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Here and There

移ろいゆく日々と激動する世界

多様なキリスト教

2006-05-03 17:09:11 | 多様性

 ここのところキリスト教の周辺が騒がしい。
 古代エジプトのコプト語で書かれた「ユダの福音書」が発見されたり、神の子イエス・キリストがマグダラのマリアの子を生んでいたという仮説「ダビンチ・コード」が映画化されたり、キリスト教の根幹を揺るがすような議論が巷でなされている。もちろん2000年の風雪に耐えてきたキリスト教がそんなことで揺らぐはずはないのだが、私たちが世界標準と考えていることの多くの事象に、欧米のキリスト教的世界観が大きな影響を与えていることを考えると興味をそそられる話題だ。
 そんな中で、4月28日からCS「ナショナル・ジオグラフィック」チャンネルで3夜連続放送された「シークレット・バイブル」は、初期キリスト教の知られざる情報(私が知らなかっただけかもしれないが)を満載し、興味深いレポートになっていた。
 世界最大の宗教キリスト教も、2000年前は当然のことながら新興宗教だった。イエスの死後、キリスト教生成期のローマ帝国の版図には、キリスト教に酷似した新興宗教が乱立し、しのぎを削っていた。中でも新約聖書に邪教として登場するシモン教は、当時、キリスト教以上の人気と勢力を持っていたそうだ。
 また、現在はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つしか認められていない福音書も、キリスト教成立当初は30余りあり、今回発見されたユダの福音書もその一つと考えられている。
 古代エジプトで生まれたという一神教の流れはユダヤ教、キリスト教、イスラム教と受け継がれてゆく。その間、それぞれの宗教はその出自を隠すためデフォルメされ、多くのミッシング・リンクが存在する。
 たとえばキリスト教の創始者であるイエス・キリストは当然のことながら元々はユダヤ人の家に生まれたユダヤ教徒だった。褐色の肌をしたセム系のユダヤ人であったイエス・キリストがいつから白人として描かれるようになったのか、そして、割礼の習慣のあるユダヤ教徒であったキリストの像が、いつから包茎になったのか。以前、劇作家の寺山修司氏が何かの本で書いていたが、たいへん興味深い。
 もちろんイエスの思想はユダヤ教の根幹を否定するもので、全く別の宗教になる萌芽はあったものの、初期キリスト教は多くの点でユダヤ教的世界観を共有していた。そしてキリスト教成立の過程は、このユダヤ教との決別に最大とまではいわないまでも、大きな力点が置かれていたようだ。「ユダの福音書」が正式な教典(新約聖書)からはずされたのもこのような経緯と関係があるようだ。
 この福音書では裏切り者ユダは、実はイエスの最大の理解者で、イエスは最も信頼しているユダに、あえて自分の居場所をローマ軍に密告するように命じ、捕らえられ、虐殺されることによって自分の思想を成就させたと伝えている。
 この記述は、正統教会から異端として退けられたグノーシス派の思想と酷似していることから、今回発見された福音書もグノーシス派のものと考え、ローマの法王庁はあまりまともに取り合っていない。また番組の中でも深入りはしていない。
 しかし、イエス・キリストがユダヤ教を熟知していたこと、布教の対象の多くがユダヤ教徒であったを考えると、イエスががユダヤ教の教典、旧約聖書の救世主観(迫害による死と再生)を自ら演じた可能性は高く、たまたま裏切り者が出たので殺されたというより、イエスが自分の人生を完結させるため、自らの意志でユダに裏切らせたと考えた方が自然であるような気がする。
 一時は正統教会以上の力があったグノーシス派も密教的要素が強かったため信徒の獲得で正統教会に先を越され、異端として歴史の闇に消えていった。
 ナショナル・ジオグラフィック「シークレット・バイブル」は、厚みのある取材で、一神教の雄・キリスト教が、成立当初、多様性を持った宗教だったことを垣間見させてくれた。



