。」とある。といって、イザナミはもはや産まず女である。産まず女が入る産屋にして働きに出て、何か別のものを産ませようとしている者は恐ろしい者である。紀には、泉津醜女のことを、「泉津日狭女(よもつひさめ、ヒは甲類)」ともいうとある。母屋から外れた細長い一間を庇・廂(ひさし、ヒは甲類)といい、韓竈の焚き口部分の外縁の庇状のデザインをも連想させ、産屋の女の意であることを示したいのであろう。
最後に桃の実が投げられている。記には、「黄泉比良坂の坂本(さかもと)に到りし時に、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて待ち撃ちしかば、悉(ことごとく)に坂を返りき」とある。黄泉比良坂は矛盾を抱えた言葉である。坂は傾斜があるから坂であり、ヒラ(平)な坂などない。そんな自己矛盾の根本に、桃があるという設定である。その地は桃畑というのではなく、だからこそ、後日談風に、「此桃を用て鬼を避く縁なり。」(一書第九)とあるわけ(注26)で、いろいろな果樹が生えているところであると考えられる。すでに登場していたヤマブドウ(エビカヅラ(蒲子、葡萄))も生えていたであろう。たくさんの種類の果樹があるところは、百果、つまり、モモの実があるところであろう。黄泉国の整序を欠いた不可逆性を反転させる世界では、それら百果をことごとく時間経過を逆転させる勢いがあった。しかし、そこで、百果(もものみ)のなかから「桃子(もものみ、ノ・ミは乙類)三箇(みつ、ミは甲類)を取」っている。限定を表す副助詞ノミ(ノ・ミは乙類)は同音でそれ自身を表し、また、「見(み、ミは甲類)つ」とも同音である。視覚作用によりその実ばかりを選択したということである。相手を待ち受けておいてそれを撃ち投げつけている。相手はひるんで「悉に坂を返」って行ったとある。
桃の実のなかには必ずサネ(核、実)がある。1つの実に1つの核がある。果実の本性は芽を出すところにある。ヤマブドウのように、1つの実に数個の種が入っているのではなく、桃の実ができる前、桃の花が咲いた時も、実と同様の桃色をしている。反転世界の、時間を巻き戻す技が効果を発揮しないということである。数多くの代表として、百(もも、モはともに甲類)と同音らしい桃(もも、モの甲乙不明)がたち現れ、醜女、雷に食べられることはなかった。時間の逆流が食い止められたのである。
「桃子三箇(みつ、ミは甲類)」と断られている。桃の実は瑞々しくで水気が多い。神代紀第五段一書第六では、桃の話はなく、代わりに放尿(ゆまり)による巨川(おほかは)が防いでいる。ピーチジュースの効果を示している。桃は実でも花でもピンク色であり、鳥のトキの色に見ている。上代に「桃花鳥(つき、キは甲類)」という。敵の攻撃を防ぐ濠は、水城(みづき、ミ・キは甲類)である。丸みのある器で飲食物を盛り、特に酒を入れるものをサカヅキと呼ぶものは坏(つき、キは甲類)である。そのうち、お供え物を入れる類のすてきなものなら、御坏(みつき、ミ・キは甲類)という語が想定可能である。同じ音の言葉で同じ意味を表している。だからこそ、竈を廃棄する祭祀に、坏が伏せられることが行われたと考えられる。語学的立場からは、黄泉国の桃の件の案出によって祭祀形態が決まってきていると言えるのである。ヤマトコトバの辞書的逸話作成によって、人々の行動の軌が定まっている。
身の穢れを拭って身を清めるには、コリ、すなわち、香(こり)、および、垢離(こり)が必要であった。仏堂のなかで香を焚くのは、焼香供養とともに、自ら身を清浄にすることでもある。そのため、舶来の香木が珍重されることになる。
沈水(ぢむ)、淡路島(あはぢのしま)に漂着(よ)れり。其の大きさ一囲(ひといだき)。嶋人、沈水といふことを知らずして、薪(たきぎ)に交(か)てて竈に焼(た)く。其の烟気(けぶり)、遠く薫(かを)る。則ち異(け)なりとして献る。(推古紀三年四月)(注27)
香りは鼻で嗅ぐ。一生懸命嗅ぐと、立ち鼻になる。橘と同音である。記事には「竈」も登場している。黄泉国のなぞなぞを考えるきっかけを示してくれているらしい。なぞなぞのヒントの第一の解は、「其烟気、遠薫。則異献。」である。火のないところに煙は立たぬというが、火のあるところには必ず「烟気」は立ち上るはずで、近くには咽るほどにして、遠くには棚引いたら淡くしか感じられないはずである。なのに、「遠薫」ばかり述べられている。そういうことは珍しいから、「異」としているが、常識的な整序と反するからそう記されている(注28)。その秘密は、実は本文中に隠されてもいるのであろう。「以交レ薪焼二於竈一。」とある。古墳時代に作られ始めた竈は、焚き口から薪をくべるが、背後に煙道がついていて家の外へ抜けている。コンロの口には、甕がはめ殺しで据え付けられ、湯を沸かして、その上に甑を置いて蒸す調理が行われた。つまり、「烟気」は漏れ出さず、「遠薫」仕掛けになっている。炉にとって代わった竈は、当初、整序を犯す装置であると認識されていたとわかる。
