記紀に鳥甘とは、鳥養部、鳥飼部のことで、それぞれトリカヒ、トリカヒベと訓む。スワンのような鳥を飼う部民とされている。ヤマト朝廷において、どのように鳥養部が存していたかについては、今日まで少しだけ議論されてきた。しかし、「甘」字をもってなぜカヒと訓むのかについては、あまりにも難しい課題であるため、研究はほとんど皆無と言っていい。瀧川1971.に、「猪甘部は猪飼部である。古事記・日本書紀には、御馬甘・鷹甘等、飼(かい)の意に甘の字を用いているが、甘の字には、甘(あま)い・甘(あま)んずる・恕(ゆる)す・熟する・手際(てぎわ)よい等の意はあるが、飼養の意はない。猪飼(ゐかい)・犬養(いぬかい)の飼・養に代えるに甘の字を以てしたことの説明には、さすがの本居も弱ったとみえて、古事記伝二十三に、……」(81頁)とあり、引用している。その部分は、垂仁記に、「是に天皇、其の御子に因りて鳥取部(ととりべ)・鳥甘(とりかひ)・品遅部(ほむちべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき。」とある個所である(注1)。本居宣長・古事記伝の垂仁記の件には、次のようにある。
○鳥甘部(トリカヒベ)、部ノ字諸本に無し、今は延佳本に依れり、甘は加比(カヒ)と訓ム、書紀には、鳥養部(トリカヒベ)と作(ア)り、凡て古(ヘ)は某養(ナニカヒ)と云養(カヒ)に、多く甘ノ字を用ひたり、記中には、御馬甘(ミマカヒ)猪甘(ヰカヒ)、書紀にも、鷹甘(タカカヒ)猪甘(ヰカヒ)など見え、其ノ外書どもにも多し、【抑養(カヒ)に此ノ字を用るゆゑは、いかなるにか、詳(サダカ)ならねど、若シは詩ノ小雅に、以祈ル二甘雨ヲ一とある、正義に長スルトキハレ物ヲ則為レ甘ト、害スルトキハレ物則為レ苦ト、云る意などか、又◆(食偏に甘)を字書に、音甘餌也とあれば、此ノ字の偏を省ける物か、されど古書には、前椅(クマハシ)など、字義に依らず、別に用ひならへるコトも多ければ、此レも其類にもあらむか、】さて此ノ部は、まづ彼ノ捕得来たる鵠を飼(カ)ふ者を云べく、又別(コト)にも此ノ名を負せて、定められたるもあるか、何(イヅ)れも彼ノ鵠の事に依てにはあるなり、書紀雄略ノ巻、養鳥人(トリカヒビト)あり、また鳥官之鳥(トリノツカサノトリ)、為二菟田ノ人狗一所レテレ囓(カマ)死(シニ)キ、天皇瞋テ黥テレ面ヲ、而為二鳥養部ト一、【鳥ノ官とは 御饌(ミケ)ノ料の鳥を、養(カヒ)設(マ)け置ク所かとも思へど、此ノ天皇の御瞋(ミイカリ)の事を以見れば、さにはあらで、御翫(ミモテアソビ)の鳥なるべし、】また直丁等云々、仍(カレ)詔シテ為二鳥養部ト一とあるなどは、鳥を飼(カフ)人なり、和名抄に、大和ノ国添下ノ郡鳥貝(トリカヒ)【止利加比】ノ郷あり、【貝は借字なり、万葉十二に、取替(トリカヒ)川とよめるも、此(ココ)なり、】此ノ外も鳥養(トリカヒ)てふ地、此彼(ココカシコ)にあり、(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(76/577))
新編全集本古事記の頭注には、「鵠(白鳥)の飼育にあたる部民。『甘』は、『餌』の異体字『◆』の省文。」(209頁)とされている。集韻に、「◆ 沽三切、音甘、餌也。」とある。管見ながら今日まで、これしか説明がない。「鳥甘部」が「鳥餌部」とあって、トリカヒベと訓めるかとなると、「餌」と書いてエサではなくカヒと訓まなくてはならず、それはまたそれで難しい問題である。
ほかに甘字をもってカヒ(養・飼)の意に用いられている例に、「御馬甘(みまかひ)」(仲哀記)、「猪甘」・「馬甘」・「牛甘」(履中記)、「猪甘」(清寧記)、「猪甘津」(仁徳紀十四年十一月条)、「鷹甘部」・「鷹甘邑」(仁徳紀四十三年九月条)、「都努臣牛甘(つののおみうしかひ)」(天武紀十三年四月条)などとある。「甘」字が通例で用いられている。それが今、どうしてカヒと訓むのかわからなくなっている(注2)。
そもそも飼うとはどういうことか。時代別国語大辞典上代編に、「かふ[飼・養](動四)①飼う。動物を飼育する。……②家畜などに飲食物を与える。」(211~212頁)とある。記紀万葉に動詞の例をみると、
鉗(かなき)つけ 吾(あ)が飼ふ駒は 引き出(で)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか(紀115歌謡)
鳥垣(とぐら)立て 飼ひし鴈(かり)の児(こ) 栖立(すだ)ちなば 檀(まゆみ)の岡に 飛びかへり来ね(万182)
矢形尾(やがたを)の 真白の鷹を 屋戸(やど)に据ゑ かき撫で見つつ 飼はくし好しも(万4155)
…… 西の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 東の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りて飼ふがに 水こそは 汲みて飼ふがに ……(万3327、定訓ではない。)
左檜(さひ)の隈(くま) 檜隈河(ひのくまがは)に 馬駐(とど)め 馬に水飲(か)へ 吾(われ)外(よそ)に見む(万3097)
寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以て、敢へて我に養(か)ふべけむや。(神代紀第五段一書第十一)
韓子宿禰等、轡(うまのくち)を並べて往き、河に至るに及びて、大磐宿禰、馬に河に飲(みずか)ふ。(雄略紀九年五月条)
