「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて 吉田典史
(ダイヤモンド・オンライン)
海保の“海猿”に立ちはだかる遺体捜索の非情な壁
危険な海底で潜水士が見た「津波の教訓」とは
――海上保安庁巡視船「おきつ」の潜水班長・
大谷直耕氏のケース
「海猿」(うみざる)と聞くと、海上保安庁の潜水士が頭に浮かぶ。
彼らもまた、3月11日の震災直後から被災地で捜索活動を続けている。半年以上の月日が経つだけに
捜索は難航しているようだが、粘り強い活動により、今も遺体を発見している。
今回は、その潜水士に取材を試みることで「大震災の生と死」について考える。
被害の範囲はかつてないほど広大潜水士に立ちはだかる「遺体捜索の壁」
「私たちの潜水捜索の技術には問題ないが、被害を受けた地域が広く、捜索の範囲は膨大なものになっている。
このことが、捜索を難しくしている」
海上保安庁のPM型巡視船「おきつ」(第三管区清水海上保安部所属)の潜水班長を勤める
大谷直耕(なおやす)氏(37歳)は、赤く日焼けした顔でこう答えた。
私が「被災地での捜索は難航しているのではないか」と尋ねたときだった。
映画『海猿』で知られる海上保安庁の潜水士は、船が海で遭難したときなどにも出動することがあるが、
今回の震災はそれとは捜索の範囲が異なるという。
「船の捜索は、通常行方がわからなくなった場所がある程度特定されている。だから、捜索の範囲は限られる。
今回はそのように特定されていないから、捜索の範囲が自ずと広くなる」
当然、海上保安庁も巡視船や潜水士の数は限られている。あの広い海での捜索が難しくなることは、
避けられないのだろう。まして遺体は長時間、海底に沈んでいる。これも捜索を難しくする。大谷氏は「被災地の
三陸沿岸は地形が入り組んでいることも、捜索範囲が広くなる一因」とも言う。
このような悪条件が並ぶなか、海上保安庁は全国各地の拠点から巡視船や潜水士などを被災地に送り、
行方不明者の捜索などを半年以上、続けている。航空機による捜索も行なう。
震災直後に出動命令が出た巡視船は、同庁が保有する358隻のうち349隻にも及んだ。
現在も、30隻が被災地での活動を行なっている。
私が第三管区海上保安本部清水海上保安部を訪れた日、大谷氏らは約10日間に及ぶ捜索を終え、
母港である静岡県の清水港に着いたばかりだった。
派遣先は、宮城県の女川湾から御前湾、そして石巻市沖の雄勝湾の、海岸線付近から沿岸にかけてだった。
3月11日以降、「おきつ」が被災地に赴くのはこれが4回目だ。今回は、2人の遺体を収容した。
1人は海面に浮かび、1人は海岸に打ち上げられていた。震災発生から半年が過ぎた今、発見できるのは
このくらいのペースなのだという。
東北地域を管轄する第二管区全体では、この半年で372体の遺体を発見、収容した(9月30日現在)。
これは、1つの管区における年間の救助数に近い。多いときは、1日で12体を収容した(3月31日)。
「いかなるときも遺体に敬意を払う」熟練の潜水士が胸に秘めた思い
大谷氏は、潜水士として10年のキャリアがあるだけに、落ち着いた口調で話す。
「いかなるときも、ご遺体へ敬意を払うことを心がけている」
私は被災地で30~40人ほどの遺体の写真を見てきたが、その都度、後頭部が激しく痛くなる。
「似たような経験はないか」と尋ねると、大谷氏は「潜水士になった頃に、似たような経験がある」と答えた。
「以前は、自分が見つけたご遺体を、夜思い起こすことがあった。その後経験を積み、今はそのようなことはない。
ご遺体への敬意は潜水士になった頃から教え込まれてきたことであり、今は他の潜水士に教えている」
半年前、3月11日の地震発生時、巡視船「おきつ」は駿河湾(静岡県)にいた。
その直後に、被災地への派遣命令を受け、ただちに茨城県の大洗に向かった。
大谷氏ら潜水士たちは、津波で被害を受けた町を見たのは初めてだった。防波堤は形を残していたが、
船はひっくり返り、車が海に沈んでいた。「ここまで被害が大きくなるものなのか」と、驚いたという。
