語り手への道

「紙芝居の窓」ブログに書こうかこっちにしようか、迷った末にこっちに書きます。
集団相手の絵本の読み聞かせは、ある意味紙芝居だと思うと、何度か書いてきました。絵本の読み聞かせ講座終了後、それぞれの団体に加入したり自分たちで作ったりして新しくボランティアの道に入られる方も多いことでしょう。

 新潟(県)は昔話の宝庫と言われ、たくさん語れるおばあさんも多かったそうです。家庭でも子どもの頃お年寄りから昔話を聞いて、成長して、転居の末、新潟市にお住いの方も多いことでしょう。昔話を語りたいと図書館講座を受けたら、いくつかのテキストを暗記するように指導され、悪戦苦闘した方もおられました。
 昔、自分が体験したように子供に語りたい、語れなくても絵本を読んで聞かせたい、その願いが、図書館活動とうまくドッキング・・・するはずなのですが、「もう暗記できないわ」「良い本ってどーいうんだね」と大勢の方が挫折しています。

 よく落ち着いて考えてください。昔のおばあちゃんは、本から暗記したのではないのです。アナウンサーからアクセントなどを指導されて語ったわけでもないのです。ぼそぼそと、子供に問いかけながら、やーどうだったかなと時々つぶやきながら、思い出しながら語ったのです。ひとりひとり個性的な言葉使いで、意味不明のところもときどきあって、そういうところが面白いのではないかと思うのです。
  私は、これら絵本の読み聞かせや紙芝居や、そういうことをしたいと思う方は、潜在意識に こういった語り手になりたいのだという思いがあるような気がするのです。
 特にあちこち訪問するような私たちは、まるで自分が瞽女のようだと思うことがあります。 普段は内輪だけの集まりだけれど、たまには語りを招きいれ、時には唄い、空気が動く。語り手は泣かせ笑わせ、昔を思い出させ、それが小さな娯楽で人間の生の楽しみでもあるはずです。長岡などは一時期数百人もの瞽女さんがいたと言われています。現代でもそのくらいいてもおかしくない。男性でも座頭や旅人として語り手が大勢いた。

 語り手たちの会の機関誌で、文字表現にとらわれる原因について、考察がされていました。つまり、語りをやるときに本の文字から離れられないこととか、図書館の本のPRの目的でボランティアが利用されたりする原因のことかと思います。

『語りの世界48』P18 より抜粋。
「漢字は意味表出文字として成立した歴史があり、日本に漢字が伝来して以後、日本人の思考回路が、支配層、男性を中心とした文字による伝達を主に形成されてきたからではないでしょうか。それは音声による伝承を快しとせず、文字による伝達手段に重きを置いて考えてきた深い歴史的課題に繋がることなのかも知れません。」

 文字をたくさん読んでいる人が思考していると尊敬され、文字そのものが貴重なものとして重きが置かれる、っていうことでしょうか。支配層に近くいられるしね。なんとなくそういうのを、日本人って好きなのね。
 何べんも本を読みこんでも、どうしてもそこから飛び立って再話できないという現実は、「文字が正しくて勝手に言い換えられるはなし言葉は一段下だ」というイメージから来ていないでしょうか。「活字に近い私って、高級♥」みたいなことです。
 コツさえわかれば そこから抜け出せるような気がするのですが。コツ?それは、自分で体感して試行錯誤することと、今を生きている人間一人ひとりを尊重してそこからブレないこと、かと思います。
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