越人(こしのひと)答へて曰さく、「[仲哀]天皇、父(かぞ)の王(きみ)[日本武尊]を恋ひたまはして、[白鳥ヲ]養(か)ひ狎(なつ)けむとしたまふ。故、貢る」とまをす。則ち蒲見別王(かまみわけのみこ)、越人に謂りて曰はく、「白鳥なりと雖(いふと)も、焼かば黒鳥と為るべし」とのたまふ。
などとある。
本来、動物は、自立している。自然界のなかで自分の力で生きている。食べ物、飲み物は自分で確保する。探していって食べたり飲んだりしている。ところが、それが飼われると、一転して与えられることになる。これは、人間でいえば、乳飲み子と同様の存在にあたる。動物的には大人になっているのに、甘やかされている。
動物と人間とは別の生き物である。人間も一つの動物である。飼育するに当たり、新たに野生の動物(の仔)を捕まえることがある。捕まえるのはたいへんである。逃げようとする。捕まえて十分に餌を与えていても、隙あらば逃げる。それがだんだんに慣れてくると、馴れるようになる。なれなれしい態度になってくる。餌は当然貰えるものと思ってくる。甘えた存在になる。
人間とは別の動物だから、ときおり敵対的なこともある。暴れて危害を加えたり、農作物を荒らしたりする。人間どうしでいえば敵である。その緊張関係を和らげてなくすことが、飼うということである。餌を与え、自然界の厳しさから身の安全を保障してあげる。そういう和平交渉こそ、飼うということの一端を表している。時代別国語大辞典上代編に、「あまなふ[和](動四)仲よくする。甘受する。甘(あま)の派生語。」(45頁)とある。用例に、
而れども玖賀媛(くがひめ)、和(あまな)はず。(仁徳紀十六年七月条)
然れども知ること得る日には、和ふこと曾(むかし)より識れる如くにせよ。(推古紀十二年四月条、憲法十七条十三)
故、初の章(くだり)に云へらく、上下和ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其れ亦是の情(こころ)なるかな。(推古紀十二年四月条、憲法十七条十五)
爰(ここ)に大臣、群臣(まへつきみたち)の和(あまな)はずして、事を成すこと能はざるを知りて退(まか)りぬ。(舒明前紀)
寸(きだきだ)に斬(きら)るとも亦甘心(あまなひ)なむ。(遊仙窟)
などとある。もともとは敵であったか、関係がなかった者どうしが仲良くすることを言っている。譲れるところは譲って仲良くするのが互いにメリットが大きいと知ってそうする。まあ良かろう、その点は致し方なかろう、といった頃合いである(注3)。それは、一方的な服従とは異なる。飼われることとは奴隷になることではない。宮沢賢治が描いた、オツベルに使役される象とは異なる。オツベルは象をかわいがらなかった。
わらべ歌に、ホタルが来るのは、苦い水のところではなく甘い水のところである。実際にどうかはわからないが、人々の間でそう信じられている。動物を飼うことができるのも、自然界よりも甘いものが食べられるから居続けることとなる。番犬が繋がれているのは、犬が逃げていってしまわないためというよりも、見知らぬ人が来訪した際、犬が咬みついたりしないためである。吠えることで警備の役を果たしているから、それ以上は求めない。縄を解いたら飼い犬は逃げていくかと言えば、そういうことが絶対にないことはないが、還ってくることが多い。ご飯だよ、と呼べば、尻尾を振って近寄ってくる。料理の上手な奥さんのところに、殿方が必ず帰ってくるのと同じである(注4)。
塩袋(ナマクダン)(西イラン、ルリ・バクティアリ族、1920年頃、羊毛・綿、54×37cm、丸山コレクション蔵)
これは、遊牧民の家畜に似た傾向である。中央アジアや西アジアの遊牧民は、ヒツジの首に縄を結って繫いでいるわけではない。広くユーラシア大陸のどこへでもヒツジは逃げていくことができる。けれども、ヒツジは逃げて行かない。ヒツジは食べ物を人から貰っているのではない。大地に生えている草を食べている。それにつれて遊牧民は移動するが、いずれ人に選ばれて殺されて食べられてしまうとわかっていながら、人から離れようとしない。それは、人が塩を持っているからである。キリムの塩袋に、舌だけを入れて甞めている。たくさん与えると満足して人から離れてしまうから、口を細くして一度に大量には食べられない仕掛けが施されている。つまり、塩袋はヒツジたちをつないでおく生理的な紐なのである(注5)。
本邦に飼われる馬や牛、猪(豚?)、鳥、鷹は、必ずしも塩に繋がれているとは言えない。海に囲まれている。むしろ、餌(や水)に繋がれている。餌付けされている。乾燥させた牧草や豆がらを煮たものの方が、地面に生えている生の草よりもおいしいらしい。効率の悪いミミズ探しよりも人間の残飯の方がおいしいらしい。水面に浮いている藻よりも籾殻の方がおいしいらしい。人間の食べ残しのようなものは、余ったところである。アマシ(甘)とアマル(余)は語幹が共通する。主に与えている餌とは何か。人間は農耕を始めて、品種改良した植物の穎(かひ、ヒは甲類)を収穫するようになった。栽培植物でなければ、あれほど大量の穎はとれない。だから余った甘いものはカヒ(飼・養、ヒは甲類)と同等ということに当たるようである。
