長尾景虎の戯言

読んだり聞いたりして面白かった物語やお噺等についてや感じたこと等を、その折々の気分で口調を変えて語っています。

【陸奥の怪】

2010-10-16 11:52:06 | 日記・エッセイ・コラム

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テレビの旅番組を見ていて、当時私の仕事仲間だった人たちが旅行中に遭遇した、とある出来事について思い出した。
二十世紀が終わろうとしていたころで、もう十年近くも前の噺になるか・・・。
五月のゴールデンウイークが緊急の仕事でつぶれたので、中旬にその代休として休暇を取ることになった。
そこで三人の仕事仲間と一緒に、東北地方への旅行に行くことにした。
皆東北へは一度も訪れたことがなかった。
殊に岩手は【遠野物語】の故郷でもあり、また当時雑誌に連載が始まった【壬生義士伝】での主人公、吉村貫一郎の生まれ故郷として文中に登場するのもあって、是非とも訪れてみたく楽しみにしていたのだが、私だけは運悪く予定の日と、またしても急に入った仕事が重なってしまった。
旅行の日程を変更するのは、皆の休暇を取る都合で難しく、私だけとうとう行けなくなってしまった。
日ごろの行いの悪さが祟ったと、諦めるより仕方なかった。
結局私は旅を終えた仲間たちの奢りで、行きつけの居酒屋にて、酒の肴に土産噺を聞かせてもらうに留まった。
しかし三人から聞かされた旅館での奇妙な出来事について、私は少なからず驚かされたのだった。
三人は人を担いで嬉しがるような輩では決してなく、ともに実直そのものの人物たちである。
だから私は三人の噺を、そのまま事実として今も尚受け入れている。
風光明媚な景色等の噺は殆ど忘れたので省く。
大西・木嶋・小早川(総て仮名)の三名は、予定通りに私を置いてきぼりにして、秋田から岩手を巡る陸奥路へと旅立った。
その日仕事を早めに切り上げた三人は、夕方発の寝台特急列車に飛び乗った。
ほぼ半日ががりの列車でのトロトロ旅で、秋田には翌早朝に到着する。
空の便の方が早くて安上がりなのだが、夜汽車気分を味わいたくてこんな浪漫の旅路を選んだ。
幸いにして個室を取ることも出来、ちょっとオリエントエキスプレス風な車中での夜を、三人は一室に集いもっちゃりと一杯やりながら駅弁に舌鼓を打ったり、お喋りを楽しんだりして過し、、シャワーを利用した後、午後十時半ばを過ぎたころには各々の部屋で既にベッドについた。
富山辺りからか、外は雨が降り出し車窓を濡らしていた。
秋田に近づくにつれ天候は回復に向かったようで、車窓から眺める夜明けの景色もまた格別な物があった。
秋田に着いたら、次第に昇って来ようとする日の光に、今日の上天気を約束する勢いを感じ、幸先よい旅のスタートに三人は気分がよかった。
その日は時間に余裕もあり、悠々と観光巡りをして、夕刻には予定の宿泊先に到着した。
秋田での宿は、オープン十周年を迎えた瀟洒な建物のリゾートホテルで、三人が過去訪れたことのある、どの宿泊施設にも勝るスケールの大きさであった。
英国風の庭園があり、館内はしっとりと落ち着いた、レトロチックなアールデコ風といった趣だった。
ベッドが苦手な三人は和室を予約しており、夕食には箸で食べれる郷土料理の懐石膳コースを選んだ。
チェックインを済ませると、先にこのホテル自慢の清潔なスパ施設で、温泉に浸かったりマッサージを受けたりした。
スパ施設内にはエステルームとか、屋内温水プールやトレーニングジムなんかもある。
他にもホテル敷地内にはテニスコートとパターゴルフコースがあり、散歩やジョギングが出来る遊歩道まである。
庭園には生垣でラビリンスが作られていて、ちょっとした迷路遊びも出来る。
それに加えて、夏場利用出来る屋外プール施設等もある。
