反省した人しなかった人

 新潟市の司書全校配置システムを推し進めた方々は、子どもの本を大切にする方々、良い本の王道を行く方々として、とてもその周囲の人に尊敬されています。今でも、市立の幼稚園などでは一目置かれる存在でいらっしゃるので、現場には関係なく、その方々の意見が第一に尊重されています。

 今から40年以上も前から良書主義は図書館に取り入れられてきました。その20年前には戦争が終わったのですね。
「どうして戦争なんかしたの?」と子どもに尋ねられて、うまく答えられない人は多いのでしょう。私のショボイ感覚で申し訳ないのですが、理由を幾つか挙げてみたいと思います。戦後しばらくして生まれた私に、どうしてこんなことが書けるのか。それは私が、そのミニ版を体験したからです。

1 人間より国が偉かった
2 多様な意見を集めなかった
3 偉い人のいうことは正しいと思う人が多かった
4 偉い人に服従するように、お互いにけん制した
5 実態はよくわからないのに、何故か崇拝するシンボルがあった
6 都合の良い情報しか流されなかった
7 自分たちが他の国より優れていると思いたかった
8 他の国を良くしてあげるという大義を見つけた
9 そのために兵隊を作り武力を使った
10 意識を統一するために、実体のない美しい言葉を使った

そして、戦後の反省方法もいろいろありました。

10の項目で、詩人や小説家、画家、学校の先生、紙芝居の人、マスコミの人、などなどが、戦意をあおったと、批判されたり自己批判したりしました。当時の感覚で、失敗したものを排除すればいいという反省方法がありました。
 何度も書いて申し訳ないのですが、私たちが地域の昔語りを自分の言葉で語るおじ様を呼んで語りを聞いたあと、「そういうやり方ばかりじゃないのよ」「図書館ではそうじゃない語り方」といわれて「そう?」と思ったのです。発言者は当時の市立図書館の権威の方と一緒に家庭文庫に関わっている方です。だから「そうなんだな」と信用しました。きっと、今でも全国各地で同じような会話がされていることでしょう。排除する反省方法です。
 つまりは、文字に書かれていないことを自由に語ると、自分の思想が入るし、過去にそうやって戦意をあおってしまった。文字の通りに口にすればもう間違わないだろう、ということと私は解釈しました。
 同じように、いろいろ余計なことをしゃべる紙芝居も警戒されたのだと思います。10年位前、私が小学校の文化祭で紙芝居「ジャングル大帝」をしたときも、教頭先生や司書先生が近くにいて、様子を見ていらした。その時は見学かなと善意に取ったのですが、どうも様子がおかしかったので後で気づきました。私の後は人形劇の方だったけど、その方の時は先生はおられなかった、紙芝居がいけないんかな。人形劇の人の方が、結構自分の好きなことおしゃべりしてたけど。
今、問題の園の訪問でも、私の時はありがたいことに先生がいつも見守ってくださっています。先生方は幼児教育のプロですから、子どもの文化を尊重することにも見識がおありでしょう?実は、権威と呼ばれる方々にその認識のない方が多いのです。逆に目上の方を教育しなくてはならない事態が、あちこちに、あります。

 話は変わって、先日、絵本読み聞かせボランティアの交流会があったそうです。
その中で「私は、ボランティアを育てられない」という発言があったそうで。
「へえ~、この人は他の人を育てるつもりでいるんだあ~」と、周囲は別の意味でびっくりしました。ボランティアの中では自分が一段高い指導的立場にいると思っている。その会の方々は、同じ会の中でその人を先生だと思っているのでしょうか。

 さて、その「育てられない」の発言者に、数年前、市内の家庭文庫のスタッフが何気なく近づいていったのを、私は近くで見ていました。また、「私、○○さん、いいと思うわ」と漏らしたのを聞いています。私は心の中で「気をつけなよ!」と思っていたのですが。それからその発言者に読み聞かせ講師の仕事が集中するようになりました。
 どうして市立図書館が、その家庭文庫に振り回されるのか、今まで何度も書いてきました。全校司書配備システムの生みの親として「子どもの本を大切にする方々」を崇拝されているのも、知っています。
 しかし、その思想は思想の一つとして、常に見直し検討がされなくてはならないし、現代の子どもを取り巻く問題に照らし合わせていかなくてはならないと思うのです。市立図書館も、今、懸命に考えている最中でしょう。版を重ねているのを良い本の根拠としながら、ずっと多いノンタンは排除する、という不思議さがありました。今、大勢の人の努力で日の目を見るようになって本当に良かったです。

 先日、朝日新聞の学校図書館についての記事で、沖縄の学校は貸出率が一番高いこと、それは司書が全校に配置されて人がいることがその理由ではないか、とありました。全校配置の都市は結構あり、新潟だけではないのですね。
さて、では、なぜ同じような立場の新潟市の学校図書館が子どもの利用が少ない(多いところもあるんでしょうが)のか。
それは、司書を置いても、妙な指導がされているのではないか、という疑念です。私も自分の目で見て「?」と思ったことがあります。司書が自立して考えていけない、自分の存在の根本にある全校配置に功績のあった方々に対する思慕や遠慮や、そういったことはないのでしょうか。逆につきつめれば、全校配置をやめないかぎり、その方々の影響からのがれられないのではないか。それでは、継続させるために、現場はどういう努力をするべきなのか。

 前回の図書館協議会で、その委員が「自分たちの好きな本がない・・」というようなことを平気で発言するというのは、自分のバックにどういう人がいるかということを、暗に示したということでしょう。今まで隠されていた部分が明らかになり、本当にその委員には感謝したいと思います。

 一握りの家庭文庫のスタッフにコントロールされるような公共図書館では困ります。市民みんなでコントロールしていきましょう。
 この文章を読んでいる大勢の方々に、昔から新潟市の図書館は児童サービスの面でどういう問題があったか、明らかにしたいと思ってずっと書き続けました。
 これからは常に情報を明らかにし、風通し良く、その家庭文庫の方々もボランティアとして、私たちと対等に市立図書館に関わっていただきたい、皆、待っています。
 そして、できることなら、戦後の反省を思い出していただきたいのです。どうして戦争をしてしまったのか、「本を読めば想像力が養われる」とおっしゃる方々に、ぜひ、想像していただきたい。

 


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