私が暗唱型ストーリーテリングに反対する理由

今、全国各地の図書館で、「子どもにおはなしを届ける」という目的で、語り・ストーリーテリング講習があると思います。たいてい、『おはなしのろうそく』をテキストに、それらから暗記するのを第1歩とするようです。
図書館協会主催の講習も、東京子ども図書館のスタッフが指導するわけですから、文をまず覚えましょう、とやるでしょう。暗記型、暗唱型、ですね。
でも、お願いしたいことがあります。それ以前に各地で地域の大人が身近な子ども相手に語ったり、口演童話として大勢に語ったりする文化があったと説明していただきたいのです。それらは、文章から離れて揺らぎがあって、文そのままでなく、その人なりの言葉であったはずで、それが人々の心に残ったのではないかと思うのです。

でも、暗唱型でやる人が混ざると、語りの会も幅が広がって価値があります。今までの努力は無駄にはならないと思います。
以下、暗唱型の語りにはいくつかの問題点があると思うので書きます。

1、活字に依存するようになる。昔からの難解な言葉遣いをそのまま「味わい深い」として口にする人もいます。人よりも活字が大事な語り手が生まれ、本が人より大事と平気で口にするようになりました。これは権威に依存することになり、その人は指導者になります。民話(民の語り)は指導者ではない民衆の語りですから、民話を語る資格がない、とも言えます。

2、1に関係しますが、本の文章は書き言葉のものも多く、難しい言い回しがあります。黙読するならば少し戻って確認しながら意味をつかんでいきますが、語りはどんどん流れていきますから、そこでついていけない子どももかなり多いはずです。子どもにもプライドがありますから、「よくわからなかった」と言えず、とりあえず語りのおばさんにありがとう、とお茶を濁すことになります。つまらない気分だけが残ります。
朝日新聞に以前、外国の方が東京子ども図書館に取材に行き、最後に「でも、難しいわ」などとコメントされました。言葉や構成が難しいのです。「難しいことを一生懸命やっている自分」に酔っているということはないでしょうか。

3、語り手も、いざ自分の子どもや孫に語ろうとしたときに、いちいち文を思い出さなくてはなりません。ずっと前に聞いたアレ、と言われても、とっさに語ることができず、話は無用の長物になります。

4、一番問題なことは、活字だけでなく、すべての事に依存する習慣がつくことです。そういう人間が再生産されている。今の若い方はそういう教育を受けていませんが、50代以上の特に女性は、偉い先生の言うことを暗記し、それを正しいと思い込み、自分の頭で考えることができない人が多いのです。過去の教育に問題があったのでしょう。広い教室で一心不乱に教授の理論を自分のものにし、正確に復唱できたものが優等生になる、そんな教育でした。時代が変わっても、それがどこまでも通じると頑迷に信じて昔の理論に依存している。
 学校訪問でいい気持ちで語って、それが子どもに受け入れられているか 自分を疑おうともせず、それを美談にしている。もしも学校で、子どもが本当にそれを「面白い」と思えば、多数の子どもが自分でもやりたいと思うだろうし、図書館のおはなし会も自ら足を運ぶようになるでしょう。しかし、それはない。子どもに敬遠されるので「大人向け」としかやることができない。問題がどこにあるか振り返ることがない。

もっと他にあるかも知れません。自分の言葉で語るのは、権威を手放すことと似ています。本という権威です。本は使う物であって、本に使われることはしたくないです。

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