後に語った三人が受けたこのホテルに対する正直な感想は、さすがにリゾートホテルでゴージャスな気分にはなれるのだが、温泉と郷土料理以外は、わざわざ秋田にまで足を運ぶ意味はなさそうだと、そんな風なことだった。
なにかごちゃごちゃとし過ぎていて、バブリーな箱物の典型のような、そんな印象を強く受けたようだ。
今回十周年企画で格安のサービス料金となっていたので、三人は利用したまでのことだった。
大きな規模の施設を建設すると、自然環境に少なからず影響を与えてしまう。
これだけの敷地があれば、大自然をそのまま借景にしたような、こぢんまりとした和風の料理旅館やオーベルジュが、何件も建てられるのではないか。
雄大な自然環境の中にあって、ちっぽけな自分の存在を感じながら、地の産物をふんだんに使った絶品の料理を賞味したりすることこそが、都会に毒された者たちにとってこの上もない贅沢だと、三人は感じたようである。
実際その通りのようで、このリゾートホテルは元々多額の金利負担に青息吐息であったのが、新世紀を迎えてからは経営が次第に破綻に向かい、最後には施設の分割売却も検討されたが、受け入れ先がなく実現しなかった。
新設された産業再生機構に支援を申請しようとしたのだが、銀行側の承諾が得られなかったため、断念せざるを得なかった。
結局経営再建の目途が立たず、会社更生法も適用されることなく自己破産し、その施設は廃墟と化すままに放置され、今では知る人ぞ知る心霊スポットになってしまっているらしい。
新し物好きの男が、ある日真新しい品々に囲まれた自分が、すっかり老いさらばえていることに気づき愕然とする。
そんな哀しい説話にも、似通ているような気がする。
ホテルの経営陣は、恐らく出資した不動産会社や観光会社、それに金融機関等から送り込まれた者たちだろう。
ホテルの再建に一丸となるより、皆それぞれに自分の今後の身の置き場所に気が行き、醜い責任のなすり合いをして、さぞバラバラだったことであろう。
煽りを受けたのが従業員たちと言うことか・・・。
すっかり噺が逸れてしまった。
そんな薄暗い噺はさて置き、三人は個室ダイニングで地酒をやりながら、比内地鶏や鰰やきりたんぽに稲庭うどん等、それに米はあきたこまちといった地味豊かな料理に満喫した後、部屋で早めに休もうとしたのだが、皆マッサージの折に居眠りしたのがいけなかったものか、なかなか寝つけなかった。
結局酒豪である小早川の提案で飲みなおすことにし、冷蔵庫の酒をチビリチビリとやりながら、取りとめもないお喋りをして過した。
夜も更けてそのうち皆コクリコクリとなり、ようやくなんとか眠りについたそうだ。
翌朝寝不足ぎみの三人は、朝風呂に入ってスッキリしてから朝食を取り、慌しくホテルを発った。
と言うのも、岩手への旅はあちこち見て廻りながら移動する、ちょっとした強行軍だったのである。
しかしながら昨日もそうであったのだが、ピーク時を外していたのがよかったのか、名所旧跡や食事処等すいていて、それに乗り継ぎ等も割りにスムーズで、午後三時ごろには本日の宿に着いてしまった。
実はこの宿が今回の旅のメインでもあったので、ちょっと三人は先を急いでしまったのもあった。
ここの建物は曲り家であった。
本来地元の温泉組合加盟等の有志たちが協力し合って、歴史資料館として建てたもので、レプリカではあるが、茅葺屋根や給排水や電気系統や消防設備等セキュリティー部分以外の殆どの用材は、実存していた曲が家の廃材が再利用されていた。
当初維持費として、拝観料や土産物としての郷土品や、囲炉裏で焼いた餅や団子等を売った代金が充当されていたようである。
そのうち拝観料が無料となり、代わりに板間を利用しての蕎麦や郷土料理を昼だけ出す食事処も兼ねるようになり、観光客で随分賑うようにもなったようだ。
そして食事客の中に是非ここで宿泊してみたいとの要望が多く、ついには一日限定一組での、旅館業務も試験的にやるようになった。
