暴言を吐かないで済むプログラム作り

図書館講座で、プログラム作りについて特定の方法が指示されたため、表に現れないところでいじめが起こっています。それについて、書きます。

① プログラムを作る大人(ボランティア)の目線に立って考えてみます。
 プログラム作りについては絵本の事典には書かれていませんでしたが「プログラムは大事」ということはわかります。何を語り何を読むか、ボランティアの経験の程度それぞれに、皆迷います。どんなに考え抜いても聞き手のその日その気分によりあたりはずれがあるだろうということも理解しています。プログラムを作ることは「創造」であり、プログラムの作り手の個性が現れることが楽しいのだとも思っています。
 創造である以上、数人でプログラムを決める、ということに無理を感じます。本の受け取り方が人ごとに違いますし、思い入れや並べる方法に対するものさしも違うのです。個人の表現でもありますから、みんなで話し合って決めるというのは、誰かの意見に引きずられるとか、弱い人が自分の感性を押し殺すか、排除の論理が働く情けない現場でもあるのです。みんな仲良しごっこをしたいかも知れません。でも、長いものに巻かれるか多数に同調しようとする気持ちに、将来はあんまりないと思うのです。
 
 最近、絵本の構造について、これにはいろいろな表現があるのだなあと知ったことは別ページに書きました。映画「この空の花 長岡花火物語」を見たときに「不思議な構造の映画だな」思ったのですが、思いを巡らすとこれが「絵本の構造」にある「点構造」の中の「ポリフォニー構造」だと、なんとなくわかりました。時間軸も空間軸も関係なく行き来する難しさに、織物の綾目のような入り組んだようなイメージを持ったのです。 大林宣彦という人は、時間・空間関係のない無限大(映画は2時間くらいか)の荒野にそれぞれのエピソードを並べました。それは、どんな小さな出来事も命も大切にされるから成り立つ荒野でもあったのでしょう。
 戦争や空襲の残酷さを描く映画ですから、平穏な空間に無数の小さな力を対等に並べてはめ込むことで、どんなものにも命が宿るというメッセージを、構成そのものにも吹き込んだように思います。
 
 話を戻します。数枚の絵を並べる絵本の構成は、線構造・点構造・その複合型があります。また、1冊の絵本を1枚の絵と見立ててみれば、数冊の絵本を並べるプログラムの作りという構成も、線構造・点構造・その複合型があるのだと思います。
 Aさんが点構造にしたいと思い、Bさんが線構造にしたいと思うならば、争いはどちらかが譲らないかぎり終わりません。そういうことで論争ををするのはつまらないことです。個人の人権を守り、いじめをなくそうというのなら、プログラムはコマごとに個人が決めて読み手がそれにあわせればいいのです。
 図書館講座ではあたりまえのように「線構造」だけを教えました。ボランティアは時間の流れがおかしいと、先を争うように口を極めてののしるようになっています。構造理論を知らずに相手に対して「勉強が嫌いな人」というレッテルをはるのは、それは暴言であり、いじめにつながる道なのですよ、と言わせてもらうことにします。


② もう一つ、教育という目線で書きます。教育を受ける子どもの目線です。
学校教育は子どもが主人公だ、というのは20年以上も前、子どもの権利が広く知られるようになって方向が定められたのですね。子どもの意見表明権も謳われました。
 学ぶ主体は子どもですから、ヘンだ・面白い・つまらない・など、子どもがまず感じることから始まります。そして、子どもがそれに関わることで学ぶ、つまり参加型やワークショップ形式が広く行われるようになりました。読書アニマシオンもその一つの方法です。また、情報リテラシー教育も指針に取り入れられ、情報を活用する能力を育てるのも授業内容に大切に取り入れられています。
 つまり、子ども相手、特に学校でやるならば、絵本を情報と捉え、子どもが関わる方法を取り入れたほうがグレードが高いのです。私たちが聞き手選書型を取り入れた時に、それはしっかり説明したと思います。

  ワークショップの前にはたいていレクチャーがあります。だいたいの方法を説明してその通りにやってみるのです。ところが新潟市の絵本講師はそのレクチャーに、線構造しか頭の中になかったのです。自分が教育を受けた数十年前はそこまでしか研究が進んでいなかった。または、自分の好みの絵本の構造だけに気を取られてしまって、それ以外を受け入れられない指導者から教育されたので、受け入れられない症候群の司書やボランティアが増えたのです。受け入れないことが「勉強」だと思ったのですね。勉強をした人だけが集まってボランティアするんだ、みたいなことになっている。だから違う人に向かって暴言を吐くのが、「ちゃんとした」ことのような雰囲気になっています。
 JPICの講座は今年は「プログラムを作る」でやるそうですが、受け入れられない指導者がレクチャーすればますます現場にいじめがひろがることでしょう。違うことが認められない・・・それはいじめと差別へまっすぐ進む道です。 
 大げさですいませんが、憲法の3原則を思い出してください。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義です。違うものの人権を認めること、平和にやるにはどうすればいいか知恵をしぼること、それを元に学んでいきませんか。


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