古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について

2014年01月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 仁賢紀に、複雑な婚姻関係のために、「母(おも)にも兄(せ)、吾にも兄」となったという頓智話が載る。

 是の秋に、日鷹吉士(ひたかのきし)、[高麗(こま)に]使に遣されて後に、女人(をみな)有りて、難波の御津(みつ)に居りて、哭(ねな)きて曰く、「母(おも)にも兄(せ)、吾にも兄。弱草(わかくさ)の、吾が夫(つま)𪫧怜(はや)」といふ。於母亦兄、於吾亦兄と言ふは、此には於慕尼慕是(おもにもせ)、阿例尼慕是(あれにもせ)と云ふ。吾夫𪫧怜矣と言ふは、此には阿我図摩播耶(あがつまはや)と云ふ。弱草と言ふは、古に弱草を以て夫婦(をうとめ)に喩ふるを謂ふ。故、弱草を以て夫(つま)とす。哭く声、甚だ哀しくして、人をして腸(はらわた)を断たしむ。菱城邑(ひしきのむら)の人鹿父(かかそ)、鹿父は、人の名なり。俗(ひと)、父を呼びて柯曾(かそ)とす。聞きて前に向ひて曰く、「何ぞ哭くことの哀ししきこと、若此(かく)甚しきや」といふ。女人(をみな))、答へて曰く、「秋葱(あきき)の転双(いやふた)双は重なり。納(ごもり)、思惟(おも)ふべし」といふ。鹿父の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言ふ所を知れり。同伴者(ともだち)有りて、其の意(こころ)を悟らずして、問ひて曰く、「何を以て知れるや」といふ。答へて曰く、「難波玉作部鯽魚女(なにはのたまつくりべのふなめ)鯽魚女と言ふは、此には浮儺謎(ふなめ)と云ふ。韓白水郎𤳉韓白水郎𤳉と言ふは、此には柯羅摩能波陀該(からまのはたけ)と云ふ。𤳉は、麦耕(つく)る田なり。に嫁ぎて、哭女(なくめ)を生めり。哭女、哭女と言ふは、此には儺倶謎(なくめ)と云ふ。住道(すむち)の人山杵(やまき)に嫁ぎて、飽田女(あくため)を生めり。韓白水郎𤳉と其の女(むすめ)哭女と、曾(いむさき)、既に倶に死ぬ。住道の人山杵、上(さき)に玉作部鯽魚女を姧(をか)して、麁寸(あらき)を生めり。麁寸、飽田女を娶れり。是に、麁寸、日鷹吉士に従ひて、高麗(こま)に発(た)ち向く。是に由りて、其の妻(め)飽田女、徘徊(たちもとほ)り顧恋(しの)び、失緒(こころまどひ)し心を傷(やぶ)る。哭く声、尤切(けやけ)くして、人をして腸(はらわた)断たしむ。……或本に云はく、……則ち……、異父兄弟(ことかぞのはらから)の故に、……『母にも兄』と曰へるなり。……則ち……、異母兄弟(ことはらのはらから)の故に、……『吾にも兄』と曰へるなり。古は、兄弟長幼(あにおととひととなれるいとけなき)を言はず、女(をみな)は男(をとこ)を以て兄(せ)と称ひ、男は女を以て妹(いも)と称ふ。故、『母にも兄、吾にも兄』と云へらくのみといふ。」(仁賢紀六年是秋)

