古代において入れ墨の風習があったと考えられている。入れ墨は身体装飾の一つで、皮膚に針で色素を刺して文様をつくることである。土偶や土器、埴輪に線刻されて形として残っている。それが本当に入れ墨なのかどうか(注1)、また、入れ墨の意味するところについても評価は分かれる(注2)。刑罰として入れられたものか、ファッションとして飾られたものなのか、トーテムを表すものなのか、整理できていないし今となってはもはやわからない。
人面文壺形土器(愛知県安城市亀塚遺跡出土、弥生時代後期、3世紀、安城市ホームページhttps://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/maibun-sites-kametuka.html)
記紀において顔に入れ墨を入れる風習があったかとされる「黥」の記事は次のとおりである。
①爾くして、大久米命、天皇の命を以て、其の伊須気余理比売に詔ひし時に、其の大久米命の黥ける利目を見て、奇しと思ひて歌ひて曰はく、
あめ鶺鴒 千鳥真鵐 など黥ける利目(記17)
爾くして、大久米命、答へて歌ひて曰はく、
媛女に 直に逢はむと 我が裂ける利目(記18)(神武記)
②故、山代の刈羽井に到りて、御粮を食む時に、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひき。爾くして、其の二はしらの王の言ひしく、「粮は惜しまず。然れども、汝は誰人ぞ」といひき。答へて曰ひしく、「我は山代の猪甘ぞ」 といひき。(安康記)
③……阿曇連浜子を召して、詔して曰はく、「汝、仲皇子と共に逆ふることを謀りて、国家を傾けむとす。罪、死に当れり。然るに大きなる恩を垂れたまひて、死を免して墨に科す」とのたまひて、即日に黥む。此に因りて、時の人、阿曇目と曰ふ。亦、浜子に従へる野嶋の海人等が罪を免して、倭の蒋代屯倉に役ふ。(履中紀元年四月十七日)
④是の日に、河内飼部等、従駕へまつりて轡に執けり。是より先に、飼部の黥 、皆差えず。時に嶋に居します伊奘諾神、祝に託りて曰はく、「血の臭きに堪へず」とのたまふ。因りて、トふ。兆に云はく、「飼部等の黥の気を悪む」といふ。故、是より以後、頓に絶えて飼部を黥せずして止む。(履中紀五年九月十八日)
⑤……鳥官の禽、菟田の人の狗の為に囓はれて死ぬ。天皇嗔りて、面を黥みて鳥養部としたまふ。是に、信濃国の直丁と武蔵国の直丁と、侍宿せり。相謂りて曰はく、「嗟乎、我が国に積ける鳥の高さ、小墓に同じ。旦暮にして食へども、尚其の余有り。今天皇、一の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太だ道理無し。悪行しくまします主なり」 といふ。(雄略紀十一年十月)(注3)
「黥」とは黥面のことで、顔面に入れ墨を施すことを意味する(注4)。記事からすると、刑罰や動物を飼育する人々と関係があるようである。大系本日本書紀は、「……履中元年四月条の記事や、……雄略十一年十月条の記事は、いずれも阿曇部や鳥養部が行なっていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろう。」(447頁)としている。古代中国では、刑罰として「黥」が行われていた。対してヤマトでは、特定の氏族、品部に限られているため、刑罰として行われていたとは考えにくいとされている(注5)。そして、有名な魏志倭人伝の叙述を引き合いに出し、海人族の習俗との関係で理解しようとされることが多い。
[帯方]郡より女王国に至る万二千余里。男子は大小と無く、皆黥面文身す。古より以来、其の使、中国に詣るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられるや、断髪文身し、以て蛟龍の害を避く。今、倭の水人、好みて沈没して魚蛤を捕へ、文身し、亦、以て大魚水禽を厭ふ。後、稍以て飾りと為す。諸国の文身、各異なり、或は左に、或は右に、或は大に、或は小に、尊卑の差有り。其の道里を計るに当に会稽の東冶の東に在るべし。(魏志倭人伝)
