古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

藤原宮の役民の作る歌─「図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀」について─

2022年08月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻一の50番歌は、藤原宮を造営するときに駆り出された労役の民が作った歌として記されている。

  藤原宮の役民えのたみの作る歌
 やすみしし 吾が大王おほきみ 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの 藤原がうへに す国を したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら おもほすなへに 天地あめつちも 寄りてあれこそ 石走いはばしる 淡海あふみの国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木まきさく 嬬手つまでを もののふの 八十やそ氏河うぢがはに 玉藻なす 浮かべ流せれ を取ると 騒く御民みたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 吾が作る 日の御門みかどに 知らぬ国 巨勢道こせぢより 我が国は 常世とこよにならむ ふみ負へる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足ももたらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらにあらし(万50)
  右は、日本紀に曰く、朱鳥あかみとり七年癸巳の秋八月に藤原の宮地みやどころいでます。八年甲午の春正月に藤原宮に幸す。冬十二月庚戌の朔乙卯に藤原宮に遷り居しますといへり。
  藤原宮之役民作歌
 八隅知之吾大王高照日乃皇子荒妙乃藤原我宇倍尓食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曽磐走淡海乃國之衣手能田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河尓玉藻成浮倍流礼其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水尓浮居而吾作日之御門尓不知國依巨勢道従我國者常世尓成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河尓持越流真木乃都麻手乎百不足五十日太尓作泝須良牟伊蘇波久見者神随尓有之(注1)
  右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地八年甲午春正月幸藤原宮冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮

 中西1978.の現代語訳を示しておく。

 あまねく国土をお治めになるわが大君、高く輝く日の皇子は、荒布の藤原の野に領(うしは)く国土を統治なさろうと、宮殿も高々と支配なさろうと、さながらの神としてお考えになる。それにつけても、天も地もあい寄りてお仕えするからこそ、岩ほとばしる水の国近江の、衣の袖の田上山の、真木を析(さ)いた檜(ひのき)の荒材を、もののふも多い八十の宇治川に、玉藻のように浮かべては流していることだ。それを引上げようと立ち働く御民とて、家のことは忘れ、わが身もまったく顧みず、鴨であるかのように水に浮かんでは、日の御子の朝廷を造営する、その朝廷にまつろわぬ国も寄りついて来るという巨勢道から、わが国が永遠に栄えるだろう兆(しるし)の図をもった尊い亀も、新しい御代の初めとして出で来る。「いづ」という名の泉川に運び込んだ真木の荒材を、百足らぬ五十(い)かだに組んでは川をのぼらせているようである。役民たちがせっせと働いているのを見ると、これも天皇がさながらの神だかららしい。(74頁)

 本歌は、序詞の多用された歌として知られ、表現が入り組んでいてうまくできている。歴史学からは、第一に、藤原宮の建材は近江産であり、現在の木津川を筏で遡り、人力か畜力を借りて奈良山を越えて運ばれたものであること、第二に、亀の背に何かの図が現れていてそれを祥瑞と見てとって詠んだ歌であることと認められている。文学の方面からは、九句にわたる二重の序が挿入されていてあまりにも言葉の修飾が上手なために、「役民」が「作歌」したものではなくて玄人の、例えば柿本人麻呂やさらに高位の人が「役民」が「作歌」したと擬作したものではないかとする説が提出されている。そのことは瑞兆思想にも通じていたであろうこととも重なるとされている(注2)
左:材木の運搬(石山寺縁起摸本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055231~2をトリミング接合)、右:運搬ルート(奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室展示解説パネル)
 筆者は、木材の運搬事情についてはそう書いてあるからそのとおりであろうと考える。しかし、亀の背に模様が現れていてそれが祥瑞に当たるという指摘や、「役民」に仮託して誰か他の人が作ったのではないかとする説には与しない。問題の焦点は歌中の「圖負留神龜毛」の二句にある。本稿ではその二句について検討する。
 「圖(図)負留神龜(亀)毛」の「図」はフミ、アヤの二訓、「神」はアヤシキ、クスシキの二訓が提案されている(注3)

 フミオヘル アヤシキカメモ … 大系本萬葉集、多田2009.
 フミオヘル クスシキカメモ … 武田1956.、澤瀉1957.、中西1978.、窪田1984.、阿蘇2006.
 アヤオヘル クスシキカメモ … 全集本萬葉集、新編全集本萬葉集、稲岡1997.、北野1999.、伊藤2009.、新大系文庫本万葉集、古典集成本萬葉集

