もやいマンション日記

マンション役員の体験を綴った「マンション日記」に、プライベート所感を綴った「nonnon日記」が混ざっています。

No.355「北海道神宮と島義勇判官・その3」

2021-01-31 | 日記

               nonnon日記

北海道神宮に隣接する円山公園の北入口傍の林の中に、

静かに建っている上の像は初代道庁長官の岩村通俊さん。

四国は土佐藩、今の高知県の出身。函館出張所と札幌本府の両方で、

島さんの後任、判官を務めた。

やはりこの人も情熱を傾けて都市開発、開拓を進めたが、財政破綻。

その時上司だった黒田清隆さん(この18年後に第2代総理大臣となり、

大日本帝国憲法を発布)と対立、で一旦、免職になっている。

その後、新政府の要職を務めた後、明治19年、北海道庁が創設され、

その初代長官となった。札幌のみならず、旭川の開発にも尽力したそう

である。(広大な原野開発の一大事業に、多くの人の苦労、苦難のリレー

があったお陰で、今私達は、美しい街で、ヌクヌクと暮らせている。)

岩村さんは、官僚として、政治手腕に優れていた人だそうで、戊辰戦争、

後の西南戦争、自由民権運動を鎮静して、新政府の要職を歴任。

山縣内閣の農商務大臣まで勤めている。

(明治維新は、今さらながら、疾風怒涛のクーデターだったのだなァ、

と思います。勝った側の薩長土肥藩(鹿児島、山口、高知、佐賀)も

その後の舵取りに疾風怒涛。危険で、エネルギッシュな時代を何とか

破滅に至らず、植民地にもされずに、日本は乗り越えたものですよね。

150年前と言っても、100歳の人もいるわけですから、さして昔ではない。

この札幌開発を担った人達のエネルギーをもってすれば、

何でも、乗り越えられないものはない・・・かも知れません。)

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さて佐賀の不満士族説得に赴く島さんであるが、その佐賀に向かう同じ

船に、何と佐賀県令(今の県知事?)として同乗したのが、上の銅像、

岩村通俊さんの3兄弟の末弟、岩村高俊さん。(長男が通俊さんで、

3男が高俊さん。島さんより23歳も年下で血気盛んな青年だった?

この時、島さんは40代後半、高俊さんは20代半ばだっただろうか。)

船の中で、高俊さんは、佐賀県人を声高に罵ったそうで、それを聞き

咎めた島さんと、船の中で掴み合いの喧嘩になったそうである。

島さんとしては、大切な故郷の人々を、守らねば、という思いに

駆られたかも知れない。

(私は、歴女、歴婆ではないので、詳しい知識はサラサラないけれども、

普段、何気なく散歩の途中に目にしていた銅像が、ちょっと、ネットで

調べてみれば、意外な関連が浮かび上がってきて、驚いた。)

島さんはその後、故郷佐賀で、新政府に反旗を掲げ、憂国党の党首となり、

「佐賀の乱」の首謀者として、新政府軍(岩村高俊さん側)に捕まり、

江藤新平さんと共に明治7年4月、逆賊として処刑された!

(この時、侍従を勤めた島さんを助けようと、明治天皇が特赦を出そう

したそうだが、反対勢力があって助けられなかったそうである。

島さんは、原野だった札幌を「日本一の都市に」と情熱を傾けて切り拓き、

原生林の丘に神社を建てたー日々から4年後には亡くなったのである。

当時、一緒に汗水たらして開拓事業を行い、島さんを慕う札幌の人々は、

その悲報を受けて、どんなに驚き、悲しんだことだろう。

その「大きな悲しみ」のあかし、「鎮魂」のあかし、が同じく

北海道神宮の境内にあったことを、私はごくごく最近、知ったのだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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No.354「北海道神宮と島義勇判官・その2」

