俳句日記/高橋信之

高橋信之(愛媛大学名誉教授・俳句雑誌「花冠」創刊者)

4月26日(日)

2020-04-26 22:21:47 | 高橋信之俳句鑑賞

俳誌「くぢら」恵贈いただく。

〇「くぢら」(2020年5月号 通巻96号)より転載

「正岡子規だより㊼ 高橋信之の俳句」(子規新報編集長 小西昭夫)

 旧制松山高等学校は俳人として芝不器男、中村草田男等を輩出した。芝不器男は新興俳句の先駆けと目されているし、中村草田男は文学性を追求した姿勢を自由主義者と目されて軍部の圧力を受けた。不器男や草田男に共通するのは「自由への希求」であろう。
 そして、それは大正八年に創設された旧制松山高等学校の校風の特色でもあった。そんな自由な校風の中で旧制松山高等学校俳句会も誕生した。松高俳句会は、大正十二年川本臥風によって創始されたので、不器男は既に卒業しており、二年生だった草田男は参加していない。しかし、臥風、林原耒井、篠原梵、八木絵馬、西垣脩等の多数の優れた俳人を送り出した。
 また、松高俳句会の機関紙「星丘」は斎藤茂吉や加藤楸邨等の寄稿を得て草田男の第一句集『長子』の特集号を刊行している。草田男は俳人となってから松高在学中の恩師である耒井の関係で松高俳句会にかかわり、「星丘」の呼び物となった東京支部の連載論評「呉評越評」(呉越同舟をもじったもの。草田男の命名)で、梵や絵馬等と論戦を戦わせた。
 こんなところにも「結社で育った俳人と松高俳句会で育った俳人は本質的に異なる。自由、旺盛な批評意識、純粋な詩作それが松高俳句界の特徴であった。」(西垣脩)といわれる一端が感じられるであろう。
 旧制松山高等学校は、昭和二四年の学制改革で、愛媛師範、愛媛青年師範、新居浜高専を合わせて愛媛大学となった。松高俳句会を指導していた臥風、谷野予志、大野岬歩等がそのまま愛媛大学俳句会を指導し、松高俳句会は愛媛大学俳句会に引き継がれたのである。
 しかし、臥風が「いたどり」を創刊したり、予志が「炎昼」を創刊したこともあって、愛大俳句会はしだいに停滞していった。それを再建したのが髙橋信之である。
 信之は愛媛大学の卒業生であるが、在学中は詩を書いており俳句には関わっていなかった。やがて、愛媛大学のドイツ語講師となって母校に赴任し、昭和三九年、臥風の「いたどり」に参加しながら松高俳句会を引き継ぎ愛大俳句会を再建したのであった。
 もちろん、信之の俳句は松高俳句会の自由の伝統を継承したものであった。

母の日の母へにくまれ口たたく
梅雨の光り一本の我が万年筆
  北条鹿島
ぶどうよく光る島の水道水にて洗い
つばめ帰る空にて今日の高さあり
秋暑し二本の足に体重のせ
 五八番仙遊寺
芽吹く樹へつぎつぎ心あそばせる
蜂が飛んでいる脚の力を抜いて
噴水の水の力が抜け落ちる
小鳥来る都心の小さい森の中
折り紙の鶴も金魚も春立つ日

 こうして秀句を抄出してみると、信之俳句の目指したものがよく分かる。先ず、難しい言葉はどこにも使われていない。そして、「や、かな、けり」といった切字が使われていない。二句目の「我が」や五句目の「秋暑し」という文語的な表現は使われることもあるが、基本は現代口語表現である。そして「洗い」「のせ」という動詞の連用形止めを上手く使っている。二句一章と読める句もあるが、基本的には一句一章の俳句である。難しい言葉を使わない信之俳句は平明である。だから、そのまま読み飛ばされてしまうこともあるだろうが、この軽さ明るさの中に深さを求めたのが信之俳句の世界でもあるだろう。
 昭和六年生まれの信之は、現在横浜に住んでいる。主宰誌「水煙」を「花冠」と改称し、主宰を奥様にゆずり名誉主宰になっている。
 実は信之とは愛大俳句会や「いたどり」「水煙」と何度も一緒に句会をしている。彼は我々の先生であり、指導する立場であったが、我々の句会は文語あり、現代語あり、無季あり、時には自由律ありというものであった。
 しかし、そこに枠をはめるような指導は一切されなかった。だから、先生と生徒を超えた自由活発な議論が出来た。今になってその有り難さ、凄さがしみじみと分かるのである。
(転記者/高橋正子)