goo blog サービス終了のお知らせ 

日南娘(ひなむすめ)

宮崎をアピールできたらいいな

自然体で生活していきたいなーー。
      

「明日に架ける橋」

「500マイルも離れて」

掛け声は「4分で10メートル!」

2011-11-18 08:05:31 | Weblog

 

なんでも慣れって怖いですよねーーーー

「4分で10メートル」とは、「津波は地震から最短5分でやってくるから、地震後4分で高さ10メートル分の

避難ができれば助かる」ということである。

 

掛け声は「4分で10メートル!」
障害者たちが巨大津波から全員無事に避難完了
“地震慣れした過疎の町”北海道浦河町の教訓
災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ【前編】

 

http://diamond.jp/articles/-/14888

 

 

 

 


「生き証人」が語る真実の記録と教訓(12)

2011-11-17 09:51:27 | Weblog

 

 

「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて    吉田典史

                                                                            (ダイヤモンド・オンライン)

 

 

“正気”を失う孤立マンションで祈り続けた家族の無事
父はあのとき、死ななければいけなかったのか――。
――石巻葬儀社・太田かおり氏のケース

 

震災で家族を失った遺族を、新聞やテレビではあまり見かけなくなった。遺族はその死にいかに向かい合い、

何を感じているのか。私たちが被災者を語るとき、本来、ここが原点になるべきなのではないのだろうか――。

 今回は、葬儀社を経営する父を失い、その後を継いだ女性を取材することで、「大震災の生と死」について考える。


「父は生きている」とひたすら願った
半年経っても現実を受け入れられない

 「まだ、父の死を受け入れることはできていない。毎日、無意識のうちに悲しい。漠然とした悲しい思いが半年以上、

続いている」

 太田かおりさんは、目にうっすらと涙を浮かべ、思いを語った。父の太田尚行さん(69)は、創業80年を越える

株式会社石巻葬儀社(本社・宮城県石巻市)の社長を、長年にわたり務めていた。

かおりさんは父を専務取締役として支え、16人の社員を束ねてきた。

 「父がいなくなった感覚がない。3月11日の朝も、地震が起きた瞬間も、この事務所で仕事をしていたから……」

 会社の事務所から1キロほど離れた家には、母(尚行さんの妻)と姉が生活しているが、3人が集まると父の話になるという。

 「父が座っていた椅子の背もたれには、父の服がかけられている。父があの日、かけたままの状態で……」

 3月11日午後2時46分、激しい揺れが起きた。1時間を経た後、津波は会社がある市中心部の中里町2丁目にも

押し寄せた。そのとき、かおりさんは父と連絡がとれなくなった。

 自宅にいた尚行さんは、会社にいるかおりさんや社員が心配になり、事務所に車で向かった。

その後、行方がわからなくなった。

 地震発生後、かおりさんは社員らと会社近くにある十数メートルの高さの建物に避難し、難を逃れた。

そこに3日間滞在した後、13日早朝に離れ、胸まである高さの水をかき分け、土手にたどり着いた。

 歩いて土手を越え、その晩は知り合いの家に泊まる。翌14日、津波で流された車の合間をくぐり抜け、自宅に戻ること

ができた。母、姉と3日ぶりに再会したが、そのとき父の行方がわからなくなっていることを知る。

 母と姉は、尚行さんとかおりさんが一緒にいると思い込んでいた。

かおりさんは「お父さんは家にいると思っていたのに……」と小さな声で話す。それ以降、3人は「父は生きている」と

ひたすら願った。姉は食料の買い出しに出かけ、妹のかおりさんが父を探した。

 震災直後から、市内は大規模な停電が続き、室内の暖房器具は動かない。寒さをこらえ、自転車に乗り、患者らが

続々と詰めかける石巻赤十字病院に行った。他にもいくつかの病院、避難所、市役所などを探した。

 車は津波で水没し、故障し、動かない。車を購入しようにも、自動車販売店は営業していなかった。

かおりさんは当時を思い起こし、話した。

 「町全体が停電だったから、日が暮れるのが早い気がした……」

 父を見つけることができない日が続いた。それでも、「きっと何とか、どこかで生きている」と信じた。

自宅に帰った後は、母や姉と「あの知人の家に電話をしてみよう」とか、「明日はここの避難所に行ってみる」などと

話し合った。 「あらゆるところを探して、探して……父が最後に乗っていた車も探した。だけど、見つからなかった」

 1週間ほどすると、かおりさんは感じるようになった。「もしかすると、もうダメかもしれない」。

その頃から、ためらいながらも遺体安置所に通うようになった。

 「他人の遺体を数多く見ることは、自分にはできないと思った。ただ、母もそれはできないだろうし……。

何とか、探さないといけない。見つけ出さないといけない」

 石巻市では、3月下旬の時点で死者は2000人を超えていた。遺体安置所となった市総合体育舘では、床に並ぶ

遺体を1つずつ見て回った。旧青果市場では、遺体の写真を見て確認した。かおりさんは、小さな声で話を続ける。

 「今日行っても、明日にはまた遺体が運ばれてくる。だから、繰り返し行った。だけど、生きていて欲しいという願いが

強く、足が進まない。病院や避難所に行くことのほうが多かった」

“最期の顔”は、お酒を飲んで上機嫌になったときの表情に似ていた

 震災当日から2週間ほど後に、父の知人から電話が入った。「尚行さんに似ている遺体が安置所にあった」。

かおりさんは、その話を聞くと父であることを確信した。そして母、姉と一緒に向かった。父は、冷たくなり横たわっていた。

遺体は、震災当日から1週間後くらいに発見されていたようだった。

 「お酒を飲んだときの顔みたいで、頬が赤くなっていた。笑っているように見えた……。家でお酒を飲んで、

上機嫌になったときの顔に似ていて……」

 かおりさんは、声を詰まらせる。目にうっすらと涙が浮かぶ。尚行さんの胸の上には、検死医が書いたと思われる

カードがあった。そこには、死因が書かれている。「津波の水圧により、循環器に障害が起きて即死」といった内容だった。

 かおりさんは、「父は心臓が弱く、手術をしたこともあった」と話した。私は、尋ねた。

 「強い水圧の波が体にぶつかり、それで循環器に障害が出て即死し、そのときの姿のまま体が硬くなる。いわゆる

即時死後硬直だったのではないか」

 かおりさんは間を置き、「たぶん、そうだと思う」と答えた。

 「携帯電話をするときに耳に電話をあてるけれど、左手は電話を握ったままの恰好になっていた。手を左の耳に

つけていた。電話は流されて、見つからない……」

 かおりさんは、「あのとき、電話がつながらなければよかった」とかすかに聞こえるような声で言う。

「大丈夫か、すぐに行くからな!」
電話が切れた後に消息を絶った父

午後2時46分の地震発生時、尚行さんは会社にいた。入口付近に陳列するろうそくなどのショーウィンドウが割れ、

仏壇も倒れた。激しい揺れが続き、停電になった。かおりさんらと共にお客さんを店の外に案内した。

 その後は、社員に自宅に帰ることを指示した後、自らも車で家に帰った。妻や長女のことが気になったようだ。

かおりさんは会社に残り、戸締まりをした。20分ほど後、車に乗り、自宅に向かおうとしたが、すぐ近くを走る道まで

水が来た。すでに十数センチになっていた。

 「波が押し寄せるというよりも、水かさがじわりじわりと上がってくる感じだった。始めは、すぐに引くだろうと思った」

 しかし、水は速いスピードで増えてきた。周辺一帯が、床上浸水の状態になった。かおりさんや社員は、200メートルほど

裏にある自社の駐車場に向かった。始めは、そこに止めていた自分の車の中にいた。いざとなれば運転し、避難する

つもりだった。  ところが、水は一段と増えてくる。駐車場の近くの高いビルに避難していた住民も、「建物の中にいると

危ない」と言っていた。その頃、若い警察官2人が来て、住民らに「駐車場のバスの中に避難するように」と指示を

した。バスは、かおりさんの会社のものだった。

かおりさんは振り返る。「私たちも水かさが増えてくることを警戒し、住民と一緒にバスに移った。あのとき、“安全な

高台に行こう”とは、誰も言わなかったと記憶している。バスへ避難したことが、本当によかったのかな……」

 2台のバスがあり、それぞれに20人近くが乗った。そこには、子どもや誰かのペットの犬もいた。警官も乗っていた。

 それでも、水は増えてくる。1メートルを越えるくらいになり、バスのドアが開かなくなりつつあった。

警官は、駐車場の斜め前にある高さ十数メートルのマンションに避難するように指示をした。

 この頃、かおりさんは家にいる家族と携帯電話で連絡を取ることができた。それ以前はつながらなかった。

始めは姉、次に母、最後は尚行さんが電話に出てきた。会社付近の事情を話すと、父は動揺した。

 「私は、『お父さん、こちらは大丈夫。そちらの身を守ることを優先して』と言った。父は心配に思ったのか、