邪馬台国では「皆黥面文身」とあって海人族と関係するとすると、邪馬台国は漁村だったのだろうかと疑問が生じる。稲作農耕が中国江南から漸次的に伝来する過程において、それは漁業文化とも近しいものであったから、文化的に一緒に伝播したのである、といった解説が行われている(注6)。
筆者は、こういった横断的解釈には従わない。文献に対する接し方が試されている。魏志倭人伝は見聞録のノンフィクションである。一方、記紀の説話はヤマトコトバの話(咄・噺・譚)である。基本的スタンスが異なる。木に竹を接いでも仕方がない。ヤマトコトバの話として同じように伝わるものに風土記の記述がある。風土記と称するのだから地誌のルポルタージュかと思いきや、必ずしもそうとは限らない。地名譚の色彩を持った個所が頻出している(注7)。
麻跡と号くるは、品太の天皇、巡り行でましし時、勅りたまひしく、「此の二つの山を見れば、能く人の眼を割き下げたるに似たり」とのりたまひき。故、目割と号く。(播磨風土記・飾磨郡)
今日、この記述を史実と認めようとはされていない。妥当な常識的判断である。話半分で聞いておけばいい。とはいえ、マサキとは目割のことだとわかるように、「黥」について認識されていたらしいことは窺える。知られていたから記紀にも話としていくつか記述がある。実態としてどうであったかは、書いてあることが話なのだから確実なところはわからない。大久米命、猪甘、阿曇連浜子、河内飼部、鳥養部らについて、その出自を探ること(注8)で何らかの結論を得ようとしても、真実にたどり着くことはできないであろう。
検討すべき課題は、話における論理の解読である。話はいかに構築され、人々に受け入れられたのかという点である。入れ墨をすることと動物を飼育する品部とが関係のあることのように語られている。実際に関係があったかどうかは不明ながら、確かに関係があるものとして話のなかでそう捉えられている。すべては話である。話し手と聞き手がその場のやり取りにおいて互いに意味を共有し合うひとときを過ごしていた。
どうして動物を飼育する品部と刺青とが関係するのか。話は言葉でできている。言葉のなかにヒントが隠されている。②④⑤で登場する動物飼育の品部は、「○甘部」、「○養部」とあって、○カヒベと呼ばれている。カヒ (ヒは甲類)と同音の語に「貝(ヒは甲類)」がある。③に登場する阿曇目は、海人の頭領と目される。海人は銛で魚を突いたり、甲殻類を獲物とすることもあるが、アワビやサザエなどの貝類を捕ることが主な仕事である。貝は貝殻は持つ。①の大久米命のクメ(メは乙類)という名と同音の語に、動詞「汲む」の已然形、「汲め(メは乙類)」がある。水をすでに汲んでしまったという意味であり、ちゃんと汲み取ることのできる器具を思い起こさせる。水を汲みつくすには杓子を使ったであろう。杓子には貝殻を使うことがあったため、「匕(ヒは乙類)」(匙)とも言った(注9)。
貝匙(第1号)(正倉院宝物、南倉49、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000014540&index=6)
そんな貝殻は、年輪を刻むように大きくなっていく。 年輪を刻んだ文様はキサと呼ばれた(注10)。和名抄には木目、象、貝にキサという語が記されている。
橒 唐韻に云はく、橒〈音は雲、漢語抄に岐佐と云ふ。或説に、岐佐は蚶の和名なり、此の木の文は蚶貝の文と相似れり、故に取りて名くとす。今案ふるに、和名の者の義の相近きを取るも、此の字を以て木の名と為ること未だ詳かならず〉は木の文なりといふ。
象 四声字苑に云はく、𤉢〈祥両反、上声の重、字は亦、象に作る、岐佐〉は獣の名、水牛に似て大き耳、長き鼻、眼細く、牙長き者なりといふ。
蚶 唐韻に云はく、蚶〈乎談反、弁色立成に岐佐と云ふ〉は蚌の属、状は蛤の如く円くて厚し、外に理の縦横に有り、即ち今の魽なりといふ。
