鴨旅日記・自分流で行こう!

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烏山頭ダム・その2・・・八田與一夫妻墓前祭

2007-05-08 14:51:19 | 台湾流-旅行記---台湾南部
烏山頭ダムへ来た第一の目的は、八田與一夫妻の年に一度の墓前祭に行くためでした。
今年も盛大に行われているようですよ・・・。





八田與一という人物を知らない人は結構多いはず。
私もつい4~5年前まで、彼の名を知りませんでしたから。
彼の成し遂げた事業を知ると、その偉大さがよくわかるんです。そして、そのダムを見てみたいと思っていたのと、どうせ行くなら八田與一氏の命日におこなわれる墓前祭に合わせていこう・・・そう思っていたので。今回の台湾旅行のメインイベントがこれだと言っても過言ではないかも。



簡単に紹介すると、八田與一(はったよいち)は現在の石川県金沢市出身で、1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、当時は日本の統治下にあった台湾に渡り、当時の台湾総督府内務局土木課の土木技手として勤務します。
その後、1920年に着工され、10年の歳月をかけて建設されたこの烏山頭ダムの現場責任者として関わり、さとうきびも栽培できなかった不毛の大地を穀倉地帯に変える壮大な事業を成し遂げます。

第二次大戦中の昭和17年5月8日、八田與一は徴用でフィリピンへ向かうために乗った船が長崎県の五島列島沖でアメリカの潜水艦によって撃沈され、帰らぬ人となってしまいます。
その3年後、日本は戦争に敗れ、台湾に住んでいた日本人は台湾を離れなければならなくなります。1945年9月1日の未明、八田與一の妻・外代樹は、夫が造り上げたダムの放水口に身を投じ、自らの命を絶ってしまいます。




八田與一の出身地である金沢からは、団体ツアーまで来ています。




地元の人も大勢来ています。




台南芸術大学の学生による生オーケストラ演奏~。


これが八田與一の銅像。この銅像については逸話があります。
ダムの建設工事が完成し、ダム建設に貢献した八田與一の銅像を作ることになったものの、八田與一の希望で銅像としては異例の足を伸ばして座り込んだ形でつくられました。
八田與一の死後、この銅像も戦時中ということもあり金属供出の対象となり、銅像は台座から外されてしまいます。
ところが戦後、金属供出されたはずの八田與一の銅像が駅の倉庫から発見されます。しかし、時代は蒋介石(中国国民党)政権の頃で、日本時代の銅像や記念碑、神社などがことごとく破壊されていた時代。農民達は八田與一の銅像を隠し続けます。
それから30年以上が過ぎた1981年、八田與一の銅像は、元の烏山頭ダムを見下ろす場所に戻されたそうです。



八田與一・外代樹夫妻の墓。
このお墓は1946年、地元の農民たちが建てたお墓なんです。
しかも、わざわざ日本風の墓石を取り寄せて・・・。


司会のお姉さんの進行で、墓前祭はスタートしました。




まずは、ピースポールの建立セレモニー。
あの「世界人類が平和でありますように」と書かれたアレ。




台南県の副県長さんが台湾語で挨拶。
そのあと、尼さんによるお経があげられましたが、詠歌みたいなお経でした。




そして、一人一人、お供え物と献花を。




私も菊の花を一輪いただきました。右の写真は台湾式の拝礼。


祭壇に置かれている写真は、昨年まで墓前祭に参加されていた八田與一氏の長男・八田晃夫氏の遺影。昨年の墓前祭の直後に亡くなられたそうです。


地元の高校生たちも拝礼。


八田與一氏の長男・晃夫氏(故人)の夫人・八田綾子さんと、その息子さん(八田與一氏の孫)の八田陽一さんと、その奥様です。
墓前祭には毎年、来られているようですね。


八田さん一家、先祖の銅像と一緒に・・・。


高校生達も銅像と記念写真です。


記念写真に引っ張りだこの八田さんご一家。
毎年のことなんでしょね。その対応にも慣れてらっしゃいました。







お供え物のおすそ分けをご相伴にあずかりました(笑) 旨い!



会は滞りなく終わりました。また来年・・・


八田與一に関して詳しいことはWikipediaを参照。



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1 コメント

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Unknown (徳光重人)
2011-05-16 13:50:47
初めまして。墓前祭参列、ありがとうございます。毎年(2007年5月8日も)通訳をしていた者です。八田與一技師のお孫さんのお名前は、八田修一さんです。立ち寄ったところで、気がつきましたもので…
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