池のカモにパンの耳を千切って与えると、喜んで集まってくる。囮を使って招き寄せることもできる。集まって来たところで叉手網(さであみ)を伸ばすと捕まってしまう。宮内庁の鴨場(https://www.youtube.com/watch?v=ppOvNyb72us)では、キャッチ&リリースが行われている。間抜けさに割り切れないものを感じるが、人と動物との関係にはそういう面が見られる。カモシカのように山奥で人間と無関係に生きている動物や、野良ネコのように人間の周りにいながら人間を無視するかのように生きているものもいる。習性だから、古くはあえてカフ(飼・甘)ことはしなかったようである。無理やりにすることは、アマナフ(和・甘)ことではない。
志田1972.に、「鹿やうさぎなどを飼ったり、捕獲したりする部は[記紀ニ]かくべつにみえない。おそらく鹿やうさぎは、特別な部を組織して飼育したり、捕獲したりしなくても、容易に入手できるほど畿内地域に棲息していたのであろう。」(402頁)とある。筆者は承服しがたい。シカやウサギは狩りの対象である。貴族の娯楽として行われていた時、動物園(苑)に放し飼いにしておいて狩りをして獲る方法はあろうが、それがヤマトコトバにカフ(飼・甘)ことに当たるとなると、狩猟の醍醐味は薄らいでしまう。堕落した宮廷貴族のことは不明ながら、狩猟は、野生に対峙してこその楽しみと思う。人に馴れている動物を狩って何が面白いのか、という話である。鹿が奈良や宮島で餌付けされているのは、神の使いなどと持ち上げられてからのことであろう。また、ウサギは、列島に棲息する固有種のニホンノウサギが知られる。警戒心が強く、とても人に馴れるものではない。飼いウサギはヨーロッパ原産のアナウサギの改良品種で、南蛮貿易の頃に入ってきたものであろうか。そもそも最初から食べるために動物を育てるという考えは、現代の養殖、養鶏、養豚などの発想に毒されている。大量に飼育している個体に、いちいち名前をつけてかわいがったりしない。牛の場合は大きくて、また、高値で取引されることや闘牛に使われることもあり、名前をつけて飼育されていることも多い。良い肉を得るためにビールを飲ませることまでしている。ある意味、甘えさせることの極みである。
飼いウサギ(渡辺始興筆、江戸時代、大覚寺杉戸絵)
鷹狩埴輪(群馬県太田市オクマン山古墳出土、6世紀末、新田荘歴史博物館蔵、「太田市HP(http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka26.html)」様)
「○○カヒ部」は、鷹については、主鷹司の属官に「鷹戸(たかかひへ)」とあるものの、必ずしも令制に引き継がれていない。飼う対象の動物に、馬、牛、猪、鳥、鷹があった。馬は主に乗馬、農耕用、牛は牛車の牽引、農耕用、鷹は鷹狩りに用いるためである。犬飼というのももとは狩猟犬や番犬にするためである(注6)。また、鵜飼も鵜を飼っておいて漁業に用いるためである。飼っている動物を大切にしている。単に肥ってきたら食べようというものではなく、何かの手段に使おうとしていた。一方、鳥については、主に鵠(くぐひ、白鳥)を飼っていたとされる。猪(豚?)(注7)についてと同様、食べるためだけとされてしまっている。筆者は違うと考える。
雄略紀に、鳥についての話が3つ載っている。
……身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉の献れる二の鵝(が)を将(も)て、筑紫に到る。是の鵝、水間君(みぬまのきみ)の犬の為に囓(く)はれて死ぬ。別本(あたしふみ)に云はく、是の鵝、筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)の犬の為に囓はれて死ぬといふ。是に由りて、水間君、恐怖(おそ)り憂愁(うれ)へて、自ら黙(もだ)あること能はずして、鴻(かり)十隻(とを)と養鳥人(とりかひ)とを献りて、以て罪を贖(あか)ふことを請(まを)す。天皇、許したまふ。……水間君が献れる養鳥人等を以て、軽村(かるのふれ)・磐余村(いはれのふれ)、二所(ふたところ)に安置(はべらし)む。(雄略紀十年九月~十月条)
……近江国、栗太郡(くるもとのこほり)の言さく、「白き鸕鷀(う)、谷上浜(たなかみのはま)に居(を)り」とまをす。因りて詔して川瀬舎人(かはせのとねり)を置かしむ。(雄略紀十一年五月条)
……鳥官(とりのつかさ)の禽(とり)、菟田(うだ)の人の狗(いぬ)の為に囓はれて死ぬ。天皇瞋(いか)りて、面(おもて)を黥(きざ)みて鳥養部(とりかひべ)としたまふ。是に、信濃国の直丁(つかへのよほろ)と武蔵国の直丁と侍宿(とのゐ)せり。相謂(かた)りて曰く、「嗟乎(あ)、我が国に積(うちつみお)ける鳥の高さ、小墓(をつか)に同じ。旦暮(あしたゆふべ)にして食(くら)へども、尚其の余(あまり)有り。今天皇、一(ひとつ)の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太(はなは)だ道理(ことわり)無し。悪行(あ)しくまします主(きみ)なり」といふ。天皇、聞しめして、聚積(つ)ましめたまふ。直丁等、忽(たちまち)に備ふること能はず。仍りて詔して鳥養部とす。(雄略紀十一年十月条)
十年九月の条は、呉国から貰ったガチョウを犬に噛み殺されてしまったため、水間君という人が天皇を恐れて、オオハクチョウ(「鴻」)とそれを養う人とを天皇に献上することで許しを乞うた話である。ガチョウは、アヒル同様、改良した家禽で飛べない。それを知らずに管理が不行届きとなっていた。だから代わりにと言っては何ですが、オオハクチョウとその管理者で勘弁してくださいというのである。いきものがかりを付けてくるところが心憎い。仮に食べるためだけとしても、今なら冷蔵庫が付いてお得!という設定である。まあ、許そうではないかとアマナフ(和・甘)ことで納得できる。