ここに、キサだからキザムのであり、キザムからキサなのだという納得が生まれる(注11)。つまり、海人ばかりでなく何か動物を飼う人々、および大久米は、言葉上、おしなべてキサであることがふさわしいと思われた。だから、彼らは「黥」と関係があることになった。そのことをヤマトコトバになぞなぞ仕立てに話に仕上げ、話の深奥、すなわち、ヤマトコトバを理解し合うことで、その場に行われている話はおもしろがられ、楽しまれて盛り上がったのである。話はヤマトコトバを乗せて飛ぶ飛行体の、離陸点であり着地点でもある。それが記紀の説話に「黥」が登場する唯一の論理的根拠である。
馬曳き人物埴輪(笹鉾山2号墳出土、古墳時代、唐古・鍵ミュージアム展示品)(注12)
無文字時代に暮らした上代の人たちは、言っていることとやっていること、言っていることと起こっていることが同じになるように努めた。ヤマトコトバを正当なものとしてゆくことで、民族としてまとまることができた。政治体制以前に言語の同一性が人々のアイデンティティを確かならしめ、その前提でヤマト朝廷は版図を拡大させていった。話に登場した人たちが顔面に「黥」を施していたかどうかは二の次のことで、話として共感しあえることこそ「黥」の実態であったといえるであろう。
(注)
(注1)「それが入墨であるか塗色 body paint または毀傷 scarification であるかは判別し難い。」(国史大辞典827頁、この項、大藤時彦) ものである。
(注2)「中国の史料では、二つの文身の起源が説かれている。一つは、中原で黥刑に処せられた罪人が夷地へと逃げ、それら罪人の入墨を、その末裔たちが継承して、夷人の文身の始まりになった、という考え方である。これは「黥」の文脈の文身になっており、烙印の身体として語られたものである。もう一つは、龍を象り辟邪とする古越族、呉越東夷の文身である。鱗の文身であり「点」の文脈の文身となる。これら呉越東夷の文身の起源は、その開国説話と共に語られてきたものになる。」(桐生2021.i頁)というように、人間にとって入れ墨とは何かを定めることは難しい。
(注3)これらの記事に対する先学の考えは、桐生2019.にまとめて引用されている。「黥」以外に「文身」の記事がある。「文く」の語幹モドロはマダラ(斑)の母音交替形である。まだらの模様をつけるの意で、そう訓む限りボディペインティングのことを示している可能性があり、針で皮膚を傷つけ色素を刺す入れ墨とただちに同一視することはできない。
武内宿禰、東国より還て奏して言さく、「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並に惟結け身を文けて、為人勇み悍し。是を総べて蝦夷と曰ふ。亦、土地沃壌えて曠し。擊ちて取りつべし」とまをす。(景行紀二十七年二月)
(注4)大系本日本書紀に、「説文に「墨刑在レ面也」とあり、顔面に入れ墨をすること。日本の場合、眼のふちに入れ墨をしたのでメサキキザム(目割き、刻む意)と訓むのであろう。」(291頁)とある。
(注5)松本2011.参照。
(注6)文身習俗の彼此の検討は、鳥居1925.以来見られる。
(注7)風土記の地名起源説話を一つのパターンとして考える先行研究がある。風土記は地誌の書であり、記紀の地名譚とは自ずと様相が異なる。
(注8)松本2011.は、「大久米命が海人や飼部のような特殊な人々の出身であることを暗示するものとなる。」(97頁)と想像し、出自をたどろうとした喜田貞吉らの南九州の異族説を展開している。辰巳1992.は、「大久米命だけでなく、久米直とその統率下にあった集団もまた顔に入墨(黥)をし、その文様も伝承されていたと考えられる。」(110頁)とする説を述べている。いずれも少ない情報からひねり出したもので、根拠ある文献はなく、見てきた人もいない。
(注9)時代別国語大辞典は、正倉院の「かひ(貝匙)」を挿絵で載せている。
(注10)時代別国語大辞典に、「象牙の文と木目の相似から、象をキサと言ったとする説もあるが、和名抄のように、キサ貝の文から木目へとの考えも成り立つ。同じキサの名をもつ象・木目・貝の三者がある関連を持つことは考えられよう。」(239頁)とある。
