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Here and There

移ろいゆく日々と激動する世界

送還日記

2006-04-07 09:48:31 | 映画

 韓国のドキュメンタリー映画「送還日記」(2003年 監督キム・ドンウォン)は 人間を徹底的に見つめるとそこにひとつの真実が見えてくるというドキュメンタリーの原点を教えてくれる傑作だ。
 キム監督が見つめたのは、韓国に捕らえられた北朝鮮の工作員たちである。工作員のうちある者は厳しい拷問に耐えきれず転向し、ある者は獄死し、ある者は非転向を貫いた。2000年9月、南北融和政策の中、非転向長期囚が北朝鮮に送還されるまで、実に12年の長きにわたって彼らを追い続けた。
 送還された63人の拘留期間は総計すると実に2045年。その間、彼らは一坪にも満たない狭い独房の中で拷問に耐えながら、30年を越える歳月を送った。転向した負い目をひきづりながら韓国の住民としてひっそりと生きる者、非転向を貫き誇らしげに祖国北朝鮮に帰って行く老人たち。制作者との信頼関係の中、映し出される彼らの素顔はどこにでもいるごく普通の老人たちだ。頑固だが優しい彼らの姿を見ていると、東アジアの現代史の不幸を個人の肩に背負わせようとする政治の歪みばかりが浮き彫りになる。
 私はドキュメンタリーの役割として、この「普通の人たちだ」と知らせることは、とても重要なことだと思っている。マスメディアはともすると、事件の当事者や組織を特別なもの、ときにはグロテスクなものとして描きたがる。その方が読者や視聴者を引きつけるからだ。そのためときにはいびつなモンスターのような像ができあがる。
 内容についてはオフィシャルサイトに詳しいので、例によって、そちらに任せるとして、ここではもう少しこの問題を考えたいと思う。
 送還されるこの63人の中には拉致事件の実行犯の一人で日本政府から国際指名手配している辛光洙(シン・ガンス)氏もいる。現在、日本で悪の象徴のようになっている人物だ。もちろん、犯罪者はきちんと罰しなければいけない(その点、拉致事件に気づいていながら指をこまねいていて、今頃になって国際指名手配をする日本政府は間抜けだが)。しかし、責任の所在がまるで姉歯氏一人にあるように報じ自殺者まで出したマンション耐震強度偽装事件のように、国家による組織犯罪である拉致事件を、あたかも辛光洙の個人犯罪のように伝える報道のあり方に違和感を感じるのは私だけだろうか。
 そもそも拉致問題が一向に進展しないのは、日本、北朝鮮両政府に人権の視点が欠如しているからだと思えるからだ。工作員を長期拘束した韓国政府もそうだが、30万人に及ぶ強制連行に対する心からの反省や謝罪ができない日本政府が、北朝鮮による拉致事件を糾弾できるはずがない。それゆえ、拉致問題は単なる政治的駆け引きの道具にされてしまっている。辛光洙を必要以上に悪党に見せるのには、こうした現実に目隠しするためではないかと勘ぐりたくなるほどだ。
 この作品の中にも拉致被害者の家族が、事件の決着を見ないまま工作員を北朝鮮に帰還させることに抗議する姿が出てくる。拉致は卑劣だし、被害家族が工作員を恨む気持ちはもっともだと思う。しかし、私たちはこうした事件の背後に国家同士の対立があり、さらにその対立を作り出した歴史というものに思いをはせなければならない。
 キム監督が12年の歳月を費やし愛情を込めて描いた、どこに出もいる普通の老人である工作員たちの素顔は、私たちに事件の背後に、国家というとてつもなく巨大な闇が潜んでいることに気づくきっかけを与えてくれる。
 非転向を貫き、北朝鮮に英雄として迎えられた誇り高き工作員たち。映画はここで終わる。しかし、彼らの40年間守り続けた理想は、現実の北朝鮮という国家とはほど遠いことは今では誰でも知っている。40年ぶりの祖国で彼らは何を見るのか? 二幕目は誰も知らない。      
 

公式サイト
http://www.cine.co.jp/soukan/

 