それが三人が訪れた、その年の三月より始まったばかりだったのだ。
三人が到着したのが早過ぎたのか、曲り家内には人の気配がなく、それに受付やフロントの類もなく、どうしたものかと暫し収まりがつかない状況にあった。
そうしていると別棟と言うには大仰な、恐らく納屋らしき小屋で音がするので行ってみると、モンペ姿に姉さんかぶりのおばあさんが、薪を運び出そうとしていた。
このおばあさんこそが、この宿の女将であった。
予約した宿泊客であることを女将に告げた三人は、薪を運ぶのを手伝い、ついでに久しぶりとばかりに、薪割り体験もさせてもらった。
田舎のあばあさんのような女将とはすぐに打ち解け、三人ともまるで郷里に帰った気分になった。
都会生まれで都会育ちの私と違い、この三人とも実家は決して豊かとは言えない農家だった。
四国や九州にあったそれぞれの実家は、既に皆なくなってしまっていたので、ノスタルジーに浸った日でもあった。
だが急遽宿泊施設として改装が加えられたため、古風な風呂こそあるがまだ宿には温泉が引かれていなかったので、女将は近くにある外湯に行くよう勧めた。
三人それぞれに手拭と大きな将棋の駒のような木札が渡された。
木札は無料で数箇所ある完全かけ流しの外湯温泉に入れる入湯札で、今日の日付が刻印され一週間有効となっていた。
この手拭と札には温泉街の簡単な地図が描かれており、外湯巡りや散策のガイドマップとしても利用出来るようになっていた。
手拭と入湯札はそのまま記念品として持ち帰ってよいので、札だけは今でも三人の自宅には飾られている。
最寄の外湯は曲り家から徒歩数分の場所にあり、観光客よりは地域住民のためにある公衆浴場といった施設のようだった。
地元民が数名先客として入っていて、観光客である三人にしきりと話しかけて来るのだが、いかんせん訛が強くて、まるで外国にいるみたいだった。
内容はどこから来たのかとか、どこに泊まっているのかとか、他愛もないことのようであったが、言葉の意味を理解するのに相当苦労した。
これも旅の一興である。
宿の女将の言葉にも訛はあったが、観光客慣れしているものか、喋っている意味が解らないようなことはなかった。
地元の人たちが湯から上がり、東北訛から開放された三人は、半露天の湯船にゆったり浸かりながら、これまでに巡って来た名所旧跡等の噺に花を咲かせた。
驚いたことに桜まだ残っていたりしたが、しかしなんと言っても圧巻は、やはり今夜の宿の曲り家だった。
近くに幼稚園でもあるものか、どこからか幼児たちのはしゃぐ声なんかが聞こえ、遠足からでも帰って来た子供のころを、三人それぞれに思い出させた。
そうこうしているうちに三人ともすっかり湯だってしまったが、五月中旬であっても黄昏時の東北地方の澄んだ空気はまだ冷たく、曲り家への帰路はかえって心地よかった。
曲り家に戻ってみると、女将より幾分か年若そうな女性がふたり増えていた。
女将と三人して姉さんかぶりに割烹着の純朴なスタイルで、甲斐甲斐しく夕餉等の支度に立ち働いている最中だった。
さてこの曲り家とは母屋と馬屋がつながったL字型構造を成しており、それが曲がった家と呼ばれる由来である。
Lの中央直角部分で土間と板間に分かれ、一方の端は土間から一段低くなってつながる馬屋があり、もう一方の端は板間から奥に続く、畳の間の奥座敷になっている。
奥座敷が三人の寝所となり、板間には台所があり囲炉裏も切った食事処となっている。
出入り口がある土間には、板間の台所とは別に竈がしっかりと据えられ、どうやらこの曲り家ではガスを使っていないようだ。
馬屋には馬がつながれているわけではなく、民芸品等の土産物売店のようになっている。
屋根裏部屋に階段で上ると、そこは遠野物語でも有名な東北の民話や民俗学や歴史等の資料が展示されている。
本来曲り家の便所(あえてトイレとは書かない)や風呂は、屋外に設置されているのではないかと思うが、ここでは土間と馬屋部分を利用して屋内にある。