十一年五月の条は、鸕鷀(う)のアルビノの記事かと思われる(注8)。
カワウのアルビノ(「barbersanの野鳥観察(http://syoubututu.exblog.jp/25013429/)」様)
十月の条は、鳥官が飼っていた禽がイヌに噛み殺されたので、鳥官を入れ墨にして鳥養部にした。それを聞いた信濃国や武蔵国から来ていたアルバイト労務者が、休憩中に無駄話をしていた。お国でならいくらだって鳥はいて食べ尽くすこともないのに、一羽の鳥のために入れ墨にするなんてまったくひどい天皇だと。それを伝え聞いた天皇は、ならば集めてみるようにと指示した。集めることができなかったため、鳥養部にさせられてしまったという話である。
鳥官の飼っていた「禽」とは、鷹狩に使う鷹であろう(注9)。鷹狩の始まりを示す記事は、仁徳紀にある(注10)。
……依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇しびて献る」とまをす。天皇、酒君(さけのきみ)を召して、鳥を示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多(さは)に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷(と)く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)といふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もずの)に幸して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽(たちまち)に数十(あまた)の雉(きぎし)を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養(か)ふ処を号けて、鷹甘邑(たかかひのむら)と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月条)
鷹を一羽飼っておけば、それはたくさん(「数十」)の野生の鳥(「雉」)を手中にしているのも同然である。一羽の鷹は、うず高く積むほどの鳥と同等なのである。それを知らない信濃や武蔵から来ている直丁は、手立てを持たないまま放り出されて鳥を捕ることができなかった。お国でなら、各種の網や鳥黐などの道具を調達できても、直丁として都へ派遣されているから、身一つで来ている。なす術がなかった。結果、鳥の飼育係になるように詔が下ったのである。いきものがかりが鳥を育てて一年に得られるスワンの数と、何回かの冬場の鷹狩によって得られる数では違うし、なにより手間ひまが違い、楽しさも違う。
そして、“食べる”ということしか眼中にない田舎者に対して、天皇は見下しているともいえる。日本書紀で、「鳥養部(とりかひべ)」とあるのは、前述の垂仁紀の誉津別命関係で置かれた部民とこの雄略紀の個所である。令制には受け継がれない。誉津別命が由来で飼っているということは、ハクチョウ(鵠)がいれば、万一、言語障害の御子が生れた際、治療に役立てられると考えられて置かれている。由来が書かれているのだからそれにしたがって物事を考えればよい。ハクチョウの数が増えたり、年を取れば食することもあったであろうが、食べるのが目的で鳥養部を設けてハクチョウを飼っているのではない。だから雄略紀に、鳥養人は蔑まれて表現されている。ほとんど実益に結びつかない人たちである。言葉の原初的な意味において、役立たずの存在である。それはまた、現在の皇居のお濠などのように鑑賞のために飼っているのでもない。鳥の肉を食べたいのであれば、手間のかからないニワトリを飼えば、卵も量産できて有効である。鑑賞用であったとするなら、今日の大きな動物園のように多種類飼ってみたくならないか。ハクチョウだけという根拠が成り立たない。ハクチョウの飼育が後代に残らなかったのは、幸いなことに言語障害の御子が多くは生れなかったからか、ハクチョウの鳴き声療法は必ずしも効果がないと悟ったからであろう。
祈年祭の祝詞に、
御年の皇神の前に白き馬、白き猪、白き鶏、種種の色の物を備へ奉りて、……(延喜式・祝詞・祈年祭)
とある。その最も古い歴史記述は、天智紀にある。
山御井(やまのみゐ)の傍(ほとり)に、諸神(もろもろのかみ)の座(みまし)を敷きて幣帛(みてぐら)を班(あか)つ。中臣金連、祝詞を宣る。(天智紀九年三月条)
白っぽい猪(多摩動物公園、♀、キントン号、2002年生)
黒っぽい猪(多摩動物公園、♀、クロマメ号、2006年生)
