小豆島には応神伝説が残されています。
応神紀・二十二年四月条に、応神天皇は淡路島から吉備そして小豆島を周遊したことが記されています。
現在も小豆島には応神天皇に因んだ八幡宮が5社あります。その一つ、富岡八幡神社は応神天皇が登った「塩土山」と呼ばれた小高い丘の上に建てられています。
応神天皇が来島の際「嶋景色 あそぶ魚鳥 いつらへの 海にかげある 塩土の山」という歌を詠まれたという伝承が残っているそうです。
小豆島がショウドシマと呼ばれるようになったのは、鎌倉中期以降だとされますが、住吉神の子とされる応神天皇の巡幸地に「塩土山」があることは興味深いことです。
住吉神は塩土老翁(しおつちのおじ)と同一視されています。日本書紀において山幸彦に海神の宮へ行く道を教え、神武天皇には東に美しい地があることを教えた神が塩土老翁です。
同様に神武天皇を大和の橿原まで導いたのが八咫烏であり、八咫烏は鴨建角身や迦毛大御神ことアジスキタカヒコネと同一視されています。
あるときは塩土老翁として、またあるときは八咫烏として神武天皇を導いたのが住吉神ことアジスキタカヒコネだったのではないでしょうか。
塩土老翁=住吉神=アジスキタカヒコネであるならば、
小豆島はアジスキのアズキ島であると同時に 塩土老翁のシオツチ島
なのではないでしょうか。
阿岐国多祁理宮がどこなのかは統一した意見はないようですが、安芸の宮島が宗像系海神族の拠点であることは間違いありません。
また播磨国風土記では袁布山で宗像のオキツシマヒメが伊和大神の子を出産したとあり、アジスキタカヒコネが生まれたのは播磨国だった可能性があります。
瀬戸内の要所小豆島が、宗像の島であった可能性は決して低くはないと考えます。
ところで、播磨国風土記において大汝命と息子の火明命の逸話の中で「蚕子(ひめこ)が落ちたところが日女道丘(ひめじおか)」との記載があり、兵庫県の姫路の地名の由来の一説となっています。
阿波へ行く道だから「淡路」なのであれば、姫路は「姫へ行く道」。
姫路から行く「姫」とは大野手姫なのではないでしょうか。姫路から小豆島へは今もフェリーが通っています。
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