沈水香(沈香)は、比重が重く、水に沈む。沈む木が浮いて「漂着」している。整序を犯す事柄が起きている。ジンチョウゲ科ジンコウジュ属の木の切り株や倒木の幹に、樹脂分が沈着してできたものである。インドのアッサム地方、ミャンマー北部ほか、東南アジア各地から産出される。もともとの材質は軟らかくて軽く、白色から灰色で香気はない。ところが、木を樵(こ、コは乙類)り取っておいたところ、樹脂分が木質内にしみ込んで凝集、すなわち、凝(こ、コは乙類)り固まり、黒色に変化して、その部分だけを焚くと非常にいい匂いを発する。とても腐朽しにくいが、周囲の材はもとの軽軟なままである。樹脂分の沈着凝集の度合いは部分によって異なり、比重が比較的に軽くてその部分だけでも水に浮かぶものがある。それでもいい匂いのするものを桟香と呼んでいる。正倉院に残る沈水香には、黄熟香(別名、蘭奢待(らんじゃたい))と全桟香がある。いずれも、朽ちて空ろになった巨材である。いたるところに樹脂分の凝集している部分が見つかる。
沈水香は、巨材の状態では水に浮かぶから、浮き沈みしながら淡路島へ達したということになる。ベトナムなどからそのまま流れてきたのではなく、貴重な品として船で運ばれてくる途中で難破したためであろう。高価な沈水香を荷造りしたとすると、「行李(かうり)」に入れていたと思われる。
行李は、(1)漢語で使者、また、その役のことで、行理とも書く。「行李(つかひ)」(欽明紀二十一年九月)とある。(2)漢語で、旅、旅立ち、また、旅支度のこと。(3)旅に携える荷物のこと。(4)竹・柳・藤蔓などで編んで作った物入れのこと。同じ形のものを二つ作って被せ、蓋とする。大は衣装ケースから、小は弁当箱までいろいろあり、破損を防ぐために角に革をあてがってあることも多い。コリ(コの甲乙は不明ながら、母音交替では乙類と推測される)ともいい、本邦では閾の意のシキミとも訓む梱という字を当てた(注29)。部屋に戸を鎖すことで閉ざされるとは、荷物が行李に梱包されることと相似である。つまり、香(こり)を梱(こり)に入れて運んだ。紀一書第十に登場する「菊理媛神(くくりひめのかみ)」は、括ること、つまり、荷造りの神であろうか。
行李(笥、湖南省長沙市馬王堆一号漢墓出土、古玩資訊http://www.hxgwjyw.com/Item/6771.aspx)
梱とは葛籠(つづら)の一種である。葛籠は、もともとツヅラフジなどの蔓で編んで作った櫃のような形の籠のことで、やはり角の傷みやすいところは革で補強した。やがて、竹や檜から取った薄板を網代に編み、上に紙を張って渋や漆を塗り、隅の部分は木枠によって補強されたものへと発展した。禊祓において、海の底から中、上へと浮沈する様は、沈水香が流れてくる様子にダブらせているものと考えられる。紀一書第三に登場する「天吉葛(あまのよさつら)」は、葛籠の材料のことを指しているのであろう。
黄泉国の話は、生活を一変させた竈の登場をテーマにし、仏教、常世、天狗、香木などの外来の文物や観念、また、渡来人という人たちのことをどう捉えたら良いかを語ったものであった。黄泉(よみ)の語源説として、荒川1967.に、「ヨミ【梵 Yami>中 預彌】死後霊魂が行くという所.冥土(めいど).¶「閻摩王国名無仏世界.亦名預彌国.亦名閻魔羅国」『十王経』」(1407頁)、織田1977.に、「ヨミゴク 預彌國 [界名] 閻魔王の世界なり。預彌は閻魔又は夜摩の訛転なり。」「ヨミヂ 黄泉 [界名] 又冥土に作る。人の死して行く所、単に「ヨミ」とも云ひ、「よもつくに」「よみのくに」と云ふ。」(1771頁)とある(注30)。おそらく、【梵 Yami>和 よみ(ヨ・ミはともに乙類)・よも(ヨ・モはともに乙類)】なる語を作って漢語の「黄泉」を当てたのであろう。サンスクリット語の Yama の音写に夜魔といい、閻魔という。霊異記にあるとおり、閻羅ともいう。隋書・韓擒虎伝に、「生まれては上国柱と為り、死しては閻羅王と作る。(生為二上国柱一、死作二閻羅王一。)」とある。「閻」字は、名義抄に、「閻 与苦反、閭閻里、サトノカト、シキミ、サト、和エム」とあり、また、梵語訳に閻浮とも使われる。閻浮は Jambu の漢訳で、法華経義疏に、「閻浮者、此云レ穢。」と意訳もされる。上に論じたように、黄泉国に穢れを見、その境に梱(しきみ)があることが意識されていた。ヨミノクニのノ、ヨモツクニのツはともに連体助詞である。ヨミ・ヨモという語は Yama の音写とするに足るヤマトコトバの義としては、黄泉国の整序を欠く性質があげられよう。事にあるべき順序を無視して鬘がエビカヅラ、櫛がタケノコに戻るような世界であった。Yamaなら坂の上にあろうものを、坂自体が平らなヒラサカの向こうにあるものとして想定されたのであった。ヤマトコトバにヤマ(山)のようでありヤマ(山)でないものは、水を湛えたカルデラ湖の形に譬えられよう。ちょうど竈において甕が嵌め殺しにされて水が入れられて沸き立っている体に同じである。
至極当たり前のことが当たり前でなくなること示すために、ヨモという言葉を造語していると考えられる。それは、中古から現れる副詞のヨモに顕在化している。多く打消の助動詞ジ、マジを伴って、確定的ではないが万一にもそのようなことはあるまいという想定を表す語である。今日でも、ヨモヤ……デハアルマイ、と使われる。そのヨモヤの事態、エビカヅラから鬘ではなく鬘からエビカヅラの実が成ったり、タケから櫛ではなく櫛からタケノコが生えるようなことが起こっているところが、ヨモツクニ(黄泉国)ということである。