猪甘はそのために猪を飼っていたのではないかとも指摘されている。「白馬」はときおり出現する。「白猪」をブタとする説もあるが、当時飼われていたかとされるブタの表皮の色はわからない。今日一般的に見られるような白っぽいものとすると、当たり前のものを捧げることになって特に縁起がいいわけではなくなる。イノシシのこととすると、黒っぽい毛の個体と白っぽい毛の個体がいるから、白っぽいものを当てたとするのが穏当であろう。「白鶏」は白色レグホーンがいるわけではないので、出現を待って選んだということであろう。この「白鷄」は、鳥養部の飼っているハクチョウとは関係がない。ハクチョウはどれも白いから珍しくなく、有難みがない。お供え物には適さないと思うが、世の中は広いので実例があればお教えいただきたい。ほかの「白鳥」記事では、倭建命(日本武尊)の死後に陵墓から飛び立ったいう故事がある。「三の陵(みさざき)を号けて白鳥陵(しらとりのみさざき)と曰ふ」(景行紀四十年是歳条)とある。上記のカフの用例の最後の仲哀紀の例は、それに基づいた話である。仮にそのお話が信仰の形で伝わっていたとすると、霊的な存在をお供えにはしづらいと思う。
「甘」という字で記紀に記されている対称の動物、馬、牛、鷹、鳥(鵠)、猪は、ただ食べるために家畜として飼育されたのではなく、また、鑑賞のためでもなく(神さまに鑑賞(?)していただくという言い方なら正しい場合もあるかもしれないが)、高度に文化的な活用のために飼われたといえる(注11)。
(つづく)
○鳥甘部(トリカヒベ)、部ノ字諸本に無し、今は延佳本に依れり、甘は加比(カヒ)と訓ム、書紀には、鳥養部(トリカヒベ)と作(ア)り、凡て古(ヘ)は某養(ナニカヒ)と云養(カヒ)に、多く甘ノ字を用ひたり、記中には、御馬甘(ミマカヒ)猪甘(ヰカヒ)、書紀にも、鷹甘(タカカヒ)猪甘(ヰカヒ)など見え、其ノ外書どもにも多し、【抑養(カヒ)に此ノ字を用るゆゑは、いかなるにか、詳(サダカ)ならねど、若シは詩ノ小雅に、以祈ル二甘雨ヲ一とある、正義に長スルトキハレ物ヲ則為レ甘ト、害スルトキハレ物則為レ苦ト、云る意などか、又◆(食偏に甘)を字書に、音甘餌也とあれば、此ノ字の偏を省ける物か、されど古書には、前椅(クマハシ)など、字義に依らず、別に用ひならへるコトも多ければ、此レも其類にもあらむか、】さて此ノ部は、まづ彼ノ捕得来たる鵠を飼(カ)ふ者を云べく、又別(コト)にも此ノ名を負せて、定められたるもあるか、何(イヅ)れも彼ノ鵠の事に依てにはあるなり、書紀雄略ノ巻、養鳥人(トリカヒビト)あり、また鳥官之鳥(トリノツカサノトリ)、為二菟田ノ人狗一所レテレ囓(カマ)死(シニ)キ、天皇瞋テ黥テレ面ヲ、而為二鳥養部ト一、【鳥ノ官とは 御饌(ミケ)ノ料の鳥を、養(カヒ)設(マ)け置ク所かとも思へど、此ノ天皇の御瞋(ミイカリ)の事を以見れば、さにはあらで、御翫(ミモテアソビ)の鳥なるべし、】また直丁等云々、仍(カレ)詔シテ為二鳥養部ト一とあるなどは、鳥を飼(カフ)人なり、和名抄に、大和ノ国添下ノ郡鳥貝(トリカヒ)【止利加比】ノ郷あり、【貝は借字なり、万葉十二に、取替(トリカヒ)川とよめるも、此(ココ)なり、】此ノ外も鳥養(トリカヒ)てふ地、此彼(ココカシコ)にあり、(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(76/577))
新編全集本古事記の頭注には、「鵠(白鳥)の飼育にあたる部民。『甘』は、『餌』の異体字『◆』の省文。」(209頁)とされている。集韻に、「◆ 沽三切、音甘、餌也。」とある。管見ながら今日まで、これしか説明がない。「鳥甘部」が「鳥餌部」とあって、トリカヒベと訓めるかとなると、「餌」と書いてエサではなくカヒと訓まなくてはならず、それはまたそれで難しい問題である。
ほかに甘字をもってカヒ(養・飼)の意に用いられている例に、「御馬甘(みまかひ)」(仲哀記)、「猪甘」・「馬甘」・「牛甘」(履中記)、「猪甘」(清寧記)、「猪甘津」(仁徳紀十四年十一月条)、「鷹甘部」・「鷹甘邑」(仁徳紀四十三年九月条)、「都努臣牛甘(つののおみうしかひ)」(天武紀十三年四月条)などとある。「甘」字が通例で用いられている。それが今、どうしてカヒと訓むのかわからなくなっている(注2)。
そもそも飼うとはどういうことか。時代別国語大辞典上代編に、「かふ[飼・養](動四)①飼う。動物を飼育する。……②家畜などに飲食物を与える。」(211~212頁)とある。記紀万葉に動詞の例をみると、
鉗(かなき)つけ 吾(あ)が飼ふ駒は 引き出(で)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか(紀115歌謡)
鳥垣(とぐら)立て 飼ひし鴈(かり)の児(こ) 栖立(すだ)ちなば 檀(まゆみ)の岡に 飛びかへり来ね(万182)
矢形尾(やがたを)の 真白の鷹を 屋戸(やど)に据ゑ かき撫で見つつ 飼はくし好しも(万4155)
…… 西の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 東の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りて飼ふがに 水こそは 汲みて飼ふがに ……(万3327、定訓ではない。)
左檜(さひ)の隈(くま) 檜隈河(ひのくまがは)に 馬駐(とど)め 馬に水飲(か)へ 吾(われ)外(よそ)に見む(万3097)
寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以て、敢へて我に養(か)ふべけむや。(神代紀第五段一書第十一)
韓子宿禰等、轡(うまのくち)を並べて往き、河に至るに及びて、大磐宿禰、馬に河に飲(みずか)ふ。(雄略紀九年五月条)
越人(こしのひと)答へて曰さく、「[仲哀]天皇、父(かぞ)の王(きみ)[日本武尊]を恋ひたまはして、[白鳥ヲ]養(か)ひ狎(なつ)けむとしたまふ。故、貢る」とまをす。則ち蒲見別王(かまみわけのみこ)、越人に謂りて曰はく、「白鳥なりと雖(いふと)も、焼かば黒鳥と為るべし」とのたまふ。
