古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

鏡王女(かがみのおほきみ)の歌─天智天皇にからんで─

2021年08月30日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 鏡王女かがみのおほきみの歌は重出を含めて万葉集に五首残されている。ここでは天智天皇がらみの歌について検討する。

  額田王ぬかたのおほきみの、近江あふみの天皇すめらみことを思ひて作る歌一首
 君待つと 吾が恋ひれば 我が屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く(万488)
  鏡王女の作る歌一首
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに むとし待たば 何かなげかむ(万489)
  額田王思近江天皇作歌一首
 君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹
  鏡王女作歌一首
 風乎太尓戀流波乏之風小谷将来登時待者何香将嘆(注1)

 新大系文庫本の訳に、「あなたのおいでをお待ちして、恋しい思いをしていると、私の家の簾を動かして、秋の風が吹きます。」、「風をなりと待ち恋うているとは羨ましい。風をなりと来るだろうと思って待つならば、何を嘆くことがあるでしょう。」(337頁)とある。諸解説に大同小異である。「簾動かし 秋の風吹く」と歌うところは、中国の閨怨詩による発想であるとも指摘されて久しい(注2)。「額田王思近江天皇作歌一首」に対して近江天皇、すなわち、天智天皇ではなく鏡王女が応えている。それが「相聞」の部立に配されている。これまでの研究にはさまざまな疑問が呈されている(注3)。「秋の風吹く」には、①錯覚説(失望)、②前兆説(悦待)、③風使説(期待)、④景趣単叙説があるとされる(注4)。また、額田王の歌と鏡王女の歌との間に齟齬があると指摘されている。「風をだに 来むとし待たば 何をか嘆かむ」という状況は特殊なもので、落ち着きがないと思われている。
 額田王の歌と鏡王女の歌には、緊張感に落差が感じられる。万488番歌に何ら嘆き節が聞かれないのに、万489番歌に「何か嘆かむ」と息せききって言い返している点は追究されなければならない。喧嘩腰な反応である。筆者は、「秋の風」について、⑤秋山之下氷壮夫あきやまのしたひをとこ反映説を提唱する。すでに額田王には、万16番歌、春秋競憐歌に「秋山」を偏重する姿勢が示されている。それは、秋山之下氷壮夫のことを歌っていた。応神記にある実際の兄弟の戦に、忍熊王と応神天皇の間のものがあり、母親である神功皇后の支援により弟の応神天皇が勝利している。そのときには武内宿禰が補佐している。記に載る秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫はるやまのかすみをとこ伊豆志袁登売いづしをとめをめぐる争いの説話では、其の母が弟の春山之霞壮夫を援助して勝っている。現時点でも、兄に当たる天智天皇は弟の大海人皇子と争っているように考えて、亡母の斉明天皇の支援が弟側に向いているかに感じ、内臣にあたる中臣鎌足が大海人皇子側についていると思い込んでいる。そんな三者関係をめぐる天智天皇のノイローゼを具現化したのが、春秋競憐歌であった(注5)

 額田王は政府のスポークスウーマンだから天皇の立場で歌を歌っていた。それをうけて万488番歌に「秋の風」と歌っているのも、天皇のノイローゼによる思い込みを同調的に歌っているのである。現実には、額田王は大海人皇子との間に十市皇女を生んでいる。天智天皇のおなりを待っていたわけではなく、天皇の意向を代詠するように恋の歌に仕立てているだけである。一方、鏡王女については、天皇の最側近、内臣にあたる中臣鎌足の「嫡室鏡女王」(興福寺縁起)と伝えられている。関連する「相聞」歌が万93・94番歌にある。天皇のノイローゼ気味の考え方を促進されては困ると、鎌足の立場で歌っている。風なんかを待ち恋うているとは履き違えていないか。秋風の来るのを思い待つことなどして、伝承の世界に類想を働かせて嘆いてなどいたら政治体制は揺らぐことになるのではないか、というのである。「秋山の 木の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそなげく」(万16)といった感傷の世界を現実界に広げられては困るのである。
 天皇の意を汲んだ歌に対して反論した歌である。朝廷の安定に資するのであれば額田王はいくらでも歌ってくれてかまわないが、天皇一人のノイローゼ気味の意向によって朝廷全体が動揺させられたら大変である。天智天皇の「嘆き」はノイローゼによる曲解なのだから、是正する方向へ認知療法が施されなくてはならない。くだらない考えを振り回すのはやめるようにと鏡王女は歌っている。誰も天智天皇のことを秋山之下氷壮夫のようだなどと思っていない。天皇が被害妄想に取りつかれているだけで、そんな妄想に付き合うのはまっぴらである。すなわち、この歌は、中臣鎌足から天智天皇への諫言を代弁する歌なのである。初期万葉において、政治的メッセージをもった歌は「雑歌」に属されているところ、天皇から周囲への布告であれば「雑歌」であるが、それに反して「相聞」の部立に入れられている。一般に「相聞」は男女の間の恋心をやりとりするものである。それに準える形で上申する歌が歌われている。天智天皇と中臣鎌足とが閣議でやりとりしたことが、この「相聞」の歌に則しているということになる。
 天智天皇と鏡王女との相聞歌は、万91・92番歌に見られる。

