古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

十七条憲法の「和」の訓みについて(2/2)

2022年04月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)次のように記されている。見やすいように改行している。

 夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七條
一曰以和為貴無忤為宗人皆有黨亦少達者是以或不順君父乍違于隣里然上和下睦諧於論事則事理自通何事不成
二曰篤敬三々寶々者佛法僧也則四生之終歸萬國之極宗何世何人非貴是法人鮮尤悪能教従之其不歸三寶何以直枉
三曰承詔必謹君則天之臣則地之天覆地載四時順行万氣得通地欲覆天則致壊耳是以君言臣承上行下靡故承詔必慎不謹自敗
四曰羣卿百寮以礼為本其治民之本要在乎礼上不礼而下非齊下無礼以必有罪是以羣臣有礼位次不乱百姓有礼國家自治
五曰絶餮棄欲明辯訴訟其百姓之訟一日千事一日尚尓況乎累歲頃治訟者得利為常見賄聽讞便有財之訟如石投水乏者之訴似水投石是以貧民則不知所由臣道亦於焉闕
六曰懲悪勧善古之良典是以无匿人善見悪必匡其諂詐者則為覆國家之利器為絶人民之鋒剱亦侫媚者對上則好說下過逢下則誹謗上失其如此人皆无忠於君无仁於民是大乱之本也
七曰人各有任掌冝不濫其賢哲任官頌音則起姧者有官禍乱則繁世少生知尅念作聖事無大少得人必治時無急緩遇賢自寛因此國家永久社稷勿危故古聖王為官以求人為人不求官
八曰羣卿百寮早朝晏退公事靡盬終日難盡是以遅朝不逮于急早退必事不盡
九曰信是義本毎事有信其善悪成敗要在于信羣臣共信何事不成羣臣无信万事悉敗
十曰絶忿棄瞋不怒人違人皆有心々各有執彼是則我非我是則彼非我必非聖彼必非愚共是凡夫耳是非之理詎能可定相共賢愚如鐶无端是以彼人雖瞋還恐我失我獨雖得従衆同擧
十一曰明察功過罸賞必當日者賞不在功罸不在罪執事羣卿冝明賞罸
十二曰國司國造勿斂百姓國非二君民無兩主率土兆民以王為主所任官司皆是王臣何敢與公賦斂百姓
十三曰諸任官者同知職掌或病或使有闕於事然得知之日和如曽識其非以與聞勿防公務
十四曰羣臣百寮無有嫉妬我既嫉人々亦嫉我嫉妬之患不知其極所以智勝於己則不悅才優於己則嫉妬是以五百之乃今遇賢千載以難待一聖其不得賢聖何以治國
十五曰背私向公是臣之道矣凡人有私必有恨有憾必非同非同則以私妨公憾起則違制害法故初章云上下和諧其亦是情歟
十六曰使民以時古之良典故冬月有間以可使民従春至秋農桑之節不可使民其不農何食不桑何服
十七曰夫事不可獨断必與衆冝論少事是軽不可必衆唯逮論大事若疑有失故與衆相辨辞則得理(推古紀十二年四月)