公共の施設ともなれば、情緒より安全性が重視されるのであろう。
便所はちゃんと水洗で、便器等はそれなりにシックだったそうだ。
風呂は南部鉄を使った、なかなか由緒正しい五右衛門風呂(正式には長州風呂)らしい。
三人はこの風呂を見学しただけで、結局入ることはなかったが、もちろん希望すれば沸かしてくれる。
噺のたねにと曲り家の宿のパンフレットを見せてもらったが、概ね以上のように記憶する。
それと確か、屋根裏資料室の観覧と馬屋売店の営業はAM10:00~PM4:00迄で、昼食はAM11:30~PM2:00迄とパンフレットには書いてあったと思う。
つまり旅館として営業が開始されるのが、PM4:00を過ぎてからとなるようだったので、三人の到着は早過ぎたわけだ。
まぁそんなに正確な時間できっちり稼動しているわけもなく、すべてのんびりしたリズムの中にあったのであろうと推測する。
夕食の支度が整うまではと、女将が奥の座敷に冷えたビールと枝豆に漬物のつまみを持って来てくれたので、湯上りの三人は喜んで頂戴した。
やがて支度が整うと、板間の囲炉裏端での夕飯となった。
給仕は女将だけで、他のふたりの女性は帰ったものか、もういなかった。
夕餉は素朴な田舎料理のオンパレードであった。
囲炉裏でじっくり焼いたイワナ、山菜の天ぷらや地の野菜との煮付けに漬物、南部地鶏の炊き合わせ、蕎麦に手作り豆腐の田楽、南部煎餅汁にバラ寿司等々。
それに前沢牛も少し出て来て、三人を喜ばせた。
骨酒なんぞをやりながら、それらをじっくりと味わった。
米はひとめぼれで、昨日今日で「秋田小町に一目惚れ」となる。
もう少し先になれば鮎も手に入り、塩焼きや寿司なんかにして出せるのだがと、女将は言っていた。
元々ここの女将は、温泉旅館で長く仲居さんをやっていたらしく、訛こそあるがなかなか喋りも達者だった。
ちょっとした身の上噺も、面白おかしく語って聞かせた。
旅館の板場で働いていた旦那さんと職場結婚してからも、仲居さんを続けていたが、四人の子供が大人になって独立して行ったので、夫婦して蕎麦屋を始めたのだそうだ。
ところが旦那さんが病に倒れてしまい、暫くひとりで細々と蕎麦屋を営んでいたようだ。
結局旦那さんは病が回復せず亡くなられたので、それを潮に店は閉めたそうだ。
年金暮らしでやることもなく、ただお迎えを待つだけの身となった。
そんな折に温泉組合から資料館を建てるので、暫く給料は出ないが運営を手伝って欲しいとの声がかかり、思いもよらぬことにふたつ返事で承知したそうだ。
一所懸命柳田國男等の勉強をして、当初は歴史資料館の学芸員として、この曲り家に詰めていただけだったそうだ。
こんな学のないばぁさんが学芸員とは、あの世で柳田先生もさぞ呆れとることじゃろと笑う女将。
学校なぞ通わずとも、女将はこの街で長く観光客相手に生きて来たのだ、郷土の知識はそれこそ生き字引のごとくであろう。
そんな女将は拝観客もまばらで退屈なので、許可を得て近所の工房で作った民芸品等や、囲炉裏で焼いた餅や団子の販売を始めたそうだ。
それではいっそ昼食もやってみないかと温泉組合等から提案され、曲り家に食事処としての改装が加えられ、仲良しになった近所の工房で働く女性ふたりにも、助っ人として手伝ってもらうことになった。
そして正式に女将や手伝いの女性ふたりに、小遣銭程度のアルバイト料が出ることになった。
やがてそれが宿泊施設にもなって、面白いやら呆れるやらと、屈託なく笑いながら女将は語った。
当初の資料館から飲食施設にそして宿泊施設にと、消防署や役所への届けが目まぐるしく変更されたことになる。
旅館として運営するのを機に、曲り家のすぐ近くに住居を設けてもらって、女将は長年住み親しんだ家を引き払い、そこに越して来ていた。
