gooブログはじめました!

日本海海戦(19)

 原本はイギリス人、Shippen Edwardにより書かれた「Naval battles of the world: from Salamis to Japan Sea」(1905年刊)で、サラミスの戦いから日本海海戦までの歴史的な海戦を紹介している。 日本は周囲を海に囲まれてはいるが、とても海洋国家とはいえない。日本人がはるかなる海に眼を向けたのは、室町や明治のほんの一時期にすぎない。世界では海の支配をめぐり、いくたびかの戦いが繰り広げられた。それを垣間見ることにより、歴史の舞台では忘れられがちな部分にスポットを当ててみよう。

Battle of the Japan Sea (19)
[by Sydney Tyler]
 Togo’s captains had, however, other things to report, for while the main force of the combined squadron was hammering the four Russians into subjection off the Liancourt Rocks others of the cruisers were chasing scattered Russian ships, while still others were completing the work of destruction around Osino Island. Two special service ships and a destroyer were captured, and so was the armored cruiser Monomach, but she foundered soon after transference of flags.

 And there were prisoners to report, 3,000 of them, including the unhappy Nebogatoff, while up and down the seas the fight between pursued and pursuer still went on.

 Admiral Togo gave this list of casualties, surprisingly small even to himself, for he had estimated his losses as 800 men. “The Japanese losses in the battle of the Sea of Japan were 113 officers and men killed and 424 officers and men wounded.”

日本海海戦(19)
[シドニー・タイラー著]
 東郷艦隊の艦長達は他のことも報告している。  竹島沖で連合艦隊の主力が4隻のロシア艦を叩き降伏に追い込んでいる間、他の巡洋艦は四散したロシア艦を追跡していた。  また、他の艦は沖ノ島付近で殲滅の仕事を完成させていた。  2隻の特務艦と1隻の駆逐艦が拿捕された。  装甲巡洋艦モノマフも拿捕されたが、日本の旗に変えられてすぐ、浸水して沈んだ。

 海のそこかしこで追う者と追われる者の間の戦闘が続いている間、不運なネボガトフを含む3千人が捕虜として報告された。

 東郷提督は自軍の犠牲者のリストを出したが、それは彼自身にとっても非常に小さな数だった。  なぜなら、彼は損害を800人と予想していたからだ。  “日本海海戦における日本軍の損失は113人の士官と水兵の死亡、424人の士官と水兵の負傷だった。”

(ひとこと)
 ロシア艦隊の戦艦は5隻が新鋭艦で3隻が旧式艦だった。  対する日本艦隊の戦艦は4隻すべて新鋭艦だった。  12インチ主砲の数ではロシア26門、日本16門と日本が劣勢だった。  新鋭戦艦の速力が両軍同じく18ノットだったが、ロシアの旧式戦艦の速力は16ノット弱だった。  艦隊行動では速力の遅い艦にあわさざるをえず、ロシア艦隊は火力では優勢だったが、速力では劣勢だった。  しかも、ロシア艦隊は訓練不足で射撃精度が日本艦隊に比べ、著しく低かった。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「大西洋」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事