などとある。
本来、動物は、自立している。自然界のなかで自分の力で生きている。食べ物、飲み物は自分で確保する。探していって食べたり飲んだりしている。ところが、それが飼われると、一転して与えられることになる。これは、人間でいえば、乳飲み子と同様の存在にあたる。動物的には大人になっているのに、甘やかされている。
動物と人間とは別の生き物である。人間も一つの動物である。飼育するに当たり、新たに野生の動物(の仔)を捕まえることがある。捕まえるのはたいへんである。逃げようとする。捕まえて十分に餌を与えていても、隙あらば逃げる。それがだんだんに慣れてくると、馴れるようになる。なれなれしい態度になってくる。餌は当然貰えるものと思ってくる。甘えた存在になる。
人間とは別の動物だから、ときおり敵対的なこともある。暴れて危害を加えたり、農作物を荒らしたりする。人間どうしでいえば敵である。その緊張関係を和らげてなくすことが、飼うということである。餌を与え、自然界の厳しさから身の安全を保障してあげる。そういう和平交渉こそ、飼うということの一端を表している。時代別国語大辞典上代編に、「あまなふ[和](動四)仲よくする。甘受する。甘(あま)の派生語。」(45頁)とある。用例に、
而れども玖賀媛(くがひめ)、和(あまな)はず。(仁徳紀十六年七月条)
然れども知ること得る日には、和ふこと曾(むかし)より識れる如くにせよ。(推古紀十二年四月条、憲法十七条十三)
故、初の章(くだり)に云へらく、上下和ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其れ亦是の情(こころ)なるかな。(推古紀十二年四月条、憲法十七条十五)
爰(ここ)に大臣、群臣(まへつきみたち)の和(あまな)はずして、事を成すこと能はざるを知りて退(まか)りぬ。(舒明前紀)
寸(きだきだ)に斬(きら)るとも亦甘心(あまなひ)なむ。(遊仙窟)
などとある。もともとは敵であったか、関係がなかった者どうしが仲良くすることを言っている。譲れるところは譲って仲良くするのが互いにメリットが大きいと知ってそうする。まあ良かろう、その点は致し方なかろう、といった頃合いである(注3)。それは、一方的な服従とは異なる。飼われることとは奴隷になることではない。宮沢賢治が描いた、オツベルに使役される象とは異なる。オツベルは象をかわいがらなかった。
わらべ歌に、ホタルが来るのは、苦い水のところではなく甘い水のところである。実際にどうかはわからないが、人々の間でそう信じられている。動物を飼うことができるのも、自然界よりも甘いものが食べられるから居続けることとなる。番犬が繋がれているのは、犬が逃げていってしまわないためというよりも、見知らぬ人が来訪した際、犬が咬みついたりしないためである。吠えることで警備の役を果たしているから、それ以上は求めない。縄を解いたら飼い犬は逃げていくかと言えば、そういうことが絶対にないことはないが、還ってくることが多い。ご飯だよ、と呼べば、尻尾を振って近寄ってくる。料理の上手な奥さんのところに、殿方が必ず帰ってくるのと同じである(注4)。

これは、遊牧民の家畜に似た傾向である。中央アジアや西アジアの遊牧民は、ヒツジの首に縄を結って繫いでいるわけではない。広くユーラシア大陸のどこへでもヒツジは逃げていくことができる。けれども、ヒツジは逃げて行かない。ヒツジは食べ物を人から貰っているのではない。大地に生えている草を食べている。それにつれて遊牧民は移動するが、いずれ人に選ばれて殺されて食べられてしまうとわかっていながら、人から離れようとしない。それは、人が塩を持っているからである。キリムの塩袋に、舌だけを入れて甞めている。たくさん与えると満足して人から離れてしまうから、口を細くして一度に大量には食べられない仕掛けが施されている。つまり、塩袋はヒツジたちをつないでおく生理的な紐なのである(注5)。
本邦に飼われる馬や牛、猪(豚?)、鳥、鷹は、必ずしも塩に繋がれているとは言えない。海に囲まれている。むしろ、餌(や水)に繋がれている。餌付けされている。乾燥させた牧草や豆がらを煮たものの方が、地面に生えている生の草よりもおいしいらしい。効率の悪いミミズ探しよりも人間の残飯の方がおいしいらしい。水面に浮いている藻よりも籾殻の方がおいしいらしい。人間の食べ残しのようなものは、余ったところである。アマシ(甘)とアマル(余)は語幹が共通する。主に与えている餌とは何か。人間は農耕を始めて、品種改良した植物の穎(かひ、ヒは甲類)を収穫するようになった。栽培植物でなければ、あれほど大量の穎はとれない。だから余った甘いものはカヒ(飼・養、ヒは甲類)と同等ということに当たるようである。
池のカモにパンの耳を千切って与えると、喜んで集まってくる。囮を使って招き寄せることもできる。集まって来たところで叉手網(さであみ)を伸ばすと捕まってしまう。宮内庁の鴨場(https://www.youtube.com/watch?v=ppOvNyb72us)では、キャッチ&リリースが行われている。間抜けさに割り切れないものを感じるが、人と動物との関係にはそういう面が見られる。カモシカのように山奥で人間と無関係に生きている動物や、野良ネコのように人間の周りにいながら人間を無視するかのように生きているものもいる。習性だから、古くはあえてカフ(飼・甘)ことはしなかったようである。無理やりにすることは、アマナフ(和・甘)ことではない。