 この話の血縁・配偶関係については、系図によりわかりやすい。

 引用の最後の省略した分注部分にも、同様の血縁関係が二度にわたり記されている。兄弟姉妹の間では、女性は男性をセと呼んだ。また、結婚相手の男性のことを女性はセと呼んだが、解説部分にその説明はない。結婚相手である「吾が夫(つま)」が高麗(こま)に旅立ってしまったとき、その当該男性は、自分の父親が母方の祖母をレイプしてできた子であったため、「母にもセ、吾にもセ」であると言い立てて妻は哭いていた。哭き嘆いている理由を問うた人は、そのからくりがわかったので、「諾(せ)」と答えて洒落ている。
 分注にくだくだしく血縁関係のことが記され、兄弟姉妹の間での呼称について説明が付されている。しかし、それらの呼称は、紀の編纂された飛鳥時代からみての「古」に限らず、その当時の「今」でもそうであったことは、万葉集に数多くの例が残っている。逆に言うと、わざわざ「古」と注目されるように書いており、ここは頓智クイズの問題ですよ、というしるしにしているらしい。
 今日に至るまで、原文にある、「女人答曰、秋葱之転双双、重也。納、可思惟私矣。鹿父曰、諾。即知所言矣」について、きちんとした理解は得られていないようである。大系本日本書紀の頭注には、「釈紀、述義に「秋時之葱、不太古毛利生。故取喩耳」とある。悲しみの二重なのを、秋葱の二重なのに喩えた言葉。二重の悲しみとは、飽田女にとって舟出する麁寸が、母にとっては兄弟であり、かつ自分にとっては夫であることをいう。」、「分かった、承知したの意。セは、後撰集に「否ともセとも言ひ放て」とあり、奥儀抄に「セとは諾する意なり」とある。ここでは、その分かったの意のセが、兄弟(せ)、夫(せ)という、この場合の大切な言葉と懸詞になっていて、「セ(分かった)、麁寸はお前の母にもセで、お前自身にもセだということだね」という気持を表現している。」((三)139頁)、「奈良朝では、同母の兄弟姉妹の間では、姉妹は兄をも弟をもセと呼び、兄弟は姉をも妹をもイモと呼んだ。従って、同じ母から生れた哭女と麁寸との間では、麁寸は哭女のセである。また、奈良朝では、結婚の相手とする男を、やはり女はセと呼んだ。従って結婚の相手となった麁寸は飽田女から見ればセである。それ故、麁寸は、飽田女の母である哭女にとってもセ、飽田女自身にとってもセである。それで、「母にもセ、我(ママ)にもセ」という表現が成り立つ。」((三)141頁)とある。
 また、新編全集本日本書紀の頭注には、「秋の葱(ねぎ)は一茎の中に二本の茎が包まれていることがあるので、「身の二ごもり」の比喩に用いる。」、「この場合の二ごもりは、二重の悲しみをいう。飽田女にとって、麁寸(あらき)は山寸の子であるから異母の兄弟であり、夫でもあり、さらに母哭女にとっても異父の兄弟である、その麁寸が船出して行くので悲しいというのである。従って、二ごもりは三重の悲しみである。その意味では、「双は重なり」と注するように、二つの意でなく、重なるの意である。」、「諒解・承諾を表す感動詞。この意の語には、ヲ(ウ)もあり、ウベナリもあるが、ここでは、分ったの意のセと兄弟(せ)・夫(せ)とをかけて表現している。」(②261頁)、「昔のセという語の用法は、男で年長者のみをいうのではなく、すべて女から男を「兄(せ)」、男から女を「妹(いも)」という。それゆえ、「母にも異父(ことちち)の兄弟(えおと)」、「吾にも異母(ことはは)の兄弟(えおと)」とは言わずに、「母にも兄(せ)、吾にも兄(せ)」と言ったという内容。要するに、「兄」の字をセと訓むのであって、セを「兄弟」とは記さないという意。」(②263頁)とある。
 両者のそれぞれの説明の後半部には、明らかな誤解がある。麁寸は、哭女から見て同母の兄弟だからセであるように、飽田女から見て異父の兄弟だからセである。そのことのみを紀は主張している。大系本日本書紀では、夫のことをセという点についても懸けて紀が記しているように説明しているが、それは、なぞなぞの謎掛けのみを表記する紀に解説のない事柄である。飽田女は麁寸のことを枕詞を冠してツマと断って呼んでいる。ワカクサノはツマを導く枕詞である。分注の最後には、セの呼称について、「故、……云へらくのみ(故云……耳)」と限ってある。この点を新編全集本日本書紀では、「兄」の字をセと訓み、「兄弟」はエオトと訓むからそう記してあると説明されている。しかし、そういう場合、紀ならば訓注になるであろう。「兄弟、此云勢。(兄弟、此には勢(せ)と云ふ。)」などと記される。漢語の意味との兼ね合いからすれば、そう表現するほうが適切であったはずである。そうしなければ、兄の字には、アニ、エ、コノカミなどといった訓みもできてしまう。そうしなかったのは、ひとえに、紀の編纂者が訓読自体をなぞなぞとして記述しようとする意図があるからである。
 大系本日本書紀、新編全集本日本書紀には、そもそも根本的な誤りがある。本文の問答は、「母にも兄(せ)、吾にも兄」の意味が分かったから、「諾(せ)」と答えた、という直接の展開にはなっていない。確かに、話のなかで、鹿父は「セなり」と洒落て答えている。その後に、「即ち言ふ所を知れり」と付け足して書いてある。さらに、「同伴者有り、其の意を悟らずして、問ひて曰く、『何を以てか知れる』といふ。答へて曰く、……」とあって、延々と複雑な血縁関係が記されている。友だちは何で分かったかと尋ねている。この「何以知乎」の「何以」は、複雑な血縁関係の謎を問うているのではなく、何を手掛かりにして鹿父よ、あなたはその謎が解けたのか、その鍵のところを教えてくれと聞いている。なのに、それには答えずに、血縁関係の説明に徹して誤魔化している。いわば、交際のもつれの際、「この修羅場になんで来たのよ」と理由を問いただされた時、「電車で来た」などと手段、方法で答えて開き直っているようなものである。
 眼目となる中心の問答は、次のように展開している。