二つのフローレス島

2006-04-26 20:14:26 | 多様性

 杉田敦氏の著書「アソーレス、孤独の群島」を読んだ。
  北大西洋のほぼ中央にぽっかりと浮かぶポルトガル領アソーレス諸島。その名を初めて聞いたのは、不思議なことにアソーレスから見ると地球の裏側ともいえる、インドネシアの辺境でかつてのポルトガル植民地だったヌサトゥンガラ諸島を旅していた時だ。フローレス(ポルトガル語で「花」の意味)という島の安宿で隣り合わせたポルトガルの老人がこんな話を聞かせてくれた。
  「ここから見ると、地球の反対側にアソーレス諸島というところがあるんだ。そこにもフローレス(花)という名の島があって、面白いことに、そこも昔は有名な捕鯨の島だったんだ」
  巨大なマッコウクジラを銛で突く勇壮なクジラ漁に魅せられ、足繁くヌサトゥンガラに通っていた私にとって、以来、アソーレスの名は忘れえぬものになった。
 今回、「アソーレス、孤独の群島」を読んで、グローバリズムの辺境にあるこの二つの島の不思議な繋がりを思わずにいられなかった。
 アソーレスの名がスポットライトを浴びたのは、いまから3年前。ジョージ・ブッシュ、トニー・ブレア、ホセ・マリア・アスナール(スペイン首相)、この3人の指導者がアソーレス諸島にあるテルセイラ島に集まり、イラク戦争開戦の密約を交わしたときだ(幸か不幸か、イラク戦争に多大な経済的貢献をした日本の首相は蚊帳の外だった)。
  この会談の三日後、イラク戦争は始まった。美しい自然に恵まれた絶海の孤島に血塗られた歴史が刻まれたのだ。しかし、アソーレスがこうした不名誉な歴史の舞台になったのには布石があった。
 話は再びインドネシア、ヌサトゥンガラに戻る。18世紀から19世紀にかけて、オランダとの戦いに敗れ、香料や白檀など巨万の富を生み出すヌサトゥンガラ諸島の利権をほとんど失ったポルトガルが、最後の砦として死守したのがヌサトゥンガラの東端チモール島だった。ポルトガルはこの東チモールの利権を維持するための交換条件として、第二次大戦中、軍事的要衝であったアソーレス諸島を連合軍の基地として使うことを許可したのだ。
 以降、アソーレス諸島は今回のイラク開戦密約の舞台になったラージェス米軍基地を始め、いくつかの軍事施設を擁する基地の島となったという。それと引き換えに、ヌサトゥンガラの他の地域がインドネシアの一員としてオランダから独立した後も、東チモールは四半世紀に渡ってポルトガルの支配を受け、悲劇の独立戦争を招いたのだ。
 ヌサトゥンガラのレンバタ島では、いまでも生存捕鯨として世界で唯一、勇壮なマッコウクジラ漁が行われている。一方、ポルトガルは1982年、反捕鯨国に転じ、捕鯨基地として栄えたアソーレス諸島は長い捕鯨の歴史に終止符を打った。  


難民のお正月

2006-04-16 22:23:58 | 多様性
 以前、「難民センター閉鎖」のところでも書いたが、日本にはベトナム戦争の落とし子であるインドシナ難民(ベトナム、ラオス、カンボジア)が、1万人余り暮らしている。今日は、そのうちのカンボジア人とラオス人の新年のお祝いの日。 日本は明治5年以来、西暦(グレゴリオ歴)を使っているので、西暦の1月1日が正月にあたるが、世界にはさまざまな暦があり、正月の時期もまちまちだ。
 インドシナ3国のうちベトナムは中国同様、太陽太陰暦の立春が正月(テト)にあたるため、正月は2月前後になるが、ラオスやカンボジアなど仏教国は仏歴を用いていて、ちょうどこの時期が正月になる。ものの本によると、仏歴では太陽が白羊宮にはいった時が新年だそうで、カンボジアではサンカーン、ラオス語ではソンカーンと呼ばれている。この二つの国の人達の祭が神奈川県で別々に開かれ、おじゃましてきた。
 神奈川県は大和に難民定住促進センターがあったせいで全国で最もインドシナ難民が多い県だ。特にカンボジア難民の8割近く(日本で生まれた二世を含めると2000人近く)が、神奈川県内に住んでいる。そのため、正月の祭も盛況だ。すでに定住が始まって27年、暮らしも安定してきているせいか、お祝いも年々豪華になる。今年は本国から僧侶を招いた仏教儀式や古典舞踊、民族舞踊などもあり、500人近い人が狭い会場にやってきた。
 みんな幸せそうだが、実はここに来られる難民は勝ち組とまではいわないが、それなりに日本への適応がうまくいった人たち。多くの難民は生活苦や降りかかる難題に追われ、新年の祭など楽しむ状況にないのも事実だ。
  「私たちはポルポト時代のジェノサイドを体験しているので、日本の暮らしが多少きつくても我慢できるんです。でも若い人たちは大変でしょうね」
 会場で出会った日本生活24年目の難民が言った。
 また、母語教育の普及活動をしている別の難民は悲しそうな表情で話した。
 「私たちはすっかり日本人になったつもりだけど、日本の人はいつまでたっても日本人とは認めてくれない。だから我々は自分の子供たちにカンボジア人としてのアイデンティティをしっかり教えなければならないのです」