筆者は、記上や神代紀に語られている伝承は、確実に伝承しなければならないというモチベーションを持たれるほどに、上代前期、すなわち、飛鳥時代に思われていた、同時代の技術革新を物語っており、しかも、当時の無文字時代のなかで、無文字のままに広汎に伝えていく術をそなえていた、巧みに綾なされたテキストであると考える。記上や神代紀の説話は、5世紀に訪れた目新しい技術と思想を肌感覚で自らのものにしようして、少し遅れて飛鳥時代に包括的、体系的に物語としてまとめ上げられたものである。しかし、そのとき、大多数の人は文字を持たなかった。その無文字の人たちがよくよくわかるように創話したから、聞く耳と伝える心を獲得することができたのであった。無文字社会の人にとっての「理解」とは、文字社会で記号操作に慣れ親しんだ人にとっての「理解」と位相が異なる。すべてをなぞなぞのなかに入れ込め、塗り込めていった知恵ある工夫を知ると、現代とは別筋の豊かな文明が築かれていたことが知れ、大いなる畏敬の念を抱かずにはいられない。そして、このような譬え話をはじめに作った人は、壮大な譬え話の仏典を理解し、義疏を書くほどであった聖徳太子であったろうと推測される。
(注)
(注1)たとえば、小林1976.に、「この[黄泉戸喫の]物語もまた、たんなる口承の伝聞にのみ終るものではなく、現実の行為[墓前炊爨、食物供献]によってつたえ継いだ神話であったのである。」(265頁)、白石2011.に、「イザナギの黄泉国訪問神話にみられる「ことどわたし」を、横穴式石室を閉塞する際に実際に行なわれた死者の現世への思いを断つ儀礼にほかならないと考えた。なおこうした後期古墳の「黄泉国」思想に対して、前・中期古墳における葬送儀礼やその背後の他界観をどう捉えるかについては問題を残している。」(ⅴ頁)、土生田1998.に、「ヨモツヘグイ、コトドワタシの両者とも六世紀以降の横穴式石室が下敷きになっているものと思われる。おそらくこうした儀礼が整備されるのは、六世紀中葉頃であったと思われる……。……それ自身は現実の世界ではない神話の世界の原像を特定の歴史事実の中に見いだそうとする試みはとくに慎重でなければならないだろう。それは歴史事実のみに限定するものではなく、特定の儀礼や慣習の投影に置き換えてもよい。複眼的、重層的な視覚こそが求められるのである。」(312~314頁)、車崎2005.に、「古墳という閉鎖空間は、正者の眼から見れば外部、死者の眼から見れば内部、すなわち内部と外部は対応する。それは、此岸に対する彼岸という意味で、死者の眼から見る内部空間である。だから、古墳を黄泉国に見立てるのは、ごく当たり前の発想で自然のなりゆきだったのである。」(66頁)とある。以上の議論をみてみれば、黄泉国の話が古墳の実情と似ていそうであるという印象から、我田引水的にこじつけてはみたものの、直結できるか躊躇が残ると思って歯切れが悪くなっているとわかる。
文献に書いてあることが発掘したら出てきた(例えば、太安万侶の墓碑銘の発見によって古事記偽書説は潰えた)場合には“科学的”証明になっても、黄泉国の話は横穴式石室の投影されたものであるといった論説は、“科学的”にはどこまでいっても推測の域を出ない。書いてあるのは話であるから、“語学的”証明のみが求められている。その際には、話の細部を捨象することなく、すべて“合理的”に説明する必要がある。
(注2)黄泉国は地下にあるとする一般的な説に対し、神野志1986.は、「「黄泉国」が「黄泉つひら坂」を通じて「葦原中国」とかかわる」(84頁)と捉えている。今日まで、結局のところ、黄泉国はどこにあるように描かれているのかさえ一致した理解をみていない。谷口2018.は、諸説を図解している。
この問題の根底には、古事記の話を神話的要素として、古の人の世界観の表明と捉えて疑わない点がある。“神話”が何をもとにして形作られたか、例えば、横穴式石室によって構想されたとするなら、それはもはや“童話”である。大人は、折に触れて古墳へ埋葬するお葬式を経験する。強く悼む人もいれば、そうでもない人もいる。真面目に聞いていられない話をされても困る。仮に宗教的な世界観を表すものなら、大化の薄葬令をもって立ち消えになるほど弱いもののはずはない。もとより筆者は、黄泉国の話がいわゆる神話であるとは考えない。「黄泉比良坂」とある。言葉に敏感であれば、「坂」がヒラ(平)なはずはないではないかと突っ込むべき自己撞着であろう。論理的真実を見極めなければならない。
(注3)軻遇突智の話において、大系本日本書紀に、「火が女陰から得られるという話はニューギニアを中心とするメラネシアと、南米に多くあり、火切杵と火切臼とを使用する発火法が、男女の交合を連想させる所に起源するものであろうという。また、火を生むことによって、女性が死に、男性と別れるに至るのも、右の発火法からの連想によって解釈される。軻遇突智神話中に多い死体化生のモチーフは東南アジア・メラネシア・南米に広がっており、焼畑耕作を背景としている。」(339頁補注)とある。拙稿「国生みについて」(未発表)参照。