 鹿 父:「どうしてそんなにひどく哀しげに哭いているのか?」
 飽田女:「秋の葱が二つの軸が合わさり重なって包まれて一つの茎になっていることがあるでしょう? それをよーく考えてみて!」
 鹿 父:「セだ」
 地の文:つまり、言わんとしていることが知れたのである。
 同伴者:「なんでわかったの?」

 哀しく哭いている訳を問われて、秋の葱を持ち出して謎掛けをしている。その意(こころ)は、セということである。鹿父にとっては、最初から麁寸が飽田女にとって「夫(せ)」とも呼べる間柄であることはわかっていたのであろうが、それを抜きにして話を作っている。異父兄弟(せ)、異母兄弟(せ)とが重なり合うような複雑な血縁関係について、秋の葱を持ち出している。一つの茎の中にある二つの軸葉は、互いに背(せ)と背とを合わせた背中合わせの関係にある。だからセという音の言葉が思い浮かび、ハッとして鹿父は飽田女の謎掛けを判じた。ために思わず口を突いて出てきたのが諾(せ)という洒落であった。
吉岡幸雄先生による襲(かさね)の説明(「まるごと北近畿(http://kitakinki.gr.jp/publictopics/187452)」)
 「転双納(いやふたごもり)」とある。「転」はイヤで、イヨの母音交替形とされる。無限に果てしなく、次第にますます激しく、極度に非常な状態に、などを表す副詞である。背中合わせのままにどんどん先の方へ伸びて行っている状態を言いたいのであろう。「双」はフタで、ヒト(一)の母音交替形である。フタという語は、本来、二つで一対のものの双方が揃っているという概念に基づきつつ、ヒト(一)が単一、同一を表すのに対して、異なりつつペアとなる二つを意味している。夫婦の対のことを暗示している。分注に、「双は重なり」と但し書きされている。新編全集本日本書紀頭注の、「二ごもりは三重の悲しみ」だから「二つの意でなく、重なるの意である」と考えるのは誤りであろう。なぜといって、女人は、植物のネギを思い浮かべよと言っているからである。具体物の秋のネギは、二本の軸葉を束ねて、外側の皮は三重どころではなく何重にも包み込んでいる。「双は重なり」の「重」は、第一に、着物の襲(かさね)の意である。和名抄に、「襲 史記音義に云はく、衣の単複相具ふるは之れを襲〈辞立反、加左禰(かさね)〉と謂ふといふ。爾雅注に云はく、襲は猶ほ重のごとき也といふ。」とある。襲は「おすひ」、上からかさねるものを意味する字である。すなわち、衣にくるまれていることを表している。だから、続いて、糸偏の「納」の字が出てくる。コモリは、囲まれて外界から隔てられて、なかに納まっていることをいう。第二に、「重」と記して注意を喚起している重なりとは、セという言葉の重なり、血縁関係における呼称のセと、背中合わせのセの言葉の重なりをニュアンスさせるものであろう。
「鍋ネギ」(市場流通品)