(注11)語源的にキサ(橒、象、蚶)がキザム(刻、黥)の語幹であるとは言えないであろうが、上代の人に大切なのはその語感である。洒落を飛ばして話をすすめる際に尊ばれるのは、地口的興味である。唐突で滑稽なものほどかえっておもしろがられたと思われる。なお、キザム(刻、黥)という語については、キザハシ(階)のキザやキザキザ(寸断)やキダキダ(段々)のキザ(キダ)と同根とする説と、アクセントからみてそうは捉えられないとする説がある。
(注12)筆者は文献に書かれてあることをヤマトコトバに理解する営みを行っている。馬飼だから黥面に描かれているのであろうと推測して馬曳き埴輪を例示した。それが実際に行われていたか、また、他の人物埴輪に黥面をとっているものがあるのをいかに解釈したらよいかについて回答しない。モノから出発する考古学の立場にない。
(引用・参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
桐生2019. 桐生眞輔『文身 デザインされた聖のかたち─表象の身体と表現の歴史─』ミネルヴァ書房、2019年。
桐生2021. 桐生眞輔『古代の文身と神々の世界─横断性図像学からのアプローチ─』雄山閣、2021年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第一巻』吉川弘文館、1979年。
設楽2021. 設楽博己『顔の考古学─異形の精神史─』吉川弘文館、2021年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野進校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
辰巳1992. 辰巳和弘『埴輪と絵画の古代学』白水社、1992年。
張従軍、岡部孝道訳「黥と渡来人」『日本研究』第20号、2000年2月、国際日本文化研究センター学術リポジトリhttp://doi.org/10.15055/00000721
鳥居1925. 鳥居龍蔵『有史以前の日本』磯部甲陽堂、大正14年。国会図書館デジタルコレクションinfo:ndljp/pid/955509
松本2011. 松本弘毅『古事記と歴史叙述』新典社、平成23年。
吉岡1996. 吉岡郁夫『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣、1996年。
※本稿は、2022年4月稿を2025年3月にルビ形式にしたものである。

記紀において顔に入れ墨を入れる風習があったかとされる「黥」の記事は次のとおりである。
①爾くして、大久米命、天皇の命を以て、其の伊須気余理比売に詔ひし時に、其の大久米命の黥ける利目を見て、奇しと思ひて歌ひて曰はく、
あめ鶺鴒 千鳥真鵐 など黥ける利目(記17)
爾くして、大久米命、答へて歌ひて曰はく、
媛女に 直に逢はむと 我が裂ける利目(記18)(神武記)
②故、山代の刈羽井に到りて、御粮を食む時に、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひき。爾くして、其の二はしらの王の言ひしく、「粮は惜しまず。然れども、汝は誰人ぞ」といひき。答へて曰ひしく、「我は山代の猪甘ぞ」 といひき。(安康記)
③……阿曇連浜子を召して、詔して曰はく、「汝、仲皇子と共に逆ふることを謀りて、国家を傾けむとす。罪、死に当れり。然るに大きなる恩を垂れたまひて、死を免して墨に科す」とのたまひて、即日に黥む。此に因りて、時の人、阿曇目と曰ふ。亦、浜子に従へる野嶋の海人等が罪を免して、倭の蒋代屯倉に役ふ。(履中紀元年四月十七日)
④是の日に、河内飼部等、従駕へまつりて轡に執けり。是より先に、飼部の黥 、皆差えず。時に嶋に居します伊奘諾神、祝に託りて曰はく、「血の臭きに堪へず」とのたまふ。因りて、トふ。兆に云はく、「飼部等の黥の気を悪む」といふ。故、是より以後、頓に絶えて飼部を黥せずして止む。(履中紀五年九月十八日)