リスクが高い海中で頼みとなる「捜索ライン」車、倉庫からアルバム、貴重品まで散乱
派遣先の海上保安部からのオーダー(指示)を受け、港付近の被害状況を早速調べる。
その際、海上保安庁の他の巡視船や民間の船が、今後港を使えるかどうかを確認していく。
この時点では、これから捜索や物資の輸送をするための基地を作ることが必要になる。
その後、大谷氏ら潜水士5人は、海中に潜る準備にかかる。海に入ると、まず行く不明者などが存在する可能性
がある場所で、長さ20メートルほどの「捜索ライン」と呼ばれるロープに、5人が4~5メートル間隔でつかまる。
それを手で握りながら、班長である大谷氏の指示に従い、一斉に潜る。背中には、大気中の空気を圧縮した
「空気ボンベ」を1本背負う。深度や潜水士により違いがあるが、このボンベを付けていると、8メートルより浅い
ところに潜る場合は、1本で1時間ほど潜水できるという。
水深10メートルを越えるときは、体内に窒素が溜まりやすくなり、体に支障を来たす可能性が生じる。
そこで潜水時間を短くするなどして、捜索手法に一段と注意を払う。
大谷氏は、「あの日は水温が15度ほどで冷たかった」と振り返る。水温が低いときは、体力が消耗しやすくなり、
作業は厳しいものとなる。
「視界は悪くなかった。2メートル先までは見えていた。これまでの捜索では、視界が悪いときには手を伸ばした
先すら見えないことがあった」
海中には、津波の引き波で引きずりこまれた家や倉庫、車、船などがいくつもあった。
漁具や定置網も散乱していた。潜水士は、それらを1つずつ確認していく。大谷氏は、そのとき指示した内容を
説明する。
「ご遺体はもちろんだが、アルバムや金庫などの貴重品、さらに身分が特定できうる証明書も見つけるように
伝えていた。震災直後だけに、それらに海洋生物はほとんど付いていない。きれいだった。これらを見ていると、
思うことはあった」
潜水中は、「捜索ライン」が潜水士たちのコミュニケーションの1つの手段となる。
大谷氏がそのロープを1回引っ張ると、他の4人の潜水士がその場で「止まる」ことを意味する。
2回引くと「前に進め」、3回引くと「班長である自分の元に集まれ」ということにしていた。
大谷氏の元に集まると、今度は手で合図を送り合い、それぞれが拾ったものを確認し合う。
そして、大谷氏が浮上するかどうかを判断する。貴重品などが多いときは、30分ほどで上がることもある。
このとき、遺体は発見できなかった。
海底に沈む車両のレバーは「ドライブ」に津波が来るのになぜ車を運転していたのか
その後8月に、3回目の派遣命令が下りた。向かった先は、岩手県と宮城県の県境に位置する陸前高田市の
広田湾だった。主に河口付近を中心に捜索した。このような場所では、潜水士が流されることがある。
現在位置を把握することが一層、大切になるという。
そこで、支援班の存在が不可欠になる。潜水士と支援班は、「おきつ」の後部に載せてある、全長6メートルほどの
搭載艇に乗り込み、行方不明者がいると思われる場所まで向かう。
支援班は搭載艇に残り、海中の潜水士らが流されないように見張りを行なう。
「おきつ」本船には、指令班がいて情報収集を行なう。大谷氏は、この捜索では「ご遺体1体と車を1台見つけたが、
それ以外に顕著なものは見つけることができなかった」と話す。
私はシフトレバーがドライブであったか、それともパーキングであったかを尋ねた。
大谷氏は、「ドライブだったと思う」と答えた。さらにこう言う。
「運転中に津波に襲われたのかもしれない。フロントガラスは割れていなかった。横のガラスは割れていた。
中にご遺体はなかった」
この問いは、私がこの半年で、海中で車を見つけた自衛官5人ほどに聞いてきたものだ。半数以上は、
「発見した車のギアはドライブだった」と答えた。遺族を取材すると、「運転中に津波に襲われた」人が少なくない
ことを知る。
あの大きな地震のあと、なぜ海岸数キロ以内の場所を運転していたのか――。
このことは、今回の震災を考える上で深い意味を持っていると私は思う。
遺体を見つけると毛布で丁寧にくるむそして、潜水士らは黙祷を奉げる