2021-01-30 | 日記

            nonnon日記

明治2年10月、官舎、倉庫建設、11月鑑定、倉庫、病院、創成橋建設ー

着任早々、島さんは、ここに「他日、五州第一(日本一)の都」を築くぞー

と、意気入んで(札幌の)町造りの基盤を作ったらしい。

札幌の街が東西南北に碁盤の目に建っているのは、京都と佐賀の城下町街を

参考に、島さんが、最初に企画したそうである。

札幌原野の仮小屋に、アイヌ人労働者や犬と一緒に炉端で寝泊まりしたり、

原生林を切り拓き、コタンベツの丘(札幌円山宮ヶ丘)に開拓民の

心の拠り所として札幌神社を建てた。(島さんが、背中に「3神」を

背負って船を降りてから、神社造りが始まった!)

ところが、である。厳寒の中の都建設の苦労に加えて、食糧、資材を積んで

銭函の海岸(港はまだない)に到着する予定の船が沈没したり、不測の事故で

建設工事は難航。明治3年1月までの3か月で、新政府からの開拓資金7万両

を使い切ってしまったことを、新しい上司、長官の東久世さん(後の元老院副

議長。だが彼はこの時、箱館にいて、「工事現場の札幌」には来なかった由。)

に責められ、翌年1月19日、新政府より解任されて、帰京させられた。

いつの時代にも、熱意や誠意、労苦が認められない、「不条理」は

あるものである。(でも一緒に仕事をした人々は、島さんの仕事ぶり、

その人柄を慕って、しっかり記憶に留めて、後世に伝えたようだ。)

その後、明治天皇の侍従も務めー

明治5年、秋田県令になった島さんは、初めて八郎潟の干拓(!)

取り組み、また中央政府と衝突し、4か月で解任されている。

(島さんは、探求心の強い技術者タイプの人だったのでは?)

そして、本部に戻った島さんに・・・(故郷)佐賀に不穏の動きあり・・・

「佐賀の不平士族の説得に当たれ」という、命が下った!

これが、過酷な運命の入口となり・・・

明治7年・・・島さんは、命を投げ出すことになる・・・。

 

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No.353「北海道神宮と島義勇(よしたけ)判官・その1」

2021-01-21 | 日記

              nonnon日記

2021年、おめでとうございます。

      三密の  怖れと情の 天秤棒

明けて3週目の休日というのに、神社の駐車場には長い行列が。

北海道に住む人なら、一度は訪れるであろう北海道神宮。

今年は特に、コロナ退散を祈願した人が多かったのでは?

厳かで自然も美しい、この道産子のソウループレイスである神宮、

その‘創設者’である島判官の活躍と、‘壮絶な最期’をご存知だろうか?

社殿の横にある手水舎(ちょうずや)の裏、目立たない場所に、

立派な判官様の像がある。社殿右にある茶屋には、判官様という名の

美味しいお餅も売っている。知らない人は、‘判官様’って何?と思うに

違いない。(今で言えば、道知事、副知事の下の役職?)

時代は今から150年前の話である。

島さんは(馴れ馴れしい?)何と私と同じ九州の出身!

江戸時代後期に、遠く九州は佐賀藩士の家に生まれ、秀才だった由。

35歳の時、箱館奉行所勤務となり、北海道の全海岸線を踏破し、

「入北記」を表した。(これより先、4歳年上の松浦武四郎さんは、

28歳で蝦夷に来て、13年間に6回の調査をして、沢山の本を自費出版した。

島さんは、松浦さんに影響を受けているかもしれない。)

さて動乱の明治維新を経て、江戸幕府に代わって明治新政府に。

国際的視野を持った新政府は、ロシアの進出を防ぐため、本腰を入れて

蝦夷地開拓、札幌本府建設に乗り出す。

佐賀藩主、鍋島直正が蝦夷開拓督務(長官)となり、その命で、

初代開拓使主席判官として、白羽の矢が立ったのが、島さんだった。

(函館奉行所勤務の経歴や「入北記」で、蝦夷通として抜擢された由。)

 

 

 

 

 

 

 

 

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