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ARTな日々

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人間の人間による人間のための

2012-05-29 23:33:17 | 文明論
閉塞感がどこから来ているか考えていた。
そもそも私にとっての閉塞感とは何か?
人間が人間同士でばかりで生きていること
に原因があるとおもっている。

わたしが散歩をする。
とても好きな場所がる。
何が好きかといえば、そこには広い芝生がある。
でも、その場所を過ぎれば、また人間同士の場所に戻る。
大部分が人間がいる場所で活動している。
それは、労働という形で拘束もされている。

この息苦しさは何か
それは、人間の人間による人間のための活動を
し続けていることに息苦しさがあるのだと思う。

人間が人間同士のみの関係において、
事を成すこととは、人間という自然に
全面的に関わることなので、随分
面倒臭いことである。

以前のように、自然物との関係性において
事を成すことの方が、ストレスの幅は
狭いだろう。
固い石を削るであるとか、
深く土を掘るだとか、
対自然であることは、
自然自身がわがままを言ったり、
怒りにまかせたり、理屈をこねたり
してこなく、というよりも、
自然に宿る整合性や、美しさや尊さに
学ばされることの方が多いだろう。
思い通りにいかないとしても
人間のようなエゴなどはない。
つまり、経験の質として、人間同士のみばかり
とかかわることと、自然とかかわることは
質が違うのだ。
自然には、何があるか、自然には
私は聖があると感じている。
これは、人間が生活する上でとても大事である。
聖に触れるのは、やはり自然からしかないと思う。
聖に触れながら、生活における活動を続けて
いくことで、人は心が洗われていく。
一方で、人間にも聖人というのはいるだろうが、
人間ばかりの活動においては、
目的が利潤であったりすると、そこには聖が
遠のいてしまう。
聖は聖として存在するので、目的性がないのだ。
生産活動のようなこうなったらああなるという理屈はなく
聖は聖として存在するので、聖そのものが目的化する。
人間は自然物とかかわることで労働を行いながら、
聖のみにかかわれる瞬間があるのだ。
これは厳密には労働を超えた瞑想に近い瞬間だろう。

昨今の労働は「誰かのため」という
美辞はあるが、何か空々しく聞こえるのは
私だけだろうか。
労働は、そんなお客様のためという
単純なものではなかったのだ。
労働の質が進化したように言われるが、
実は相当退化している。
その結果、人間を小さくしてしまっている。
多分、人間は自然の聖に触れながら、
自然を生かし、それに係る人間同士を生かす
ことをしていかないと息詰まってしまう
代物だと思うのだ。

女性化する世界

2012-05-27 23:37:18 | 文明論
私自身の社会人として働いた場所が、
強い縦社会によって規律されていた
男性的な職場だった。
そこで、4年近く働いた。
そこで働いていたときは、男性性が
強すぎて辟易していたが、辞めてみて
気づいたことは、自分自身が男性化しており、
どの職場にいっても、働きにくいということであった。

私は、職場としては、ホワイトカラー色が強い
職場に勤めつづけているが、どの職場にいっても
感じることは、女性化された職場ということ。

女性化された職場では、意識調整や意志決定に
とても時間がかかる。また、繊細な心への配慮や、
精神主義的なやり方への嫌悪感が強い。
見えないいじめが起こりやすく、語られる言葉が
表面的になりやすい。
それぞれの価値を認めるといいながら、
見えないところでコンセンサスをとっているので、
その空気を読めないと排除される。

一方で、男性化された職場では、
目上の立場の人間への服従が強いられる。
目上の立場の人間は、目下の人間からの
信頼を得るために、自分自身が信頼される
資格のある男としてあるのだろうかと
常に劣等感と戦う必要と、虚勢を張らねば
ならない不自然さに戸惑っている。
意識調整には、そこまでに時間は要さず、
繊細な心の声は、弱音として、あまり重要視
されない。
団結力は強いので、いじめは起こりにくく、
語られる言葉は、礼儀を強く求められ、
立場を意識した発言に限られる。
価値に対しては、常識や伝統が重んじられる。

このように女性化された職場と男性化された
職場の特徴を私なりの経験から上げてみたが、
どちらも行き過ぎると、苦しいのだが、
とはいっても、私は男性的な職場であることが
良いと考える人間だ。

女性化された職場で決定的に欠けていることは、
自分だけではなく、他人に対して責任を背負う
という関係を負えないことにある。
女性化された職場では、横軸が膨張する形で組織されるので、
組織力にとって重要なことが決定されることなく、
組織が業務をただ行っていく。
業務の決定事項があったとしても、
組織の枠組みや関係性においての決定事項や
共通認識が希薄なため、業務の決定事項の影響力が低くなる。
悪い言葉を使えば、パート感覚で、時間を仕事で
費やしているだけなのだ。
男性化された職場では、仕事の時間は、人生を費やしている。
なぜなら、仕事は仕事と割り切ることが、難しいのである。
強い決定力を持つには、人間力を身につけなければならない
のである。強い指導力には、そのことが自らも出来る
ので、指導が成り立ち、尊敬される。
尊敬には、その人間の人格が問われる。

職場だろうと、なんだろうと、
人間と人間が強くかかわるなら、
その関係においては、人間性が重要だろう。
仕事は仕事と割り切って、人間性が問われない中で、
生産性ばかりが重要視され、表面的な調和を保つ
虚妄の中で時間を費やすなんて、人生の時間を
無駄に使っていると私は感じてしまう。