(注4)アハキがツハキに同類の語構成であるという想定は、もちろん、上代の人がヤマトコトバに洒落を言っていると仮定してのもとである。もちろん、話し言葉の世界で、どこまでが真面目なことでどこからが洒落なのか峻別することはできないし、言語にみられる思考の多重性を否定してはならない。特に無文字の言語に関して、言葉とは何であるかについての理論を、言語学は構築できていないように思われる。
(注5)武井1978.参照。また、若尾2012.に、「修験者も護摩をたき、火防の行事を行う。……[三河の]花祭に見られるように釜も焚く。つまり古代鉱業の先駆者でもあって、火の取扱いについては熟練者であった。……秋葉山は修験道場であり、しかも銅山という鉱山地帯である。」(404~405頁)とある。神代紀第五段一書第四に、「伊弉冉尊、火神軻遇突智を生まむとする時に、悶熱ひ懊悩む。因りて吐す。此神と化為る。名を金山彦と曰す。次に小便まる。神と化為る。名を罔象女と曰す。次に大便まる。神と化為る。名を埴山媛と曰す。」とあることも証左かもしれない。金山彦は鉱山神である。
(注6)横浜市歴史博物館2012.に、「古墳時代中期(5世紀ころ)には、伝来してまもないカマドの普及率は全国でも10.0%、関東ではわずか4.0%だったが、続く古墳時代後期(6世紀ころ)には全国平均で72.4%、関東地方では90%を超える爆発的な普及率だったといわれる。」(9頁)とある。古墳時代の近畿地方中央部における時代別の火処の様相、深さについては、中野2010.に整理されている。
(注7)紀の記事には、先んじて、「時伊奘冉尊、為二軻遇突智一、所焦而終矣。其且レ終之間、臥生二土神埴山姫及水神罔象女一。」とあり、続いて「此神頭上、生二蚕与一レ桑。臍中生二五穀一。」とある。
(注8)時代別国語大辞典は、「そそく[灌・灑]」の項に、「ミナソソクの例からみて、ソはともに乙類と考えられるが、ススクと交替することからみて甲類の方が原形であろうか。しばらく甲乙の決定を保留する。」(401~402頁)とする。
(注9)「垢離」は本居宣長説に、川降りの転の当て字とするが、いかがなものであろうか。白川1996.では、垢離にクリとルビを付けている(644頁)。垢は呉音ク、漢音コウで、「離垢(りく)」の語は無量寿経等にあるから、もとは呉音のはずと考えられたのであろう。仏教で香を焚きこめることは、古代のインド人が香油を塗って穢れを去っていたのと同様、身を清浄にする方法であった。わが国において、禊をして身を清めることに似ている。上代に「垢離」という言葉があったと仮定すると、言霊信仰によって、意味が同じなら同じ言葉、同じ音であろうとすると仮定される。「香(こり)」のほうは、時代別国語大辞典上代編に、「コリを「香」の字音から転じたとする説があるが、[ng]の韻尾をラ行に転じて用いた例を知らない。……字音語ではなく和語であろう。」(313頁)とある。他方、「垢離(こり)」のほうは当て字とされている。「凝(凍)(こ)る」、「懲(こ)る」という語は万葉集に見える。
…… 栲(たへ)の穂に 夜の霜降り 磐床(いはとこ)と 川の氷(ひ)凝り 寒き夜を 息(いこ)ふこと無く 通ひつつ ……(万79)
吾が屋戸(やど)に 韓藍(からあゐ)蒔き生(おほ)し 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとそ思ふ(万384)
「凝(こ、コは乙類)る」という語は、凝集や氷結を意味する。また、「懲(こ、コは乙類)る」という語は苦い経験をして考えを二度と同じ過ちをしないようにと思うことをいう。水垢離のさまを見ると、「凝る」状態になって悔い改めて「懲る」ことになっている。推測の域を出ないものではあるが、コリ(コは乙類)という言葉で「香」も「垢離」もヤマトコトバに括られたのではなかろうか。正確に言うなら、いわゆる和訓として言葉が作られたということである。
(注10)丹後半島の浦嶋神社(宇良神社)では、三月十七日の延年祭に、削掛神事が行われる。コブシの皮を剥いだ白い小枝で、俵や繭玉のような形に削り掛けを作る。これを「立花(たちばな)」と呼んでいる。
紀一書第五には、「土俗(くにひと)、此[伊奘冉尊]の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る」とある。体裁は、有馬村の風俗のルポルタージュ記事であるが、花がないときは削り掛けを以て祭ることを示しているようである。鼓吹幡旗からは仏教の飛天の図が思い起こされる。仏教音楽や灌頂幡などを表しているのであろう。上代の人々の観念において、神仏はそれなりの形で習合していたといえる。そうでなくて、どうして「他神(あたしかみ)」(用明紀二年四月)のことを理解できようか。経典に盛んに訓点が付されるのも、ヤマトコトバに考えて理解しようと努めていたことも物語ろう。
(つづく)
