閉塞感がどこから来ているか考えていた。
そもそも私にとっての閉塞感とは何か?
人間が人間同士でばかりで生きていること
に原因があるとおもっている。
わたしが散歩をする。
とても好きな場所がる。
何が好きかといえば、そこには広い芝生がある。
でも、その場所を過ぎれば、また人間同士の場所に戻る。
大部分が人間がいる場所で活動している。
それは、労働という形で拘束もされている。
この息苦しさは何か
それは、人間の人間による人間のための活動を
し続けていることに息苦しさがあるのだと思う。
人間が人間同士のみの関係において、
事を成すこととは、人間という自然に
全面的に関わることなので、随分
面倒臭いことである。
以前のように、自然物との関係性において
事を成すことの方が、ストレスの幅は
狭いだろう。
固い石を削るであるとか、
深く土を掘るだとか、
対自然であることは、
自然自身がわがままを言ったり、
怒りにまかせたり、理屈をこねたり
してこなく、というよりも、
自然に宿る整合性や、美しさや尊さに
学ばされることの方が多いだろう。
思い通りにいかないとしても
人間のようなエゴなどはない。
つまり、経験の質として、人間同士のみばかり
とかかわることと、自然とかかわることは
質が違うのだ。
自然には、何があるか、自然には
私は聖があると感じている。
これは、人間が生活する上でとても大事である。
聖に触れるのは、やはり自然からしかないと思う。
聖に触れながら、生活における活動を続けて
いくことで、人は心が洗われていく。
一方で、人間にも聖人というのはいるだろうが、
人間ばかりの活動においては、
目的が利潤であったりすると、そこには聖が
遠のいてしまう。
聖は聖として存在するので、目的性がないのだ。
生産活動のようなこうなったらああなるという理屈はなく
聖は聖として存在するので、聖そのものが目的化する。
人間は自然物とかかわることで労働を行いながら、
聖のみにかかわれる瞬間があるのだ。
これは厳密には労働を超えた瞑想に近い瞬間だろう。
昨今の労働は「誰かのため」という
美辞はあるが、何か空々しく聞こえるのは
私だけだろうか。
労働は、そんなお客様のためという
単純なものではなかったのだ。
労働の質が進化したように言われるが、
実は相当退化している。
その結果、人間を小さくしてしまっている。
多分、人間は自然の聖に触れながら、
自然を生かし、それに係る人間同士を生かす
ことをしていかないと息詰まってしまう
代物だと思うのだ。
そもそも私にとっての閉塞感とは何か?
人間が人間同士でばかりで生きていること
に原因があるとおもっている。
わたしが散歩をする。
とても好きな場所がる。
何が好きかといえば、そこには広い芝生がある。
でも、その場所を過ぎれば、また人間同士の場所に戻る。
大部分が人間がいる場所で活動している。
それは、労働という形で拘束もされている。
この息苦しさは何か
それは、人間の人間による人間のための活動を
し続けていることに息苦しさがあるのだと思う。
人間が人間同士のみの関係において、
事を成すこととは、人間という自然に
全面的に関わることなので、随分
面倒臭いことである。
以前のように、自然物との関係性において
事を成すことの方が、ストレスの幅は
狭いだろう。
固い石を削るであるとか、
深く土を掘るだとか、
対自然であることは、
自然自身がわがままを言ったり、
怒りにまかせたり、理屈をこねたり
してこなく、というよりも、
自然に宿る整合性や、美しさや尊さに
学ばされることの方が多いだろう。
思い通りにいかないとしても
人間のようなエゴなどはない。
つまり、経験の質として、人間同士のみばかり
とかかわることと、自然とかかわることは
質が違うのだ。
自然には、何があるか、自然には
私は聖があると感じている。
これは、人間が生活する上でとても大事である。
聖に触れるのは、やはり自然からしかないと思う。
聖に触れながら、生活における活動を続けて
いくことで、人は心が洗われていく。
一方で、人間にも聖人というのはいるだろうが、
人間ばかりの活動においては、
目的が利潤であったりすると、そこには聖が
遠のいてしまう。
聖は聖として存在するので、目的性がないのだ。
生産活動のようなこうなったらああなるという理屈はなく
聖は聖として存在するので、聖そのものが目的化する。
人間は自然物とかかわることで労働を行いながら、
聖のみにかかわれる瞬間があるのだ。
これは厳密には労働を超えた瞑想に近い瞬間だろう。
昨今の労働は「誰かのため」という
美辞はあるが、何か空々しく聞こえるのは
私だけだろうか。
労働は、そんなお客様のためという
単純なものではなかったのだ。
労働の質が進化したように言われるが、
実は相当退化している。
その結果、人間を小さくしてしまっている。
多分、人間は自然の聖に触れながら、
自然を生かし、それに係る人間同士を生かす
ことをしていかないと息詰まってしまう
代物だと思うのだ。