どうせ同じひとり住いなら、年老いた身としてならば、様々な人の目が行き届いている場所の方が、安全なのかもしれない。
宿泊客にとって、夕食後は曲り家ごと離れのように貸切となる、だからこそ緊急の連絡網はしっかりとしていた。
さても骨酒にほろ酔いの三人に、おもむろに女将は遠野の民話を聞かせるのがよいか、それとも三味線弾いて唄でも聞かせるか、どちらがよいかと訊ねた。
三人はせっかくなら三味線に唄のほうが、艶があっていいと所望した。
女将は子供のころに読み書きそろばんよりも、三味線や民謡を習わされたのだそうだ。
だから仲居さん時代には、芸者さんの舞等に三味線をつけていたのだそうだ。
そうすると手当てや心付が別に出て、子供たちに美味しいものを食べさしたり、あったかいベベの一枚も買ってやれると、常日頃から一生懸命稽古にも励んだのだそうだ。
随分重宝がられて、仲居さんとして働く旅館以外からも、結構お呼びがあったそうだ。
三味線を持った女将は、その年齢を忘れさせるほど、実に活き活きとしていた。
撥さばきの熟達した三味線の弾き語りで、見事な南部牛追唄を聞かせたり、方言で誤魔化した春の小唄やら都都逸も披露してくれた。
女将の声には張りと艶があり、三人は思わず時の経つのも忘れて聞き入ってしまった。
やがて酒も料理もたいらげて、宴はお開きとなった。
女将の心づくしの持て成しに三人とも大満足し、奥座敷に戻ってその夜は早めに床についた。
旅の疲れと昨夜の寝不足も手伝ってか、三人はあっさり眠りに落ちたのだった。
ところが早くに寝入ったためか、木嶋が夜中に目覚めてしまった。
緊急時の安全確保のため真っ暗にならないように、部屋には仄かな常夜灯の明かりがあった。
木嶋がその明かりで腕時計を見ると、夜中の二時過ぎ、つまり丑三つ時であった。
すぐに何故目覚めたのか思い当たった。
どこからか幼子の笑う声や、板間を走るようなトコトコという音や、なにやらポンポンという音が聞こえて来たのだ。
暫しその音に耳を欹ていた木嶋だが、こんな夜中になんだと不審に思い、むっくり起き上がり板襖を開け板間の方を覗いてみた。
板間にも避難誘導灯の仄かな明かりがあったが、誰もいなかったし、もう声や音は聞こえなくなってしまった。
どうにも気になった木嶋は板間を更に進んで行き、土間も覗いてみたが、もう女将も自分の住処に戻っているようで人の気配はしなかった。
屋根裏部屋も気になったが、もう上がることが出来ず、どうやらセキュリティーセンサーもかけられているようだった。
金銭には換算出来ない、貴重な資料があるのだろう。
ふと馬屋部分から物音が聞こえたような気がしたので、木嶋はおもむろに土間を下りて宿の下駄を履いた。
そして馬屋部分も覗いたが、店仕舞した売店が寂しくあるだけで誰もいなかった。
諦めて土間隅にある便所で用を足してから、奥の間に木嶋は戻った。
部屋ではボンヤリした顔の大西が、布団から身を起こしていた。
木嶋は大西に先程の出来事を話したが、彼は空耳だと一笑に付した。
こんな夜中に幼子が起きているものか、昼間に聞いた幼稚園かの声が耳についているのだと言った。
大西は木嶋が曲り家内をうろつく音に気づき、目が覚めた様子である。
目覚めついでに大西も用を足しに行った。
木嶋は自分の床に寝転がり苦笑した、はっきりと幼児の声や音を聞いた気がしていたのだが、寝ぼけていたと言われれば自信はない。
暫くして、大西は渋い顔で部屋に戻って来た。
深夜になってすっかり薄気味悪くなってしまった、薄明かりだけの曲り家内を、よくもたったひとりでうろつけたものだと、随分感心していた。
言われてみればその通りで、草木も眠ると言われる真夜中に、何故あんなにムキになって捜し回ったものか、木嶋自信も奇妙に思い再び苦笑する始末であった。
ふたりの会話がうるさかったのか、とうとう大酒喰らって白河夜船で爆睡しているとばかり思っていた、小早川までもが目を覚ましてしまった。
