Here and There

移ろいゆく日々と激動する世界

難民センター閉鎖

2006-03-30 22:31:21 | 多様性

 第二の開国と言われたインドシナ難民の受け入れ開始から27年が過ぎた。この日、東京・品川にある日本最後のインドシナ難民の支援窓口だった「国際救援センター」が、23年の歴史にひっそりと幕を下ろした。メディア関係者は一人もおらず、あたかも植物状態におかれていた難民行政から延命装置をはずような寂しい最後だった。
 今から8年前、日本の難民支援機関として最も重要な役割を果たしてきた神奈川県の「大和定住促進センター」の閉鎖にも立ち会った私にとって、感慨深いものだった。
 インドシナ難民とはご承知のように、ベトナム戦争によって生じたベトナム、ラオス、カンボジアの難民のことである。全世界でおよそ200万人、日本には現在1万人余りが暮らしている。日本にいくつかつくられたセンターは、こうした難民たちが日本に適応できるよう、日本語教育や日本の習慣を教えたり、住宅探しや職業斡旋などを行ってきた(最近では難民の家族の受け入れやインドシナ難民以外の条約難民のケアもしていた)。
  国際社会の圧力で渋々インドシナ難民を受け入れることになった日本の難民行政は、国内法の整備が後手に回ったこともあって、決してほめられたものではなかった。難民センターの活動自体も決して充分とはいえなかった.。それでも、現場で難民のために必死に働く難民相談員たちの姿を見てきた私には、やはりセンター閉鎖は残念でならない。
 日本も国際化が進んだとはいえ、難民に対する差別や偏見はまだまだ根強い。不当解雇などの差別があった時、外務省や厚生労働省の後ろ盾のある唯一の機関である「国際救援センター」の力は決して小さくないからだ。
  こうした現実もさることながら、それ以上に懸念されるのは、センター閉鎖によって、スタッフたちが長年、試行錯誤を繰り返し蓄えてきた外国人受け入れのノウハウが、次の時代に受け継がれていかなくことだと思っている。
 少子化によるで労働力不足から外国人労働者受け入れが緊急課題になり、そのからみで政府は近頃、多文化共生をスローガンに掲げるようになってきた。(私は、多文化共生は自国の目先の利益のためではなく、アプリオリに必要な政策だと考えない限り、外国人暴動が吹き荒れるヨーロッパの二の舞になると思っているが)。こうした政策を実行する際、インドシナ難民に対する事業が培ってきたノウハウは、きわめて重要なものになると思っている。
 今後は、難民センターは新宿の高田馬場に拠点を移し、条約難民(インドシナ難民は特例として受け入れたので、その大半は条約難民と区別されている)を対象に小規模な事務所を開設するとのことだ。しかし、日本は難民をほとんど受け入れない国なので、対象になる条約難民は、現在18人ほどだという。
 日本政府の真意ははかりかねるが、弱者切り捨ての政策がここでも進行している。


加害を語る

2006-03-22 04:14:32 | 

 先の日中戦争での自らの加害体験を語る元日本兵は驚くほど少ない。昭和十五年に徴兵され、5年近くにわたって中国で戦った金子安次さん(86)は自らの加害行為を語る数少ない語り部のひとりだ。金子さんの凄い点は、加害行為の中でも、とりわけ誰も語りたがらないレイプ体験を語る点だ。
 殺人行為については数が少ないものの語ってくれる人はいる。そもそも兵隊の職務は敵兵を殺すことであり、殺人は上官の命令で行ったという自分自身に対する言い訳もできる。子供は将来の敵になる、女は子供を生む。だから殺し尽くせ、という命令は上層部から下されていたそうだ。しかし、強姦は別だ。どう言い訳しようが、個人の欲望に根差したものだからだ。
 「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」
 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。しかし、こうした日本軍の暗黒な側面はほとんど表ざたになることはない。自らの加害行為に多くの人が口を閉ざしてきたからだ。
 戦後、シベリアに5年抑留され死の強制労働に従事させられた金子さん。その間、天皇陛下の命令で行ったのだから、いつか天皇陛下が助けてくれると思い続けていたという。しかし、現実には金子さんは見捨てられ、その上、彼に命令を下した上官たちはジュネーブ協定に従い、早々と帰国していった。
 金子さんが加害行為を語るようになったきっかけは、その後、中国の戦犯収容所に送られてからだ。初めは上官の命令でやったと主張していた金子さんたが(事実、上官の命令で殺戮を行ったのだが)、行為を行った自分にも、兵隊として、点数を稼ぎたいという功名心があったことに気づいたときからだという。
 戦犯として中国でさらに6年間を過ごし、1955年、ようやく日本の土を踏むことが許された金子さんを待ち受けていたのは、差別と偏見だった。共産主義国家に延べ11年も抑留されていた金子さんは共産主義に洗脳されているにちがいないと、どこの会社も雇ってくれなかったのだ。仕方なく、ゴミ拾いで生計を立ててきたという。
 2000年、従軍慰安婦問題を裁く女性国際戦犯法廷で、金子さんは証言台に立った。金子さんの願いはただひとつ。彼の人生を翻弄した戦争をこの地上から根絶することだ。次の世代に、自分の受けた苦しみを二度と繰り返させないために、命の続く限り、戦争の真実をありのままに伝える「語り部」であり続けようと考えている。 