(注2)日本国語大辞典に、「わ【和】[名]①やわらぐこと。おだやかなこと。*六義(1428)……*俳諧・本朝文選(1706)……②互いに仲よくすること。また、争っていたものが、仲直りすること。*十七箇条憲法(604)……*太平記(14C後)……*経国美談(1883-84)……*戦国策-趙策・孝成王……③うまくつりあうこと。調和がとれていること。*西国立志編(1870-71)……④他人の詩に韻を合わせて作ること。*運歩色葉(1548)「和 ワ 韻」⑤相手の詩歌に応答する形で詩歌を作ること。*明月記-建久二年(1191)……⑥数学で、二つ以上の数や式を加えて得られる数や式。*数学ニ用ヰル辞ノ英和対訳字書(1889)……*零の発見(1939)……」(1223頁)とある。十七条憲法の用例は異常に古いものである。
(注3)和辻2011.に、「この憲法は、憲法と呼ばれているにかかわらず、形式の上で道徳的訓戒に近いものである。……憲法は、国家のことに関する限りの・・・・・・・・・・・・人の道を説いたものである……。従ってそれは、官吏に対して、官吏としての道徳的な心がけ・・・・・・・・・・・・・を説いたものである。その関心するところは公共的生活・・・・・であって、私的生活ではない。その説くところの心がけも、おのずから国家の倫理的意義を説くことになるのである。」(170~171頁)とある。
(注4)偽作説や後の仮託の作、太子像虚構説などいろいろあるが、本稿は、「古事記・日本書紀・万葉集を読む」ことを行っている。読んでいてとてもリアルに感じられるので、でっちあげ説には関心がない。
(注5)抽象的な概念を言葉としたものとして、カミ(神、ミは乙類)という語があげられよう。これは二音である。もとからあるヤマトコトバの一音の語、ワ(輪・吾)以外にも、例えば、ヰ(井・猪)、ツ(津)、ヲ(尾・緒・雄)、ス(巣・洲・酢)などに、抽象的な概念が忍び込む余裕があったとは考えにくい。ヲ(雄)は陽物をもってヲ(尾・緒)である。ナ(名)も二人称のナ(汝)を表す呼び方が名前である。いずれも具体語の派生と考えられる。擬声語や擬態語から言葉の由来を解く試みも見られる。ウ(鵜)は、ウ(肯)と言わざるを得ずに魚を吐かされているからウであろう。いまにハイと同等語のウンに続いている。擬声語、擬態語の類は、抽象語とは別次元にあると考えなければならない。
 憲法十七条において、「」は外来語由来に想定されている。いかに仏教が盛んになっていたからといっても、寺院内ではなく役所のことである。論語・子路に「子曰く、君子は和して同せず。小人は同して和せず。」とあるから理解していたはずだという前提は、「和」をクワとは漢音読みしなかったという説明が必要である。憲法の十五条で感慨にふけっている文章からも否定される。そこでとりあげられているのは、初章の「上和下睦」である。千字文の文言で、初学書を持ち出さなければならないほど識字レベルは低い。宮仕えしている舎人など、前年はお国で鍬を振るっていたかもしれない。そんな輩を前にして、はなっから wa などと外来語を持ち出しては理解されるべくもない。