 昼食は手作りのカンボジア料理。だが、量が少ない上、料理目当てにその時間にだけやってくる人がいたりするので、瞬く間に皿は空になってしまい、写真を撮っていた私は会費を払ったのに食べられずじまい。
 でも、日本に過剰適応しようとして心の病に陥る外国人をたくさん見てきた私は、それもカンボジアらしくていいのかも、と妙に納得したりして。 

難民センター閉鎖

2006-03-30 22:31:21 | 多様性

 第二の開国と言われたインドシナ難民の受け入れ開始から27年が過ぎた。この日、東京・品川にある日本最後のインドシナ難民の支援窓口だった「国際救援センター」が、23年の歴史にひっそりと幕を下ろした。メディア関係者は一人もおらず、あたかも植物状態におかれていた難民行政から延命装置をはずような寂しい最後だった。
 今から8年前、日本の難民支援機関として最も重要な役割を果たしてきた神奈川県の「大和定住促進センター」の閉鎖にも立ち会った私にとって、感慨深いものだった。
 インドシナ難民とはご承知のように、ベトナム戦争によって生じたベトナム、ラオス、カンボジアの難民のことである。全世界でおよそ200万人、日本には現在1万人余りが暮らしている。日本にいくつかつくられたセンターは、こうした難民たちが日本に適応できるよう、日本語教育や日本の習慣を教えたり、住宅探しや職業斡旋などを行ってきた(最近では難民の家族の受け入れやインドシナ難民以外の条約難民のケアもしていた)。
  国際社会の圧力で渋々インドシナ難民を受け入れることになった日本の難民行政は、国内法の整備が後手に回ったこともあって、決してほめられたものではなかった。難民センターの活動自体も決して充分とはいえなかった.。それでも、現場で難民のために必死に働く難民相談員たちの姿を見てきた私には、やはりセンター閉鎖は残念でならない。
 日本も国際化が進んだとはいえ、難民に対する差別や偏見はまだまだ根強い。不当解雇などの差別があった時、外務省や厚生労働省の後ろ盾のある唯一の機関である「国際救援センター」の力は決して小さくないからだ。
  こうした現実もさることながら、それ以上に懸念されるのは、センター閉鎖によって、スタッフたちが長年、試行錯誤を繰り返し蓄えてきた外国人受け入れのノウハウが、次の時代に受け継がれていかなくことだと思っている。
 少子化によるで労働力不足から外国人労働者受け入れが緊急課題になり、そのからみで政府は近頃、多文化共生をスローガンに掲げるようになってきた。(私は、多文化共生は自国の目先の利益のためではなく、アプリオリに必要な政策だと考えない限り、外国人暴動が吹き荒れるヨーロッパの二の舞になると思っているが)。こうした政策を実行する際、インドシナ難民に対する事業が培ってきたノウハウは、きわめて重要なものになると思っている。
 今後は、難民センターは新宿の高田馬場に拠点を移し、条約難民(インドシナ難民は特例として受け入れたので、その大半は条約難民と区別されている)を対象に小規模な事務所を開設するとのことだ。しかし、日本は難民をほとんど受け入れない国なので、対象になる条約難民は、現在18人ほどだという。
 日本政府の真意ははかりかねるが、弱者切り捨ての政策がここでも進行している。