『大丈夫か、すぐに行くからな』と会社に来ようとする気配だった。このとき、電話が途切れた。急いでかけ直した。

だけど、つながらない。これが最後となった……」

 この後、尚行さんは妻の制止を振り切り、会社に車で向かった。そして、消息を絶った。

バスから脱出してマンションへ避難
暗く寒い室内に取り残された住民の恐怖

かおりさんは、バスの中の住民らと一緒にマンションに移った。始めは屋上にいたが、雪が降ってきた。警官は、

カギが開いていた住人の部屋を探した。そして住民らに、「室内で待機をするように」と言う。部屋の住民は、地震

直後に高台などへ避難したようだった。

 停電のため、夜は真っ暗闇になった。皆が水で濡れたままだった。暖房は効かない。1部屋に20人近くが入り、

一晩を過ごした。子どもが泣き叫んでいた。

 「寒い、なんてものではなかった……」

 翌朝早く、警官はその場を離れ、違う場所に向かった。かおりさんは言う。

 「警官は、私たちに、『今後は自力でなんとかして』といった意味合いのことを話した。いきなり、自力と

言われても……。どうしていいかわからなかった」

2日目の12日、残された40~50人の住人らは救援を待った。携帯電話が時折つながり、ニュースを見ることが

できた。しかし、「〇〇市で数百人死亡」とか、「数千人が行方不明」という情報しか入らない。

 「皆は、(警察や自衛隊などから)見捨てられたと思ったのか、イライラしていた」

 部屋にじっとしていると、恐怖や寒さ、空腹で気がおかしくなりそうだった。冷静さを保つために、ときどき屋上に

上がり、気分転換をしていた」

 かおりさんが意識していたことは、「いかに正気を保つか」ということだったという。

 トイレに行こうと思っても、水は流れない。住民らは、屋上の排水溝付近で用を足した。私が「男性と女性が一緒に

居て、プライバシーはあったのか」と尋ねると、「それどころではなかった。仕方ない……と思うようにした」と一段と

小さな声で答える。

叫びも虚しく上空を飛び去る救助ヘリ
「もう救援は来ない、自力で生き延びる」

 あるとき、自衛隊のヘリコプターが上空を飛んだ。住民らは屋上に上がり、助けを求めた。

だが、ヘリの中から自衛官が見ていたものの、そのまま飛び去った。

「私たちは、『ケガをしたりして命が危ないわけではない』と判断されたのだと思う。警察から事前に、自衛隊に連絡が

行って感じた。自力で何とかするしかないという思いを強くした」

 徒歩15分ほどにある石巻市役所の方から、アナウンスが聞こえた。

「〇〇町の赤ちゃんに、ミルクをどなたか届けてください」「皆さんで助け合ってください」というものがあった。

このとき、かおりさんは決めた。

 「もう、救援は来ない。自力で抜け出すしかない」

 その後、住民の中の数人が部屋を出て、どこからか情報を仕入れてきた。それによると、「石巻市内全てが水没

しているわけでなく、蛇田(へびた)地区は多少安全」という。そこで3日目の早朝、かおりさんや社員はマンション

を抜け出した。「もう、あの時点で精神的に限界だった」

 200メートルほど離れた会社に社員が水に胸までつかり、辿り着いた。そして、室内にある畳を持ち出し、マンション

に戻ってきた。かおりさんは、それにつかまり、社員らが引っ張る。小さな船に乗るような状態だったという。

 氷のように冷たい水をかき分け、小高い土手に着いたのは、昼近くだった。その後は、皆で安全な場所を探した。

自衛隊がボートに乗り、マンション周辺へ救出に来たのは、かおりさんたちが脱出し、2日後のことだったという。

 遺体安置所で見つかった尚行さんの遺体を、すぐに火葬することはできなかった。

市内の埋葬施設は津波で破壊され、残っているところも燃料不足のため、稼働しなかった。市外の火葬場が

見つかるまでの3週間近く、会社の横のホールの中の棺桶に入れておいた。始めはドライアイスもなかった。

4月9日、火葬をすることができた。葬式はまだ行われていない。

 かおりさんは、声を振り絞るように答えた。

 「父を見つけることができてよかった。あの頃、少しずつ変わっていく遺体の姿を見るのはつらいものがあった。

お盆の頃には区切りを迎えることができると思ったけれど、そのような精神状態になれなかった。震災前とは

わり果てた生活になり、街の中の様子も1ヵ月後にはどうなるのかわからない状況が続く。時が経つほど混乱が

加速し、悲しみは大きくなる。私はまだ、父の死を受け入れることはできない……」


“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得

 太田さんの証言から私が感じ取った、今後の防災を問い直す上で検証すべき点は、主に以下の3つである。

 

1.地域の自然災害に関する状況を再認識する

 かおりさんの父は、娘や社員のことが心配になり、会社に向けて急いで車を走らせたが、それが災いした。

かおりさんとの“最後の電話”は、地震の直後であり、冷静に考える余裕がない中でのものだったのだろう。

 会社の周辺を歩くと、そこは市の中心部であり、「ここまで巨大な津波が押し寄せる可能性は低いのではないか」

と思えなくもない。水が押し寄せたとしても、いわゆる「浸水」という状況に近いように見えなくもなかった。

私が周辺の店や当時の実情を知るタクシーの運転手、市役所の職員らに尋ねると、その多くが震災直後における

この会社の近辺について、こう語る。

 「津波そのものが押し寄せたのではなく、1メートルくらいの高さの浸水が3~4日続く状態だった。一番高いときで

1.5メートルほど」。

かおりさんの父がこのことを知っていたならば、難しい判断を求められたことには変わりがないが、もしかすると違った

結果になったかもしれない。改めて正確な情報が必要であることを痛感する。

 今後の防災を考える際には、日頃から地域の実態、たとえば土地の低さや過去に大雨や洪水があったときの浸水の

状況、そのときの被害状況などを知っておくことが、必要なのだろう。

 このような情報に必要以上に縛られることも問題だが、ある程度は理解しておきたい。

 

2.自分の身を自分で守る

 かおりさんが震災から3日目の朝に、避難していたマンションを抜け出そうとした決断は、「自分の身を自ら守る」

意思の現れと言える。それより前の数日間、「マンションの室内でいかに正気を保つかに気を使っていた」という。

さぞかし、精神的に苦しい時間だったのだと思う。「苦しい」を通り越していたに違いない。

 決断をした背景には、警察や自衛隊、市役所など、公的な機関の対応があったものと思われる。

極限状態の中、そのいずれにも「もう、救出を期待できない」と感じ取らざるを得なかったのだろう。

私は、かおりさんらの “脱出”についてコメントできる立場にはない。だが、「最後は自力で身を守らざるを得ない」と

いう現実は、彼女の証言からひしひしと伝わってきた。

なお、私は警官の「避難誘導」は検証されていいと思う。被災地では震災当日、避難誘導に当たっていた警官が殉職

をしているが、そこで「かわいそう」と思考を停止すべきではない。「その誘導で良かったか」を、警察以外の専門家など

が検証し、広く公開するべきではないだろうか。

 

3.震災直後の情報を早く、確実に伝える

かおりさんら住民は、情報不足のため、避難の過程で不安を募らせていく。こうした状態がエスカレートすると、何かの

トラブルになることも考えられる。

 今後、自衛隊、警察、消防、地元の自治体などは、震災直後から少なくとも2週間ほどは、避難をする住民に向けて、

被害状況、救出の実態、今後の救出のめどなどを、繰り返し伝えていくことが必要ではないか。

 震災直後は、自衛隊、警察、消防、地元の自治体らも緊急に取り組まなければいけない仕事があり、そこまで対応できない

のかもしれない。だが、避難者からすると、情報は極めて重要である。

実際、震災直後、都内から被災地に出向いた医師らからも、「震災直後の石巻市内の人々が漂わせる雰囲気は怖かった」と

聞く。その理由を尋ねると、「当時の石巻市は、救出や支援に関する情報が他の地域よりも不足し、『自分が見捨てられた』と

受け止めた人が少なくないのではないか」と答える。

 正確な情報を避難者らにきちんと早く届ける体制を、自治体や地域で早急につくることが必要だと思える。

さらに、その試みを日頃から周知していくことも大切だ。

 最後に、娘を救おうとして命を失くした太田尚行さんのご冥福を祈りたい。

 

 

 

                          ※  コメ欄は閉じています

 

 

 

 

 

 


「生き証人」が語る真実の記録と教訓(11)

2011-11-13 00:30:18 | Weblog

 

 

 「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて    吉田典史

                                                                            (ダイヤモンド・オンライン)

 

 

命ある限り夫、娘、息子が生きた証しを残したい――。
津波で家族3人を奪われた看護師が訴える「心の復興」
――宮城県の看護師・尾形妙子氏のケース

 