リトル・サンパウロ

2006-03-16 04:01:54 | 多様性

 日系ブラジル人の取材のため静岡県の浜松市に行った。
 浜松市のブラジル人人口はおよそ1万8千人。日本で最大のブラジル人コミュニティを抱える自治体だ。その大半は出稼ぎの日系ブラジル人とその家族だ。
 バブルの残像が残っていた1990年代、会社の寮に住み込み、昼夜を問わず働き続ければ、月に50万近くの貯金ができ、夫婦で来日すれば、三年ほどで一財産をつくることができたという。しかしバブル崩壊後、残業は減り、またブラジル本国の物価も上昇しているので、当初の目標額を貯蓄するのは至難の業。その間に子供が生まれ生活費もかさみ、という悪循環で日本滞在が長期化するようになった。いまや滞在5年、10年の滞在は当たり前で、永住権をとったり帰化したりする人も少なくない。
 滞在の長期化を支えているのはブラジル人コミュニティの存在だ。ブラジル人の多い浜松市などは、ブラジル料理レストランはもとよりブラジルの食材や生活用品を売るマーケット、ポルトガル語の各種メディア、ブラジル文部省公認の学校も多数あり、その気になれば職場はともかく、日常生活では日本人と全く接触せずに暮らせる「平行社会」がすでに存在している。
 姿形は日本人と瓜二つの日系人(民族的には日本人なのだから当然のことだが)だが、開放的で、正反対とも言えるブラジル文化の中で育った彼らと日本人の間には少なからず文化摩擦も存在する。この文化摩擦をどう乗り越えるか、そのモデルが県営・中田島団地にあった。
 中田島団地は凧祭で有名な中田島砂丘に沿ってある。総世帯数千数百のうち、ブラジル人を中心に外国人世帯が200を超える全国でも有数の巨大共住団地だ。この団地には外国人の自治会員がいる。日系ブラジル人の中村カツミさんはそのリーダーだ。今回の旅ではたくさんの魅力的な日系人に会うことができたが、今年還暦を迎える中村さんもその一人だ。
 中村さんの仕事は、新しくやってきた外国人に団地のルールを伝えたり、トラブルを解決したり、自治会の決定事項をポルトガル語に翻訳したり、ブラジル人と日本人相互のコミュニケーションをはかったりと多忙だ。すべて忙しい会社勤務の合間を縫って、ボランティアで行っている。
 もちろんトラブル解決にも一役買っている。団地で顕著なのは騒音トラブルだ。日頃働きづめのブラジル人にとって、休日の仲間との語らいは掛け替えのない息抜きだ。だが、日本にはそういうスペースがなく、住宅の壁も薄いため、騒音トラブルに発展する。
 中村さんは言う。「確かにルールを守らない外国人もいる。文化の違いもある。しかし、大半の外国人は後ろ指を指されないよう日本人以上に対人関係には注意を払っている」 定例の草毟りに出席しないブラジル人家族を訪ねると、行事に参加しない理由は、顔を合わせるたびにブラジル人の悪口を言う住民と顔を合わせたくなかったからだったこともあった。また、ゴミの不始末は必ず外国人に嫌疑がかかるが、中身を調べてみると観光客が捨てていったゴミだったなどということもしばしばだという。
 労働力不足を補うため、付け焼き刃的に日系人に門戸を開いたものの、彼らが快適に日本で暮らせるような基盤づくりは、まだまだ追いついていないのが現状だ。ブラジル人たちは、治安も悪く、仕事もない本国に比べ、日本は暮らしやすいと口をそろえて言う。しかし一方で、学校でのいじめをはじめ、日本社会の壁は厚く、日本を心から好きにはなれない日系人は少なくない。こうした中で、日本の中に日本社会とほとんど関わりを持たない「リトル・サンパウロ」が形作られてゆくことに危うさを感じるのは私だけだろうか。