⑤……鳥官の禽、菟田の人の狗の為に囓はれて死ぬ。天皇嗔りて、面を黥みて鳥養部としたまふ。是に、信濃国の直丁と武蔵国の直丁と、侍宿せり。相謂りて曰はく、「嗟乎、我が国に積ける鳥の高さ、小墓に同じ。旦暮にして食へども、尚其の余有り。今天皇、一の鳥の故に由りて、人の面を黥む。太だ道理無し。悪行しくまします主なり」 といふ。(雄略紀十一年十月)(注3)
「黥」とは黥面のことで、顔面に入れ墨を施すことを意味する(注4)。記事からすると、刑罰や動物を飼育する人々と関係があるようである。大系本日本書紀は、「……履中元年四月条の記事や、……雄略十一年十月条の記事は、いずれも阿曇部や鳥養部が行なっていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろう。」(447頁)としている。古代中国では、刑罰として「黥」が行われていた。対してヤマトでは、特定の氏族、品部に限られているため、刑罰として行われていたとは考えにくいとされている(注5)。そして、有名な魏志倭人伝の叙述を引き合いに出し、海人族の習俗との関係で理解しようとされることが多い。
[帯方]郡より女王国に至る万二千余里。男子は大小と無く、皆黥面文身す。古より以来、其の使、中国に詣るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられるや、断髪文身し、以て蛟龍の害を避く。今、倭の水人、好みて沈没して魚蛤を捕へ、文身し、亦、以て大魚水禽を厭ふ。後、稍以て飾りと為す。諸国の文身、各異なり、或は左に、或は右に、或は大に、或は小に、尊卑の差有り。其の道里を計るに当に会稽の東冶の東に在るべし。(魏志倭人伝)
邪馬台国では「皆黥面文身」とあって海人族と関係するとすると、邪馬台国は漁村だったのだろうかと疑問が生じる。稲作農耕が中国江南から漸次的に伝来する過程において、それは漁業文化とも近しいものであったから、文化的に一緒に伝播したのである、といった解説が行われている(注6)。
筆者は、こういった横断的解釈には従わない。文献に対する接し方が試されている。魏志倭人伝は見聞録のノンフィクションである。一方、記紀の説話はヤマトコトバの話(咄・噺・譚)である。基本的スタンスが異なる。木に竹を接いでも仕方がない。ヤマトコトバの話として同じように伝わるものに風土記の記述がある。風土記と称するのだから地誌のルポルタージュかと思いきや、必ずしもそうとは限らない。地名譚の色彩を持った個所が頻出している(注7)。
麻跡と号くるは、品太の天皇、巡り行でましし時、勅りたまひしく、「此の二つの山を見れば、能く人の眼を割き下げたるに似たり」とのりたまひき。故、目割と号く。(播磨風土記・飾磨郡)
今日、この記述を史実と認めようとはされていない。妥当な常識的判断である。話半分で聞いておけばいい。とはいえ、マサキとは目割のことだとわかるように、「黥」について認識されていたらしいことは窺える。知られていたから記紀にも話としていくつか記述がある。実態としてどうであったかは、書いてあることが話なのだから確実なところはわからない。大久米命、猪甘、阿曇連浜子、河内飼部、鳥養部らについて、その出自を探ること(注8)で何らかの結論を得ようとしても、真実にたどり着くことはできないであろう。
検討すべき課題は、話における論理の解読である。話はいかに構築され、人々に受け入れられたのかという点である。入れ墨をすることと動物を飼育する品部とが関係のあることのように語られている。実際に関係があったかどうかは不明ながら、確かに関係があるものとして話のなかでそう捉えられている。すべては話である。話し手と聞き手がその場のやり取りにおいて互いに意味を共有し合うひとときを過ごしていた。
