かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

母の陰のような存在だった私

2019-03-12 10:51:22 | ブログ記事

いつも読ませていただいているブロガーさんは、
離婚しても、
元夫さんがお金をくれて、元家に行ったときは元夫さんが手料理をふるまってくれるとか。

そんなことなど一度もしてもらったことのない私などは驚きます。

離婚しても、そこまでしてもらえるとは、
そのブロガーさんは、よほど綺麗な人なのでしょうね。

元夫さんは、お金があげられなくなったら来てもらえなくなるかと心配されているそう。

そこまで思われたら、女冥利に尽きるというものですね。

やはり女は美人に生まれると得ですね。

むかし読んだ瀬戸内寂聴の小説で、『女徳』というのがあって、
死ぬまで男に尽くしてもらえる女性のことが書かれてありましたが、
世の中には、本当にそういう女性もいるんですね。

この小説のモデルになったのは、

高岡智照という実在の女性らしいですが、

女として生まれれば、誰でも、こういう女性に生まれたかったと思いますよね。

が、世の中には、美人に生まれても、そういうふうな一生を送れない女性もいます。

身内のことで言いにくいのですが、
私の母も、若いころは人が振り返るほどの美人だったらしかったのですが、
私の父が給料を自分ひとりで全部使ってしまうような人だったから、
父の生存中は苦労の連続でした。

母が人に頼ることを潔しとしない人だったから、
余計そういう運命に甘んじたのかもしれませんが、
とにかく働きづめの一生でした。

兄も私も人並みに学校を卒業できたのは、この母の頑張りあってのことだったと思っています。

母は、私が大人になってからも、まだまだ美貌を保っていましたから、
私が短大を出てから、お見合いをしても、しばしば母のほうが気に入られるとかいうことも
ありました。

その当時の母は、まだ40歳過ぎでしたから、十分若かったのですね。

あるとき、二十歳の私が振袖を着せられて、母も着物を着て、
母方の祖父母も一緒に高知城の石段を上がっていると、

見知らぬお婆さんが、祖父母に近づいてきて、

「見たこともないような綺麗なお嫁さん」と言いました。

それは、華やかな振袖を着せてもらっていた二十歳の私のことを言ったのではなく、
40歳を過ぎてふつうの訪問着を着ていた母を指して言った言葉でした。

それを聞いた娘盛りだった私の気持ちは複雑でした。

そのくらい、まだ母のほうがきれいと言われたということでしたから。

当時は、兄の友人達の中にも、私の母が目当てで遊びに来る人がいたくらいでした。

私は、ずっと母の陰のような存在でした。

今朝、そのブロガーさんの記事を読ませてもらって、そんな昔のことを思い出しました。


*

★なにもかも母にかなわぬ娘(こ)でありしわれでありしよかつても今も

★神様を恨みし日々もありしことかつてありしを今おもひだす

★見合ひしてわれより母が褒められること多かりしわが若き日々

★美しく生まれることは財産を持つに等しきことと思へり

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