映画・日本国憲法

2006-02-27 18:08:00 | 映画

 日本映画監督協会会員のアメリカ人映画監督、ジャン・ユンカーマン氏の作品「日本国憲法」を見る。この映画が問題にしているのは第9条、つまり平和憲法についてである。恣意的なナレーションなしに、映画は日、韓、米、中、中東各国の識者に対するインタビューで構成されている。
 日本国憲法ができるまでの日本政府とGHQの綱引きの話。「第9条こそがアジア諸国に対する謝罪の証である」とするアメリカの政治学者チャルマーズ・ジョンソン氏の話。「憲法改正は国内問題ではなく、国際問題である」などなど、日本の平和憲法の意義を、様々な視点から考察できて興味深い。特に、氏がアメリカ人であるせいか、日本の平和憲法を心地よい距離感をもって、しかも真っ直ぐに見つめている点が新鮮だ。
 細かい内容については映画(DVD)を見るか、インタビュー集「映画・日本国憲法読本」を読んで頂くとして、現在、着々と進んでいる憲法改正(改悪)について、考えてみたい。
 これまで日本は、アメリカの都合でしばしば時代遅れになったものを押しつけられてきた。原子力発電所などはその最たるものだと思うが、憲法改悪もそのひとつだと思う。ヨーロッパは二度と戦争を起こさないようにとEU憲法を作った。こうした世界の平和への動きと逆行し、日本は60年守ってきた平和憲法をいま放棄しようとしている。今回の憲法改悪議論の裏には、いまや最大の仮想敵国になった中国との防衛ラインを日本に担わせ、金食い虫である軍事費を軽減させようとするアメリカの世界戦略が見え隠れする。
 もちろん憲法9条を変えるには、衆参両院の3分の2以上の賛成と、国民の過半数の賛成が必要である。そのハードルは決して低くない。ただし、現時点で野党第一党の民主党が政権与党と政策的に大きな違いがない第2与党であることを考えれば、国会で3分の2以上の賛成という第一関門はすでにクリアしたも同然で、焦点は、国民の過半数の支持をどう得るかに移っている。これについても、論理的思考ができない日本国民の体質を利用して、すでにいくつかの布石が打たれているように思える。
 まず第一に、日本国憲法は占領統治したアメリカのGHQによって、しかも僅か10日間で大部分が作られた、というプロパガンダである。要は、いまの憲法は外国人がかなり適当に作ったものだから、そんなにありがたがるものではないというイメージ戦略だ。事実としては大筋間違っていない。しかし、憲法の価値は、誰がどんな風に作ったかでなく、その質で決まる。ときの権力が作った憲法はある歪みを持つことが多い。実際、日本国憲法にしても、当初アメリカは日本政府に作成を任せようとした。しかし日本政府は、天皇に大きな権力を持たせることを譲らなかったため介入した。
 GHQにはしがらみが少なかった。その結果、民主国家の骨組みとしては稀に見る理想的な憲法を作りえたという気がする。しいて、当時のアメリカの利害を反映している部分を挙げれば、日本の統治をやりやすくするため、諸外国の反対を押し切って、天皇制を維持したことぐらいかもしれない。
 もう一つのプロパガンダは、先進国では憲法改正がはしばしば行われていて、時代の要請で憲法を変えることは特別なことではない、というものだ。実際、今の日本国憲法には、「環境権」や「プライバシー権」など、すでに時代にそぐわない部分もいくつかある。政府は、それらとワンセットで憲法改正議論を行おうとしているのだ。
 しかし、「環境権」、「プライバシー権」、「第九条」はそれぞれ個別に切り離して民意を問わねばならない問題である。「郵政を民営化しない奴は守旧派だ」というおおざっぱな理屈で選挙を戦った自民党が圧勝した先の衆議院選のようなことになったら、取り返しのつかないことになる。大切なのは、平和憲法をどうするかだ。
 さらに平和に慣れてしまっている日本国民を、再度、戦争に駆り立てられるよう、国旗掲揚や愛国心教育など、教育現場に手を加え始めていることだ。(この問題については長くなるので、また別の機会に書くことにする)
 いま危機に直面している日本の平和憲法。映画「日本国憲法」は、その意味について思考を巡らすきっかけを与えてくれる作品である。

映画「日本国憲法」(DVD)