3月11日の震災で、家族3人を失くした遺族がいる。

遺族の声が新聞やテレビから次第に消えつつある今、改めてこの人たちの「声なき声」に耳を傾けることが

必要ではないか。 今回は、夫、娘、息子を津波で亡くした看護師に取材を試みることで、「大震災の生と死」について考える。


3月11日、私の死生観は変わった。死を中心に人生を考えるようになった――

 「すごくわかるの。あの3人の思いが……。私のことが心配で仕方がない。悲しんだり、へこんでいると、夫や娘、

息子があの手この手を使い、勇気づけようとしてくれる。『ママ、そんな落ち込んでいたら、こちらはゆっくりできないよ』。

この半年、そんな声がするくらい」

 尾形妙子さんは、私からの取材依頼を引き受けた理由をこう答えた。

3人の死を受け入れることはできていないという。

 「3月11日以降、私の死生観が変わった。死ぬために生きるというか……。死を中心に考えるようになった。

3人の死を受け入れるということではなく、これからも一緒に生きていく。いずれ、あの世で会えると言い聞かせている」

 そして、ある医師との出会いを語った。

 「3人の後を追いたいと思ったこともある。だけど、あの人たちはそんなことを望んでいない。最近、知り合った

女性の先生から、こんなことを言われたの。そしたら、気が楽になった。『家族3人がいなくなったのだから、悲しくなる

のが当たり前。あっちの世界に気持ちだけは行っておいで。だけど、必ず戻っておいで』って」

3月11日午後2時46分、地震発生の瞬間、尾形さんは勤め先である東松島市(宮城県)の病院の3階の部屋にいた。

急いで病室に向かおうとしたが、廊下に出ると、揺れは一段と激しくなった。階段付近の防火扉が大きな音を立てて、

開いては閉まる。

 尾形さんは看護部長になり、6年目を迎える。看護師・准看護師など100名余を管理する。

各階の病室、ICU(集中治療室)、外来などを回った。

 「私が行ったときには、師長や看護師たちが患者さんのもとを回り、安全を確かめ終えていた。大きなパニックは

起きていなかった。皆、冷静だった」

 室内は停電になったが、非常電源に切り替わり、人工呼吸器などの機器は動いていた。

その後、ラジオから津波が来ることを伝えるニュースが流れた。

娘、息子が向かった高台は津波から身を守るためには低すぎた

 尾形さんは病院内の安全を一通り確認した後、部屋に戻り、家族と連絡をとろうとした。

だが、携帯電話が見つからない。室内は、机の上や棚から落ちた本や書類などが散乱していた。

 それらをかき分け、携帯電話を探し出した。

履歴を見たところ、午後3時10分に夫の登志憲さん(51)の電話から着信が入っていた。かけ直したがつながらない。

登志憲さんは地震の後、尾形さんの京都にある実家に電話をしていた。尾形さんは、「あの人が最後に話したのは

私ではなかった」と残念そうに言う。

 「12日に、実母が私たちの家に遊びに来ることになっていたの。主人は気を遣い、母に“地震なので、お出でいただくのは

避けたほうがいい”と話したみたい」

 地震が起きたとき、海沿いにある野蒜(のびる)地区の家には3人の子のうち、次女の志保さん(22)と末っ子で

息子の剛さん(20)がいた。家から病院までは、17キロほど離れている。

 志保さんは3月末に仙台市内の看護系大学を卒業し、4月からさらに助産師を目指すために学校へ入学することに

なっていた。その日は、入学早々に提出が求められる論文計画書を書いていた。1月に成人式を迎えた剛さんは、

大学が春休みに入っていた。

 尾形さんはインターネットを検索し、志保さんが地震直後に書いたツイッターに目を通した。

そこには、「私と剛ちゃんと、マッシュ(コーギー犬)は高台に避難したから大丈夫」とある。

母と娘は、ツイッターで連絡を取り合うことがあった。

 尾形さんは淡々と話す。意識して、冷静であろうとするかのようだった。

 「彼女が行った高台は、あの津波から身を守るためには何の足しにもならなかった。低すぎたの……」

 姉弟2人が愛犬を連れて、剛さんの運転する車で向かったのは、自宅から300メートルくらい離れた高台だった。

その付近で、近くの会社に勤務する登志憲さんが合流し、2人は父の車に移ったと思われる。

「津波が来ないで欲しい」というツイートを最後に消息が途絶えた3人

 尾形さんは車内の様子が想像できると言い、かすかにほほ笑む。

 「3人で、くつろいでいたと思う。楽しかっただろうな。志保は、私が買ってあげたスマートフォーンを使い、ツイッターや

ブログを楽しむ。剛はゲームに夢中。その横にマッシュ。運転席で、主人がじっとそれを見ている」

 そして数秒間を置き、独り言のように口にする。

 「ラジオをなぜ聞いてくれなかったのかな。避難するというよりも、『津波は来ないだろう』という前提で車の中にいた

と思う」  その後、巨大な津波が海岸に面する野蒜地区を襲った。

志保さんのツイッターへの書き込みは、「津波が来ないで欲しい」を最後に途絶えた。

 尾形さんは、3人のことが気になった。

このすぐ後に、「野蒜地区で200人以上の遺体が発見された」との情報が耳に入っていた。

 だが、病院から離れようとしなかった。医師や看護師、事務の職員らは24時間3交代制となった。

その中には、家が流されたり、家族を亡くした人もいた。浸水した地域を水に浸かりながら病院に来たり、遺体のそばを

通って現れる者もいた。

 入院の患者はもちろん、緊急で運ばれる患者やその家族などへの対応を皆で行なった。

寒さのあまり、低体温の症状が悪化し、1度に3人が運ばれることもあった。11日から数日間は救急車が走らず、

住民らが患者を運んできた。中には、「家族ががれきの下敷きになっている。助けてくれ!」と駆け込む人もいた。

 尾形さんはその頃を、「その日、その日をなんとか過ごしたとしか言いようがない。職員たちは皆、必死の思い

だった」と振り返る。

 5日後、尾形さんは、自分の弟から言われた。「遺体安置所に志保がいる」。

志保さんの遺体は、JR仙石線の野蒜駅近くで見つかった。安置所は、剛さんが通っていた高校だった。

 「(体育舘で)見たんだけど、何か……うん、ごめんなさい……。涙も出てこなかった。遺体はすごい数だった。

何だろう……何が起きたのか、わからない」

 尾形さんは、10秒近く黙り込む。大きな涙が2つこぼれた。右手でティッシュペーパーをつかみ、涙をぬぐう。

家族が乗った車の引き上げは後回しに3人は私のために見つかってくれた

 数日後、志保さんが見つかった場所から数十メートル離れたところで、登志憲さんと剛さんが発見された。

運河に水没した車中で、登志憲さんは息子を抱きかかえるようにしていた。犬はケージの中で死んでいた。

 その時点で死亡が確認されたため、車は引き上げられなかった。自衛隊や警察は、生存者の救出を優先した。

尾形さんは床の一点を見つめたまま、つぶやく。

 「仕方ないね。後回しになるのは……」

 2人が乗った車は、後日、運河の水かさが減った引き潮のときに、引き上げられた。

 「座席シートに、カバーがかぶせてあった。犬は毛が抜けるから、剛が気を使ってかぶせるの。

志保は車の中から飛ばされたのかもしれないけど、3人は無事にというか、幸いというか……一緒にいてくれてよかった」

 尾形さんは、ぽつりぽつりと話を続ける。

 「私のために見つかってくれたんだと思う。それで満足。仕方ない、と言い聞かせた。むしろ見つからなかったら、

耐えられない。見つかったから、こうして生きることができている。被災地には、家族が行方不明のままで、もっと

苦しんでいる人たちがいる」

 東松島市内では、死者は4月の時点で1000人を越えた。火葬をする施設が破壊され、燃料も不足し、市は遺体を

いったん土の中に入れる仮埋葬を認めた。

 尾形さんは、3人いる子どもの一番上で、数年前に嫁いだ長女の親戚などにガソリンを運んでもらい、

山形県新庄市で3人の火葬をすることができた。野蒜の自宅は津波で流され、基礎しか残っていなかった。

脳裏から消えない在りし日の家族の姿「無条件の優しさ」を持つ夫は子どもたちの理想

 尾形さんは、カバンの中から小さなアルバムを取り出した。3人の数少ない遺品だ。

そこには、2008年に結婚した長女の式でスピーチをする登志憲さんの写真があった。目の表情からは、

優しく義理がたい性格を感じた。尾形さんは、夫が生きているかのように話す。

 「バージンロードを歩くとき、あの人が緊張していて、体操選手が平行棒を歩くみたいで、皆で笑い話になった……」

 尾形さんにとっては、“無条件で優しい人”だったという。長女と志保さんは、「理想の男性はパパ」と話していた。

 剛さんは、長女と次女の志保さんの下の子ということもあり、おとなしかったようだ。写真を見ると、優しい性格で