 これでセについて、兄→背→諾なる展開が見えて、一歩前進した。しかるに、なぜ飽田女は、周りの人を断腸の思いに至らせるほど哭くのであろうか。後文の本文に、「韓白水郎𤳉与二其女哭女、曾既倶死。」とあって、「母にもセ」の母はすでにこの世にいない。亡くなった人を思い浮かべて、遠くへ行ってしまうことをその人の分まで悲しんでいる。これはいかなることか。
 葱は古語に、キ(乙類)である。洒落て「一文字」とも呼ばれた。同音に、棺(き、キは乙類)がある。わざわざ断っている「秋葱」は、「転双納」の状態にある。つまり、二つあるべきキ(葱・棺)が、一つに納められている。それは当時、不吉なことと考えられていたらしい。神功紀に、昼が夜のような暗さになった事件が載る。日蝕が連続して起こっている。長老によると、「あずなひの罪」というもので、二つの社の祝(はふり)を合葬したことによる災いではないかという。調べたところ、小竹(しの)の祝と天野の祝は仲良しだったが、小竹の祝が病死したので天野の祝は泣き悲しみ、生きているときいつも一緒にいたから死んでも一緒にいたいと言って、遺骸の傍に伏して自殺してしまった。そのため合葬したのだが、それが良くないとわかったので改葬することにしたとある。

 是の時に適りて、昼の暗きこと夜の如くして、已に多くの日を経ぬ。時人の曰はく、「常夜(とこやみ)行く」といふなり。皇后(きさき)、紀直(きのあたひ)の祖(おや)豊耳に問ひて曰(のたまは)く、「是の怪(しるまし)は何の故ぞ」とのたまふ。時に一の老父(おきな)有りて曰(まを)さく、「伝(つて)に聞く、是(かく)の如き怪をば、阿豆那比(あづなひ)の罪と謂ふ」とまをす。「何の謂ぞ」と問ひたまふ。対へて曰さく、「二(ふたつ)の社(やしろ)の祝者(はふり)を、共に合せ葬(をさ)むるか」とまをす。因りて、巷里(むらさと)に推問(と)はしむるに、一の人有りて曰さく、「小竹の祝と天野の祝と、共に善(うるは)しき友たりき。小竹の祝、逢病(やまひ)して死(みまか)りぬ。天野の祝、血泣(いさ)ちて曰く、『吾は生けりしときに交友(うるはしきとも)たりき。何ぞ死にて穴を同じくすること無けむや』といひて、則ち屍(かばね)の側(ほとり)に伏して自ら死ぬ。仍りて合せ葬む。蓋し是か」とまをす。乃ち墓を開きて視れば実(まこと)なり。故、更に棺櫬(ひつき)を改めて、各(おのもおのも)異処(ことどころ)にして埋(うづ)む。則ち日の暉(ひかり)炳爃(て)りて、日夜(ひるよる)別(わきだめ)有り。(神功紀元年二月)

 一つ棺に入れるとヒトツヒツキだから、古訓に、ヒトキ(ヒは甲類、ト・キは乙類)とも傍訓がある。二人の遺骸を一つの棺に収めるのは縁起が悪いこととされたらしい。二人を一緒にする棺(ひつき)は、日(ひ、ヒは甲類)と月(つき、キは乙類)とが重なり、日蝕の災いが起こることになるということである。この、一つの棺に二人を合葬することについての話には、次のような例もある。

