そろそろ篤媛の中で、坂本龍馬が登場してきそうです。今日は、龍馬が1866年に西郷・小松・中岡慎太郎そしておりょうさんと鹿児島に新婚旅行に来た時の道を探索してみることにしました。
3月10日・・・・・・鹿児島入港
3月17日・・・・・・塩浸(しおひたし)温泉
3月28日・・・・・・硫黄谷温泉
3月29日・・・・・・霧島登山
このあとは、鹿児島市加治屋町の小松邸にいたと考えられます。
さぁ、出発してみましょう。
3月10日・・・・・・鹿児島入港
3月17日・・・・・・塩浸(しおひたし)温泉
3月28日・・・・・・硫黄谷温泉
3月29日・・・・・・霧島登山
このあとは、鹿児島市加治屋町の小松邸にいたと考えられます。
さぁ、出発してみましょう。
鹿児島市に生まれた、西郷隆盛や大久保利通の観光にくる人たちは、一昨年までたくさん見られました。しかし、小松帯刀や篤姫のことを、鹿児島の人たちも、あまり知っていなかったというのが、現実でした。しかし、明治維新とともに、江戸城無血開城を成し遂げた、勝海舟・西郷隆盛、そして篤姫の力が大きかったことは、鹿児島に住む多くの人たち、特に女性には、何とも言えない気持ちとなったと思います。鹿児島では昔から、夫を立てる妻の力、内助の功が特に強かったのではないかと思います。私の祖母や母など、父や祖父に対する感謝の念が強く、私の子どもの時も、米が不足すると、まず、夫に、次に子どもに、そして残りを食べるといった事を思い出します。時には、我慢していたようです。薩摩・大隈など妻の夫に対する、尊敬の念は一言では、言い表すことのできないくらい、芯の強いものでした。篤姫が徳川に嫁ぎ、鹿児島に一度も帰らなかったことは、そういった鹿児島の女性としての、力強さや夫への尊敬の念に違いなかったのではないかと、思われます。鹿児島の加治屋町を中心に偉人が生まれて行ったのも、郷中教育とともに、こういった慣習もおおきな要因ではなかったか?と考えることでした。
それにしても、鹿児島市の南州神社に行くたびに、東京市から鹿児島市に送られた常夜灯をみています。時は過ぎても、今も語り継がれる、鹿児島の誇りとなりました。
しかし、現代に生きる私たちには、遠いこととなりましたが、これまでの篤姫の強さや鹿児島の女性の強さ、これには感心するばかりです。世の中は変わっても、いつまでも、家族を大切にする心、これが大切だと思います。最近は、たくさんの事件や国家間の問題・経済不安など、さまざまな問題が山積みされています。しかし
何かが、不足しているのかもしれません。会社が利益主義に走り、社員の事を考えないとか、子どもも、うまく育たないなどありますが、もう一度、基本に返ってみるべきではないかと思います。会社も社員も家族と同じです。どちらも、喜びや苦しみを味わう必要があると思います。また、家族も、子どもの笑顔で一日の疲れが吹き飛ぶ、そんな喜びのある家庭であるべきだと思います。
篤姫の今和泉家の家族・徳川という組織に生き、お互い助け合った徳川家など、同じだったと思います。
忘れかけた、何かを一人一人が大切に思い出すこと、これが基本だと思います。
それにしても、鹿児島市の南州神社に行くたびに、東京市から鹿児島市に送られた常夜灯をみています。時は過ぎても、今も語り継がれる、鹿児島の誇りとなりました。
しかし、現代に生きる私たちには、遠いこととなりましたが、これまでの篤姫の強さや鹿児島の女性の強さ、これには感心するばかりです。世の中は変わっても、いつまでも、家族を大切にする心、これが大切だと思います。最近は、たくさんの事件や国家間の問題・経済不安など、さまざまな問題が山積みされています。しかし
何かが、不足しているのかもしれません。会社が利益主義に走り、社員の事を考えないとか、子どもも、うまく育たないなどありますが、もう一度、基本に返ってみるべきではないかと思います。会社も社員も家族と同じです。どちらも、喜びや苦しみを味わう必要があると思います。また、家族も、子どもの笑顔で一日の疲れが吹き飛ぶ、そんな喜びのある家庭であるべきだと思います。
篤姫の今和泉家の家族・徳川という組織に生き、お互い助け合った徳川家など、同じだったと思います。
忘れかけた、何かを一人一人が大切に思い出すこと、これが基本だと思います。
この下にある写真は、国営木曽三川公園の中にあり、岐阜県立自然公園に指定されています。揖斐川と長良川の背割提に連なる1kmの松並木で松の種類は日向松。薩摩藩士が宝暦5年5月治水工事の完成直後、涙と共に植えたものです。今もなお、梢を渡る風が松籟となって訪れる人々に、昔の悲しい物語を伝えているかのようです。