イザナキを追って来たのは「予母都志許売」(泉津醜女)である。和名抄に、「醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古女(しこめ)〉は或る説に黄泉の鬼也といふ。今、世の人、恐れを為す小児の称〈許々女(ここめ)〉は此の語の訛り也といふ。」とある。といって、イザナミはもはや産まず女である。産まず女が入る産屋にして働きに出て、何か別のものを産ませようとしている者は恐ろしい者である。紀には、泉津醜女のことを、「泉津日狭女(よもつひさめ、ヒは甲類)」ともいうとある。母屋から外れた細長い一間を庇・廂(ひさし、ヒは甲類)といい、韓竈の焚き口部分の外縁の庇状のデザインをも連想させ、産屋の女の意であることを示したいのであろう。
最後に桃の実が投げられている。記には、「黄泉比良坂の坂本(さかもと)に到りし時に、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて待ち撃ちしかば、悉(ことごとく)に坂を返りき」とある。黄泉比良坂は矛盾を抱えた言葉である。坂は傾斜があるから坂であり、ヒラ(平)な坂などない。そんな自己矛盾の根本に、桃があるという設定である。その地は桃畑というのではなく、だからこそ、後日談風に、「此桃を用て鬼を避く縁なり。」(一書第九)とあるわけ(注26)で、いろいろな果樹が生えているところであると考えられる。すでに登場していたヤマブドウ(エビカヅラ(蒲子、葡萄))も生えていたであろう。たくさんの種類の果樹があるところは、百果、つまり、モモの実があるところであろう。黄泉国の整序を欠いた不可逆性を反転させる世界では、それら百果をことごとく時間経過を逆転させる勢いがあった。しかし、そこで、百果(もものみ)のなかから「桃子(もものみ、ノ・ミは乙類)三箇(みつ、ミは甲類)を取」っている。限定を表す副助詞ノミ(ノ・ミは乙類)は同音でそれ自身を表し、また、「見(み、ミは甲類)つ」とも同音である。視覚作用によりその実ばかりを選択したということである。相手を待ち受けておいてそれを撃ち投げつけている。相手はひるんで「悉に坂を返」って行ったとある。
桃の実のなかには必ずサネ(核、実)がある。1つの実に1つの核がある。果実の本性は芽を出すところにある。ヤマブドウのように、1つの実に数個の種が入っているのではなく、桃の実ができる前、桃の花が咲いた時も、実と同様の桃色をしている。反転世界の、時間を巻き戻す技が効果を発揮しないということである。数多くの代表として、百(もも、モはともに甲類)と同音らしい桃(もも、モの甲乙不明)がたち現れ、醜女、雷に食べられることはなかった。時間の逆流が食い止められたのである。
「桃子三箇(みつ、ミは甲類)」と断られている。桃の実は瑞々しくで水気が多い。神代紀第五段一書第六では、桃の話はなく、代わりに放尿(ゆまり)による巨川(おほかは)が防いでいる。ピーチジュースの効果を示している。桃は実でも花でもピンク色であり、鳥のトキの色に見ている。上代に「桃花鳥(つき、キは甲類)」という。敵の攻撃を防ぐ濠は、水城(みづき、ミ・キは甲類)である。丸みのある器で飲食物を盛り、特に酒を入れるものをサカヅキと呼ぶものは坏(つき、キは甲類)である。そのうち、お供え物を入れる類のすてきなものなら、御坏(みつき、ミ・キは甲類)という語が想定可能である。同じ音の言葉で同じ意味を表している。だからこそ、竈を廃棄する祭祀に、坏が伏せられることが行われたと考えられる。語学的立場からは、黄泉国の桃の件の案出によって祭祀形態が決まってきていると言えるのである。ヤマトコトバの辞書的逸話作成によって、人々の行動の軌が定まっている。
身の穢れを拭って身を清めるには、コリ、すなわち、香(こり)、および、垢離(こり)が必要であった。仏堂のなかで香を焚くのは、焼香供養とともに、自ら身を清浄にすることでもある。そのため、舶来の香木が珍重されることになる。
沈水(ぢむ)、淡路島(あはぢのしま)に漂着(よ)れり。其の大きさ一囲(ひといだき)。嶋人、沈水といふことを知らずして、薪(たきぎ)に交(か)てて竈に焼(た)く。其の烟気(けぶり)、遠く薫(かを)る。則ち異(け)なりとして献る。(推古紀三年四月)(注27)
香りは鼻で嗅ぐ。一生懸命嗅ぐと、立ち鼻になる。橘と同音である。記事には「竈」も登場している。黄泉国のなぞなぞを考えるきっかけを示してくれているらしい。なぞなぞのヒントの第一の解は、「其烟気、遠薫。則異献。」である。火のないところに煙は立たぬというが、火のあるところには必ず「烟気」は立ち上るはずで、近くには咽るほどにして、遠くには棚引いたら淡くしか感じられないはずである。なのに、「遠薫」ばかり述べられている。そういうことは珍しいから、「異」としているが、常識的な整序と反するからそう記されている(注28)。その秘密は、実は本文中に隠されてもいるのであろう。「以交レ薪焼二於竈一。」とある。古墳時代に作られ始めた竈は、焚き口から薪をくべるが、背後に煙道がついていて家の外へ抜けている。コンロの口には、甕がはめ殺しで据え付けられ、湯を沸かして、その上に甑を置いて蒸す調理が行われた。つまり、「烟気」は漏れ出さず、「遠薫」仕掛けになっている。炉にとって代わった竈は、当初、整序を犯す装置であると認識されていたとわかる。