映画日本国憲法読本


ゆきゆきて神軍   ~あの戦争の真実~

2006-02-22 01:22:55 | 映画

 昨年は戦後60年ということもあり、「亡国のイージス」「男たちの大和」など、戦争をテーマにした大型映画がいつくか作られた。「男たちの大和」は出来の良い映画だと思ったが、同時に違和感も覚えた。死と向き合う登場人物たちが堂々としすぎていて、戦争の悲しみは伝わってきても、戦争の醜さはいまひとつ伝わってこない。見終わった後、戦争を厭う気持ちと同時にある種の高揚感が心に残るのだ。戦争を描く場合、作者側に少しでも反戦の気持ちがあるのなら、兵士の内面に入り、戦争の醜さを伝えることが不可避であるという気がする。そんなわけで、久しぶりに「ゆきゆきて神軍」(原一男監督)を見てみたいと思った。
 日本映画の歴史に残るドキュメンタリー作品「ゆきゆきて神軍」が作られたのは、今から19年前。新橋駅前の地下の小さな試写室で、右翼の襲撃があるかもしれないという緊迫した中で見たのを覚えている。この映画は、第二次大戦中、ニューギニア戦線で起こった兵隊の不審死を通して、当時の皇軍(日本軍)で恒常的に行われていたという、飢えを凌ぐため、仲間の兵隊を殺してその肉を食うという狂気を追求するドキュメンタリーである。
 主人公の奥崎謙三氏はニューギニアに派遣された独立第三十六連隊千名のうちのたった6人の生き残りの1人。関西でバッテリー販売業を営むおっさんだが、昭和44年1月2日、皇居の参賀客に混じって、バルコニーに立つ昭和天皇めがけ「ヤマザキ、天皇を撃て!」と奇声を発して数発のパチンコ玉を撃ったツワモノである。戦後初めて、天皇の戦争責任に言及した男として知られている。
 事件に対する奥崎の追求は妥協を許さない。元上官の家に文字どおり土足で上がり込み、恫喝し、気に入らない態度をとろうものなら、病人であろうと平気で殴る蹴る。まさに狂気を持って狂気を制するといったスタイルで、少しづつ事件の核心に迫ってゆく。奥崎の常套句は、「警察を呼びたいのなら俺が呼んでやる。俺は殴った殴られたというちゃちな暴力の話をしているんじゃない。あんたが人殺しをして、その肉を喰ったという件について真剣に話しに来ているんだ」と恫喝する。通報で現場に駆けつけた警察官も奥崎氏の毒気に当てられて、すっかり聞き役に回ってしまう。
 かなり独善的で論理に飛躍もある奥崎氏だが、有無を言わさず死地に送り込まれ、辛酸をなめさせられたことに対する怒りは真っ直ぐに伝わってくる。奥崎氏の怒りは部下を犬死にさせて責任を取らない上官に、さらにその先の最高責任者である昭和天皇へと向けられる。
 作品後半にある、「一人が話をすると、みんなに迷惑がかかる。だから言いたくなかったんだ」という前置きで始まる元軍曹の告白は衝撃的だ。
 「殺らなければ、次は自分が殺されて喰われる番になる。とにかく孤立しないようにした。仲間がいなくなったら、俺が喰われるからだ」
 昨日の友は今日の肉。戦争の大儀などどこへやら、極限状態で、食料が底をつき、生き延びるために仲間の兵隊を殺して食いつないできた皇軍兵士の生々しい戦争の真実。飢えに対する恐怖、仲間に喰われてしまう恐怖の中で、人間はどこまでも獣に近づいてゆく。戦後、葬られ続けてきた戦争の闇に光が当たる。
 奥崎氏の強烈な個性も手伝い、上映時間の2時間は息をもつかせぬ緊迫感の中、瞬く間に過ぎてゆく。口当たりの良い戦争映画が多い中、この映画は思い切りへこませてくれる。しかし、原監督が伝えようとした戦争の真実は、当時のことを知る人が少なくなる中、今後、さらに重要性を帯びてゆくに違いない。
 前科5犯、四半世紀を獄中で過ごした奥崎謙三氏は、昨年85歳でこの世を去った。ものわかりの良い、小利口で要領のいい奴が幅をきかせている日本で、貴重な気狂いがまたひとり消えた。

 

ゆきゆきて、神軍

ジェネオン エンタテインメント

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ホテル・ルワンダ  ~沈黙する国際社会~

2006-02-17 07:31:31 | 映画

 中央アフリカ、ルワンダで1994年に起こったホロコースト、多数民族のフツ人が少数民族のツチ人をたった100日の間に80万人も虐殺した事件(これは広島、長崎の原爆投下にに次ぐ、史上に残る、効率のよい大量虐殺と言われている)が題材だ。
 この事件についてはNHK(ドキュメンタリー・ジャパン)制作の「なぜ隣人を殺したのか」という、大虐殺を扇動したメディア(この場合は国営ラジオだが)を軸に、加害者であるフツ人の側から事件を見つめた質の高いドキュメンタリーがある。 映画「ホテル・ルワンダ」は、1200人の命を虐殺から守った4つ星ホテルの支配人(フツ人)が主人公の劇映画だ。しかし実話に基づいているため、ディテールがうまく描かれていて、ドキュメンタリーのような臨場感のある質のよいドラマに仕上がっている。

 

 アフリカの民族抗争と聞くと「またか」といった感じで軽視されがちだが、その背景にはヨーロッパが植民地支配の方法として、民族を反目させる政策を行ったことが、大きく影を落としていることを忘れてはならない。 映画の内容については、「ホテル・ルワンダ」のサイトなどで詳しく紹介してあるので、ここでは、この映画を通して見えてくるものに触れてみたい。