志田1972.に、「鹿やうさぎなどを飼ったり、捕獲したりする部は[記紀ニ]かくべつにみえない。おそらく鹿やうさぎは、特別な部を組織して飼育したり、捕獲したりしなくても、容易に入手できるほど畿内地域に棲息していたのであろう。」(402頁)とある。筆者は承服しがたい。シカやウサギは狩りの対象である。貴族の娯楽として行われていた時、動物園(苑)に放し飼いにしておいて狩りをして獲る方法はあろうが、それがヤマトコトバにカフ(飼・甘)ことに当たるとなると、狩猟の醍醐味は薄らいでしまう。堕落した宮廷貴族のことは不明ながら、狩猟は、野生に対峙してこその楽しみと思う。人に馴れている動物を狩って何が面白いのか、という話である。鹿が奈良や宮島で餌付けされているのは、神の使いなどと持ち上げられてからのことであろう。また、ウサギは、列島に棲息する固有種のニホンノウサギが知られる。警戒心が強く、とても人に馴れるものではない。飼いウサギはヨーロッパ原産のアナウサギの改良品種で、南蛮貿易の頃に入ってきたものであろうか。そもそも最初から食べるために動物を育てるという考えは、現代の養殖、養鶏、養豚などの発想に毒されている。大量に飼育している個体に、いちいち名前をつけてかわいがったりしない。牛の場合は大きくて、また、高値で取引されることや闘牛に使われることもあり、名前をつけて飼育されていることも多い。良い肉を得るためにビールを飲ませることまでしている。ある意味、甘えさせることの極みである。


「○○カヒ部」は、鷹については、主鷹司の属官に「鷹戸(たかかひへ)」とあるものの、必ずしも令制に引き継がれていない。飼う対象の動物に、馬、牛、猪、鳥、鷹があった。馬は主に乗馬、農耕用、牛は牛車の牽引、農耕用、鷹は鷹狩りに用いるためである。犬飼というのももとは狩猟犬や番犬にするためである(注6)。また、鵜飼も鵜を飼っておいて漁業に用いるためである。飼っている動物を大切にしている。単に肥ってきたら食べようというものではなく、何かの手段に使おうとしていた。一方、鳥については、主に鵠(くぐひ、白鳥)を飼っていたとされる。猪(豚?)(注7)についてと同様、食べるためだけとされてしまっている。筆者は違うと考える。
雄略紀に、鳥についての話が3つ載っている。
……身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉の献れる二の鵝(が)を将(も)て、筑紫に到る。是の鵝、水間君(みぬまのきみ)の犬の為に囓(く)はれて死ぬ。別本(あたしふみ)に云はく、是の鵝、筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)の犬の為に囓はれて死ぬといふ。是に由りて、水間君、恐怖(おそ)り憂愁(うれ)へて、自ら黙(もだ)あること能はずして、鴻(かり)十隻(とを)と養鳥人(とりかひ)とを献りて、以て罪を贖(あか)ふことを請(まを)す。天皇、許したまふ。……水間君が献れる養鳥人等を以て、軽村(かるのふれ)・磐余村(いはれのふれ)、二所(ふたところ)に安置(はべらし)む。(雄略紀十年九月~十月条)
……近江国、栗太郡(くるもとのこほり)の言さく、「白き鸕鷀(う)、谷上浜(たなかみのはま)に居(を)り」とまをす。因りて詔して川瀬舎人(かはせのとねり)を置かしむ。(雄略紀十一年五月条)
……鳥官(とりのつかさ)の禽(とり)、菟田(うだ)の人の狗(いぬ)の為に囓はれて死ぬ。天皇瞋(いか)りて、面(おもて)を黥(きざ)みて鳥養部(とりかひべ)としたまふ。是に、信濃国の直丁(つかへのよほろ)と武蔵国の直丁と侍宿(とのゐ)せり。相謂(かた)りて曰く、「嗟乎(あ)、我が国に積(うちつみお)ける鳥の高さ、小墓(をつか)に同じ。旦暮(あしたゆふべ)にして食(くら)へども、尚其の余(あまり)有り。今天皇、一(ひとつ)の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太(はなは)だ道理(ことわり)無し。悪行(あ)しくまします主(きみ)なり」といふ。天皇、聞しめして、聚積(つ)ましめたまふ。直丁等、忽(たちまち)に備ふること能はず。仍りて詔して鳥養部とす。(雄略紀十一年十月条)
十年九月の条は、呉国から貰ったガチョウを犬に噛み殺されてしまったため、水間君という人が天皇を恐れて、オオハクチョウ(「鴻」)とそれを養う人とを天皇に献上することで許しを乞うた話である。ガチョウは、アヒル同様、改良した家禽で飛べない。それを知らずに管理が不行届きとなっていた。だから代わりにと言っては何ですが、オオハクチョウとその管理者で勘弁してくださいというのである。いきものがかりを付けてくるところが心憎い。仮に食べるためだけとしても、今なら冷蔵庫が付いてお得!という設定である。まあ、許そうではないかとアマナフ(和・甘)ことで納得できる。
十一年五月の条は、鸕鷀(う)のアルビノの記事かと思われる(注8)。

十月の条は、鳥官が飼っていた禽がイヌに噛み殺されたので、鳥官を入れ墨にして鳥養部にした。それを聞いた信濃国や武蔵国から来ていたアルバイト労務者が、休憩中に無駄話をしていた。お国でならいくらだって鳥はいて食べ尽くすこともないのに、一羽の鳥のために入れ墨にするなんてまったくひどい天皇だと。それを伝え聞いた天皇は、ならば集めてみるようにと指示した。集めることができなかったため、鳥養部にさせられてしまったという話である。