リトル・サンパウロ

2006-03-16 04:01:54 | 多様性

 日系ブラジル人の取材のため静岡県の浜松市に行った。
 浜松市のブラジル人人口はおよそ1万8千人。日本で最大のブラジル人コミュニティを抱える自治体だ。その大半は出稼ぎの日系ブラジル人とその家族だ。
 バブルの残像が残っていた1990年代、会社の寮に住み込み、昼夜を問わず働き続ければ、月に50万近くの貯金ができ、夫婦で来日すれば、三年ほどで一財産をつくることができたという。しかしバブル崩壊後、残業は減り、またブラジル本国の物価も上昇しているので、当初の目標額を貯蓄するのは至難の業。その間に子供が生まれ生活費もかさみ、という悪循環で日本滞在が長期化するようになった。いまや滞在5年、10年の滞在は当たり前で、永住権をとったり帰化したりする人も少なくない。
 滞在の長期化を支えているのはブラジル人コミュニティの存在だ。ブラジル人の多い浜松市などは、ブラジル料理レストランはもとよりブラジルの食材や生活用品を売るマーケット、ポルトガル語の各種メディア、ブラジル文部省公認の学校も多数あり、その気になれば職場はともかく、日常生活では日本人と全く接触せずに暮らせる「平行社会」がすでに存在している。
 姿形は日本人と瓜二つの日系人(民族的には日本人なのだから当然のことだが)だが、開放的で、正反対とも言えるブラジル文化の中で育った彼らと日本人の間には少なからず文化摩擦も存在する。この文化摩擦をどう乗り越えるか、そのモデルが県営・中田島団地にあった。
 中田島団地は凧祭で有名な中田島砂丘に沿ってある。総世帯数千数百のうち、ブラジル人を中心に外国人世帯が200を超える全国でも有数の巨大共住団地だ。この団地には外国人の自治会員がいる。日系ブラジル人の中村カツミさんはそのリーダーだ。今回の旅ではたくさんの魅力的な日系人に会うことができたが、今年還暦を迎える中村さんもその一人だ。
 中村さんの仕事は、新しくやってきた外国人に団地のルールを伝えたり、トラブルを解決したり、自治会の決定事項をポルトガル語に翻訳したり、ブラジル人と日本人相互のコミュニケーションをはかったりと多忙だ。すべて忙しい会社勤務の合間を縫って、ボランティアで行っている。
 もちろんトラブル解決にも一役買っている。団地で顕著なのは騒音トラブルだ。日頃働きづめのブラジル人にとって、休日の仲間との語らいは掛け替えのない息抜きだ。だが、日本にはそういうスペースがなく、住宅の壁も薄いため、騒音トラブルに発展する。
 中村さんは言う。「確かにルールを守らない外国人もいる。文化の違いもある。しかし、大半の外国人は後ろ指を指されないよう日本人以上に対人関係には注意を払っている」 定例の草毟りに出席しないブラジル人家族を訪ねると、行事に参加しない理由は、顔を合わせるたびにブラジル人の悪口を言う住民と顔を合わせたくなかったからだったこともあった。また、ゴミの不始末は必ず外国人に嫌疑がかかるが、中身を調べてみると観光客が捨てていったゴミだったなどということもしばしばだという。
 労働力不足を補うため、付け焼き刃的に日系人に門戸を開いたものの、彼らが快適に日本で暮らせるような基盤づくりは、まだまだ追いついていないのが現状だ。ブラジル人たちは、治安も悪く、仕事もない本国に比べ、日本は暮らしやすいと口をそろえて言う。しかし一方で、学校でのいじめをはじめ、日本社会の壁は厚く、日本を心から好きにはなれない日系人は少なくない。こうした中で、日本の中に日本社会とほとんど関わりを持たない「リトル・サンパウロ」が形作られてゆくことに危うさを感じるのは私だけだろうか。