 是に、大臣と、黒彦皇子(くろひこのみこ)と眉輪王(まよわのおほきみ)と、倶に燔き死(ころ)されぬ。時に、坂合部連贄宿禰(さかあひべのむらじにへのすくね)、皇子の屍(かばね)を抱きて燔き死されぬ。其の舎人等、名を闕(もら)せり。焼けたるを収取(とりおさ)めて、遂に骨(かばね)を択(え)ること難し。一棺(ひとつひつき)に盛(い)れて、新漢(いまきのあや)の𣝅の南の丘𣝅の字(よみ)、未だ詳ならず。蓋し是、槻か。に合せ葬る。(雄略前紀安康三年八月)

合葬は気になる事項だから意識されてわざわざ書かれている。しかし、このときは問題とされていない。新漢の地で調達した棺が、カラウトであったからである(注1)
左:長唐櫃、右:半唐櫃(粉河寺縁起、京都国立博物館https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/emaki/item05.html、脚のついた唐櫃が2人分を示す証拠。)
 すなわち、飽田女の泣き叫びとは、この日蝕のような縁起の悪さを感じてのものであった。血縁的に二つのセが一つになっていたけれど、それは秋のネギのように、背中合わせにくっついたもの、ちょうど一つの棺に二人の屍を納めたのも同然なのである。コモリに納の字が選ばれていた理由は、第一に、お墓をイメージさせたかったからであろう。秋の葱は、二人分を一つに納骨した共同墓地である。永代供養墓といえば聞こえはいいが、要するに無縁墓である。縁がなくなることを予感させている。夫婦としてのつながり、すなわち、「夫(つま)」のはずが、「夫(せ)」と呼ぶことになるという頓智である。本文に、わざわざ枕詞を用いて、「弱草(わかくさ)の、吾が夫(つま)𪫧怜」といい、弱草の語義の解説まで付けている。そのラブラブの関係が、冷え込んでしまうと言おうとしている。セの仲とは背中合わせになって顔を合わさず、仲違いの状態に陥ってしまうことを意味する。それを案じているのである。夫が遠距離の単身赴任をして夫婦が別居状態になり、やがて心も離れて離婚へと向かうのではないか。その心配から、「哭く声、甚だ哀しくして、人をして腸(はらわた)を断たしむ」ほどに悲しんでいる。だからこそあえて、紀の記述のなかに夫をもってセとするという注意書きが施されていなかったのである。
背中合わせイメージ(石人像、飛鳥資料館、ビジネス旅館やまべ様「飛鳥石造物ガイド(明日香村ハイキング・サイクリングコース)」http://yamabe-hotel.sakura.ne.jp/asukamura.php)(注2)
 第二に、納の字は、布帛をもって賦調として納税することを表す。重が襲の意であったから、布のことが思い起こされただけではない。繊維製品を納めるとは、倉に入れることである。正倉院に知られるように、クラには窓がない。ヤマトコトバでは、暗いからクラという。コモルに、常訓の籠の字を当てると、竹で編んだカゴには隙間があって暗さが感じられない。その暗さとは、ちょうど、天照大御神が天の石屋(いわや)に引きこもってしまった時のようである。記の用例に、コモリを音を以て記した瞬間には、こもったときの暗さを表現するのに適当な漢字が思いつかなかったのではないか。

 故是に、天照大御神、見畏(かしこ)み、天の石屋(いはや)の戸を開きて、刺し許母理(こもり)此の三字は音を以てす。坐しき。爾くして、高天原(たかまのはら)皆暗く、葦原中国(あしはらのなかつくに)悉く闇(くら)し。此に因りて常夜(とこよ)往きき。是に、万の神の声は、狭蠅(さばへ)なす満ち、万の妖(わざはひ)は悉く発(おこ)りき。(記上)
 ……乃ち天石窟(あまのいはや)に入りまして、磐戸(いはと)を閉(さ)して幽(こも)り居(ま)しぬ。故、六合(くに)の内(うち)常闇(とこやみ)にして、昼夜(ひるよる)の相(あひ)代(かはるわき)も知らず。(神代紀第七段本文)