沈水香(沈香)は、比重が重く、水に沈む。沈む木が浮いて「漂着」している。整序を犯す事柄が起きている。ジンチョウゲ科ジンコウジュ属の木の切り株や倒木の幹に、樹脂分が沈着してできたものである。インドのアッサム地方、ミャンマー北部ほか、東南アジア各地から産出される。もともとの材質は軟らかくて軽く、白色から灰色で香気はない。ところが、木を樵(こ、コは乙類)り取っておいたところ、樹脂分が木質内にしみ込んで凝集、すなわち、凝(こ、コは乙類)り固まり、黒色に変化して、その部分だけを焚くと非常にいい匂いを発する。とても腐朽しにくいが、周囲の材はもとの軽軟なままである。樹脂分の沈着凝集の度合いは部分によって異なり、比重が比較的に軽くてその部分だけでも水に浮かぶものがある。それでもいい匂いのするものを桟香と呼んでいる。正倉院に残る沈水香には、黄熟香(別名、蘭奢待(らんじゃたい))と全桟香がある。いずれも、朽ちて空ろになった巨材である。いたるところに樹脂分の凝集している部分が見つかる。
沈水香は、巨材の状態では水に浮かぶから、浮き沈みしながら淡路島へ達したということになる。ベトナムなどからそのまま流れてきたのではなく、貴重な品として船で運ばれてくる途中で難破したためであろう。高価な沈水香を荷造りしたとすると、「行李(かうり)」に入れていたと思われる。
行李は、(1)漢語で使者、また、その役のことで、行理とも書く。「行李(つかひ)」(欽明紀二十一年九月)とある。(2)漢語で、旅、旅立ち、また、旅支度のこと。(3)旅に携える荷物のこと。(4)竹・柳・藤蔓などで編んで作った物入れのこと。同じ形のものを二つ作って被せ、蓋とする。大は衣装ケースから、小は弁当箱までいろいろあり、破損を防ぐために角に革をあてがってあることも多い。コリ(コの甲乙は不明ながら、母音交替では乙類と推測される)ともいい、本邦では閾の意のシキミとも訓む梱という字を当てた(注29)。部屋に戸を鎖すことで閉ざされるとは、荷物が行李に梱包されることと相似である。つまり、香(こり)を梱(こり)に入れて運んだ。紀一書第十に登場する「菊理媛神(くくりひめのかみ)」は、括ること、つまり、荷造りの神であろうか。

梱とは葛籠(つづら)の一種である。葛籠は、もともとツヅラフジなどの蔓で編んで作った櫃のような形の籠のことで、やはり角の傷みやすいところは革で補強した。やがて、竹や檜から取った薄板を網代に編み、上に紙を張って渋や漆を塗り、隅の部分は木枠によって補強されたものへと発展した。禊祓において、海の底から中、上へと浮沈する様は、沈水香が流れてくる様子にダブらせているものと考えられる。紀一書第三に登場する「天吉葛(あまのよさつら)」は、葛籠の材料のことを指しているのであろう。
黄泉国の話は、生活を一変させた竈の登場をテーマにし、仏教、常世、天狗、香木などの外来の文物や観念、また、渡来人という人たちのことをどう捉えたら良いかを語ったものであった。黄泉(よみ)の語源説として、荒川1967.に、「ヨミ【梵 Yami>中 預彌】死後霊魂が行くという所.冥土(めいど).¶「閻摩王国名無仏世界.亦名預彌国.亦名閻魔羅国」『十王経』」(1407頁)、織田1977.に、「ヨミゴク 預彌國 [界名] 閻魔王の世界なり。預彌は閻魔又は夜摩の訛転なり。」「ヨミヂ 黄泉 [界名] 又冥土に作る。人の死して行く所、単に「ヨミ」とも云ひ、「よもつくに」「よみのくに」と云ふ。」(1771頁)とある(注30)。おそらく、【梵 Yami>和 よみ(ヨ・ミはともに乙類)・よも(ヨ・モはともに乙類)】なる語を作って漢語の「黄泉」を当てたのであろう。サンスクリット語の Yama の音写に夜魔といい、閻魔という。霊異記にあるとおり、閻羅ともいう。隋書・韓擒虎伝に、「生まれては上国柱と為り、死しては閻羅王と作る。(生為二上国柱一、死作二閻羅王一。)」とある。「閻」字は、名義抄に、「閻 与苦反、閭閻里、サトノカト、シキミ、サト、和エム」とあり、また、梵語訳に閻浮とも使われる。閻浮は Jambu の漢訳で、法華経義疏に、「閻浮者、此云レ穢。」と意訳もされる。上に論じたように、黄泉国に穢れを見、その境に梱(しきみ)があることが意識されていた。ヨミノクニのノ、ヨモツクニのツはともに連体助詞である。ヨミ・ヨモという語は Yama の音写とするに足るヤマトコトバの義としては、黄泉国の整序を欠く性質があげられよう。事にあるべき順序を無視して鬘がエビカヅラ、櫛がタケノコに戻るような世界であった。Yamaなら坂の上にあろうものを、坂自体が平らなヒラサカの向こうにあるものとして想定されたのであった。ヤマトコトバにヤマ(山)のようでありヤマ(山)でないものは、水を湛えたカルデラ湖の形に譬えられよう。ちょうど竈において甕が嵌め殺しにされて水が入れられて沸き立っている体に同じである。