「百人斬り」事件

2006-03-12 07:46:07 | 多様性

 講師をしている専門学校の学生が「百人斬り事件」を卒業ドキュメンタリー制作のテーマに選んだので、しばし、この問題と向き合うことになった。
 事件は1937年、日本軍が上海から中国の首都・南京に進攻する間に起こった。二人の少尉がどちらが先に中国人の首を100人斬り落とせるかを競争したのだ。競争は東京日日新聞が4回にわたって報じ、二人の少尉は国民的な英雄になったが、戦後、この記事が元で南京軍事法廷で銃殺された。
 この事件は、本多勝一氏と深沢七郎氏の論争など、事実であったのか、あるいは戦意高揚のプロパガンダに過ぎなかったのか、長い間論争が行われてきた曰く付きの事件だ。現在も遺族が無罪を主張し、東京高等裁判所で争っている。
 取材を通して得た感触では、新聞記事どおりのことが行われた可能性は低い気がする。しかし同時に、将校が日本刀で無抵抗な中国人の首を切ることが日常化していた中国戦線で、新聞紙上で国民に向かって百人斬りを宣言した二人の将校が、数はともかく、全く首斬りを行っていないとは、やはり考えづらいというものだった。
 学生の希望で、今回は遺族に寄り添って取材した。そこで今更ながら、戦争犯罪を裁くことの難しさを感じた。仮に二人の少尉が首斬りを行っていたとしても、同じようなことをした兵士は相当数いたに違いない。それは、一部の兵士たちの証言で明らかになっている。ところが、虐殺した数を巡ってもめている南京大虐殺も含め、南京軍事法廷で戦犯として死刑を宣告されたのは「百人斬り事件」に絡む2人の将校を含めたった5人だけだった。多くの元兵隊たちは二人の少尉をスケープゴートにし、自分たちの罪を逃れたのだ。また、蛇足かもしれないが、最も非人道的な戦争犯罪と考えられる細菌戦を指揮した七百三十一部隊は、細菌戦のデータがほしい米国側の都合でお咎めはなかった。もちろん、戦勝国側の兵士たちも戦争犯罪も問われることはなかった。軍事法廷に対する遺族の不公平感は察してあまりある。
 しかも、さらに驚いたことに、戦後、遺族たちが戦犯の子供として差別や迫害を受けてきたことだ。つい先日まで、戦犯になった二人を英雄としてもてはやしたのは、同じ日本国民ではなかったのか? 二人の少尉に罪があるのなら、それを支持した日本国民も同罪ではなかったか? そこに日本人の心に棲む深い闇を感じた。