美男子に見える。「息子さんは、女性から人気があったと思う」と私が話すと、尾形さんは「う~ん」と言葉が出なくなる。

 剛さんが成人式の晩、お酒を飲み、泥酔状態で帰ってきたことを、少し笑いながら話した。

 「もう、お酒は飲まないと言っていたな。友人に聞くと、おとなしくないときもあったみたい。

 志保さんを見ると、温厚で、自分を見失わない性格に感じた。目の表情からは、何かを感じ取る感性などが発達して

いるようにも思えた。尾形さんは、志保さんが小さい頃からいずれ看護師になる気がしていた。

中学1年のとき、こんなことを母に話したという。

 「ねぇ、ママ。この世知辛い世の中で、人のために泣ける職業はすごいよね」

 それが看護師であることは、尾形さんにはわかった。志保さんはその数年後、看護系の大学に進んだ。

 「高校のときは、美大に行きたいと漏らしたこともあったけど、看護師になりたかったんだろうな……」

 子どもが好きで小児科で働きたかったようだ。だが、実習で病院に行き、「入院している子の姿を見るとツライのが、

しんどい」と口にすることもあった。尾形さんは、「お茶目な子だった」と涙を浮かべる。

 それでも、志保さんは看護師、保健師の国家資格試験を受けるために勉強を続け、震災の前月に試験を受けた。

 「私の後を継いでくれたのかもしれない。よく勉強をしていたからな。助産師になりたいと何度も話していた……」

看護師、保健師の国家試験に合格今は亡き娘のために合格証書を手にする

 合格発表があったのは、3月下旬。看護師、保健師の試験にも合格した。

4月には、助産師専攻科の大学への入学も決まっていた。尾形さんは、亡き娘の免許状を手にしたいと願った。

「絶対に欲しかった。志保に突き動かされたのだと思う」。

 本来、国の規定では、死亡した人に免許状は交付できない。

だが、事情を知った議員らによって国会で採り上げられたこともあり、厚生労働省が特別に合格証書を作り、

尾形さんに渡した。「感謝しています。娘も喜んでいると思う」

 志保さんが友人らと一緒に運営していた「やまとなでしこ in SENDAI」というブログがある。

看護師の試験を終えた後の2月28日に、志保さんが書いた日記があった。その一部を抜粋する。

 

正式な発表は三月下旬ですし、万が一マークミスをしてたらと思うと落ち込むのですが、まあ、一応!大丈夫!と

思った瞬間まず頭によぎったのは母のことでした。すぐ報告して、思わずお互い半泣きで抱き合いました 笑

こんなとき、私自信心にとめている言葉は間違いない!と思います。中高一貫キリスト教学校だったので聖句なん

ですが・・・当たり障りのない言葉だけれど、真理だと思います。『苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む』 

 

このブログを娘の死後に見つけた尾形さんは、4月7日、書き込みをした。

志保のママ
貴女の足跡を辿りこのホームページを見つけました。頑張って生きていた貴女はいつも輝いていましたよ。

そんな貴女を見ているのがママは嬉しくて自慢の娘でした。助産師になって皆の赤ちゃんを…と話す目は

優しく、希望に満ち溢れていました。ありがとう、たくさんのお友達。ありがとう、貴女のママでいられた22年間

とても幸せでした。ありがとう、ありがとう…

 尾形さんは、ややうつむいて口にした。

 「素敵な人たちだった。私が面倒を見てもらっていた。私が、家族でいちばんわがままだった。

3人に本当に感謝している。二十数年間は幻だったのかな、と思うときがある。私が生きている間、あの人たちと生きた

証しを1つずつ残していきたい……」


“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得

 尾形さんの話から私が感じ取った、今後の防災を考える上で検証すべき点は、主に以下の3つである。

 

1.「津波は来ない」という“思い込み”を問い直す

 尾形さんは、3人が「津波は来ないだろう、という前提で車の中にいたと思う」と考えている。これが、不幸な結果を

招くことになったのかもしれない。

 地方紙の河北新報は10月23日、野蒜地区に住んでいた男性を記事で紹介している。男性は自らも津波から逃げ遅れ、

一時は危なかったと前置きし、こう話す。

 「(野蒜地区は)地震から津波が来るまで1時間あった。避難しなかったのは油断と『ここまでは来ない』と思い込んで

いたから」。

 また、産経新聞は震災直後の3月14日、この地区の野蒜小学校にまで津波が押し寄せた記事を掲載した。

その一部を抜粋する。

 「市立野蒜小学校の体育館に、地元消防団員の男性の声が響いた。津波が押し寄せて土砂まみれになった体育館の

床に、毛布に包まれた50~60体の遺体が横たわっていた。『体育館なら安心だと思っていた。今までここまで津波が

きたことはなかったから…』近くに住む主婦は、同小の廊下で、変わり果てた街の光景が広がる窓の外を眺めながら、

ゆっくりとした口調で話した。」

 このような証言を踏まえると、野蒜地区に住む人たちは当日、「津波は来ない」と思ってしまったのかもしれない。

今後、住民へのヒアリングなどを続け、さらなる検証をし、これまでの避難訓練や防災教育を大胆に見直す必要がある。

 

2.災害時における病院の「支援体制」を早急に整える

尾形さんの証言からは、震災時に病院やそこで働く医師、看護師、事務の職員らを支援する体制が不十分であることを

痛感させられる。特に震災直後からの数週間、尾形さんは「職員たちは疲れのあまり、精神的に朦朧としていた」と語る。

 「医師も看護師も事務の職員も、医療に携わる前に1人の人間。そこには、様々な限界がある。使命感で頑張っても

3日が限度。無理をすると、患者さんを守れない。行政をはじめ、社会としてその後の応援や支援体制を整えて欲しい」

 また、今後の防災対策についてこう提起する。

 「特に病院内の電気や通信手段の確保、食料や石油などの燃料などの備蓄、患者を運ぶヘリコプターが離発着できる

スペースの確保が、少なくとも必要だと思う」

これらは、病院独自でできることではない。いずれも患者の生命に関わることであり、国、県、市町村の自治体が率先して、

支援体制を作ることが必要だろう。医療機関同士の提携も、一段と加速させることが大切だ。

 

3.被災者の「格差」に配慮を

 尾形さんは、震災から半年以上が経ち、被災者の中で意識の面で差が生じつつあることを感じとっている。

家族を失うことがなくとも、生きる意欲を失い、命を絶つ者がいることに「せっかく生き残ることができたのに」と心を痛める。

 そして3人を失った直後を思い起こし、「本当に苦しいときは『助けて欲しい』と声すら出せない」と言う。

 「私には仕事があり、病院の職員や友人など手を差し伸べてくれる人がいた。皆が私のことをいたわってくれる。

それが痛いほどにわかる。申し訳ないと思う。でも、そのような環境にいない人は多い。どうか、今後の支援はそこに

目を向けて欲しい。被災者をひとくくりにするのではなく、声すら出せない人の“声なき声”にこそ、耳を傾けて欲しい」

 そして、このような提案をする。「仮説住宅はこのままにして、高齢者などは期限を終えた後も住むことができるようにする。

そこを1つのコミュニティの場にして欲しい」

 さらに、今後取り組みたいことがあるという。

 「被災者が寄り添う場を作りたい。たとえば、年に1度、3月11日に、かつて野蒜に住んでいた人が集い、亡くなった

家族や家、地域を語り合うことをしたい。そこで悲しみや痛みを共有したい。人の不幸を理解することは難しい。

でも、3人を失った私だから、できることがあると思う」

 被災地では、時が経つほどに取り残される人がいる。

私たちもその人たちに、何かできることがあるのではないだろうか。

 最後に、尾形登志憲さん、志保さん、剛さんのご冥福を祈りたい。

 

 

                   ※  コメ欄は閉じています

 

 

 

 

 

 


「生き証人」が語る真実の記録と教訓(10)

2011-11-12 00:32:50 | Weblog

 

 

    「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて    吉田典史

                                                                            (ダイヤモンド・オンライン)

 

 

ン歯科医師が遺体安置所で感じた矛盾と焦り
現場の連携は極限状態で「最悪」を想定していたか?
――日本歯科大学 都築民幸・教授、岩原香織・講師のケース

 