どうして動物を飼育する品部と刺青とが関係するのか。話は言葉でできている。言葉のなかにヒントが隠されている。②④⑤で登場する動物飼育の品部は、「○甘部」、「○養部」とあって、○カヒベと呼ばれている。カヒ (ヒは甲類)と同音の語に「貝(ヒは甲類)」がある。③に登場する阿曇目は、海人の頭領と目される。海人は銛で魚を突いたり、甲殻類を獲物とすることもあるが、アワビやサザエなどの貝類を捕ることが主な仕事である。貝は貝殻は持つ。①の大久米命のクメ(メは乙類)という名と同音の語に、動詞「汲む」の已然形、「汲め(メは乙類)」がある。水をすでに汲んでしまったという意味であり、ちゃんと汲み取ることのできる器具を思い起こさせる。水を汲みつくすには杓子を使ったであろう。杓子には貝殻を使うことがあったため、「匕(ヒは乙類)」(匙)とも言った(注9)。

そんな貝殻は、年輪を刻むように大きくなっていく。 年輪を刻んだ文様はキサと呼ばれた(注10)。和名抄には木目、象、貝にキサという語が記されている。
橒 唐韻に云はく、橒〈音は雲、漢語抄に岐佐と云ふ。或説に、岐佐は蚶の和名なり、此の木の文は蚶貝の文と相似れり、故に取りて名くとす。今案ふるに、和名の者の義の相近きを取るも、此の字を以て木の名と為ること未だ詳かならず〉は木の文なりといふ。
象 四声字苑に云はく、𤉢〈祥両反、上声の重、字は亦、象に作る、岐佐〉は獣の名、水牛に似て大き耳、長き鼻、眼細く、牙長き者なりといふ。
蚶 唐韻に云はく、蚶〈乎談反、弁色立成に岐佐と云ふ〉は蚌の属、状は蛤の如く円くて厚し、外に理の縦横に有り、即ち今の魽なりといふ。
ここに、キサだからキザムのであり、キザムからキサなのだという納得が生まれる(注11)。つまり、海人ばかりでなく何か動物を飼う人々、および大久米は、言葉上、おしなべてキサであることがふさわしいと思われた。だから、彼らは「黥」と関係があることになった。そのことをヤマトコトバになぞなぞ仕立てに話に仕上げ、話の深奥、すなわち、ヤマトコトバを理解し合うことで、その場に行われている話はおもしろがられ、楽しまれて盛り上がったのである。話はヤマトコトバを乗せて飛ぶ飛行体の、離陸点であり着地点でもある。それが記紀の説話に「黥」が登場する唯一の論理的根拠である。

無文字時代に暮らした上代の人たちは、言っていることとやっていること、言っていることと起こっていることが同じになるように努めた。ヤマトコトバを正当なものとしてゆくことで、民族としてまとまることができた。政治体制以前に言語の同一性が人々のアイデンティティを確かならしめ、その前提でヤマト朝廷は版図を拡大させていった。話に登場した人たちが顔面に「黥」を施していたかどうかは二の次のことで、話として共感しあえることこそ「黥」の実態であったといえるであろう。
(注)
(注1)「それが入墨であるか塗色 body paint または毀傷 scarification であるかは判別し難い。」(国史大辞典827頁、この項、大藤時彦) ものである。
(注2)「中国の史料では、二つの文身の起源が説かれている。一つは、中原で黥刑に処せられた罪人が夷地へと逃げ、それら罪人の入墨を、その末裔たちが継承して、夷人の文身の始まりになった、という考え方である。これは「黥」の文脈の文身になっており、烙印の身体として語られたものである。もう一つは、龍を象り辟邪とする古越族、呉越東夷の文身である。鱗の文身であり「点」の文脈の文身となる。これら呉越東夷の文身の起源は、その開国説話と共に語られてきたものになる。」(桐生2021.i頁)というように、人間にとって入れ墨とは何かを定めることは難しい。
(注3)これらの記事に対する先学の考えは、桐生2019.にまとめて引用されている。「黥」以外に「文身」の記事がある。「文く」の語幹モドロはマダラ(斑)の母音交替形である。まだらの模様をつけるの意で、そう訓む限りボディペインティングのことを示している可能性があり、針で皮膚を傷つけ色素を刺す入れ墨とただちに同一視することはできない。
武内宿禰、東国より還て奏して言さく、「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並に惟結け身を文けて、為人勇み悍し。是を総べて蝦夷と曰ふ。亦、土地沃壌えて曠し。擊ちて取りつべし」とまをす。(景行紀二十七年二月)
