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『子どもの遊びとうた』

『子どもの遊びとうた』ーわらべうたは生きているー
 小泉文夫/著 (草思社)1986年

わらべうたの講座を、ちゃんと受けたことがないのですが、講師の方はこの本に書かれたことを紹介して下さったのだろうな、と思います。

内容は、

♥「明治以来の音楽教育が、頭から西洋のドレミファ音階を教え込もうとしてきたことに、根本的な間違いはなかったか」
♥「例を言えば、日本のわらべうたは、最後の音が上がって終わる。西洋風に作られた唱歌は『ああうつくしや日本の旗は↘』のように下がって終わる形式をとっている」
♥「このことだけをとっても、子どもたちは受身になって歌を学ばされてきたにすぎない」
♥「子どもが自分の持っているものから入っていくことが、音楽教育にしても、当然あるべき姿ではないか」
♥「西洋など異質のものの刺激を受けるのは大切だが、文化は異文化との接触によって発展していくもの。西洋の音楽を、自分の持っているものを基盤にして受け取ってゆくのでなければ、単なるサルまねに陥るか折衷になってしまい、決して新しいものは生まれない」
♥「『かごめ』『とおりゃんせ』は<かつてわらべうたであったもの><わらべうたに基づいた童謡>であって、いま現に生きていない場合が多い」
♥「子どものうたは、新しい歌でも古い歌でも結局は同じで、古い歌でも作り変えなければならないし、そうしないと次につながっていかない。新しい歌と言ってもいつでも古いものがそこに混じっている」
♥「わらべうたも音楽的には幾つかの発展段階がある。第一は2音による歌で歌詞は簡単で短い、必ず高い方の音で終わる。第二は3音による歌。必ず真ん中の音で終わる。これらはきわめて基本的で、ずっと発達した段階でも重要な音程感覚」
♥「明治以来の西洋音楽教育によってすべての日本人が育てられてきたはずなのに、日本人の大部分がむしろ教育の場からはずされたわらべうた系列の歌謡曲を愛好している」
♥「さらに流行歌の中でモダンな曲をとっても、伝統的な民謡と同じ五音音階が多い」
♥「歌謡曲が低俗なのは、わらべうたの系列である自発性を、子どもの時から教育しないでほったらかしにしておいたからで、外から与えられた洋楽のほうは、結局一部の教養人の教養としての音楽にとどまって、多くの日本人にとっては真に自らの表現になっていないということ」

・・そういったことを読んでいき・・当時は道路も建設ラッシュだったのでしょうか、道路の幅が違うと子どものわらべうたにどのような影響を及ぼすかというような調査をされました。すると、数年後、ガラガラと、歌が変わっていたという。
♥「そしてこれが、本当のわらべうたで、みんなが誰でも同じようにうたうのは、わらべうたではないのです」としています。
どうりで、いくら私たちがやっても、子どもに喜ばれたという感じがいまいち伝わってこないはずです。


・・・・・・・・・・

さて、では21世紀の今、私たちが「とうきょうと~」と、おはなしのじかんのあいだにやるのは、いったい何でしょうか。
コダーイ研究所系列で習ってきた方から習うのは、何でしょうか。
子ども自身の言葉から現れるのは、いわゆる替え歌のようなものです。小学生くらいならそれが出来るし、それを潰さないように気をつければいいような気がします。
今の子どもたちは、替え歌で遊ぶということが、あるのでしょうか。それらを拾って私たちが歌うと、なんだかその価値を潰しているように思えます。

これらのことは、上手く言わないと「民族主義者」と思われそうだ。
それでも言いたいのは、「最後の音が上がるうた」「2音階のうた」を大切に、それらを変化させていけばいいかな、ということです。
ジャンケンうたは、「じゃんけん・ぽん!」で絶対最後は上がる、よし、と。

 飛躍して申し訳ないけど、今のお笑い芸人さんは「子ども文化の創造者」のような気がするのです。だいたひかるの「♪どうでもいいですよ」、小島よしおの「♪そんなの関係ない」って、語尾があがってるでしょ?ほんとの子どもはお勉強に忙しくて、子ども同士の関係も競争で分断されてる、だから子どもに近い年齢のタレントが発信している。ガラガラ新ネタが変わっていくことも、子どもの流行がすぐ変わることと同じような気がします。昔は、ドリフターズがその役割をして、大人から「見せたくない番組」と言われていた。これぞ子ども文化の証です。一発芸とか流行の替え歌が、新しい時代の、子どもの中から生まれてきたほんとうの「わらべうた」なのかもしれない。
 
 誰か、「オリジナルわらべうたを作ろう」みたいなイベントをやればいいのに。替え歌を作って、その場で歌う、なんてね。

 大人にとってなかなか勇気がいるのは、歌詞を変化させる、ということですね。
子どもならば、いとも簡単に変えるのです。これは、昔話をするときに、相手に合わせて変化させるということと同じような気がします。だから、私も子ども性をもって、変えていけばいいと自分に言い聞かせています。

何度も書いて申し訳ないのですが、繰り返します。
 昔話の「理解が進む」と、時として「元の形に忠実に」という思考回路に入っていきます。「本来の形」として、「3回の繰り返し」とか「様式性」とか特徴を教えて、それを「昔話の本来のかたち」と定義し、それにあてはまらない昔話を疎んじる傾向がありました。排除思考、集約思考です。
 けれど、それに付け加えて、子どもの立場に立ったものを一緒にやらないと、次に続かないような気がするのです。なんでもかんでも忠実にというのは、大人のヒステリーでしかない、と思う。
「一字一句同じになんて言っていないわよ」と言う声が聞こえそうですが、変化させようとしたときに、減点方式で「あそこはどうか」「これはちょっとね」といい続けて、新しい芽を摘んできたのではないでしょうか。自分がバカに見られることを恐れた部分もある。
 各地で「昔語りの会」があって、伝承として古老のものをそのまま伝えようという動きがあるけれど、そこに、今の子ども自身が持っているものから入っていくという視点を持つ。また、新しい物には古いものが詰まっているという認識を持つ。そのことで、本当に伝承になるのではないか、と思います。
絵本だって、数十年前のものを尊ぶ人もいる。新しいものを好む人もいる。新しい物は、古いものが詰まっているという認識を持つ。これで、どうでしょう。
 

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