3月11日の震災から半年以上が経ち、被災地での行方不明者の捜索は壁にぶつかっている。

遺体の腐敗は進み、顔や体で識別することが困難になっている。

 そこで、歯科医師による歯科所見やDNA型、指紋による判定が注目されている。

 今回は、震災直後に被災地に入った歯科医師への取材を通じて、「大震災の生と死」を見つめる。


はるばる安置所に到着した2人の歯科医。遺体から聞こえてくる“声にならぬ声

3月13日、宮城県気仙沼市の小学校の体育館――。2人の歯科医師の前に、130体ほどの遺体が床に並ぶ。

2日前にこの地域を襲った津波による犠牲者だ。

 日本歯科大学教授の都築(つづき)民幸氏、同大学講師の岩原香織氏は警察庁から依頼を受け、前日に

都内から駆けつけた。

 2人はこれまでに事件や事故、自殺などで身元がわからない遺体に関わってきた。警察の依頼により、

それらの遺体の検査やその記録、さらに生前の歯科情報との照合などを行なう。それが、遺体の身元特定に

つながる1つのきっかけになる。

 都築氏は2001年、新宿・歌舞伎町の雑居ビルで火災が発生し、44人が死亡した事件に関わったことで知られる。

経験豊富な2人も、ここまで多くの遺体を一度に見るのは初めてだった。都築氏は、「震災直後ということもあり、遺体の

損傷は少なく、比較的きれいだった」と振り返る。

 「小さな女の子の遺体があった。その前で、おばあさんが『早く見つけることができなくて、ごめんね』と泣いていた。

それを見ると、動揺するものはあった。家族の元にご遺体を早くお返ししないといけないと、強く思った」

 岩原氏は、山の中などで自殺した遺体を検査することがある。

自殺の遺体では、運転免許証など身分証明書がない場合がある。警察の依頼で、身元を確認できるように検査を

するのだが、こんな思いを抱くことがある。

 「この人は、あえて身元がわからないようにして死を選んだのかもしれない。それを私は、はっきりさせようとする。

もしかすると、自殺した人は “余計なお世話”と思っているのかもしれない」

 3月13日、底冷えのする体育館に並ぶ遺体を見たとき、“ある声”が聞こえたという。

 「私のそばに、おばあさんと女の子の遺体があった。あばあさんが 『早く、この子の身元を調べてあげて……』と

話しかけてきた気がした」

 そのとき、岩原氏はこう思った。

 「この人たちを絶対に家族の元にお返しする。子どもは、きっと家に帰ろうと思っていたはず。親たちは、その子が帰って

くるのを待っていたに違いない」

 2人は、遺体を1つずつ見て回った。まず、胸の上にある遺体カードを確認する。このカードには、身元情報などが

書かれてある。2人は、それらの中から身元がわからない遺体を探した。

130体のうち、20体ほどは身元不明のものだった。

なかなか進まない警察の検死作業   遺体を前に成す術がない“虚しさ”