この3回目の捜索では、1人の遺体を発見した。大谷氏らは、長い間海を漂流した遺体を見つけると、
その形を損なわないように、毛布などで丁寧に包む。このとき潜水士らは、大谷氏の指示に従い、黙とうを奉げる。
そして、遺体を揚収ネットに固定し、搭載艇に載せる。「おきつ」本船からは、遺体を発見したことをまず海上保安庁の
海上保安部へ報告し、そこから地元の警察本部へ報告がなされる。今回の震災では、警察が遺体に関する記録を
一元管理することになっている。
大谷氏らが乗る搭載艇が港に着くと、警察官たちが待っている。その後、1トントラックで遺体を運んで行ったという。
大谷氏は語る。
「ご遺体を発見した場所は、とりわけ大切。そこで見つけることができたということは、他にもご遺体があるかも
しれないことを意味する」
このとき、遺体を発見することができた理由についてはこう分析する。
「少し前に、台風12号がこの地域を通過した。その影響があるのかもしれない。台風が強いと、海中がかき回され、
がれきが海底を動くので、その下にあるご遺体が浮かび上がる可能性がある」
海中に沈んだ遺体は、体の中からガスを発生する。そのガスにより、浮かんでくる可能性がある。
そしてしばらく海面を浮かび、ガスが抜けるとまた沈む。さらに海中で時間が経過し、ガスが生じると再び浮かぶ
可能性があると言われている。
「それでも派遣命令が出ればまた向かう」帽子を振る潜水士の顔に秘められた決意
冒頭で述べたように、大谷氏らは4回目の派遣で2人の遺体を発見した。
このときは、今回の震災で4回に及ぶ派遣で初めて水中ソナーを使った。このソナーは、搭載艇につけられている。
取材時には、私もこのソナーで撮影した海中の映像を「おきつ」の船内で見た。
ノート型パソコンのモニター画面に、ソナーで撮影した海中が映し出された。色はカラー。海底までもが見える。
その中央に船らしきものが映った。
大谷氏によると、海底12メートルほどに沈む漁船だという。
今回の震災で沈んだものであるのかどうかは、はっきりとはわからない。私にもそれが瞬時に「船」とわかるほど、
精度の高い映像だった。
このソナーでは、海中の遺体も発見することができるという。だが、私は取材時にそれを見ていない。
これは、海上保安庁の考えであり、私の意思でもある。海上保安庁としては、遺族への配慮やプライバシーの
保護を考慮した上での判断なのだろう。
私はこの半年で多くの遺体を見てきたからなのか、後頭部の痛みがなかなか消えない。
この連載を始める前に、取材で自殺や事故、病死の遺体を90体ほどは見てきた。
「遺体への免疫はできている」と思っていたが、被災地で目撃した遺体の損傷は、それらを上回る。
今は、その「免疫」が破壊されているのかもしれない。
私がこんなことを大谷氏や同席する清水海上保安部職員に話すと、海上保安庁でも潜水士らには
PTSD(心的外傷後ストレス障害)の検査をしているという。
巡視船「おきつ」の5回目の派遣は、私が取材を行なった時点で未定だった。
海上保安庁や自衛隊、警察は、被災地で遺体の捜索や収容をする職員や隊員らの「その後」を考慮している
はずだ。PTSDをはじめとした「心の病」である。
今回は、自衛隊や警察などの現地への派遣サイクル(期間)が、1995年の阪神淡路大震のときよりも短いように
私には思える。海上保安庁もそれを意識し、派遣の計画を練っているのだろう。
新聞やテレビではなかなか公にならないが、阪神淡路大震災や、1985年に起きた日航機の御巣鷹山(群馬県)への
墜落事故で、捜索に当たった警察や消防団員、自衛隊員らに心の病になった人がいたことは、当時を知る医師や
看護師から漏れてくる話である。
大谷氏に「また派遣命令が出れば被災地に向かうのか」と聞くと、「行きます」と答えた。
取材を終え、船を降りるとき、「おきつ」の前で帽子を振って見送ってくれた。
車の中からその日焼けした顔をじっと見ると、私は現地の遺体の状況を知るだけに、胸が苦しくなってきた。
“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得