 奈良時代には、祥瑞(注4)として特徴的な亀が現れるとされていた。霊亀(715~717)、神亀(724~729)、元亀(770~781)といった年号はそれによっている。ただし、漢籍の知識に染まったそのような考え方が、時代をさかのぼって「藤原宮之役民」にも一般化していたのか不明である(注5)。「藤原宮之役民」は、藤原宮建設のために徴用された作業員のことで、建材を運ぶのに携わり(注6)、そのことをモチーフにして歌を作っている。近江国の田上山から宇治川、木津川を水路で、そこからは陸路、奈良山を越えて奈良盆地を南下して今日の橿原市に位置する藤原宮まで運んだ。時は藤原宮遷都(持統八年(694)十二月)以前、建設途上時のことである。紀の記事で明らかなのは持統四年(690)十月に高市皇子が藤原の宮地を巡視したのが最初の記事である。690~694年頃に、特異な模様をした亀が見つかったとする記事は見られない。亀を祥瑞とする確実な例は霊亀元年(715)までない。凶兆かとされる記事さえ天智紀九年には見られる。

 六月、邑中獲亀、背書申字、上黄下玄、長六寸許。(天智九年(670)六月)
 辛丑、周芳国、貢赤亀。乃放于嶋宮池。(天武十年(681)九月)
 近江国、献白鱉。(文武元年(697)九月三日)(注7)
 乙卯、長門国、献白亀。(文武四年(700)八月十日)
 丁丑、左京人大初位下高田首久比麻呂献霊亀。長七寸、闊六寸、左眼白、右眼赤。 頸著三公、背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白両点。相次八字。(霊亀元年(715)八月二十八日)

 瑞応図とも呼ばれる図像帳のようなものをもって亀の模様を診断したとする記事はさらに遅れる。

 乙卯詔曰、今年九月七日、得左京人紀朝臣家所献白亀。仍下所司、勘‐検図諜、奏称、孝経援神契曰、天子孝、則天龍降、地亀出。熊氏瑞応図曰、王者不偏不党、尊‐用耆老、不故旧、徳沢流洽、即霊亀出。(養老七年(723)十月十一日)