 だが、2人はそこから先の作業に関わることはできなかった。遺体安置所にいる警察の現場責任者がこう言った。

 「まだ、こちらは遺体の検死を終えていない。ここで待っていてもらえないですか……」

 2人は遺体の前で立ったまま、時が過ぎるのを待った。都築氏は振り返る。

 「被害が大きかったから、警察内部で混乱していたのかもしれない。警察は、私たちがどのような作業をするのかを

詳細には心得ていなかったのかもしれない」

 被災地の遺体安置所では、次のような流れで検死が進められていた。

 まず、警察が泥などにまみれたままの遺体の写真を撮影する。その後、水などで泥を洗い流す。

そして、顔のアップなどの撮影。そのうえで、身元確認。この際、ほくろ、手術痕などの身体的特徴や、身に着けていた

運転免許証、健康保険証などを手がかりにする。

 ここまでの時間は約30分。その後、医師らによる検案が15分ほど。ここで死因が診断される。

そして、歯科医師による歯科所見採取へと続く。これが20分ほど。

 都築氏と岩原氏が訪れた遺体安置所では、2人が歯科所見採取を行なう前の段階で、作業が滞っていた。

警察による検死や医師の検案が、終わっていなかったのだ。

待たされている時間が惜しい――。衣服を畳む手伝いでもよかった

 都築氏は、そのときの思いを吐露する。

「我々としては、あのような時間が惜しい。2人が行く前の数日の間で、地元の警察や医師は検死・検案を行なっていた。

批判するわけではないが、その時点で効率よく進めることができる体制を考えることが、必要だったのではないか」

 2人はその日の朝、宮城県県警本部(仙台市)に着いたときのことを振り返った。

警察から被害の状況などの説明を受け、これから向かう遺体安置所について聞かされた。

 首都圏から宮城県に派遣された6人の歯科医師は、日本歯科大学、東京歯科大学からそれぞれ2人、

東京慈恵会医科大学、東邦大学から1名ずつで構成されていた。翌日、神奈川歯科大学から2人が合流した。

 警察の当初の方針では、6人は各地の安置所で1人で作業をすることになっていた。

 都築氏は申し出た。

 「それでは作業の効率が悪くなる。ペアを組む形にさせて欲しい」

それが受け入れられ、都築氏と岩原氏は、警察車両に乗り、3時間半かけて気仙沼市に向かった。

都築氏は、そのときを思い起こすかのように話す。

 「警察と歯科医師との日頃からの話し合いや訓練を、改めて考え直す必要があると痛感した」

 岩原氏は、遺体安置所となった体育館で遺体を前に成す術がないことに虚しさを感じた。

 「ご遺体の衣服を畳んだりすることでもいいから、関わらせてもらいたかった。それで少しでも作業が進み、

早くご家族の元に帰れるのであれば、私にできることはさせてもらいたかった」

 警察の現場責任者は、「ここで待っていて欲しい」と答えるのみだった。

20人ほどの遺体の検査は、その後もすることができなかった。

泥水で顔を洗い、口の異物を取り出す    祈りを込めて丁寧に歯科の検査を進める

 2人はその後、1週間の滞在で26体に関わった。

警察・医師の検死、検案が終わり、その中で身元がわからない遺体があると、2人の作業が始まる。

 まず、顔の泥をとる。すでに警察がとっているのだが、ところどころに泥が残ったままになっているものもあった。

水があまり使えないので、泥水で洗うこともあった。

 その次に、顔の写真を撮影する。私が取材の際に見た限りでは、警察が撮る際のカメラのアングルは、正面よりも

数センチ下だった。それに対して、2人は正面よりもやや上の位置から撮る。

 都築氏は、「寝ている顔を正面から撮ると、普段の顔つきとは違った印象に見える。やや上から撮影するのが、

実際の表情に近い」と言う。

 さらに、今度は口の中を撮る。だが、津波によって亡くなった遺体の口には、砂や泥が入っていることがある。

がれきはなかったが、虫がいるときもある。海中に長い間放置されていた遺体の口の中には、ヘドロなどもある。

2人は、ティッシュ・ペーパーを指に巻きつけてそれらを取り出す。都築氏は説明する。

 「遺族は、泥や砂などが口に詰まったままの遺体を見て、『うちの主人だ』とわかるわけではない。あくまでも生前の

状態を思い起こし、判断をする。それならば、きれいにしないといけない」

 3月に見つかった遺体の歯は、その多くがきれいだった。高齢者の入れ歯も外れていないものが多かった。

人の体は死んだ後、数時間後に「死後硬直」が始まり、全身が硬くなる。そのピークは、死後12~14時間後と

言われる。このときに、口の中を開けようとする際は、開口器を使う。

 2人が関わった遺体はそのピークを過ぎていたが、寒冷の影響か、ほとんどの遺体で開口が必要だった。

開口させ、口腔内の清掃をした後、歯の写真を撮る。

 正面からの写真は家族が記憶しているかもしれないから、上下の咬み合わせ面の写真は、記録の確認と治療した

歯科医師が記憶しているかもしれないから、必要なのだという。

 その後、歯科所見採取となる。歯の治療痕などを目で見て、手で触り、確認する。都築氏が検査し、岩原氏が

デンタルチャート(死後記録)に記録する。その後、検査と記録を交替し、確認する。そして、遺体安置所にいる警察に

それを渡し、県警本部で遺体ごとにデータを作る。

生前の歯科治療データは有効な手がかり      慣れていない医師の中には躊躇する者も

 身元を判明する際、このデータが大切になる。

たとえば、行方がわからない親や子どもと似たような遺体を遺体安置所で見つけると、家族はその旨を警察に伝える。

 そして、その親や子が生前、歯科医院で治療をしていた際のカルテデータを歯科医からもらい、警察に提出する。

県警本部では、そのデータと都築氏らが検査したデンタルチャートの双方を照合して絞り込む。

 このように、歯科所見による身元確認は、生前のカルテ情報が大きな意味を持つ。

 都築氏らが1回目に被災地を訪れたのは、震災直後ということもあり、その場で照合作業をすることはなかった。

4月下旬、2回目に派遣された岩手県の宮古市では、照合をすることがあった。

 ここで私は疑問を感じた。

今回は、多くの歯科医が被災地に派遣されているが、たとえばクリニックなどに勤務する医師は、遺体を見たことが

ほとんどないはずだ。そのような医師が、この2人のようにきめ細かい対応ができるのだろうか。

 都築氏はこう答える。

 「通常は視診、触診と診察を進めていく。だが慣れていない医師は、遺体となるとなかなか触れない。口の中に手を

入れて歯の状態を確かめることは、一段と難しかったのかもしれない」

 都築氏は、他の歯科医師が「親知らずがある」と書いたデンタルチャートを読み、疑問を感じた。

口腔内を見ても触診をしても、それがある様子はない。そこでレントゲンを使用して確認をすると、その歯はなかった。

レントゲンは、デジタルX線装置を使う。地域によっては、この撮影は一時期まで行なわれていなかった。

きっと医師も警察も、あの遺体の数に圧倒されていたのかもしれない――。

 岩原氏も、一例として、別の安置所で活動していた歯科医師から聞いたという、「推定年齢8歳以上」と判断された

遺体の話を挙げた。その遺体は口腔内を見ても、永久歯はなかった。レントゲンで確認すると、骨の中に6歳臼歯が

あり、その他の歯科所見からも、4~5歳くらいではないかとのことであった。

 さらに、意味深いことを話す。

 「ご遺体の身元を判明させたいという思いは皆、同じだったと思うが、その検査をどのレベルまで行なえばよいかが、

十分に理解されていなかったのかもしれない」

私は同様の指摘を5月~7月頃に、被災地の病院に勤務する医師数人や消防団員から聞いていた。

「安置所では、わずか数分で死因などを判断していた医師もいた」ということも耳にした。

 都築氏は静かに語る。

 「警察も歯科医師も、あの遺体の数に圧倒されていたのかもしれない……」


“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得

 都築氏と岩原氏の話から私が感じ取った、今後の防災を考える上で検証すべき点は、主に以下の3つである。

1.歯科医師を被災地へ派遣する体制を整える

 私が警察や海上保安庁などでPTSDの実態について聞くと、話題になるのが被災地に派遣された歯科医師の

ことである。警察はや海上保安庁は、外部の医師らにPTSDの検査を委託しているが、そこに歯科医師が診療の

ために現れ、「夜、遺体の夢を見る」とか「自分も死にたくなる」などと症状を訴えるのだという。

 被災地に駆けつけた歯科医師には、「義侠心」や「使命感」があったのかもしれない。それは、称えられていいの

かもしれない。だが、遺体を扱うことがほとんどない歯科医師にとって、4月中旬以降の検査などは耐えられないもの

ではなかったかと私は思う。

 都築氏は、4月下旬に岩手県に派遣された。私の取材経験で言えば、この時期の遺体の姿、特に顔は相当腐敗が

進んでいる。津波の水圧などで腹部が圧迫され、顔がうっ血している遺体も多い。腐敗はうっ血しているところから進み

やすい。これは、顔が白骨化する直前の段階である。相当な心理的ダメージになったのではないか。

 都築氏にその点に尋ねると、「義侠心だけでは、歯科医師としての対応はできないのかもしれない」と答えた。

さらにこうも指摘する。「一定の訓練をしていても、十分に考え、心の準備をして臨まないと、誰かにご迷惑をおかけ

したり、自分が大変な思いをすることがある」

警察と経験の浅い歯科医師がタイアップをすると、そこには問題が生じるように思えてならない。双方とも、遺体の数に

圧倒され、流れ作業になる可能性がある。私の想像の域を出ていないが、警察は医師に対して、「検案書に“溺死”など

と書いてくれれば、死因を深く調べる必要はない」ということを感じさせるような言葉を、口にしていたのかもしれない。

 さらに医師の中には、遺体の死因をさほど調べることもなく、安易に「溺死」と判断した人もいるのかもしれない。

 今なお多くの人が行方不明になっており、遺体の照合などで混乱が続く。その一因として、このような検死のあり方が

何らかの形で影響を与えているのかもしれない。

今後は、日本法歯科医学会や、各地の歯科医師会などが一段と提携し、被災地で質の高い医療や歯科所見採取などが

できる医師を育成することが必要だろう。この試みはすでに行なわれているが、一層強化させることが大切に思える。

大事なことは、場数を踏んだ医師のノウハウを全国の医師が共有することではないか。「共有」というのは、経験の浅い

医師からすると「受け入れる」ことを意味する。そこでは、プライドなどを捨てることも求められる。

 それが分岐点になる。経験値の高い歯科医師らのノウハウを受け入れることなく、これまでの方法に固執すると、

その地域における歯科所見採取のレベルは上がらず、遺族や亡くなった人が報われない。

 

2.現場の警察官と歯科医師との連携を促す

 2人の証言からは、被災地の警察による遺体の検死には、課題が残ったことがわかる。

特に遺体安置所の責任者の対応には、問題があるように思える。県警本部と遺体安置所との意思疎通にも、

検討すべき課題がある。

 もともと三陸地域は、凶悪犯罪が都内に比べて少ない。そのため、身元がわからない遺体に対し、歯科医師が

何をするのかといった情報が、警察の現場に浸透していなかった可能性がある。

 私はこの半年で、80~110人ほどの遺族から遺体安置所の実態について聞いているが、警視庁が入っている

ところは評判がおおむねいい。警官は顔写真を見せながら、遺体があった場所、遺体に触ると感染症などの恐れが

あることなどを、遺族に丁寧に説明している。ただし、検死については具体的に説明していない。

これは今後の課題と言える。

 凶悪犯罪などが頻発する都内を管轄する警視庁は、遺体の扱いはもちろん、身元不明の遺体への対処もよく心得て

いるからなのではないかと思う。2人の医師も、「宮城県の石巻市には警視庁が来ていて、検案所のレイアウトなどはよく、

円滑に活動ができた」と話す。

 今後、大きな災害に備え、遺体の扱いや検死、遺族への接し方などについては、都道府県の警察も警視庁の

スタイルを共有することを検討するべきだろう。その際、日本法歯科医学会や、各地の歯科医師会などとの連携も、

当然必要である。

 特に警察の現場と日本法歯科医学会との関係強化は、急ぐべきなのではないか。今回、被災地の一部の警察には、

「外部の力や知恵を拝借する」という謙虚さも求められているように思える。

 

3.「想定外」という言葉を使わず「最悪」に備える

 都築氏は、今回の震災で「想定外」という言葉が安易に使われていることを問題視する。

そして、「歯科医師の間にも、事前に被災地の状況や遺体の様子を心得ていない人がいたのかもしれない。それが

、現在、PTSDが増えている理由の1つ」と分析する。 

 PTSDになる医師が少ないある県の歯科医師会では、遺体に接する準備がよくできていたという。

岩原氏は、派遣前の準備についてこう説明する。

 「ご遺体の状況は想像していた。夜は、遺体安置所でその横に寝ることまで考えておいた。だから、現場でうろたえる

ことはなかった。万が一、津波や地震に襲われることも想定し、身分証明書代わりになるものを身に着けていた」

 さらに言えば、被災地ではその地域でしか通用しない対応を、続けていたところもある。

たとえば、その1つがデンタルチャートだろう。被災地に派遣された歯科医師からは、「全国から歯科医師を受け入れて

いながら、その地域にしか通用しないデンタルチャートを使うように促されていた」という話も耳にする。これでは、全国から

駆けつけた医師は、スムーズな対応ができない。

 2人にデンタルチャートの件を聞くと、こう漏らした。

 「数年前に、全国で使用されているデンタルチャートを調べたことがあったが、統一されているとは言えなかった。しかし、

歯科医師であれば、その地域にしか通用しないデンタルチャートであろうとも、どこに何を書くかわからないことはない。

むしろ最大の問題は、歯の図についての記入要領が統一されていないことだと思う」

 これもまた、日頃から「最悪」の状況を想定していなかったツケが回ってきたとも言えないだろうか。もしかしたら、

当初は他の地域から医師を受け入れる考えがなかったのかもしれない。その煽りを食うのは、遺族であり、亡くなった

人たちなのである。

 「最悪」のことを想定し、準備ができていたからこそ、2人はこのような思いで職務に当たることができたのだろう。

都築氏は安置所で、腐敗が進んだ遺体にしがみついて泣く家族を見た。そのときの思いを、言葉を噛みしめるように話す。

 「しっかりと検査をして、ご遺体を必ずご家族にお返しするという思いを強くした」

 岩原氏は、遺体を安置所に運び込む消防団員たちが、「一家全員が亡くなったようだ」と話すのを聞いたとき、こう思った。

 「たとえ返せるご家族がなくても、そのご遺体がどなたのものであるかがわかるように、しっかりとした検査を行ないたい」

 2人のような医師を称える世論や文化をつくることも、防災力を強くしていくために大切ではないかと私は思う。

 

 

               ※  コメ欄は閉じています

 

 


「生き証人」が語る真実の記録と教訓(9)

2011-10-25 00:54:06 | Weblog

 

 「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて    吉田典史

                                                                            (ダイヤモンド・オンライン)

 

 

海保の“海猿”に立ちはだかる遺体捜索の非情な壁
危険な海底で潜水士が見た「津波の教訓」とは
――海上保安庁巡視船「おきつ」の潜水班長・

                                      大谷直耕氏のケース

 

 