「百人斬り」事件

2006-03-12 07:46:07 | 多様性

 講師をしている専門学校の学生が「百人斬り事件」を卒業ドキュメンタリー制作のテーマに選んだので、しばし、この問題と向き合うことになった。
 事件は1937年、日本軍が上海から中国の首都・南京に進攻する間に起こった。二人の少尉がどちらが先に中国人の首を100人斬り落とせるかを競争したのだ。競争は東京日日新聞が4回にわたって報じ、二人の少尉は国民的な英雄になったが、戦後、この記事が元で南京軍事法廷で銃殺された。
 この事件は、本多勝一氏と深沢七郎氏の論争など、事実であったのか、あるいは戦意高揚のプロパガンダに過ぎなかったのか、長い間論争が行われてきた曰く付きの事件だ。現在も遺族が無罪を主張し、東京高等裁判所で争っている。
 取材を通して得た感触では、新聞記事どおりのことが行われた可能性は低い気がする。しかし同時に、将校が日本刀で無抵抗な中国人の首を切ることが日常化していた中国戦線で、新聞紙上で国民に向かって百人斬りを宣言した二人の将校が、数はともかく、全く首斬りを行っていないとは、やはり考えづらいというものだった。
 学生の希望で、今回は遺族に寄り添って取材した。そこで今更ながら、戦争犯罪を裁くことの難しさを感じた。仮に二人の少尉が首斬りを行っていたとしても、同じようなことをした兵士は相当数いたに違いない。それは、一部の兵士たちの証言で明らかになっている。ところが、虐殺した数を巡ってもめている南京大虐殺も含め、南京軍事法廷で戦犯として死刑を宣告されたのは「百人斬り事件」に絡む2人の将校を含めたった5人だけだった。多くの元兵隊たちは二人の少尉をスケープゴートにし、自分たちの罪を逃れたのだ。また、蛇足かもしれないが、最も非人道的な戦争犯罪と考えられる細菌戦を指揮した七百三十一部隊は、細菌戦のデータがほしい米国側の都合でお咎めはなかった。もちろん、戦勝国側の兵士たちも戦争犯罪も問われることはなかった。軍事法廷に対する遺族の不公平感は察してあまりある。
 しかも、さらに驚いたことに、戦後、遺族たちが戦犯の子供として差別や迫害を受けてきたことだ。つい先日まで、戦犯になった二人を英雄としてもてはやしたのは、同じ日本国民ではなかったのか? 二人の少尉に罪があるのなら、それを支持した日本国民も同罪ではなかったか? そこに日本人の心に棲む深い闇を感じた。


地球のステージ

2006-03-03 04:16:08 | 多様性


 以前から気になっていた「地球のステージ」を世田谷の中学校で見た。
 「地球のステージ」は、世界の紛争地や被災地を股にかけ、医療ボランティアを続けている精神科医・桑山紀彦氏が、自ら撮影した被災地や紛争地の映像と音楽を合体させ、地球や人間のすばらしさを伝えるライブ・イベントだ。自ら撮影した映像に曲を付け、演奏し、唄い、かつ語るという桑山氏のワンマン・ステージである。
 撮影、歌、演奏、語り、どれもプロではない桑山氏だが、2時間にわたって淀みなく提示される映像と音楽のコラボレーションは、ちょっとびっくりするぐらい感動的だった。語るべきものを持ち、それを自分の言葉(方法)で伝えられれば、人の心を動かせるということを改めて教わったような気がした。どのくらい凄いステージかは、十年足らずのうちに、全国の学校などで千回を超える公演を行ってきたという実績をみればわかるかもしれない。 
 実は、桑山医師とは今から15年ほど前、カンボジアで取材させて頂いている。当時カンボジアには精神科医がたった1人しかいなかった。ポルポト政権時代のホロコーストで知識人が皆殺しにされてしまったからだ。桑山氏は、たったひとり生き残ったカンボジア人精神科医をバックアップしながら、ホロコーストによって大量に生み出されたPTSD(外傷後ストレス障害)患者の調査をされていた。日本でPTSDという言葉がまだ市民権を持っていなかった時代のことだ。
 そのとき、「なぜカンボジアに来たのですか」と桑山氏に尋ねたら、「学生時代、キリング・フィールドという映画を見て、カンボジアの人たちを助けたいと思った」と答えられたのを記憶している。この映画は欧米人が高所からアジアを見下しているような気がして、私はあまり感動できなかった。ただ、その話を聞いたとき、映画ってすごい力があるんだな、と思った記憶がある。
  人を動かすという意味では、桑山氏の「地球のステージ」は、映画「キリング・フィールド」をはるかに超えていると思う。難民キャンプ、ホロコーストの現場、あるいは被災地を巡りながら、桑山氏は彼らを決して高所から眺めることはなく、また、可哀想な人たちを助けなければ、という感傷もない。いつも同じ高さの目線に立って、ひとりひとりの人間の喜びや悲しみを見つめている。被災地で打ちのめされている人々がカメラの前で底抜けに明るい笑顔を見せてくれるのも、桑山氏に対する信頼があるからこそだろう。
 安定した生活を目指して医者を目指した学生時代。自分勝手な旅を繰り返していたバックパッカー時代。異文化への無理解。桑山氏はどこにでもいる普通の日本の若者だった頃を包み隠さず語ることで、観客を桑山ワールドへと引き込んでゆく。そして、彼を変えた地球の豊かさ、人の優しさを自らが体験したエピソードと共に語ってゆく。
 例えばこんなエピソード。紛争地ソマリアの病院で働いていたとき、ド派手な服を着た母親が子供をつれてやってきた。「敵の標的になるのに、なぜそんな目立つ服を着るのですか?」と桑山氏が尋ねたところ、「戦争で子供の心がすさんでゆきます。せめて私といるときぐらい、子供を明るい気持ちにさせてあげたいんです」と答える母親。危険を顧みず、子供を思う母の話が映像とともに紹介される。そのとき、日本人からは、貧しく、争いごとばかりいる印象しかないソマリアの人々が、実はとても豊かな感受性の持ち主であることに気づかされる。
 そう、私たちが頭の中で考えているより、地球ははるかに豊かなのだ。

「地球のステージ」ホームページ