   近江大津宮あふみのおほつのみやに御宇あめのしたしらしめしし天皇代すめらみことのみよ天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみことおくりなを天智天皇と曰ふ。〉
  天皇、鏡王女に賜ふる御歌一首
 いもが家も ぎて見ましを 大和やまとなる 大島のに 家もあらましを〈一に云はく、「妹があたり 継ぎても見むに」、一に云はく、「家らましを」〉(万91)
  鏡王女、こたたてまつる御歌一首
 秋山の の下がくり 行く水の われこそ益さめ おもほすよりは(万92)
   近江大津宮御宇天皇代天命開別天皇謚曰天智天皇
  天皇賜鏡王女御歌一首
 妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾一云妹之當継而毛見武尓一云家居麻之乎
  鏡王女奉和御歌一首
 秋山之樹下隠逝水乃吾許曽益目御念従者

 天智天皇に鏡王女に対する恋慕の情があり、男女の「相聞」の歌い合いが行われている。その「奉和歌」にも「秋山」が登場している。現天皇からずっと見続けていたいものよと歌って来られたら、受ける気がなくても口では思っていますよと和えざるを得ない。そのとき、「秋山の の下がくり 行く水の」という比喩表現を使った。姿は見せないけれど思っていますということは、察しがつく人なら逢うことはないというお断りの返事だとわかるだろう。
 すなわち、万91・92番の相聞歌は、万16番の春秋競憐歌の前に歌い交わされ、そこで用いられた「秋山」という語から、天智天皇は自らが秋山之下氷壮夫の立場にあると誇大解釈して勝手に動揺し、政権内における立場までそうだろうと疑心しているのである。秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の伊豆志袁登売をめぐる争いに鏡王女は準えられてしまい、内臣にあたる中臣鎌足が大海人皇子側についているとの邪推は、鏡王女が鎌足の室で、拒んでいるところから生まれたものであろう(注6)。そして、天皇は、その間の自分の気持ちを理解してくれるウタ(歌)が歌われることを願い、ウタゲ(宴)、今でいうバーベキューの開催に至っている。「又、舎人等にみことのりして、宴を所々にせしむ。時の人曰はく、『天皇、天命みいのち将及をはりなむとするか』といふ。」(天智紀七年七月)。史実が簡潔に記されている。そして歌われたのが額田王の春秋競憐歌(万16)であった。
 横恋慕に始まったこのノイローゼ、何とかならないかという考えは「時の人」の総意であり、鏡王女の「何か嘆かむ」(万489)に表れているのであった(注7)

(注)
(注1)巻第8・万1606~1607番歌に重出している。
   秋相聞
  額田王思近江天皇作歌一首
 君待跡吾戀居者我屋戸乃簾令動秋之風吹
  鏡王女作歌一首
 風乎谷戀者乏風乎谷将来常思待者何如将嘆
(注2)土居1960.は、「清風動帷簾 晨月照幽房 佳人処遐遠 蘭室無容光 ……」(玉台新詠・巻二、張華・情詩五首・其三)を引いている(36頁)。出典論の研究は検証作業を伴うものではなく、万葉集に「簾」歌が当該歌(重出)に限られるのかも考慮の外にある。筆者は、秋になってもかけていたすだれを殊更に言っているのではないかと考えている。なお、簾状編物は、新潟県青田遺跡、神奈川県池子遺跡などに出土例があるが、使用目的は不明である。言葉としてのスダレ(簾)は、新撰字鏡に「掲簾 須太礼阿久すだれあく」、和名抄に「簾 野王曰はく、簾〈音は廉、須太礼すだれ〉は竹を編む帷なりといふ。」と見える。
(注3)土佐2020.所収の「「近江天皇を思ふ歌」存疑」参照。
(注4)古沢1959.参照。
(注5)拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a6393aa79fa7bf3095a6ade689aaeff1参照。
(注6)鏡王女が伊豆志袁登売の立場に近いところに置かれていた点については別に論ずる。
(注7)鏡王女の出自は不明ながら、「鏡王のむすめ額田姫王ぬかたのおほきみ」(天武紀二年二月)とあり、額田王の姉妹であるとする説があり有力視されている。

(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
土居1960. 土居光知『古代伝説と文学』岩波書店、昭和35年。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
古沢1959. 古沢未知男「万葉「簾動之秋風吹」の典拠」『九州中國學會報』第5号、1959年6月。中国・アジア研究論文データベースhttps://spc.jst.go.jp/cad/literatures/4503(『漢詩文引用より見た万葉集の研究』南雲堂桜楓社、昭和41年に所収。)

※本稿は、2021年8月稿を2023年9月にルビ化したものである。

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