(注6)小島1973.に、憲法十七条の文章の対句に注目して句読点を対句に従って目配りした訓みが行われている。句読を中心に文脈をとることに主眼が置かれ、「「和」をアマナヒと訓むか、ヤハラギ・ヤハラカナルコトと訓むかは必ずしも問題ではない─作者の思ひ通りには訓めないから─。」(816頁)として「作者のいき」の再現に努めたとしている。漢文風に対句表記があったとして、それに縛られて訓読文を考えることは疑問である。漢文仕立ての文章に韻が踏まれていたとして、到底日本語音を訳すことはできないし、日本語の地口を外国語にうまく訳すことも難しい。書いてある形が対句だから対句的に「曰」ったとすることはできないだろう。小島氏の句読法は筆者の読みと異なる。
(注7)姊崎1988.に、伝聖徳太子筆の法華義疏から“復刻”する試みが行われており、興味深い。義疏にない字が現われるから完成はしないという。「条(條)」は助数詞でヲチと訓まれる。細長いものや細長く連ねた形のものに用いられる。「小幡十二条ちひさきはたとをあまりふたをち」(推古紀三十一年七月)、「禁式九十二条いさめののりここのそあまりふたをち」(天武紀十年四月)とある。布や板に書いて官吏たちに見せた可能性を探るため、姊崎氏作成の復刻をひとつづきの細長いものとして切り貼りする“実験書誌学”を行った。これを眺めていると、きっと書いて示したのであろうという気がしてくる。
左:太子筆復刻憲法十七「条」、右:菩薩立像幡(絹本着色、敦煌莫高窟蔵経洞出土、唐時代・9世紀、東京国立博物館、ギメ東洋美術館交換品、文化遺産オンライン・国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/450701)
(注8)つづく「無忤為宗」も持って回った言い方である。「さかふることきをむねよ。」は、さかふることが無いのをモットーにせよ、それが一番だ、という意味である。「和」によって「無忤」が現出されるのである。井上2013.は、「憲法の「和」の思想は相手を思いやるといった積極的なものではなく、争いを避けるという消極的なものである点に注意しなければならない。」(6頁)としているが、通俗的な「和」の理解の上のものである。
(注9)大人になるということは一人立ちするということである。精神面においても一人立ちしているはずであると、自他ともに認めるのが大人である。その大人に対して説諭することは大変なことである。人格に対する毀損も兼ねてしまうからである。する方もされる方もとても恥ずかしい。方便として酒を飲みながら執り行われている。酔ってしまえば、人格の否定に当たることも、わからなくなっているから許されてしまう。間違った方向に行き過ぎた例として、酒の席でのセクハラや飲酒運転などがあり、許されない事態となる。現在の日本国憲法に高らかに謳われている基本的人権の尊重は、大人に対する説諭や訓戒をさらに難しいものにしている。
(注10)大系本日本書紀補注に、「憲法十七条を文章形式の上から見ると、各条はそれぞれ、はじめにその条の綱領を命令の形であげ、ついで、それ以下にこれを演繹して、説明を与えるという構造を持っている。従って訓読においても、各条が命令の形を含みように訓むのがよかろうと思われる。」(388頁)とある。
(注11)「和」字を含む日本書紀の古訓に、「和幣にきて」、「和順まつろふ」、「和享にこむ」、「和魂にきみたま」、「和好よしび」、「和顔悦色うれしぶ」、「和解あまなはしむ」、「寛和やはらか」、「和親にきび」、「通和かよふ」、「温和心やはらけきこころ」、「不和やくさむ」などがある。
(注12)赤尾2013.には次のようにある。