 石油利権のためには正義と民主主義を掲げ先制攻撃まで仕掛けるアメリカだが、ソマリアでの失敗以来、利権がない紛争には介入しないのが原則だ。アメリカが主導権を握る国際連合もそれに追従している。世界はルワンダでホロコーストが行われているのを知りながら、結局、見殺しにした。映画ではこうした国際社会の冷酷な現実をも見事に描き出している。
 命懸けで虐殺現場を撮影してきたヨーロッパのテレビクルーに向かって主人公が礼を言う場面がある。 「ありがとう。これを見たら、世界は黙っていない。きっと我々のためにアクションを起こしてくれる」
 それに対してカメラマンは冷ややかに答える。「何をいっているんだ。テレビを見た人間は『怖いわねえ』と言うだけさ。それからまた、食事を続ける」
 「HERE and THERE(こことそこ)」の現実がここにもある。自分と関係ない奴らがどうなろうと、みんな知ったこっちゃないのだ。 
 そしてもう一つ。この稀に見る傑作映画が、情けないことに、日本での上映が危ぶまれたことだ。いくらアメリカや国連をコケにしているからといっても、政治的な理由からではない。採算が採れそうもないので、配給会社が決まらなかったのだ。結局,NGOの署名活動が実り、単館上映から始まったのだ。残念ながら、それが現在の日本の文化水準の反映であることを、ここに付け加えておきたい。

  映画「ホテル・ルワンダ」の公式ページ
       http://www.hotelrwanda.jp/index.html   

  「ホテル・ルワンダ」日本公開を支援する会
       http://rwanda.hp.infoseek.co.jp/


アルナの子供たち ~命より重いもの~

2006-02-13 21:35:57 | 映画
 テロリストと聞いて、どんなイメージを思い浮かべるのだろう。恐ろしい人殺し。あるいは戦争中の日本の特攻隊を思い浮かべ、洗脳教育を受けた狂信者と決めつける人もいる。だが、イスラエルの映画監督映画ジュリアーノ・メール氏のドキュメンタリー映画「アルナの子供たち」を見ると、少し見方がかわるかもしれない。
 イスラエルの平和活動家、若い頃女優をしていたアルナ・メール(監督ジュリアーノ氏の母)は、パレスチナで生きる希望を失い欠けている難民キャンプの子供たちに演劇を通して活力を与えようと、末期ガンをおして芸術学校を立ち上げる。主人公はアルナとこの芸術学校に通うパレスチナの子供たちだ。実は、彼らの多くは今はこの世にいない。ある者はイスラエル軍の戦車に銃を向け、ある者は自爆テロという形で命を落としていったからだ。
 いまではすっかり悪の代名詞のようになった「テロリスト」。映画では、よく笑い、仲間と明るく語り合う、どこにでもいる普通の子供たちが、パレスチナの置かれた厳しい状況の中で、絶望し、怒りに燃え、反社会的な「テロ」(パレスチナ人から見れば抵抗運動だが)という道を選択してゆく心の経緯が、わかりやすく描かれている。
 興味深かったのは、上映後に行われた監督を交えてのシンポジウムだった。彼女が育てた生徒の多くは、抵抗運動で命を落としている。それに対して参加者から、アルナが育てた若者の多くが武器を取って死んでしまったのは、彼女の教育方針に誤りがあったからではなかったか、という意見が出されたときだ。
 この作品から垣間見る限り、アルナのメッセージと若者たちが身を投じた抵抗運動は無関係ではないと思う。しかし、それが間違いだったかと言えば、答えはノーだと思う。戦後,日本の教育は、「人の命は地球より重い」、「命より大切なものはない」と伝え続けてきた。もちろん命は大切だ。
 しかし、本当に命よりも大切なものなどないのだろうか? 
 ときに人は、命をかけても守らなければならないものがあるのではないか?  自由や人間の尊厳はそうしたもののひとつだと思う。アルナは、そんなメッセージを身をもって伝えていたのかもしれない。
 健康食品ブームに沸き、少しでも長く生きながらえることだけが価値と考えがちな老人大国、日本。そういう人には、自爆テロが宗教的狂信者の仕業だとしか思えないのかもしれない。しかし少なくとも、命を賭けても守らなければいけないものがあると思っている人たちが世界にいることは、知ってほしい。
 日本人の生活の場からは、地理的にも心理的にも、果てしなく遠いパレスチナ。この映画が少しでも両者の距離が近づけてくれれば、と思う。