2015.8.9(日)
『朝日新聞』「ニュースの本棚」より、漫画家 今日マチ子さんの言葉。
「体験していないことを描くことは案外たやすい。空を飛んだことがなくても、想像の力によって、鳥の話も、宇宙飛行士の話もつくることができるのだ。だけど、戦争の話となるととたんに躊躇してしまう。戦争を体験していないことが、戦争について語る資格がないように思えるのだ。想像だけでは足がすくむ」
今日さんのように創作的な活動していなくても、上記のような心情はわかるような気がする。そのなかにいると、戦争体験者がこの国からいなくなることへの怖さは計り知れない。
だから本当は、そういう躊躇は無用なのかもしれない。わからないけどイヤ、知らないけれど怖い・・・そういう感情がいちばんだと自信をもって言える人が生まれてくることの意味が深く胸に突き刺さる。
そういう若者の活動を「戦争に行きたくないという無責任な・・・」とツイートした自民党の議員が「若い世代」であったことは驚きだけれど。
今日さんはこうも言う。
「わたしにとって戦争とは、体験したことがないのに記憶しているもの。想像力とは反対の、埋め込まれた恐怖だ。漫画を描きながら、この怖さの根っこに行き着くべく、こんがらがった糸をほどいている。そして、「戦争」という過去へむかう絡まり、時間の流れの中に、閉じ込められてしまった人がいるのではないか。わかり合うのは無理かもしれない。彼らに手を伸ばすことで、一瞬でも、共振がうまれればいい」
彼女はさまざまな書物を通したり、実際に現地を訪れたりして戦争を「体験」し、その「躊躇」から少しでも遠ざかることを使命としているのか。
最後の言葉・・・。
「いまわたしは、戦争について描くことから、少し遠ざかってみようと思っている。もし、いまが戦後ではないまっさらな世界だったら。そんなものはあり得ないけれど、それでも想像してみる。未来とか、希望とか、喜びとか、ばかみたいな言葉がきちんと生きている世界を。たとえ存在しなくても、わたしたちは思い描くことができるのだ」
思い描いた先に、私たちには何が残るのだろう。そういう「ばかみたいな言葉がきちんと生きている世界」は、あり得ないけれど、でも想像することで少し生き方が変わるのだろうか。そうであればいいと、天邪鬼な私でも思う。
原爆が長崎の地を襲って、ちょうど70年目の夏。
早朝散歩したとき、今日の風はすこぶる心地よく、身体が生き返るようだった。
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