 ……有名な第一条の「以和為貴」の「和」の訓は、最初の平安時代十世紀の朱書で「ヤワラク」、続いて十一世紀には「カナル」との墨書が加えられ、全体として「ヤワラカナル」と読まれ、更に室町時代の一条兼良が左右に各々「アマナヒ」と訓を施した。「ヤワラク」は、「おだやかになる・柔和になる」という意味であろうし、「アマナヒ」は「和解・同意・仲よし」という意味となろう。時代によって、訓読や解釈、またニュアンスが変わることを示している好資料ともなっている。(93頁)

 赤尾氏は、現代に通じるように「ヤワラク」と記されている。朱書ならびに古文には「ヤハラク」が正しい。
(注13)「其亦是情歟」は、「其れ亦是のこころなるかな。」(岩崎本古訓、大系本日本書紀)と訓まれているが、カナは平安以降に現れる語である。小島1973.も、「……「それまたこのこころなるかも」と。」と余韻を加える訓みをしている。また、「其れ亦是のこころならむと。」(新編全集本日本書紀)とも訓まれているが、「歟」字をもってムカと訓むとは考えにくい。近藤2019.は、万葉集の「~ムカ」を四類に分けている。その形式からすると、「危惧・期待の用例」の、「内容は話者の強い関心ある未実現事態であり、カ(モ)はそれに対する話者の強い関心を示す。」(134頁)ものとなるが、それには当てはまらない。前段に条件(バ)を表す語が登場していない。
(注14)説明は、「体言または活用語の連体形を承ける。活用語を承ける場合、その活用語は推量とか打消の意を伴っていることが多い。疑問はその意味をやわらげれば慨嘆になる。」(1459頁、例注は割愛した)とつづいている。
(注15)不思議であると考えて「歟」を衍字とする説もある。河村秀根・益根の書紀集解に、「原有歟字。傍訓讒入。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1157934/24)と注されている。「情」を「コヽロ」と訓んでいるのだから、何も讒入とする必要もないと思われる。最後のカという助詞の疑問・詠嘆が、誰が誰に対して発したものなのか不可解とする考えは、憲法十七条の作者である太子が、自分の作った原稿の第一章を見直してどうだろうかと思い返すことなど変ではないかという指摘なのであろう。しかしここは、程度の低い聞き手にわかるように、と初学書の千字文を持ち出して懇切に教えているのである。第十五条に「初章云」の文言がある以上、第一条を仏教的な和合の精神から捉えることは、思想的な“背景”としては外れていないかもしれないが、言葉づかいの上ではあまりにも迂遠である。なにしろ、この「憲法」は、思想書ではなくて“訓示”である。
 そして、“訓示”であれば、「初章云……歟」とあって何ら不思議ではない。“法典”と捉えるとすると、条約などの条文を含めてみれば、最終条項に論理階梯を混乱させる念押しの文言を登場させつつ並列で記す場合があり、そこから類推して措定することになるが、あくまでも“訓示”であって言語感覚的には何ら問題はない。口頭発表の文章に入り乱れを非とすることはない。
(注16)池田2006.に、「漢字千字を重複することなく用い、四字句を連ねた韻文としたもの。りょう周興嗣しゅうこうしが、武帝の子息の学習用に作り、以後後代まで、広く漢字文化圏で初学書として普及した。」(199頁)とある。
(注17)千字文のこの部分は、「上和下睦 夫唱婦随」とある個所である。陽明文庫蔵の千字文音決による音訓両訓のいわゆる文選読みでは、「シヤウクワとかみやはらいで カボクとしもむつまじ フシヤウとをつとよんで フスイとめはしたがふべし」(小川・木田1984.125頁、文語仮名遣いのみ記した)とある。上野本注千字文注解には、「睦親也人君有寛和仁恕之徳者則諸侯来親也夫唱善道則女随其命也」(18頁)と注されている。山田・安本1937.に、「【字義】上は尊き人をさし、下は卑き人を指せるなり。和はやはらぎて程合ほどあひのよろしきをいふ。古文に咊又は龢に作れり。睦は親愛の心、面目にあらはれて、和らぎたるをいふ。」(73頁)、「【解】凡て人倫の中に尊卑あり、そのかみたる尊きものは、温和にしてしもたる卑きものに接し、卑きものは、尊き人に対するに、親しみ睦しくして、敬和の心深く、互いに深切にすべきなり。」(74頁)とある。
(注18)第七条の「尅念作聖」という句も千字文にもあるが、もとは書経・多方篇に由来している。
(注19)宮地2008.には、「「故に初章に云わく、上下和諧せよと。其れ亦是の情なるか」とあるように、第十五条のみが第一条と接続されている。すなわち、第一条の上下の和諧というのは、第十五条の精神によるということが、第十五条では述べられている。第十五条は、法家の「公法」の原則を定めているため、ここから、第一条の「和」は、「公法」の確立と実践によって実現されるという憲法の論理を解明できるのである。」(176頁)とある。強引な議論は、「」を読んでいないことによる。
(注20)山田1935.の「則」の解説に、用言の已然形にバを添えてよむ「レバ則」と、用言の未然形にバを加えてよむ「ラバ則」について、接続副詞と説明され、それ以外に、「即」、「乃」と同じように用いられる副詞としての用法を確かめられている。「経伝釈詞に曰はく 則者承上起下之詞、広雅曰則即也 といへるものはこれその接続詞としての性質をいへるものなれば、今の関する所にあらず。次に曰はく 則猶其也 則猶而也 則猶乃也 と。かくの如きに至りては、「則」「即」「乃」同じといふこととなり、その意はここに於いてせずして彼に求めざるべからざることとなる。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586/91)とある。純然たる副詞の用法の「則」は、「其」、「而」、「即」と読み替えられるものである。
(注21)音転して形容動詞化したニコヤカ・ニコヨカ(「和」)に次のような例がある。家にいることが多い女性をしてニキ・ニコ(和)であると形容して確かである。
 
 蘆垣の 中のにこ草 にこよかに 我を笑まして 人に知らゆな(万2762)
 秋風に 靡く川びの 和草にこぐさの にこよかにしも 思ほゆるかも(万4309)
 夫に随ひ柔〈尓古也可二にこやかに〉儒〈ヤハカニ〉して、練りたる糸綿の如し(霊異記・中・27)