 これらの状況を勘案した時、「瑞祥としての亀の出現は、天智朝にはじまるとしても、持統朝においては、極めて斬新な新しい思想であったことを確認しておかねばならない。」(北野1999.161頁)とする考えはいたって怪しいと思われる。どのようなことが祥瑞に当たり、時の政府がいかに対処するかについては、儀制令の祥瑞条とその集解(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1878432/102~103)、また、延喜式・治部省の祥瑞条(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991103/338~339)に明文化されているとともに、参考にしたと考えられている芸文類聚・祥瑞部上~下(China-US Million Book Digital Library Project(CADAL)https://archive.org/details/cadal?query=藝文類聚、巻九十八~九十九)のほか、日本書紀、続日本紀の具体例をもとに考えられている。律令制定以前の事柄に関しては、論者によって採るか採らないか判断が分かれるものも見られる。例えば、東野2017.は「赤亀」(天武紀十年九月)を祥瑞として採りはするが、式に見えないことに注意している。天武紀を読む限りにおいては、珍しい色をした亀が朝廷に献上され、庭の池に放ったというばかりのことと考えられ、それを祥瑞記事と決めてかかる根拠は特にない(注8)
 以上見てきたのは、宮廷の“上層部”のありさまである。そんななか宮廷を差し置いて、690年代の前半、万50番歌において、「役民」の言葉として亀の出現が祥瑞であると信じられている、あるいは話としてそういうことが中国の思想にあるらしいと知られている、とはなかなかに考えにくい。この歌には「役民」仮託説があるのだが、仮にそれが真相であったとしても、歌い手を「役民」と定めている限りにおいて、歌う側もその歌を聞く側も第一義的には「役民」であったと想定されなければならない。すなわち、「役民」全般に祥瑞思想が浸透していない限り、風変わりな(?)亀=祥瑞という設定は成り立たないのである。語弊を顧みずに言えば、「役民」は田舎者であり、田舎に亀はいくらでもいて、なかにはへんてこなのもいた。風変わりな模様だというのも、それはもちろん模様に着目して風変わりだと見ようとするから初めてそう気づくものであって、数多く見ている目には単に個体差であるとされて済まされるに違いない。いま一度整理すれば、7世紀において、「亀、背書申字、上黄下玄、長六寸許。」や「赤亀」、「白鱉」、「白亀」なる特徴は、宮廷の人にとって珍しくはあっても、だからと言って祥瑞であると考えていたとは認められず、ましてや田舎者の「役民」の発想に浮かぶものではないと言える。
 捉え方を180° 転換しなければならない。
 「圖負留」の「図」は、模様のことではなく、天智紀にある「申」のように、文字のことを指している。「役民」と瑞応図とは無縁である。しかも、それをフミとしか表現できていないところこそ、それが「役民」であることを如実に表している。すなわち、彼らは基本的に字が読めないのである。読めなくて不自由しないから学ぼうとしない。何と書いてあるかはわからないが、それが文字(フミ)であることはわかる。歌の筆記者はその事情をうまく伝えるために、「圖(図)」という文字を当てていると思われる。
筏で遡上(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579/31をトリミング)
 材木の川流しを詠んでいる最中において「圖負留神龜毛」などと言い及ぶことは、材木に印となる文字が書いてあったからであろう。
 材木ではなく「龜(亀)」と歌の言葉にあるではないかとの指摘は、カメという言葉についての認識が甘い。
 亀はカメ(メは乙類)という音であり、噛むという四段動詞の已然形、カメ(メは乙類)と同音である。噛みつく性質から turtle のことをカメと命名したかもしれないほどである。それはさて、噛むという語は、口を使って物を咀嚼すること、噛みつくことであるが、その動作は、人の口が食道に通じるだけでなく気道に通じていることから、流暢に喋りきれずに言い間違えることまで噛むと言っている。間違えて別の語を話すのではなく、当該語の発音をしくじることである。事前に原稿を用意しておけばそのようなことは少なくなるから、カンペを用意しておいてそれを棒読みすることで噛むのを回避しようとする。古代において、その先駆けとなっているものは、第一に笏であり、第二に祝詞である(注9)。この認識に立てば、「神亀」が「負」へる「図」とはフミのことであるとわかる。材木に文字を書いて運んだということである。
 木に文字を書くことは行われていた。荷札である。荷物に木の札をつけてそれに書いた。藤原宮跡からも荷札木簡が出土している(注10)。同じように都へ送る荷物として、いま、材木がある。材木自体が木なのだから、荷札を別にする必要はなく、材木自体に文字を書いたのであろう。木簡のお化けである。
 何と書いたか。歌のなかに記されている。「真木まきさく 嬬手つまで」、「真木の嬬手」とくり返されている。材木には木簡に記すのと同じように、硬い建材を表す「真木」などと墨書されていたのだろう(注11)
 文字を使わない生活を謳歌している「役民」にとって、ほとんど滑稽とも思えることをしている。マキに「真木」と書いてどうしようというのか。今日、ホームセンターの材木売り場において、ヒノキの材木に「ヒノキ」とシールが貼られているのは、素人にはその木の種類がわからず、帳簿上の整理からもバーコードと紐づけして売られているのである(注12)。ふだんから林業に従事している「役民」にとってみればばかばかしいことこの上ないのであるが、新宮殿建設のためには深い思惑があってそうされているのだろうと思いをめぐらせてみたようである。
風雨に曝された高札(「家内和親等定、正徳元年五月、明治大学博物館展示品)
 すると、墨書している理由に思い当たるところがあった。墨書していると、その部分は風雨に曝されても残るのである。現存する江戸時代の高札に風雨にすり減っているものがある。墨書された文字の部分ばかり、その黒い色は消えていても、木は凸に出で残って何と書いてあったか読み取ることができる。「常世にならむ」としてお上はわざわざ荷の名前を書いているのだと、「役民」は気づいたのである。だから、材木は巨大な笏のように噛まないための、否、すでに噛むことを想定内に入れて対処できるように、フミ(図)が書かれてあるというのである。
 したがって、「我が国は 常世にならむ ふみ負へる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の川に」の部分は、「わが国が永遠になるであろうため、文字を笏か祝詞のように墨書して、噛んでしまうことを事前に最悪の事態として想定しているかのように有り難く尊く、「噛め」という音の亀のように荒材が水面に浮き沈みしているのも、律令を携えた新時代の文字文化のはじまりとして墨で文字を書けば永遠に表面に残り出でる、その「出づ」という音と同じ泉川に」というのが大意である。
 木簡に文字を書いて送ることが歌に詠みこまれている。材木に直に書くまで文字を使う新時代が訪れている。「図」をアヤと訓んでいては意が通じない。「神」をアヤシキと訓んで怪異としていては宮廷を持ち上げることにならない。クスシキと訓んで、当面は必要性が感じられないのに文字を材木の上に書いた、その神妙さを持ち上げているのである。
噛まないための文字=亀(木簡のような材木)イメージ(「いらすとや」様https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_140.htmlを加工して使用)
 この歌は「役民」が作った歌であることに間違いない。力仕事にこき使われて労働条件は決して良いとは言えなかったし、人民の統制は厳しくて身分として固着されていて反抗することもできない。文化的にも無文字の人たちを置き去りにする形で文字時代が到来し、進行していっている。そんななかで「役民」の放った皮肉の一つが万50番歌であった(注13)