大谷氏の証言から私が感じ取った、今後の防災を問い直す上で検証すべき点は、主に以下の3つである。
1.津波の「引き波」に一層の警戒を
今回の震災では、津波の「引き波」で多く人が海に引きずり込まれた。海から陸に向けて波が押し寄せ、
その波が海に戻るときが「引き波」である。大谷氏らが捜索している行方不明者の中には、この引き波による犠牲が
少なくないと思われる。
たとえば、毎日新聞9月25日朝刊によると、宮城県女川町では引き波の際に、漁港の桟橋に近い岸壁付近で
5~6メートルの高さから海水が落ちる「滝つぼ」のような現象が起きていたことが、東京大学地震研究所の
都司嘉宣准教授の調査でわかった。浮かんで助けを求めていた人などが「滝つぼ」に落ち、犠牲になったと見られる。
今後は、全国の津波常襲地帯でこの「引き波」への理解を深めるようにすることが必要だろう。
2.車で避難すべきかどうかを議論し直す
大谷氏の証言からは、海中には津波で運ばれた車が多いことがわかる。宮城県災害対策本部は、3月29日、
津波で流された「被災自動車」は県内で約14万6000台に上ると発表している。
今回、被害を大きくした一因はこの車にある。
車が殺到し、渋滞に巻き込まれたことで逃げ遅れ、津波にさらわれた人もいる。
地震直後、この地域の多くの道で渋滞が発生した。5月1日の共同通信社の報道で明らかになったように、
宮城県石巻市の国道398号や、名取市の閖上地区でも海岸から市役所方面に向かう道で渋滞が発生した。
岩手県では、大船渡市でも渋滞が起きていた。この中には、逃げ遅れ、津波に飲まれた人がいる。
車で避難することの危うさは、この震災よりも前に明らかになっていた。
その一例が、1993年に起きた北海道・奥尻島での「北海道南西沖地震」である。このとき、車で逃げた人が
津波にのまれたケースは、防災学者などにより指摘されてきた。残念なことに、今回の被災地では、それが
多くの住民の意識に浸透していなかった。
今後の対策は難しい。
三陸沿岸では電車などの交通手段が発達していないため、車がないと生活は不便である。
津波がきたときに、足腰が弱い高齢者や入院患者などを高台などに運ぶときには、やはり車が必要なのである。
したがって、津波の際に車を使用することを一律に禁止することは、避けたほうが賢明だ。
自治体が地域の実情を調査し直し、津波が来る際に車を使うルールづくりを急いだほうがいい。
高台に車で逃げることができない場合に備え、その地域に十数メートルの「避難タワー」などを作ることも
考えるべきだろう。
3.遺体捜索関係者のメンタル対策を充実する
大谷氏は潜水士としてのキャリアが豊富であり、多くの遺体を発見してきた。
それだけに、遺体を扱うことには「免疫」ができている。だが、場数を踏んでいない潜水士にとって、多くの遺体を
近くで見ることは精神的に苦しいものだろう。
これは、遺体の捜索を続ける警察官、消防団員らにも言えることだ。
さらに、遺体安置所にいる自治体の職員、そして検死に関わった医師の中でも、とりわけ歯科医師にPTSDを
始めとした心の病になっている人が多いという。
遺体を土の中に埋めて仮埋葬した地域があるが、その遺体を運んだり、さらに取り出して火葬を手伝った
葬儀社の社員らの一部にもいると、地元の自治体や住民から聞く。
海上保安庁、自衛隊、警察、消防をはじめ、被災地で遺体の捜索などに関わった人たちのPTSDなどへの対策を、
一段ときめ細かなものにしていくべきだろう。政府、自治体、そして社会や世論がこの人たちを支える姿勢を持つことも、
防災力を強くしていくことにつながる。
最後に、行方不明者や遺体の捜索を半年以上にわたって続ける、海上保安庁の職員らに敬意を表したい。
私の取材の経験で言えば、今も家族は行方不明になった者が帰ってくることを待っている。
たとえそれが遺体であったとしても、待ち焦がれている。「息子が帰ってこないと生きていけない」と泣きじゃくる
母親がいた。妻や子どもが行方不明のままであることから、心の病になっている自治体の職員もいる。
どうか、この人たちのために捜索を続けて欲しい。