至極当たり前のことが当たり前でなくなること示すために、ヨモという言葉を造語していると考えられる。それは、中古から現れる副詞のヨモに顕在化している。多く打消の助動詞ジ、マジを伴って、確定的ではないが万一にもそのようなことはあるまいという想定を表す語である。今日でも、ヨモヤ……デハアルマイ、と使われる。そのヨモヤの事態、エビカヅラから鬘ではなく鬘からエビカヅラの実が成ったり、タケから櫛ではなく櫛からタケノコが生えるようなことが起こっているところが、ヨモツクニ(黄泉国)ということである。
筆者は、記上や神代紀に語られている伝承は、確実に伝承しなければならないというモチベーションを持たれるほどに、上代前期、すなわち、飛鳥時代に思われていた、同時代の技術革新を物語っており、しかも、当時の無文字時代のなかで、無文字のままに広汎に伝えていく術をそなえていた、巧みに綾なされたテキストであると考える。記上や神代紀の説話は、5世紀に訪れた目新しい技術と思想を肌感覚で自らのものにしようして、少し遅れて飛鳥時代に包括的、体系的に物語としてまとめ上げられたものである。しかし、そのとき、大多数の人は文字を持たなかった。その無文字の人たちがよくよくわかるように創話したから、聞く耳と伝える心を獲得することができたのであった。無文字社会の人にとっての「理解」とは、文字社会で記号操作に慣れ親しんだ人にとっての「理解」と位相が異なる。すべてをなぞなぞのなかに入れ込め、塗り込めていった知恵ある工夫を知ると、現代とは別筋の豊かな文明が築かれていたことが知れ、大いなる畏敬の念を抱かずにはいられない。そして、このような譬え話をはじめに作った人は、壮大な譬え話の仏典を理解し、義疏を書くほどであった聖徳太子であったろうと推測される。
(注)
(注1)たとえば、小林1976.に、「この[黄泉戸喫の]物語もまた、たんなる口承の伝聞にのみ終るものではなく、現実の行為[墓前炊爨、食物供献]によってつたえ継いだ神話であったのである。」(265頁)、白石2011.に、「イザナギの黄泉国訪問神話にみられる「ことどわたし」を、横穴式石室を閉塞する際に実際に行なわれた死者の現世への思いを断つ儀礼にほかならないと考えた。なおこうした後期古墳の「黄泉国」思想に対して、前・中期古墳における葬送儀礼やその背後の他界観をどう捉えるかについては問題を残している。」(ⅴ頁)、土生田1998.に、「ヨモツヘグイ、コトドワタシの両者とも六世紀以降の横穴式石室が下敷きになっているものと思われる。おそらくこうした儀礼が整備されるのは、六世紀中葉頃であったと思われる……。……それ自身は現実の世界ではない神話の世界の原像を特定の歴史事実の中に見いだそうとする試みはとくに慎重でなければならないだろう。それは歴史事実のみに限定するものではなく、特定の儀礼や慣習の投影に置き換えてもよい。複眼的、重層的な視覚こそが求められるのである。」(312~314頁)、車崎2005.に、「古墳という閉鎖空間は、正者の眼から見れば外部、死者の眼から見れば内部、すなわち内部と外部は対応する。それは、此岸に対する彼岸という意味で、死者の眼から見る内部空間である。だから、古墳を黄泉国に見立てるのは、ごく当たり前の発想で自然のなりゆきだったのである。」(66頁)とある。以上の議論をみてみれば、黄泉国の話が古墳の実情と似ていそうであるという印象から、我田引水的にこじつけてはみたものの、直結できるか躊躇が残ると思って歯切れが悪くなっているとわかる。
文献に書いてあることが発掘したら出てきた(例えば、太安万侶の墓碑銘の発見によって古事記偽書説は潰えた)場合には“科学的”証明になっても、黄泉国の話は横穴式石室の投影されたものであるといった論説は、“科学的”にはどこまでいっても推測の域を出ない。書いてあるのは話であるから、“語学的”証明のみが求められている。その際には、話の細部を捨象することなく、すべて“合理的”に説明する必要がある。
(注2)黄泉国は地下にあるとする一般的な説に対し、神野志1986.は、「「黄泉国」が「黄泉つひら坂」を通じて「葦原中国」とかかわる」(84頁)と捉えている。今日まで、結局のところ、黄泉国はどこにあるように描かれているのかさえ一致した理解をみていない。谷口2018.は、諸説を図解している。
この問題の根底には、古事記の話を神話的要素として、古の人の世界観の表明と捉えて疑わない点がある。“神話”が何をもとにして形作られたか、例えば、横穴式石室によって構想されたとするなら、それはもはや“童話”である。大人は、折に触れて古墳へ埋葬するお葬式を経験する。強く悼む人もいれば、そうでもない人もいる。真面目に聞いていられない話をされても困る。仮に宗教的な世界観を表すものなら、大化の薄葬令をもって立ち消えになるほど弱いもののはずはない。もとより筆者は、黄泉国の話がいわゆる神話であるとは考えない。「黄泉比良坂」とある。言葉に敏感であれば、「坂」がヒラ(平)なはずはないではないかと突っ込むべき自己撞着であろう。論理的真実を見極めなければならない。
(注3)軻遇突智の話において、大系本日本書紀に、「火が女陰から得られるという話はニューギニアを中心とするメラネシアと、南米に多くあり、火切杵と火切臼とを使用する発火法が、男女の交合を連想させる所に起源するものであろうという。また、火を生むことによって、女性が死に、男性と別れるに至るのも、右の発火法からの連想によって解釈される。軻遇突智神話中に多い死体化生のモチーフは東南アジア・メラネシア・南米に広がっており、焼畑耕作を背景としている。」(339頁補注)とある。拙稿「国生みについて」(未発表)参照。
