昔話理論の先へ(2) オオカミは一頭だけか

私は昔話理論に振り回されていましたが、ちょっと離れて落ち着くと、その次に考えればいいことが見えてきました。

★「子どもが主人公に同化する」について。

「オオカミはちゃんと死なないと子どもはかえって怖いんだって」ということで、悪者はちゃんと死なない昔話はだめだというふうに私たちも習いました。なんと、10年も昔のことです。同じ実例が挙がっています。私たちも人づてに聞いた例です。
「ある子供が、おでかけの時にオオカミがいるかも知れないと怖がった。思い出したら、親である自分が、狼が逃げていく結末の絵本を以前に読んだ。そのせいで子供が怖がったのではないか。」だから、ちゃんとした昔話を選んでやることが大切だ、前記の本の著者はここからそういった結論に向かっていきます。

 でも、私は疑問に思うのです。

オオカミは世の中に一頭だけだとその子は思っていたのでしょうか。どの子どもも、話に出てきた一頭の狼が死んだからもう怖いものなしでお出かけするのだろうか?という疑問。
それから、子どもは、死=すべての終わり、という理解ができているかどうか、という疑問です。最近は、ゲームのリセットのようにすぐに再生できると思っている子どももいるそうですから、小さい子どもは「オオカミは死んでしまいました」をどのように捉えているか傍目にはわからないんじゃないか、という疑問です。

どちらにも共通しているのは、大人の思い込みで、子どもはこういうものだとか昔話はこういうものだとかという設定が固定化されていて、子どもに対して感性の多様性を否定していないでしょうか。
「オオカミがかわいそう」という感想の子どもには「主人公に同化していない」という見解ですが、主人公に同化しようがオオカミに同化しようが、それは聞き手の自由というもの。聞き手にも「このように感じなくてはならない」と脅迫するような気分で語るのは、それは聞き手に対して失礼というものではないだろうか、と今は思っています。

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