地球のステージ

2006-03-03 04:16:08 | 多様性


 以前から気になっていた「地球のステージ」を世田谷の中学校で見た。
 「地球のステージ」は、世界の紛争地や被災地を股にかけ、医療ボランティアを続けている精神科医・桑山紀彦氏が、自ら撮影した被災地や紛争地の映像と音楽を合体させ、地球や人間のすばらしさを伝えるライブ・イベントだ。自ら撮影した映像に曲を付け、演奏し、唄い、かつ語るという桑山氏のワンマン・ステージである。
 撮影、歌、演奏、語り、どれもプロではない桑山氏だが、2時間にわたって淀みなく提示される映像と音楽のコラボレーションは、ちょっとびっくりするぐらい感動的だった。語るべきものを持ち、それを自分の言葉(方法)で伝えられれば、人の心を動かせるということを改めて教わったような気がした。どのくらい凄いステージかは、十年足らずのうちに、全国の学校などで千回を超える公演を行ってきたという実績をみればわかるかもしれない。 
 実は、桑山医師とは今から15年ほど前、カンボジアで取材させて頂いている。当時カンボジアには精神科医がたった1人しかいなかった。ポルポト政権時代のホロコーストで知識人が皆殺しにされてしまったからだ。桑山氏は、たったひとり生き残ったカンボジア人精神科医をバックアップしながら、ホロコーストによって大量に生み出されたPTSD(外傷後ストレス障害)患者の調査をされていた。日本でPTSDという言葉がまだ市民権を持っていなかった時代のことだ。
 そのとき、「なぜカンボジアに来たのですか」と桑山氏に尋ねたら、「学生時代、キリング・フィールドという映画を見て、カンボジアの人たちを助けたいと思った」と答えられたのを記憶している。この映画は欧米人が高所からアジアを見下しているような気がして、私はあまり感動できなかった。ただ、その話を聞いたとき、映画ってすごい力があるんだな、と思った記憶がある。
  人を動かすという意味では、桑山氏の「地球のステージ」は、映画「キリング・フィールド」をはるかに超えていると思う。難民キャンプ、ホロコーストの現場、あるいは被災地を巡りながら、桑山氏は彼らを決して高所から眺めることはなく、また、可哀想な人たちを助けなければ、という感傷もない。いつも同じ高さの目線に立って、ひとりひとりの人間の喜びや悲しみを見つめている。被災地で打ちのめされている人々がカメラの前で底抜けに明るい笑顔を見せてくれるのも、桑山氏に対する信頼があるからこそだろう。
 安定した生活を目指して医者を目指した学生時代。自分勝手な旅を繰り返していたバックパッカー時代。異文化への無理解。桑山氏はどこにでもいる普通の日本の若者だった頃を包み隠さず語ることで、観客を桑山ワールドへと引き込んでゆく。そして、彼を変えた地球の豊かさ、人の優しさを自らが体験したエピソードと共に語ってゆく。
 例えばこんなエピソード。紛争地ソマリアの病院で働いていたとき、ド派手な服を着た母親が子供をつれてやってきた。「敵の標的になるのに、なぜそんな目立つ服を着るのですか?」と桑山氏が尋ねたところ、「戦争で子供の心がすさんでゆきます。せめて私といるときぐらい、子供を明るい気持ちにさせてあげたいんです」と答える母親。危険を顧みず、子供を思う母の話が映像とともに紹介される。そのとき、日本人からは、貧しく、争いごとばかりいる印象しかないソマリアの人々が、実はとても豊かな感受性の持ち主であることに気づかされる。
 そう、私たちが頭の中で考えているより、地球ははるかに豊かなのだ。

「地球のステージ」ホームページ


韓国のスクリーンクォーター制

2006-02-12 20:46:57 | 多様性

 韓国映画界が揺れている。韓国では数年前から、劇場に自国の映画を一定日数以上上映することを義務づける、いわゆるスクリーンクォーター制を取り入れ、自国の映画産業を育ててきた。スクリーンクォーター制という呼び名は日本では余り馴染みがないが、世界11カ国で、自国の映画を守るために同様の制度を取り入れている。
 それに対してアメリカは韓米自由貿易協定(FTA)交渉開始の前提条件としてスクリーンクォーターの廃止、もしくは削減を要求してきた。産業基盤の多くが貿易に頼っている韓国政府はこの要求を拒みきれず、自国映画の上映日数の規約を、年間146日(年間上映日数の40%) 以上から、半分の年間73日以上に縮小することでアメリカと合意した。
 この件について、日本の論調を見る限り、すでに十分力をつけた韓国映画をいまさら国が保護する必要はないのでは、という意見がやや優勢のようだ。しかしこの問題は、自由貿易の原則と自国の文化保護という基本的な問題に関わることなので、もう少し考えてみたい。
 映画はアメリカにとって重要な産業のひとつである。同時に、戦後アメリカが日本で行ったように、映画は自国のライフスタイルや考え方、文化などを他国に植え付けるための重要なアイテムのひとつとして考えている。そのためアメリカは昔から映画産業を優遇し、結果、人材が育ち、優れた映画が数多く作られ、それがさらにアメリカ映画の活力を生むという循環を生み出し、ハリウッドは世界に類を見ない巨大映画産業の基地となった。その結果、(インド映画などが優勢な地域も一部あるが)世界の多くの国はハリウッド映画に席巻され、世界の観客の65パーセントがアメリカ映画を見ているという状況になっている。自由貿易といえば聞こえは良いが、現実には宣伝費用も含め圧倒的な資本力と市場戦略を持つハリウッドに、資金力がない途上国の映画産業が対等に戦うのは事実上不可能で、抹殺に近い形で押しつぶされているのが実情である。
 こうした状況に対しフランスは、映画は単なる商品ではなく文化であり、どの国も自国の文化を守り育成する権利があるとして、WTOの前身であるウルグアイ・ラウンド(1993年)で映画を自由貿易品目に入れようとするアメリカと激しく対立した。その後、欧州各国や途上国も同調し、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は昨年10月、「文化の多様性を保護・促進する条約」を圧倒的多数(賛成148、反対2、棄権4)で採択した。ちなみに反対したのはアメリカとイスラエルだけだった。また、子分だと思っていた日本が賛成に回ったことに対し、アメリカは激怒したと伝え聞いている。
 韓国のスクリーンクォーター制もこの条約の中で認められた権利のひとつで、アメリカは重要な市場である韓国に対し、事実上、実力行使で潰したという印象である。 もちろん、いきすぎた保護主義は逆に文化の活性化をそぐことに繋がるし、韓国の観客の中にも、もっとハリウッド多くの映画を見たい人たちも少なからずいるのも事実で、市場原理はある程度尊重されるべきだと思う。
 ただ、質の良くないハリウッド映画が巨大な宣伝費をかけて多くの観客を集めている日本の現状に、大いに不満を感じている私としては、ユネスコの条約が世界の圧倒的多数の国に支持されたことは朗報である。できれば日本も、途上国も含め、今以上に世界の多様な文化が享受できる国になってほしいと切に願っている。世界は多様で、面白いものがまだまだたくさんあるのだから。