(注4)大系本日本書紀に、「説文に「墨刑在レ面也」とあり、顔面に入れ墨をすること。日本の場合、眼のふちに入れ墨をしたのでメサキキザム(目割き、刻む意)と訓むのであろう。」(291頁)とある。
(注5)松本2011.参照。
(注6)文身習俗の彼此の検討は、鳥居1925.以来見られる。
(注7)風土記の地名起源説話を一つのパターンとして考える先行研究がある。風土記は地誌の書であり、記紀の地名譚とは自ずと様相が異なる。
(注8)松本2011.は、「大久米命が海人や飼部のような特殊な人々の出身であることを暗示するものとなる。」(97頁)と想像し、出自をたどろうとした喜田貞吉らの南九州の異族説を展開している。辰巳1992.は、「大久米命だけでなく、久米直とその統率下にあった集団もまた顔に入墨(黥)をし、その文様も伝承されていたと考えられる。」(110頁)とする説を述べている。いずれも少ない情報からひねり出したもので、根拠ある文献はなく、見てきた人もいない。
(注9)時代別国語大辞典は、正倉院の「かひ(貝匙)」を挿絵で載せている。
(注10)時代別国語大辞典に、「象牙の文と木目の相似から、象をキサと言ったとする説もあるが、和名抄のように、キサ貝の文から木目へとの考えも成り立つ。同じキサの名をもつ象・木目・貝の三者がある関連を持つことは考えられよう。」(239頁)とある。
(注11)語源的にキサ(橒、象、蚶)がキザム(刻、黥)の語幹であるとは言えないであろうが、上代の人に大切なのはその語感である。洒落を飛ばして話をすすめる際に尊ばれるのは、地口的興味である。唐突で滑稽なものほどかえっておもしろがられたと思われる。なお、キザム(刻、黥)という語については、キザハシ(階)のキザやキザキザ(寸断)やキダキダ(段々)のキザ(キダ)と同根とする説と、アクセントからみてそうは捉えられないとする説がある。
(注12)筆者は文献に書かれてあることをヤマトコトバに理解する営みを行っている。馬飼だから黥面に描かれているのであろうと推測して馬曳き埴輪を例示した。それが実際に行われていたか、また、他の人物埴輪に黥面をとっているものがあるのをいかに解釈したらよいかについて回答しない。モノから出発する考古学の立場にない。
(引用・参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
桐生2019. 桐生眞輔『文身 デザインされた聖のかたち─表象の身体と表現の歴史─』ミネルヴァ書房、2019年。
桐生2021. 桐生眞輔『古代の文身と神々の世界─横断性図像学からのアプローチ─』雄山閣、2021年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第一巻』吉川弘文館、1979年。
設楽2021. 設楽博己『顔の考古学─異形の精神史─』吉川弘文館、2021年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野進校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
辰巳1992. 辰巳和弘『埴輪と絵画の古代学』白水社、1992年。
張従軍、岡部孝道訳「黥と渡来人」『日本研究』第20号、2000年2月、国際日本文化研究センター学術リポジトリhttp://doi.org/10.15055/00000721
鳥居1925. 鳥居龍蔵『有史以前の日本』磯部甲陽堂、大正14年。国会図書館デジタルコレクションinfo:ndljp/pid/955509
松本2011. 松本弘毅『古事記と歴史叙述』新典社、平成23年。
吉岡1996. 吉岡郁夫『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣、1996年。
※本稿は、2022年4月稿を2025年3月にルビ形式にしたものである。