図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
ストーリーテリングと語りの同一化へ
新潟市では、長い間、「本の文章をそのまま語る」のをストーリーテリングと言うのだというような、暗黙の了解があったと思います。
図書館のストーリテリング講座では、「最初はきちんと暗記しましょう。そのために、覚えるに足る良い本を選び抜きましょう」という指導がされてきました。
かつてはそれでよかったかも知れないけれど、おはなし会の参加者が少なく、子どものうんざり感も伝わってきて、ボランティアの間に不安感が広がっていきました。
当時の図書館指導者は、それを「ボランティアの練習不足」と判断して、ますます狭い道をみんなで進むような感じになっていきました。
わずかにある学校訪問では、子どもは「聞かなくちゃならない」場ですから、それで子どもは従います。それを「よく聞いてくれた」「昔話には力がある」「良い本を選んでよかった」とボランティアは思い込むようになりました。昔ばなし理論の徹底が進み、理論を口にすれば「よくお勉強したわね」などと褒められてステップアップしたような気分になり、民話の本来の形はどうなのかと考えることもなくなっていきました。
私はそこに付け加えて、献金がつきまとう図書館のストーリーテリング仲間の封建的な風土を問題視してきました。お金がからむ不透明さもあるのに、児童図書館員養成講座でその財団法人を講師にしておく図書館協会の姿勢もおかしいんじゃないかと思っています。また、学校訪問できるのも「某先生のお導きで」というコネ社会も見えてきました。これらが複雑にからみあい、結果として暗唱型が長く続いているのではないかと思います。
一方、6月3日に、新潟県公共図書館児童部門研究集会が小千谷であり、「読み聞かせやストーリーテリング」について講演やおはなし会の工夫について研究発表があったようです。立石憲利氏の講演ですから、自由な語りが披露されたことかと思います。県語り連の事業が前日にあったので、その流れで来られたことかと思います。
私は、県や公共の図書館の方向転換をこの目で見たいと思ったのですが、諸般の事情で参加することができませんでした。実際に参加していないのにこんなことを書くのはちょっと後ろめたいのですが、図書館のストーリーテリングも普通の語りも、みんな同じという意識が一段と進んだと思っています。これでコネ社会も少しは崩れていくのではないでしょうか。「最初はとにかく暗記してね」というのを覆すのは、まだ難しいですが、「最初からいくつかの資料を元に、自分で語りを作る。それが自分の語り口の獲得につながる。」という私の思いは変わりません。
6月7日の朝日新聞の土曜の青いbeの「逆風満帆」に落語家の三遊亭円丈が取り上げられていました。そのなかで 語り手のランクを三段階にしています。①アクター(オリジナルのギャグさえ作らず、ただ噺を演じるだけ) ②アレンジャー(演じながらオリジナルのギャグで噺をアレンジできる) ③クリエーター(おもしろいと客観的に評価される噺を創造できる) というものです。落語も語りの一種だと思いますので、この区分はとても分かり易かったです。
図書館の指導者は、民衆をアクターにしておきたかったのではないか、というのが私の推測です。かつて「みなさんもたまには演劇でも見て・・・」などと講座受講生に向かって言葉を放った講師たち。とにかく美しく優しいことばを駆使して、活字から自立しないように、民衆を縛っておきたかったのではないでしょうか。民衆は勉強が嫌いだから、時として間違った道に進む(ここで紙芝居の戦争協力を暗喩する)に違いない・・・的な、指導者目線です。
でも民衆は本能的に、お互いに学び合うことを知っていると思う。近代化の波が「学校で偉い先生の言うとおりにする」という人たちを大量に作ったけれど、負けてない人も多いと思うよ。
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