「小川未明を思う」にも書いた通り、私は子どものころ、小川未明生誕の地の近くに住んでいました。最近 上越市高田に行ったので、寄り道して写真に撮ってきました。
「アンデルセン排除の理由」に書いた通り、子どもの本の あの作家が良くてこの作家が悪いという感覚はずいぶん昔から続いていて、私はそれに反対の気持ちが大きいのです。でも、最近 図書館HPで子ども読書推進にかかわる委員の先生の発言を読んでがっくりきました。そのものずばり、「某作家が良くて・・・」的な発言がありました。ほんとにボランティアに差別意識を植え付けて、子どもが活字に親しんでくれるようになるだろうか。石碑を見ながら、そう思いました。
私は、本の善し悪しで区分けするより、表現方法で区分けしていったほうがいいと思うんです。本を「情報のひとつ」と見直すと、情報をまず整理する癖がつくはずです。それは物事をフラットに見る力で、それぞれの違いを認める力です。そしてお互い認め合って自尊感情も育つように思います。
整理して、それを活用するのは、子どもの本の場合は、子ども本人だと思います。大人が「あの本はだめ」とやるのは、情報遮断で、子どもの権利を侵害していると思うんです。
西蒲区の図書館で、どのような教育がされたのか、委員の発言からはっきりわかりました。一般のボランティアは、洗脳されるのがいやだから「勉強会」に来ないんだと思いますよ。普通の人のほうが、判断力があると思う。「ああいう本はだめ」なんてやる勉強会は、暗くていやだもんね。そういう暗い状況で、子どもが図書館に親しむだろうか。「子どもに作家〇〇のすばらしい絵本を」なんて考える大人が読むおはなし会・・・ちょっと気持ち悪くないですか?
「地域の子どものために良い本を」というのも、それは 戦争が起こる「全体主義」です。全体のために個人が犠牲になってもいい、という発想ですね。
できたら全体でなく、個人を尊重できる地域にしたいと思うのです。
西蒲区の先生方に言いたい。こんなブログを読んでいるかどうか分かりませんが。
「講演会による教育」は、もしその講師が間違ったり特定の考えに固執していたらどうするのか、私はそれを心配しています。特定の先生の話を聞いて鵜呑みにするのは、図書館の本棚に特定の本しか並んでいないのと同じこと。「読書ボランティア」っていう位だから、偉そうな先生一人の言うことの他に、自分で、違う主張の本も探して読んでみればいいと思います。子どもに読めという前に、自分で探して本を読めばいいのに、と思う。
ぞっとするのは、そういう特定の思想に刷り込まれた人が、大学の非常勤で入っていかれること。大学教育そのものが変わっているはずなのに、「作家の〇〇と△△を優先して読んで」などと今の学生に刷り込むのでしょうか。 何か大きな力のあるネットワークが、自分達に都合よく育てた人材を、上手に講師職や行政委員に送り込んでいるような気がする。新潟市内の大学の文系に進んだお子様をお持ちの保護者の方、どうぞお気をつけください。