 イヤフタゴモリのイヤは程度の盛んなことを表す形状語で、イヨヨ、ヤなどともいう。イヤには弥・益(万葉集)、最(記)などの字が当てられており、名義抄に、頻の字にイヤイヤ、愈・逾・転にイヨイヨと訓じられ、紀でも、弥・逾・愈・転にイヨイヨと訓がついている。仁賢紀のこの箇所では、イヤに、転(轉)の字を用いている。転はまろびころがることである。旦那の麁寸が行くのは高麗(こま)である。独楽(こま)はくるくると回転するものである。そういうなぞなぞ的な文字の選択が行なわれている。それは、別れの哀しさだけでなく、気持ちが転じて離れて行ってしまうかもしれないという不安をも表している。名が飽田女とされているから、飽きられてしまうことを予感させている。譬えに秋葱を使っており、アキ(飽・秋)のキはともに甲類である。イヤと副詞で強調していたのは、嫌(否)のイヤを掛けたかったからであろう。嫌悪の情を表すイヤ(嫌・否・厭)の語は、感動詞として、「いや、田におきては、はやはや取られぬ」(古今著聞集・529)とあるが、上代の文献には確例を見ない。とはいえ、派遣されるのが高麗(こま)で、それと同音、ないし同根の、駒に関連して、「嘶(いな)く」という語が考えられる。

 ……国占めましし時、嘶(いな)く馬有りて、此の川に遇へりき。故、伊奈加川(いなかがは)と曰ふ。(播磨風土記・宍禾郡)

 イナクは、馬の鳴き声をイとする擬声語から、イ+ナク(鳴)とするとされるものの、イナ(否)の音にも通じている。新撰字鏡に、「嘽 士干反、阿波久(あはく)、又馬平労也、阿波久、又馬伊奈久(いなく)」とある。時代別国語大辞典では、「……「嘽」の字の意味や、アハクという別訓より推して、馬が疲れてあえぐ意らしいが、これとの関係は不明である。」(87頁)としている。おそらく、新撰字鏡のイナクの解釈は、馬の鳴き声のイから取られたことばと、拒否するイナから取られたことばとを兼ね合わせていると考えたものであろう。説文に、「嘽 喘息也。口に从ひ単声。詩に『嘽嘽駱馬』と曰ふ」とある。詩経・小雅・鹿鳴之什・四牡の例は、諸説あるが、毛伝には、「嘽嘽、喘ぐ息の貌なり」とある。馬車に繋がれた馬があえいで声をあげている様子である。疲れてうなって嫌がっている。また、訓のアハクは、ア(噫)+ハク(吐)の義であろう。感動詞のアには、これも上代に用例を見ないものの、特に狂言で不服の意を示す返事の声を表すことがある。
 仁賢紀に、ネナク(哭)とあるのは、イナク(嘶)との駄洒落であろう。この馬のとどろくような鳴き声に匹敵するほどの人の激しい哭き声としては、イサチルという語がある。途方もない大音量を以て泣き叫ぶことである。上述の神功紀に、「天野の祝、血泣(いさ)ちて曰く、」と見える。イサチルには、上一段と上二段の両用あるという。須佐之男命の例は、やがて天照大御神の石屋ごもりへの伏線となっている。