鳥官の飼っていた「禽」とは、鷹狩に使う鷹であろう(注9)。鷹狩の始まりを示す記事は、仁徳紀にある(注10)。
……依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇しびて献る」とまをす。天皇、酒君(さけのきみ)を召して、鳥を示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多(さは)に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷(と)く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)といふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もずの)に幸して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽(たちまち)に数十(あまた)の雉(きぎし)を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養(か)ふ処を号けて、鷹甘邑(たかかひのむら)と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月条)
鷹を一羽飼っておけば、それはたくさん(「数十」)の野生の鳥(「雉」)を手中にしているのも同然である。一羽の鷹は、うず高く積むほどの鳥と同等なのである。それを知らない信濃や武蔵から来ている直丁は、手立てを持たないまま放り出されて鳥を捕ることができなかった。お国でなら、各種の網や鳥黐などの道具を調達できても、直丁として都へ派遣されているから、身一つで来ている。なす術がなかった。結果、鳥の飼育係になるように詔が下ったのである。いきものがかりが鳥を育てて一年に得られるスワンの数と、何回かの冬場の鷹狩によって得られる数では違うし、なにより手間ひまが違い、楽しさも違う。
そして、“食べる”ということしか眼中にない田舎者に対して、天皇は見下しているともいえる。日本書紀で、「鳥養部(とりかひべ)」とあるのは、前述の垂仁紀の誉津別命関係で置かれた部民とこの雄略紀の個所である。令制には受け継がれない。誉津別命が由来で飼っているということは、ハクチョウ(鵠)がいれば、万一、言語障害の御子が生れた際、治療に役立てられると考えられて置かれている。由来が書かれているのだからそれにしたがって物事を考えればよい。ハクチョウの数が増えたり、年を取れば食することもあったであろうが、食べるのが目的で鳥養部を設けてハクチョウを飼っているのではない。だから雄略紀に、鳥養人は蔑まれて表現されている。ほとんど実益に結びつかない人たちである。言葉の原初的な意味において、役立たずの存在である。それはまた、現在の皇居のお濠などのように鑑賞のために飼っているのでもない。鳥の肉を食べたいのであれば、手間のかからないニワトリを飼えば、卵も量産できて有効である。鑑賞用であったとするなら、今日の大きな動物園のように多種類飼ってみたくならないか。ハクチョウだけという根拠が成り立たない。ハクチョウの飼育が後代に残らなかったのは、幸いなことに言語障害の御子が多くは生れなかったからか、ハクチョウの鳴き声療法は必ずしも効果がないと悟ったからであろう。
祈年祭の祝詞に、
御年の皇神の前に白き馬、白き猪、白き鶏、種種の色の物を備へ奉りて、……(延喜式・祝詞・祈年祭)
とある。その最も古い歴史記述は、天智紀にある。
山御井(やまのみゐ)の傍(ほとり)に、諸神(もろもろのかみ)の座(みまし)を敷きて幣帛(みてぐら)を班(あか)つ。中臣金連、祝詞を宣る。(天智紀九年三月条)


猪甘はそのために猪を飼っていたのではないかとも指摘されている。「白馬」はときおり出現する。「白猪」をブタとする説もあるが、当時飼われていたかとされるブタの表皮の色はわからない。今日一般的に見られるような白っぽいものとすると、当たり前のものを捧げることになって特に縁起がいいわけではなくなる。イノシシのこととすると、黒っぽい毛の個体と白っぽい毛の個体がいるから、白っぽいものを当てたとするのが穏当であろう。「白鶏」は白色レグホーンがいるわけではないので、出現を待って選んだということであろう。この「白鷄」は、鳥養部の飼っているハクチョウとは関係がない。ハクチョウはどれも白いから珍しくなく、有難みがない。お供え物には適さないと思うが、世の中は広いので実例があればお教えいただきたい。ほかの「白鳥」記事では、倭建命(日本武尊)の死後に陵墓から飛び立ったいう故事がある。「三の陵(みさざき)を号けて白鳥陵(しらとりのみさざき)と曰ふ」(景行紀四十年是歳条)とある。上記のカフの用例の最後の仲哀紀の例は、それに基づいた話である。仮にそのお話が信仰の形で伝わっていたとすると、霊的な存在をお供えにはしづらいと思う。
「甘」という字で記紀に記されている対称の動物、馬、牛、鷹、鳥(鵠)、猪は、ただ食べるために家畜として飼育されたのではなく、また、鑑賞のためでもなく(神さまに鑑賞(?)していただくという言い方なら正しい場合もあるかもしれないが)、高度に文化的な活用のために飼われたといえる(注11)。
(つづく)