「海猿」(うみざる)と聞くと、海上保安庁の潜水士が頭に浮かぶ。

彼らもまた、3月11日の震災直後から被災地で捜索活動を続けている。半年以上の月日が経つだけに

捜索は難航しているようだが、粘り強い活動により、今も遺体を発見している。

 今回は、その潜水士に取材を試みることで「大震災の生と死」について考える。


被害の範囲はかつてないほど広大潜水士に立ちはだかる「遺体捜索の壁」

「私たちの潜水捜索の技術には問題ないが、被害を受けた地域が広く、捜索の範囲は膨大なものになっている。

このことが、捜索を難しくしている」

海上保安庁のPM型巡視船「おきつ」(第三管区清水海上保安部所属)の潜水班長を勤める

大谷直耕(なおやす)氏(37歳)は、赤く日焼けした顔でこう答えた。

私が「被災地での捜索は難航しているのではないか」と尋ねたときだった。

 映画『海猿』で知られる海上保安庁の潜水士は、船が海で遭難したときなどにも出動することがあるが、

今回の震災はそれとは捜索の範囲が異なるという。

 「船の捜索は、通常行方がわからなくなった場所がある程度特定されている。だから、捜索の範囲は限られる。

今回はそのように特定されていないから、捜索の範囲が自ずと広くなる」

 当然、海上保安庁も巡視船や潜水士の数は限られている。あの広い海での捜索が難しくなることは、

避けられないのだろう。まして遺体は長時間、海底に沈んでいる。これも捜索を難しくする。大谷氏は「被災地の

三陸沿岸は地形が入り組んでいることも、捜索範囲が広くなる一因」とも言う。

このような悪条件が並ぶなか、海上保安庁は全国各地の拠点から巡視船や潜水士などを被災地に送り、

行方不明者の捜索などを半年以上、続けている。航空機による捜索も行なう。

 震災直後に出動命令が出た巡視船は、同庁が保有する358隻のうち349隻にも及んだ。

現在も、30隻が被災地での活動を行なっている。

 私が第三管区海上保安本部清水海上保安部を訪れた日、大谷氏らは約10日間に及ぶ捜索を終え、

母港である静岡県の清水港に着いたばかりだった。

派遣先は、宮城県の女川湾から御前湾、そして石巻市沖の雄勝湾の、海岸線付近から沿岸にかけてだった。

3月11日以降、「おきつ」が被災地に赴くのはこれが4回目だ。今回は、2人の遺体を収容した。

1人は海面に浮かび、1人は海岸に打ち上げられていた。震災発生から半年が過ぎた今、発見できるのは

このくらいのペースなのだという。

 東北地域を管轄する第二管区全体では、この半年で372体の遺体を発見、収容した(9月30日現在)。

これは、1つの管区における年間の救助数に近い。多いときは、1日で12体を収容した(3月31日)。

「いかなるときも遺体に敬意を払う」熟練の潜水士が胸に秘めた思い

 大谷氏は、潜水士として10年のキャリアがあるだけに、落ち着いた口調で話す。

 「いかなるときも、ご遺体へ敬意を払うことを心がけている」

 私は被災地で30~40人ほどの遺体の写真を見てきたが、その都度、後頭部が激しく痛くなる。

「似たような経験はないか」と尋ねると、大谷氏は「潜水士になった頃に、似たような経験がある」と答えた。

 「以前は、自分が見つけたご遺体を、夜思い起こすことがあった。その後経験を積み、今はそのようなことはない。

ご遺体への敬意は潜水士になった頃から教え込まれてきたことであり、今は他の潜水士に教えている」

 半年前、3月11日の地震発生時、巡視船「おきつ」は駿河湾(静岡県)にいた。

その直後に、被災地への派遣命令を受け、ただちに茨城県の大洗に向かった。

 大谷氏ら潜水士たちは、津波で被害を受けた町を見たのは初めてだった。防波堤は形を残していたが、

船はひっくり返り、車が海に沈んでいた。「ここまで被害が大きくなるものなのか」と、驚いたという。

リスクが高い海中で頼みとなる「捜索ライン」車、倉庫からアルバム、貴重品まで散乱

派遣先の海上保安部からのオーダー(指示)を受け、港付近の被害状況を早速調べる。

その際、海上保安庁の他の巡視船や民間の船が、今後港を使えるかどうかを確認していく。

この時点では、これから捜索や物資の輸送をするための基地を作ることが必要になる。

その後、大谷氏ら潜水士5人は、海中に潜る準備にかかる。海に入ると、まず行く不明者などが存在する可能性

がある場所で、長さ20メートルほどの「捜索ライン」と呼ばれるロープに、5人が4~5メートル間隔でつかまる。

 それを手で握りながら、班長である大谷氏の指示に従い、一斉に潜る。背中には、大気中の空気を圧縮した

「空気ボンベ」を1本背負う。深度や潜水士により違いがあるが、このボンベを付けていると、8メートルより浅い

ところに潜る場合は、1本で1時間ほど潜水できるという。

 水深10メートルを越えるときは、体内に窒素が溜まりやすくなり、体に支障を来たす可能性が生じる。

そこで潜水時間を短くするなどして、捜索手法に一段と注意を払う。

大谷氏は、「あの日は水温が15度ほどで冷たかった」と振り返る。水温が低いときは、体力が消耗しやすくなり、

作業は厳しいものとなる。

 「視界は悪くなかった。2メートル先までは見えていた。これまでの捜索では、視界が悪いときには手を伸ばした

先すら見えないことがあった」

 海中には、津波の引き波で引きずりこまれた家や倉庫、車、船などがいくつもあった。

漁具や定置網も散乱していた。潜水士は、それらを1つずつ確認していく。大谷氏は、そのとき指示した内容を

説明する。

 「ご遺体はもちろんだが、アルバムや金庫などの貴重品、さらに身分が特定できうる証明書も見つけるように

伝えていた。震災直後だけに、それらに海洋生物はほとんど付いていない。きれいだった。これらを見ていると、

思うことはあった」

 潜水中は、「捜索ライン」が潜水士たちのコミュニケーションの1つの手段となる。

大谷氏がそのロープを1回引っ張ると、他の4人の潜水士がその場で「止まる」ことを意味する。

2回引くと「前に進め」、3回引くと「班長である自分の元に集まれ」ということにしていた。

 大谷氏の元に集まると、今度は手で合図を送り合い、それぞれが拾ったものを確認し合う。

そして、大谷氏が浮上するかどうかを判断する。貴重品などが多いときは、30分ほどで上がることもある。

このとき、遺体は発見できなかった。

海底に沈む車両のレバーは「ドライブ」に津波が来るのになぜ車を運転していたのか

その後8月に、3回目の派遣命令が下りた。向かった先は、岩手県と宮城県の県境に位置する陸前高田市の

広田湾だった。主に河口付近を中心に捜索した。このような場所では、潜水士が流されることがある。

現在位置を把握することが一層、大切になるという。

そこで、支援班の存在が不可欠になる。潜水士と支援班は、「おきつ」の後部に載せてある、全長6メートルほどの

搭載艇に乗り込み、行方不明者がいると思われる場所まで向かう。

 支援班は搭載艇に残り、海中の潜水士らが流されないように見張りを行なう。

「おきつ」本船には、指令班がいて情報収集を行なう。大谷氏は、この捜索では「ご遺体1体と車を1台見つけたが、

それ以外に顕著なものは見つけることができなかった」と話す。

私はシフトレバーがドライブであったか、それともパーキングであったかを尋ねた。

大谷氏は、「ドライブだったと思う」と答えた。さらにこう言う。

「運転中に津波に襲われたのかもしれない。フロントガラスは割れていなかった。横のガラスは割れていた。

中にご遺体はなかった」

 この問いは、私がこの半年で、海中で車を見つけた自衛官5人ほどに聞いてきたものだ。半数以上は、

「発見した車のギアはドライブだった」と答えた。遺族を取材すると、「運転中に津波に襲われた」人が少なくない

ことを知る。

あの大きな地震のあと、なぜ海岸数キロ以内の場所を運転していたのか――。

このことは、今回の震災を考える上で深い意味を持っていると私は思う。

遺体を見つけると毛布で丁寧にくるむそして、潜水士らは黙祷を奉げる

この3回目の捜索では、1人の遺体を発見した。大谷氏らは、長い間海を漂流した遺体を見つけると、

その形を損なわないように、毛布などで丁寧に包む。このとき潜水士らは、大谷氏の指示に従い、黙とうを奉げる。

そして、遺体を揚収ネットに固定し、搭載艇に載せる。「おきつ」本船からは、遺体を発見したことをまず海上保安庁の

海上保安部へ報告し、そこから地元の警察本部へ報告がなされる。今回の震災では、警察が遺体に関する記録を

一元管理することになっている。

大谷氏らが乗る搭載艇が港に着くと、警察官たちが待っている。その後、1トントラックで遺体を運んで行ったという。

大谷氏は語る。

 「ご遺体を発見した場所は、とりわけ大切。そこで見つけることができたということは、他にもご遺体があるかも

しれないことを意味する」

 このとき、遺体を発見することができた理由についてはこう分析する。

 「少し前に、台風12号がこの地域を通過した。その影響があるのかもしれない。台風が強いと、海中がかき回され、

がれきが海底を動くので、その下にあるご遺体が浮かび上がる可能性がある」

 海中に沈んだ遺体は、体の中からガスを発生する。そのガスにより、浮かんでくる可能性がある。