なにかあったのかと訊ねる小早川に、木嶋は遭遇した出来事について話して聞かせた。
小早川も一笑に付すかと思ったのだが、案に反して意外にも怪訝な表情を浮かべ暫し黙り込んでしまい、そして実はと話し出した。
着物を着たおかっぱ頭の可愛らしい幼い女の子が、鞠つきをして遊んでいて、そのちょっと離れた場所では、他の幼児たちがカゴメカゴメをしている、そんな長閑な夢を今さっきまで見ていたと言うのだ。
それを聞き大西と木嶋は、互いに顔を見合わせるばかりであった。
どうにも要領をえない三人であったが、その夜は何故か再び寝入ってしまった。
朝になって朝食の給仕をする女将に、木嶋はこの近くに幼稚園でもあるのかと訊ねてみた。
女将はそんなものはないがと答え、なにか気になることでも?と逆に不思議そうに訊ね返して来た。
昼間子供の声が聞こえたことと、そして深夜の一件を話してみた。
昼間の声は、たぶん他の旅館の宿泊客が連れていた、子供たちだったのだろうと女将は言う。
だが夜中の件は女将にもわけが分らないようで、苦笑いを浮かべていたが、座敷童子でも出たのかなと語った。
座敷童子は子供の妖怪で、別段怖くはなく悪戯好きだが酷い悪さもせず、むしろ出会った者に福をもたらす福の神とのことだ。
今までこの曲り家でそんな物の怪の類は出なかったので、お客さんたちが連れて来たのかもしれない、女将はもし本当に座敷童子なら、居着いてくれればこの曲り家が栄えるのだがと微笑んだ。
朝食後女将に屋根裏の資料室を開けてもらい、様々な郷土資料等を見学したが、中でも座敷童子のことが書いてある文献等に、三人の関心が特に集まった。
その後馬屋売店の民芸品も買い、女将謹製のおにぎり弁当をそれぞれに持たせてもらい、後ろ髪引かれる思いで曲り家の宿を後にした。
その日は時の許す限りあちこち見て周り、鄙びた駅のホームのベンチに座り、あの女将謹製のおにぎりを頬張ったりした。
そして三人は空路を使って帰路についた。
その機内で今回の旅の噺をしていたのだが、大西が妙なことを言い出した。
突然小早川に、夢に登場した幼女は、こんな柄の着物を着ていやしなかったかとか、右目の下に泣き黒子はなかったかとか訊ねた。
小早川は夢のことではっきりとは覚えていないが、そんな風な感じだったと答えた。
大西はちょっと考え込んでから、昨日昼食に訪れた土産物屋を兼ねた食事処でのことを話し出した。
昼食後他のふたりが土産物を物色している間に、昼食前に既に買い終えていた大西は手洗いへ行った。
用を足し手洗いから出ると、その左奥が裏庭のような場所に通じているようなので、ちょっと興味が湧き行ってみた。
この店は幕末ごろの創業で、なかなかの歴史があるようで、風情豊かな佇まいだったのだ。
そこは裏庭と言うよりは、建物に囲まれた中庭のような場所で、剪定された庭木{%tree%}が少しあり古い井戸なんかもあった。
その井戸端でひとりの幼女が、毛並みのよい一匹の三毛猫と戯れていた。
綺麗な着物を着た実に可愛いらしい女の子だったので、思わず大西は話しかけた。
女の子は物怖じせず、色白の小さな顔にあどけない笑みを浮かべながら、割りにしっかりした口調で大西と会話した。
どうやらその女の子も三毛猫も、この店の子らしかった。
暫し幼女とのお喋りを楽しんだ大西は、長居をして他のふたりが捜してもいけないと店内に戻った。
茅葺の古いお家に今晩お泊りするんだよと言い、バイバイと手を振って別れた後、不思議なことに大西はその女の子のことを、つい今し方まですっかり忘れていた。
岩手を飛び立ち離れて行き、それで魔法が解けたとでも言うように、唐突に幼女の姿が脳裏に浮かび上がって来た。
だから大西は白昼夢でも見た思いで、あの幼女が実存していたのかさえ、今となっては甚だ心もとなかった。
この幼女こそが座敷童子で、大西に憑いてあの曲り家の宿まで、遊びにやって来たのだろうか?