(注4)アハキがツハキに同類の語構成であるという想定は、もちろん、上代の人がヤマトコトバに洒落を言っていると仮定してのもとである。もちろん、話し言葉の世界で、どこまでが真面目なことでどこからが洒落なのか峻別することはできないし、言語にみられる思考の多重性を否定してはならない。特に無文字の言語に関して、言葉とは何であるかについての理論を、言語学は構築できていないように思われる。
(注5)武井1978.参照。また、若尾2012.に、「修験者も護摩をたき、火防の行事を行う。……[三河の]花祭に見られるように釜も焚く。つまり古代鉱業の先駆者でもあって、火の取扱いについては熟練者であった。……秋葉山は修験道場であり、しかも銅山という鉱山地帯である。」(404~405頁)とある。神代紀第五段一書第四に、「伊弉冉尊、火神軻遇突智を生まむとする時に、悶熱ひ懊悩む。因りて吐す。此神と化為る。名を金山彦と曰す。次に小便まる。神と化為る。名を罔象女と曰す。次に大便まる。神と化為る。名を埴山媛と曰す。」とあることも証左かもしれない。金山彦は鉱山神である。
(注6)横浜市歴史博物館2012.に、「古墳時代中期(5世紀ころ)には、伝来してまもないカマドの普及率は全国でも10.0%、関東ではわずか4.0%だったが、続く古墳時代後期(6世紀ころ)には全国平均で72.4%、関東地方では90%を超える爆発的な普及率だったといわれる。」(9頁)とある。古墳時代の近畿地方中央部における時代別の火処の様相、深さについては、中野2010.に整理されている。
(注7)紀の記事には、先んじて、「時伊奘冉尊、為二軻遇突智一、所焦而終矣。其且レ終之間、臥生二土神埴山姫及水神罔象女一。」とあり、続いて「此神頭上、生二蚕与一レ桑。臍中生二五穀一。」とある。
(注8)時代別国語大辞典は、「そそく[灌・灑]」の項に、「ミナソソクの例からみて、ソはともに乙類と考えられるが、ススクと交替することからみて甲類の方が原形であろうか。しばらく甲乙の決定を保留する。」(401~402頁)とする。
(注9)「垢離」は本居宣長説に、川降りの転の当て字とするが、いかがなものであろうか。白川1996.では、垢離にクリとルビを付けている(644頁)。垢は呉音ク、漢音コウで、「離垢(りく)」の語は無量寿経等にあるから、もとは呉音のはずと考えられたのであろう。仏教で香を焚きこめることは、古代のインド人が香油を塗って穢れを去っていたのと同様、身を清浄にする方法であった。わが国において、禊をして身を清めることに似ている。上代に「垢離」という言葉があったと仮定すると、言霊信仰によって、意味が同じなら同じ言葉、同じ音であろうとすると仮定される。「香(こり)」のほうは、時代別国語大辞典上代編に、「コリを「香」の字音から転じたとする説があるが、[ng]の韻尾をラ行に転じて用いた例を知らない。……字音語ではなく和語であろう。」(313頁)とある。他方、「垢離(こり)」のほうは当て字とされている。「凝(凍)(こ)る」、「懲(こ)る」という語は万葉集に見える。
…… 栲(たへ)の穂に 夜の霜降り 磐床(いはとこ)と 川の氷(ひ)凝り 寒き夜を 息(いこ)ふこと無く 通ひつつ ……(万79)
吾が屋戸(やど)に 韓藍(からあゐ)蒔き生(おほ)し 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとそ思ふ(万384)
「凝(こ、コは乙類)る」という語は、凝集や氷結を意味する。また、「懲(こ、コは乙類)る」という語は苦い経験をして考えを二度と同じ過ちをしないようにと思うことをいう。水垢離のさまを見ると、「凝る」状態になって悔い改めて「懲る」ことになっている。推測の域を出ないものではあるが、コリ(コは乙類)という言葉で「香」も「垢離」もヤマトコトバに括られたのではなかろうか。正確に言うなら、いわゆる和訓として言葉が作られたということである。
(注10)丹後半島の浦嶋神社(宇良神社)では、三月十七日の延年祭に、削掛神事が行われる。コブシの皮を剥いだ白い小枝で、俵や繭玉のような形に削り掛けを作る。これを「立花(たちばな)」と呼んでいる。
紀一書第五には、「土俗(くにひと)、此[伊奘冉尊]の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る」とある。体裁は、有馬村の風俗のルポルタージュ記事であるが、花がないときは削り掛けを以て祭ることを示しているようである。鼓吹幡旗からは仏教の飛天の図が思い起こされる。仏教音楽や灌頂幡などを表しているのであろう。上代の人々の観念において、神仏はそれなりの形で習合していたといえる。そうでなくて、どうして「他神(あたしかみ)」(用明紀二年四月)のことを理解できようか。経典に盛んに訓点が付されるのも、ヤマトコトバに考えて理解しようと努めていたことも物語ろう。
(つづく)