 ……速須佐之男命(はやすさのをのみこと)は、命(おほ)せらえし国を治めずして、八拳須(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで、啼き伊佐知伎(いさちき)也。伊より下四字は音を以てす。下此に効へ。……「何の由にか、汝が事依さえし国を治めずして、哭き伊佐知流(いさちる)」とのりたまひき。……「僕(やつかれ)は、邪(あ)しき心無し。唯し、大御神の命以て、僕が哭き伊佐知流(いさちる)事を問ひ賜ふが故に白(まを)し都良久(つらく)三字音を以てす。、『僕は、妣(はは)が国に往かむと欲ひて哭く』とまをしつ。……」(記上)
 [素戔嗚尊(すさのをのみこと)]且(また)、常に哭き泣(いさ)つるを以て行(わざ)とす。(神代紀第五段本文)
 然れども[素戔嗚尊]天下(あめのした)を治(しら)さずして、常に啼き泣(いさ)ち恚恨(ふつく)む。(神代紀第五段一書第六)
 俯し仰ぎて喉咽(むせ)び、進退(しじま)ひて血泣(いさ)つ。(垂仁紀五年十月)
 泣(いさち)悲歎(なげ)きて曰(さを)さく、……(垂仁紀九十九年明年三月)
 皇后(きさき)、天(おほぞら)に仰ぎて歔欷(なげ)き、啼泣(いさ)ち傷哀(かなし)びたまふ。(雄略紀十四年四月)
 ……不覚(おろか)に涕(なみだ)垂りて哀泣(いさ)ちらる。(雄略紀十四年四月)
 即便(すなは)ち灑涕(いさ)ちて愴(いた)み、心に纏(むすぼ)れて歌ひて曰く、……(武烈即位前紀)
 妃(みめ)、床に臥して涕泣(いさ)ち、惋痛(あつか)ひて自ら勝(た)ふること能はず。(継体紀八年正月)
 少幼(わかき)は慈(うつくしび)の父母(かぞいろは)を亡へるが如くして、哭き泣(いさ)つる声、行路(みち)に満てり。(推古紀二十九年二月)

 大系本日本書紀の補注に、「イサチという語は、相手の言葉に対して、「知らない」と拒否する意のイサの派生語であり、他人が押しとどめようと思っても、それを拒否して泣き叫ぶ意の言葉である。」((三)378頁)とある。すなわち、大きな声でいやだいやだと泣きじゃくっている様子である。仁賢紀の飽田女も、「哭声甚哀、令人断一レ腸。」、「何哭之哀甚此。」、「哭声尤切、令人腸断。」ほどに哭いている。すなわち、イサチている。飽田女の母の名は、哭女と記されている。神代紀第九段本文に、「哭女(なきめ)」、記上に、「哭女(なくめ)」とあり、天稚彦(天若日子)(あめわかひこ)の殯(もがり)、すなわち、葬送儀礼の際に哭くのを専門とする女性が登場している。韓国では、現在でも見られる風習である。キ(棺)のことを連想させる。
以上から、イナ、イサ、イヤは同じように、感動詞として、否・厭・嫌の意を同様に表していることがわかる。なぜなら、最終的に、イヤフタゴモリということばは謎掛けだから、イヤが no の意を含意していることによって、yes を表す「諾(せ)」が鹿父の頭のなかで導き出されたとわかるからである。なぞなぞは、論理の円環をもってここに完結する。
 記紀万葉の表現は、このように、多くの意味を掛け合わせ兼ね備えていることが多くある。紀の文を借りるなら、上代の表現にはそれ自体に、「転双双、重也。納」の工夫が施されている。現代に至るまで後の時代の人は、上代の言語文化とは違う文字文化に立って解釈しているから看過してしまっている。我々は、上代の人が確かに持っていた、ゆたかな知恵のかたまりであるなぞなぞがわからず、頓智がきかず、知識だけで頭でっかちになってしまった。透けながら幾層にも重なりあうように、巧みに緻密に織り上げられた上等のテクスチャーが目の前に差し出されているにも関わらず、その素晴らしさに少しも気づかない。紀の編纂執筆者から見れば、こと言語生活においては、薄っぺらな人生を歩んでいる程度の低い人たちであると言われても仕方がないようである。

(注)
(注1)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の𣝅は、ウドである」参照。
(注2)セなる関係の“具象物”の存在について、本稿ではコメントを控える。

(引用・参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。

※本稿は、2014年1月稿を改めた2018年2月稿を2020年8月に整理したものである。

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