(注)
(注1)原文の異体字は整理した。なお、「役民」は上代に選択的に「伇民」と書いていると思うが、特に問題は生じないので区別していない。拙稿「聖徳太子の髪型と疫病(えやみ)の関係について」参照。
(注2)そのようなことを言い出してかまわないのであれば、どのようなことでも言えてしまうし、それは印象論以上のものではない。検証不可能なことを万葉集のテキストに反して唱えても仕方がないので、出典を含めて踏み込まない。
(注3)組み合わせ上、アヤオヘル アヤシキカメモという訓みも考えられるが、アヤの音がダブるためか採られていない。
(注4)祥瑞とは、めでたい前触れのことで、天皇の治政がよろしければ現れるものとこじつけられていた。中国では、陰陽二気の調和不調和は、為政者の徳不徳の反応とする天人相関的な帝王観があって、その影響下にあった。天皇としては自らの治政を自賛する方便となるし、取り入ろうとする者にとっては祥瑞物を報告、献上することに明け暮れることとなった。 ナニコレ珍百景に対して娯楽番組が金一封を提供することに問題はないが、それをもって時の政治を翼賛することなど、中央集権化や環境の都市化、ならびに思考のドグマ化が起こらなければありえない。
(注5)霊亀と改元される因となった亀について、左京人、大初位下の高田首久比麻呂が献上したと記されている。漢の明帝の時のことを記した宋書符瑞志を参考にして霊亀であるとしているが、高田首久比麻呂がその知識を持っていたとは考えられないという(福原1974.13頁)。
(注6)紀にこの時の徴発の記事は見られない。制度化していて特別なことではなかったからか。皇極天皇は蘇我蝦夷大臣に、「起是月十二月以来、欲宮室。可於国々取殿屋材。然東限遠江、西限安芸、発宮丁。」(皇極紀元年九月)なる詔を発している。
(注7)「白鱉」はシロキカハカメと訓まれており、すっぽんのことである。
(注8)縁起の良い前触れとするなら何かめでたいことが続けて記されていていいがそのようなこともない。新幹線や京浜急行の黄色い車両を見ると幸せになると伝えられているのは昭和映画の影響であろうか。
(注9)このモチーフが古代に通底していたから、天寿国繍帳には亀の模様の上に文字が描かれている。拙稿「天寿国繍帳銘を内部から読む」参照。
(注10)例えば、「尾張国海部郡魚鮨三斗六升」(藤原京左京六条三坊西北坪)(奈良文化財研究所「木簡庫」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJCLJ47000101)、「丹波国加佐郡白薬里○大贄久己利魚腊一斗五升和銅二年四月」(藤原京右京七条一坊東北・東南坪)(同https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJHNR84000010)などとある。
(注11)建築時に、墨縄をつけたり、落書きしたり、天地の区別のために「本」などと墨書されることはあった。
(注12)時代が大きく下って産業として林業が発達すると、川流しした時に所有者を区別するために、樹種、伐木所、伐採年、伐木者等を切判で記すことも行われた。古代の状況はわからない。
(注13)この歌を新都造営に携わる人民の熱情、聖なる御代への謳歌であると捉える説があるが、何をか言わんやの域であり、出典を含めて踏み入らない。万葉集にとられている歌の性質について猛省が求められる。近現代に至っても言論統制はいくらでも見られる。そんなときの民の対処の仕方はいろいろである。人の世の常識をわきまえずに文学研究は成り立たない。
 なお、これまでの解釈に「神ながら」について誤りが見られるが、本稿では触れなかった。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第一巻』笠間書房、2006年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版 万葉集─現代語訳付き─』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
江畑1996. 江畑武「皇極紀三年条の祥瑞記事について─中国に於ける禅譲の歴史より見て─」『日本書紀研究』第二十冊、塙書房、平成8年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
北野1999. 北野達「藤原宮役民の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
窪田1984. 窪田空穂『萬葉集評釈 第一巻』東京堂出版、昭和59年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 萬葉集一』新潮社、平成27年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集2 萬葉集一』小学館、昭和49年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三巻の一・二』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
田村1983. 田村圓澄「『日本書紀』と陰陽道」『日本佛教史4 百済・新羅』法蔵館、昭和58年。
東野2017. 東野治之「飛鳥奈良朝の祥瑞災異思想」『史料学遍歴』雄山閣、2017年。
直木1975. 直木孝次郎「持統天皇と呂太后」『飛鳥奈良時代の研究』塙書房、昭和50年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
福原1974. 福原栄太郎「祥瑞考」『ヒストリア』第65号、大阪歴史学会、昭和49年6月。

※本稿は、2022年8月稿において、万50番歌の「図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀」部分ばかりを扱っているために、2023年10月に副題を付し、高札の図版を改めた。

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