図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
昔話理論の先へ(1)
『これから昔話を語る人へ』松本なお子(小澤昔ばなし研究所)を読みました。
共感するところも、違う考えのところもありました。現在、日本中の図書館で、まちがえないように上品な語り方をするボランティアが圧倒的多数だと伝え聞いたことがありますが、この本のような教育が行き届いた結果なのだなと思っています。語り手は身動きせず淡々と語り、それでも聞きたいと休日のお話会の参加人数も多いのなら、とても素敵なことでしょう。
ただ、私のように「本にこう書いてあったでしょ!」「理論がこうだから違うことしちゃだめでしょ!」「あなたが変な話を選ぶからお客さんに退屈されるのよ」などと言われる新しい語り手がいると思うので、そんなことはないと思うんだけどと、反論を★マークにして次ページから書いておきたいと思います。
昔話は民話の一種です。特別な教育を受けようが受けまいが、自分たちの思いを言葉にしていった結果として残ったもの。それを学者が研究して一定の法則を見つけたとしても、それは一時のことで、すぐに「違うものはおもしろい」と新しく語っていく人たちのことは大切にしたいと思います。また、捨てられた話を拾い集めておもしろいところを膨らませる、そういう方もいらっしゃいます。
私は時々、めまいがするのです。昔話理論を語ると「こういう昔話がよい再話だ」と限定される方がいらっしゃる。
これはたとえば、自分好みの髪の長い女性を連れてきて「髪の長い女性はよい女性」「よい女性は髪が長い」「髪が長いのはこういう理由でよいことがあるからだ」「髪が短いとこういう悪いことがある」「だから女性に髪の長い人が多いのだ」と語っているようなもの。
こういった論調に引っかかる人の多いこと。
そういった側面は参考にしていますが、髪が長い人も短い人も男女関係なくいるし、ひとりの人が長い時期もあるし短い時期もあるのです。生きている中でのいろんな選択肢のなかに髪型の選択があるだけ。
生きるときの楽しみの手段として語りがあるのに、語りが目的化して人を切り捨てるような時代になっているので、なんとかみんなの力で転換していこうと思っています。
震災が起き、近代化に向かった日本人の感性が方向転換していると、あちこちでささやかれているのを、聞いたことがないでしょうか。何か欠落したものがあるから打ち捨てていいものだけ残せばいいということに、ためらいはないのだろうかと、よい再話選択派の方々に問いかけてみたい。
子ども時代は短いからよいものだけを選び抜いて、と長い間の指導がありました。今でも、手遊びする間ももったいないからと、大人好みの本を一方的に押し付ける、そういう風潮に染まることがあります。手遊びさえも「正しいものだけやればいい」という人もいます。それが教育だと、鼻息荒い人々がいます。
ダメなものを排除して良いものだけ、あるいは あいまいにブレたところをそぎ落として正しい再話に直して記録に残す、そんな風潮も強いのです。都会の人間がそういう理論をふりかざして地域のノイズ混ざりの語りを「正しく」直してあげることを、地域の人が「ありがたい」と歓迎するようなことまで起きています。じゃあ、文字として記録されたものを口にするときに、聞き手に合わせてノイズのつけ直しをやればいいね。
目黒のサンマという話があります。殿様用にきれいきれいにしたサンマの哀れな姿を、浄化された昔話に見るのは私だけでしょうか。
共感するところも、違う考えのところもありました。現在、日本中の図書館で、まちがえないように上品な語り方をするボランティアが圧倒的多数だと伝え聞いたことがありますが、この本のような教育が行き届いた結果なのだなと思っています。語り手は身動きせず淡々と語り、それでも聞きたいと休日のお話会の参加人数も多いのなら、とても素敵なことでしょう。
ただ、私のように「本にこう書いてあったでしょ!」「理論がこうだから違うことしちゃだめでしょ!」「あなたが変な話を選ぶからお客さんに退屈されるのよ」などと言われる新しい語り手がいると思うので、そんなことはないと思うんだけどと、反論を★マークにして次ページから書いておきたいと思います。
昔話は民話の一種です。特別な教育を受けようが受けまいが、自分たちの思いを言葉にしていった結果として残ったもの。それを学者が研究して一定の法則を見つけたとしても、それは一時のことで、すぐに「違うものはおもしろい」と新しく語っていく人たちのことは大切にしたいと思います。また、捨てられた話を拾い集めておもしろいところを膨らませる、そういう方もいらっしゃいます。
私は時々、めまいがするのです。昔話理論を語ると「こういう昔話がよい再話だ」と限定される方がいらっしゃる。
これはたとえば、自分好みの髪の長い女性を連れてきて「髪の長い女性はよい女性」「よい女性は髪が長い」「髪が長いのはこういう理由でよいことがあるからだ」「髪が短いとこういう悪いことがある」「だから女性に髪の長い人が多いのだ」と語っているようなもの。
こういった論調に引っかかる人の多いこと。
そういった側面は参考にしていますが、髪が長い人も短い人も男女関係なくいるし、ひとりの人が長い時期もあるし短い時期もあるのです。生きている中でのいろんな選択肢のなかに髪型の選択があるだけ。
生きるときの楽しみの手段として語りがあるのに、語りが目的化して人を切り捨てるような時代になっているので、なんとかみんなの力で転換していこうと思っています。
震災が起き、近代化に向かった日本人の感性が方向転換していると、あちこちでささやかれているのを、聞いたことがないでしょうか。何か欠落したものがあるから打ち捨てていいものだけ残せばいいということに、ためらいはないのだろうかと、よい再話選択派の方々に問いかけてみたい。
子ども時代は短いからよいものだけを選び抜いて、と長い間の指導がありました。今でも、手遊びする間ももったいないからと、大人好みの本を一方的に押し付ける、そういう風潮に染まることがあります。手遊びさえも「正しいものだけやればいい」という人もいます。それが教育だと、鼻息荒い人々がいます。
ダメなものを排除して良いものだけ、あるいは あいまいにブレたところをそぎ落として正しい再話に直して記録に残す、そんな風潮も強いのです。都会の人間がそういう理論をふりかざして地域のノイズ混ざりの語りを「正しく」直してあげることを、地域の人が「ありがたい」と歓迎するようなことまで起きています。じゃあ、文字として記録されたものを口にするときに、聞き手に合わせてノイズのつけ直しをやればいいね。
目黒のサンマという話があります。殿様用にきれいきれいにしたサンマの哀れな姿を、浄化された昔話に見るのは私だけでしょうか。
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