そしてしばらく海面を浮かび、ガスが抜けるとまた沈む。さらに海中で時間が経過し、ガスが生じると再び浮かぶ

可能性があると言われている。

「それでも派遣命令が出ればまた向かう」帽子を振る潜水士の顔に秘められた決意

冒頭で述べたように、大谷氏らは4回目の派遣で2人の遺体を発見した。

このときは、今回の震災で4回に及ぶ派遣で初めて水中ソナーを使った。このソナーは、搭載艇につけられている。

取材時には、私もこのソナーで撮影した海中の映像を「おきつ」の船内で見た。

ノート型パソコンのモニター画面に、ソナーで撮影した海中が映し出された。色はカラー。海底までもが見える。

その中央に船らしきものが映った。

 大谷氏によると、海底12メートルほどに沈む漁船だという。

今回の震災で沈んだものであるのかどうかは、はっきりとはわからない。私にもそれが瞬時に「船」とわかるほど、

精度の高い映像だった。

 このソナーでは、海中の遺体も発見することができるという。だが、私は取材時にそれを見ていない。

これは、海上保安庁の考えであり、私の意思でもある。海上保安庁としては、遺族への配慮やプライバシーの

保護を考慮した上での判断なのだろう。

 私はこの半年で多くの遺体を見てきたからなのか、後頭部の痛みがなかなか消えない。

この連載を始める前に、取材で自殺や事故、病死の遺体を90体ほどは見てきた。

「遺体への免疫はできている」と思っていたが、被災地で目撃した遺体の損傷は、それらを上回る。

今は、その「免疫」が破壊されているのかもしれない。

 私がこんなことを大谷氏や同席する清水海上保安部職員に話すと、海上保安庁でも潜水士らには

PTSD(心的外傷後ストレス障害)の検査をしているという。

 巡視船「おきつ」の5回目の派遣は、私が取材を行なった時点で未定だった。

海上保安庁や自衛隊、警察は、被災地で遺体の捜索や収容をする職員や隊員らの「その後」を考慮している

はずだ。PTSDをはじめとした「心の病」である。

 今回は、自衛隊や警察などの現地への派遣サイクル(期間)が、1995年の阪神淡路大震のときよりも短いように

私には思える。海上保安庁もそれを意識し、派遣の計画を練っているのだろう。

新聞やテレビではなかなか公にならないが、阪神淡路大震災や、1985年に起きた日航機の御巣鷹山(群馬県)への

墜落事故で、捜索に当たった警察や消防団員、自衛隊員らに心の病になった人がいたことは、当時を知る医師や

看護師から漏れてくる話である。

 大谷氏に「また派遣命令が出れば被災地に向かうのか」と聞くと、「行きます」と答えた。

取材を終え、船を降りるとき、「おきつ」の前で帽子を振って見送ってくれた。

車の中からその日焼けした顔をじっと見ると、私は現地の遺体の状況を知るだけに、胸が苦しくなってきた。


“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得

 大谷氏の証言から私が感じ取った、今後の防災を問い直す上で検証すべき点は、主に以下の3つである。

 

1.津波の「引き波」に一層の警戒を

 今回の震災では、津波の「引き波」で多く人が海に引きずり込まれた。海から陸に向けて波が押し寄せ、

その波が海に戻るときが「引き波」である。大谷氏らが捜索している行方不明者の中には、この引き波による犠牲が

少なくないと思われる。

たとえば、毎日新聞9月25日朝刊によると、宮城県女川町では引き波の際に、漁港の桟橋に近い岸壁付近で

5~6メートルの高さから海水が落ちる「滝つぼ」のような現象が起きていたことが、東京大学地震研究所の

都司嘉宣准教授の調査でわかった。浮かんで助けを求めていた人などが「滝つぼ」に落ち、犠牲になったと見られる。

 今後は、全国の津波常襲地帯でこの「引き波」への理解を深めるようにすることが必要だろう。

 

2.車で避難すべきかどうかを議論し直す

大谷氏の証言からは、海中には津波で運ばれた車が多いことがわかる。宮城県災害対策本部は、3月29日、

津波で流された「被災自動車」は県内で約14万6000台に上ると発表している。

今回、被害を大きくした一因はこの車にある。

車が殺到し、渋滞に巻き込まれたことで逃げ遅れ、津波にさらわれた人もいる。

 地震直後、この地域の多くの道で渋滞が発生した。5月1日の共同通信社の報道で明らかになったように、

宮城県石巻市の国道398号や、名取市の閖上地区でも海岸から市役所方面に向かう道で渋滞が発生した。

岩手県では、大船渡市でも渋滞が起きていた。この中には、逃げ遅れ、津波に飲まれた人がいる。

 車で避難することの危うさは、この震災よりも前に明らかになっていた。

その一例が、1993年に起きた北海道・奥尻島での「北海道南西沖地震」である。このとき、車で逃げた人が

津波にのまれたケースは、防災学者などにより指摘されてきた。残念なことに、今回の被災地では、それが

多くの住民の意識に浸透していなかった。

 今後の対策は難しい。

三陸沿岸では電車などの交通手段が発達していないため、車がないと生活は不便である。

津波がきたときに、足腰が弱い高齢者や入院患者などを高台などに運ぶときには、やはり車が必要なのである。

 したがって、津波の際に車を使用することを一律に禁止することは、避けたほうが賢明だ。

自治体が地域の実情を調査し直し、津波が来る際に車を使うルールづくりを急いだほうがいい。

高台に車で逃げることができない場合に備え、その地域に十数メートルの「避難タワー」などを作ることも

考えるべきだろう。

 

3.遺体捜索関係者のメンタル対策を充実する

 大谷氏は潜水士としてのキャリアが豊富であり、多くの遺体を発見してきた。

それだけに、遺体を扱うことには「免疫」ができている。だが、場数を踏んでいない潜水士にとって、多くの遺体を

近くで見ることは精神的に苦しいものだろう。

 これは、遺体の捜索を続ける警察官、消防団員らにも言えることだ。

さらに、遺体安置所にいる自治体の職員、そして検死に関わった医師の中でも、とりわけ歯科医師にPTSDを

始めとした心の病になっている人が多いという。

遺体を土の中に埋めて仮埋葬した地域があるが、その遺体を運んだり、さらに取り出して火葬を手伝った

葬儀社の社員らの一部にもいると、地元の自治体や住民から聞く。

 海上保安庁、自衛隊、警察、消防をはじめ、被災地で遺体の捜索などに関わった人たちのPTSDなどへの対策を、

一段ときめ細かなものにしていくべきだろう。政府、自治体、そして社会や世論がこの人たちを支える姿勢を持つことも、

防災力を強くしていくことにつながる。

 最後に、行方不明者や遺体の捜索を半年以上にわたって続ける、海上保安庁の職員らに敬意を表したい。

 私の取材の経験で言えば、今も家族は行方不明になった者が帰ってくることを待っている。

たとえそれが遺体であったとしても、待ち焦がれている。「息子が帰ってこないと生きていけない」と泣きじゃくる

母親がいた。妻や子どもが行方不明のままであることから、心の病になっている自治体の職員もいる。

 どうか、この人たちのために捜索を続けて欲しい。

 

 

 

 

 


「水平線の花火と音楽2」  被災地から被災地へ

2011-10-23 19:29:40 | Weblog

 

毎日新聞より

  口蹄疫(こうていえき)からの復興を応援する音楽ライブと花火のイベント「水平線の花火と音楽2」が22日、

宮崎市のみやざき臨海公園サンマリーナ宮崎であった。

前日の大雨から一転、日中は秋晴れのさわやかな一日となり、約1万人が会場の芝生の上に座ってミュージシャン

たちの熱唱に聴き入った。

  イベントは、シンガーソングライターの泉谷しげるさんが呼びかけ、昨年始まった。

今年は「被災地から被災地へ、みやざきからの御恩返し」をテーマに、泉谷さんや宇崎竜童さん、小泉今日子さんら

ビッグ・ネーム、串間市出身の井手綾香さん、西都市出身のTASHAgeeさんら地元若手ミュージシャンが出演。

収益の一部を東日本大震災の復興支援事業に寄付するほか、被災地から県に避難している約150人を無料

招待した。

 この日は冒頭、全員で震災犠牲者に黙とうをささげて始まった。

泉谷さんは「非常事態宣言を乗り越えた宮崎の人たちには楽しむ権利がある」と声を張り上げ、会場を沸かせた。

 日没にかけてのライブの後、午後7時からは、花火1万2000発が打ち上げられ、夜空を彩った。

 

水平線の花火と音楽2・アミーゴス・パラ・シエンプレ

 

 

 今年の音楽と花火の選曲(公式サイトより)

01.交響詩ツァラトゥストラはかく語りき
02.桜 / コブクロ
03.Jumping / KARA
04.Oh! Darling / The Beatles
05.Livin' la Vida Loca / Ricky Martin
06.Rolling In the Deep / ADELE
07.みんな空の下 / 絢香
08.純恋歌 / 湘南乃風
09.I Don't Wanna Miss a Thing/ Aerosmith
10.アミーゴス・パラ・シエンプレ / サラ・ブライトマン+ホセ・カレーラス
11.窓 / 矢野まき