篤姫と維新の志士たち

鹿児島を舞台にし、また徳川将軍の妻となった篤姫と明治維新の志士たちを尋ねて歩くブログです。いろんな異人達を探りますよ

治水工事後、涙と共に植えた日向松に感動して

2009-04-03 01:11:16 | Weblog
この下にある写真は、国営木曽三川公園の中にあり、岐阜県立自然公園に指定されています。揖斐川と長良川の背割提に連なる1kmの松並木で松の種類は日向松。薩摩藩士が宝暦5年5月治水工事の完成直後、涙と共に植えたものです。今もなお、梢を渡る風が松籟となって訪れる人々に、昔の悲しい物語を伝えているかのようです。

平田靭負(ゆきえ)屋敷跡を訪れて

2009-04-03 01:09:59 | Weblog
~~語りつがれた世紀の大工事・木曽川治水~~

「住み慣れし里も今さら名残にて、立ちぞわずらふ、美濃の大牧」という辞世を残して切腹した平田靭負(ゆきえ)は、木曽川治水工事の総奉行として世紀の大工事を指揮しました。
1704年(宝永元年)平之町に生まれた平田靭負は、初め宗武(むねたけ)後に正輔(まさすけ)、通称も平蔵から兵十郎、掃部(かもん)、靭負と改め、31歳で父・正房の跡を継ぎ、しばらく江戸薩摩藩邸に勤めた後、伊佐や大口(鹿児島県の北部)の地頭、大目付を経て、最後は家老の職にありました。
1753年(宝暦3年)島津家・第24代重年は、幕府から木曽・長良・揖斐(いび)3河川の川普請手伝役(かわふしんてつだいやく)を命じられ、1000人の大部隊を現地に差し向けました。幕府役人の圧迫と迫害、工事中の洪水、流行病の
発生、人手や資金の不足等、想像を絶する難工事が待っていました。苦難の末、見事工事を完成させた、平田総奉行は多大の犠牲への償いと予算超過の責任を取り、1755年(宝暦5年)美濃国大牧の本小屋で自刃しました。享年51歳、遺骨は京都伏見の大黒寺に葬られています。
鹿児島市の平田公園というところに、行ってきましたが、普段、何気なく通っているところでした。しかし、ここを訪れてみて、昔の出来事とはいえ、今でも3河川の県庁所在地と交流が続いており、姉妹都市となっています。篤姫や西郷さん・大久保さんが先に思われがちですが、とても、いたたまれない気持ちになり、文章を打っていても、すごい人たちがいたのだと、感動し、悲しみも込み上げてきました。是非、写真をご覧ください。