(注22)拙稿「鳥「甘」とは何か」参照。
(注23)それはかなりの程度浸透しており、今日に至るまで日本的な特徴であると言われるものかもしれない。土居2007.に解かれている独特の人間関係の基盤は、聖徳太子によって官僚制の確立と表裏一体に奨励され、普及していったものなのかもしれない。一方、現代社会では、家族のうちでさえ甘えが忘れられがちである。「個人」が尊ばれその関係を傑出させたためであろうか。「あまなふ」ことよりも自立こそが大事であるとさえ捉えられている。社会というものが自己家畜化に過ぎないことに気づかず、社会的自立と家庭内の甘えの間に共立できない斥力が働くと思っている。家族の構成員の心は必ずしも同じ方向を向いておらず、幸福感に問題が生じているようにも思われる。これら歴史社会心理学については本稿の課題ではない。
(注24)昔ながらの日本の会社には、そういう家族主義的なところがあり、社畜となって幸せを感じる人々がいる。聖徳太子の憲法十七条は、この国の人々の精神史においていきづいているのである。けっして大それた思想体系などではない。仏教的な慈悲心や儒教的な道徳心では語れない事柄を、太子は官吏に述べて徹底させようとしている。
 梅原1989.は、第十三条を評して次のように言っている。「この[第十三]条には原典探しの好きな学者たちも、原典を見いだすことはできない。まったく太子の政治実感からでた条文だからであろう。私は、日本の官僚かんりょうの悪口をいったが、しかし他国と比べると、はるかに日本のほうがすぐれている。このことは、この官僚制かんりょうせい基礎きそをつくった太子が、千年の将来を見通したような、かかる的確にして精密な訓誡くんかいをしていることと無関係であろうか。」(734~735頁)。今日、役所で門前払いやたらい回しにあうことは多いが、そうしない方が行政機関としてばかりか行政執行者、いわゆるオカミ(「上」)にとって実は好都合であることに気づかなくなったのは、組織化の弊害と全体を俯瞰する視野を欠いてしまったためであろう。この十三条の「和」に、「上」字も「下」字も冠されないのは、大前提として官吏が「上」であると決まっているからである。

(引用・参考文献)
赤尾2013. 赤尾栄慶「岩崎本日本書紀 書誌解題」京都国立博物館編『国宝岩崎本日本書紀』勉誠出版、2013年。
姊崎1988. 姊崎正治「御筆集成の三経義疏抄と十七条憲法の條章及外国語訳文に就きて」坂本太郎編『聖徳太子全集 第一巻 十七条憲法』臨川書店、1988年。1942年初出。『上宮太子聖徳王文抄』1935年(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125025)。
池田2006. 池田温編『日本古代史を学ぶための漢文入門』吉川弘文館、2006年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
上野本注千字文注解 黒田彰・後藤昭雄・東野治之・三木雅博『上野本注千字文注解』和泉書院、1989年。
梅原1989. 梅原猛『新版 聖徳太子 上巻』小学館、1989年。1980年初出。
小川・木田1984. 小川環樹・木田章義『注解千字文』岩波書店、1984年。
学研漢和大字典 藤堂明保『学研漢和大字典』学習研究社、昭和53年。
小島1973. 小島憲之『国風暗黒時代の文学 中(上)─弘仁期の文学を中心として─』塙書房、昭和48年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
近藤2019. 近藤要司『古代語の疑問表現と感動表現の研究』和泉書院、2019年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。1965年初出。
築島・石塚1978. 築島裕・石塚晴通『東洋文庫蔵岩崎本日本書紀』貴重本刊行会、昭和53年。
土居2007. 土居健郎『甘えの構造 増補普及版』弘文堂、2007年。1971年初出。
中村1998. 中村元『聖徳太子 中村元選集〔決定版〕別巻6』春秋社、1998年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
宮地2008. 宮地明子「日本古代国家論─礼と法の日中比較より─」舘野和己・小野田泰直編『古代日本の構造と原理』青木書店、2008年。
諸橋漢和大辞典 諸橋徹次『漢和大辞典 第二巻』大修館書店、昭和31年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586
山田・安本1937. 山田準・安本健吉註解『評釈 千字文』岩波書店(岩波文庫)、昭和12年。
和辻2011. 和辻哲郎『日本思想倫理史(一)』岩波書店(岩波文庫)、2011年。1962年初出。

※本稿は、2017年4月稿を、聖徳太子1400年御聖忌にあたる年の2022年4月に整理し、大幅に書き改めたものである。

(English Summary)
In this paper, we will consider how to read "和" in the 17 Article Constitution by Prince Shotoku. Thinking about how to read at that time is directly linked to defining the overall meaning of the sentence. It wasn't read aloud as "wa". This is because no abstract operation is performed in a non-character society. All "和" in the 17 Article Constitution should be read as “amanafu”. It meant domesticating and keeping well. Free the people from the dangers of the wild and feed them with sweet foods to settle down. Instead, try to provide labor and taxes. It should not be over-exploited and cause a rebellion. Keeping them well was what the superiors of society should do. It was the spirit of “和”.

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