大西のこの噺に、今度は木嶋と小早川のふたりが顔を見合わせることとなった。
しかし暫くすると木嶋の顔に影がさした。
決して忘れていたわけではないが、自分には幼くして死別した、妹がいたのだと話し始めた。
我が妹ながら実に愛らしい顔立ちで、可愛くて仕方がなかったものだ。
両親もこの末娘を殊の外可愛がり、いつも市松人形のような格好をさせていた。
生まれつき心臓が弱く、野を駆けたりすることは、短いその生涯で一度もなかった。
野良仕事で忙しい両親やそれを手伝う兄や姉に代わって、年が一番近い自分がこの妹の遊び相手や、世話をしたりする役目だった。
大して広い村ではない、お人形さんのように可愛らしい妹のことは、それこそ田んぼの蛙や小川の鮒までにも、知れ渡っていたことだろう。
妹の世話があるので遊びに出られない自分のことを気遣い、小学校のクラスメートたちは駄菓子を持ってよく遊びに来てくれた。
もっともクラスメートたちは、妹目当てでもあったのだが。
自分もクラスメートたちも、妹が疲れたりしないよう、随分と心を配ったものだ。
妹が体調を崩して布団に寝かされている時は、クラスメートたちも駄菓子だけ置いてそっと帰って行った。
遠足や課外授業に行って来たら、必ず帰ってから妹に土産噺を聞かせてやった。
自身が行けないからだろう、妹は目を輝かせて喜々として聞き入っていた。
綺麗な野の花を少しだけ摘んだり、ちょっと変わった小石なんかを見付けては、妹の土産に持ち帰ったものだった。
自分はただただ、妹の無邪気に喜ぶ顔が見たかった。
どっさり土産を持って修学旅行から帰って来たら、布団に寝かされた妹の顔に、白い布がかけられていた・・・。
これまでの自分の人生で、一番辛かった瞬間である。
あの曲り家で昼間最初に幼児の声を聞いた折には、妹のことが頭をよぎった。
夜中に聞いた声や音の正体を見極めようと、あれだけ躍起になったのは、やはり妹のことが頭の片隅にあったからかもしれない。
妹にも愛らしい泣き黒子があった・・・。
木嶋の瞳は潤んでいた。
かくして三人の旅は、往きの車中以外の三日間は天候に恵まれ、奇妙な体験も土産として深く心に刻み、見事な大団円を迎えたのであった。
ところで三人は座敷童子とやらに、本当に遭遇したのであろうか?
座敷童子に遭遇した者には、幸運が訪れるらしい。
でも三人のその後は、順風満帆とは行かなかった。
その後私を含めた四人とも、バブル景気が弾けた影響で、会社からリストラされてしまった。
他社に再就職した者、自分で商売を始めた者、いつの間にかフリーライターと化した者と、皆バラバラの道を歩むことになった。
それはそれぞれに茨の道で、糊口を凌ぐのがやっとの日々である。
再就職先が倒産したり、自ら興した商売に行き詰ったり、まったく文章が書けなくなったりと、正に惨憺たる有様であった。
ところが私以外の三人は再び集い、一致団結してとある事業を興した。
これが現在までに順調に業績を伸ばし、今や安定企業の域に達している。
浮き草暮らしなのは結局私だけで、再びおいてきぼりをくった。
やはりあの女の子は、座敷童子だったようだ。
座敷童子は大西から聞いて面白そうなので、ただ一時だけ曲り家の宿に遊びに寄っただけかもしれない。
三人は私も誘ってあの曲り家の宿に再び訪れようとしたのだが、残念なことにもうなくなっていた。
先の東北地方を襲った地震で、倒壊こそ免れたが著しく損傷し、修復のため休館を余儀なくされたようである。
その後あの女将も病に倒れ、どうやら亡くなられたとのことで、曲り家の宿を運営して行く要も失ってしまった。
結局あの曲り家は別の場所に移築され、郷土史資としての役目を担っているらしい。
あの折彼らから土産にもらった、藁で編んだ座敷童子の人形は、私の部屋で埃をかぶっていた。
丁寧に埃を取り払い、手洗いしてから乾かし飾りなおした。
これで少しは私にも、ご利益があるのかもしれない・・・?


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