 朝鮮日報で奮闘する韓流スターたちの姿が見られます。

文化の多様性に関するユネスコの世界宣言


ムハンマドの戯画と「表現の自由」

2006-02-10 06:24:06 | 多様性
 テレビから突然、怒り狂うイスラム教徒の映像が流れてきた。イスラム教最大の預言者ムハンマドを汚されたことに対する民衆の怒りだった。
 私はイスラム教はもとより、宗教とは縁遠い人間なので、この戯画に対するイスラム教徒たちの本当の気持ちは理解できていない。もちろん、暴力はいけないことだとも思う。しかし、その姿を描くことさえ許されない聖者ムハンマドの頭に、原爆のターバンを巻きつけた戯画に底知れぬ悪意を感じたのは、私だけだろうか。
 この悪意に満ちた表現が、デンマークの右翼系新聞社の個的な仕業だと思っていたら、なんとデンマーク政府までもが「表現の自由」の問題だといって擁護したのだ。デンマークと言えばヨーロッパの中でも弱者に優しく、とりわけ人権を大切にする国だという認識があったし、今もその認識はかわらない。そのデンマークをしてこの暴挙を「表現の自由」と言わしめたのだ。もし、デンマーク領事館を焼き払う暴徒たちが「これは俺たちの怒りの表現なのだ」と言ったら、それも「表現の自由」として許容するのだろうか?
 もちろん、表現の自由は大切だと思う。できるならタブーはなくした方がいい。強硬に核兵器を持とうとしているイランを非難したい気持ちもわかる。スペイン列車爆破を初めとする一連のテロ事件などで、日本よりはるかにイスラム過激派と身近に接しているヨーロッパの人たちのいらだちも理解できる。それでも、イスラム教そのものを否定するような戯画を「表現の自由」と呼ぶことには賛同できない。作者がどこまで意識していたかはわからないが、この戯画から読み取れるのは、相手の存在(イスラム教)そのものを否定しようとする強い意志である。
 冷静に考えてほしい。テロリストが生まれるのは、イスラム教やイスラム社会のせいだけなのだろうか? 彼らを孤立させ、富を搾取するわれわれに責任はないのか?
 イスラム国家に敵対的で、世界最大の核保有国アメリカの脅威に対し、ささやかな核兵器で身を守ろうとするイランを、核を持とうとしているその行為だけで悪者呼ばわりできるのだろうか?
 ところかまわず独善的な正義を振りかざし、気に入らないヤツは叩きつぶすというアメリカ流が蔓延し、このところ世界が殺伐としてきている。イランは戯画の報復として、ユダヤ人のホロコースト戯画コンテストを実施するそうだ。
 この事件を契機に、小さな地球で多様な考えを持った人たちが共存してゆくために何が必要か? 真剣に考え直すことを切に願う。