女性性と男性性のバランスは大事であるが、
職場というのは、組織というのは、
男性性が強くなければ、つまらないだろう。

今の世の中は、甘やかされた子供が、
自分のやりやすいように、また精神的な
繊細な声を、妙に重要視する世界だ。
このような世界は、みなが本音を隠し
調整にあけくれる。
小学校の教室で、女子が小さな紙に
何かを書いて交換し合うような、
そんな気持ちの悪いコミュニケーションが
権力をもつような社会だ。
そんな紙をみつけても、叱れない社会。
そんな紙のやりとりをするような女子を
見つけたら、廊下で3時間正座させ、
己がどんなみっともないことをしたかを
わからせる仕組みがあることがまともだと
私は考える。

コミュニケーション力という猛威

2012-05-13 22:03:02 | 文明論
なんだか、最近、コミュニケーション力ということが
やたらもてはやされている。
「人と人をつなぐのは、コミュニケーションだよ」
「震災以後、人と人をつなぐコミュニケーションをつなぐ
ことの価値がみんな気付きつつある」
もっともだなあと思うのだけどとても違和感がある。
なんだか、最近言われているコミュニケーション力って、
この社会において必要とされるコミュニケーション力
であり、社会とは、職場であってあり、教育における
指導要領的なことであり、欧米から来たディベート力、
交渉力、説明力のことを指しているののだと思うのだ。

と列挙すると、わかってくるのは、
なあんだ、コミュニケーション力って、結局、
欧米から来た言語中心主義じゃねえかと、
がっかりくるのだ。
最近、ものすごく違和感があることは、
この世の中って、結局、言語能力に長けた人間が
優遇される世界だって、すごく感じている。
言語能力というのは、人間が作った言語を
よりうまく使える人間の階級ができている。
高学歴というのも、その一つであるし、
出来る仕事人というのも、結局は、言語能力に長けた人間
である。
都市化とは、人間の脳で作ったものだから、
それは結局は言語的なのだ。ならば言語に長けた
人間が生きやすいに決まっている。

ここに私は、ものすごく違和感があるのだ。
言語能力がある人間と、人間力は全然違うのだ。
学級委員長になるこましゃくれた女子と、ちょっと
抜けているけど、我慢強くて優しさがある女子でいえば、
学級委員長になる女子は言語能力に長けているだろう。
一方で我慢強くて優しさがある女子は人間力を
今後、備えている可能性が高い。
都市における教育は、多様性を認めるといいながら、
結局は生産性を求めるので、言語能力を優遇するのだ。
でも、言語能力がなんだよ、そんなものと
私はいいたいのだ。世界は言語で捉えられないものばかり
に囲まれており、捉えられると思った奢った人間の方が
私には人間としての能力としては劣っているとさえ思う。

なので、私はうまく話せる人に、あまり可能性を感じない。
それよりも、うまく話せなくて迷い、迷いながらも何かを
あてはめようと、言葉をごちゃごちゃにかきまぜながら、
なんだか座り心地が悪いけど、とりあえず言ってみた
なんて人間の方がずっと信用できる。

私は、今の教育でも、社会の風潮でも、皆がうまく
しゃべれるように、しゃべれるようにとして行っているが、
これは不幸にしかつながらないと思うのだ。
なぜかといえば、世界を人間が理解できるものとして
人生を言語化して理解できるものとして、追いかけていって
いることに等しいのだ。
子供が誕生した感動であるとか、大事な人を喪失した
言葉にできない悲しみや、地面を裸足で踏んだ感触や、
言葉にしにくい、しなくたっていい、なんとかできるとしても
歌や詩のようなものにしかならないものを、なんでも
言葉になんかしなくたっていいし、その言葉にならないことが
大切だと思うのだ。

背中でしか語れないことはあるし、表情でしか伝えられないこと
ことだってたくさんある。それも含めてコミュニケーション力
なんてことをいいそうだけど、その言葉にできないものまで、
言語化した気になることが、奢りなのだ。

「近頃は、人物がいない」なんて言われているが、
もっともだ。なんだか世の中は、立派になるための
努力をせずに、言語能力を長けるようになることに
ばかり必死になっている気がする。
なので、どの企業の上司と言われている人は、
なにが立派かというと、言語能力ばかりが立派で、
ちっとも人間として立派には思えない。
企業におけるヒエラルキーでは、上にいったきに、
人間が立派かなんてことは、もちろん求められていない。
求めるべきでもないかもしれないが、
しかしだ、なんだか、言語能力ばかり立派な人間なんて
尊敬なんてできるのかという言い方もあるのだ。

こんな言語能力ばかりが、横行する世の中とは、
私には生きにくくて仕方ない。
本当にありきたりな言い方を言おう。
言葉より、心の方が大事なんだ。
「心は言葉がなければ伝わらない」
そんな西欧人の言葉は、西欧人がボケているから
言うんだと思ったほうがいいのだ。
心がある人間が、もしもしゃべれない人間だったら
どうするの?そんなに人間て言葉でしか理解できない動物なの?
桜の花を感じることに、誰かがつくった言葉でしか、
理解できないの?
現代人は、徹底的に間違っているんだ!

デフレやインフレ、経済問題と人生(2)

2012-04-30 07:26:23 | 文明論
デフレ期に、行う政策として公共事業がある。
この公共事業を行うことが、この日本では、
大きな非難の的になっている。
乗数効果がない。政治家と企業の癒着の温床である。
土建国家、セメントから人へと様々な非難の声がある。
これらの声から、公共事業費を削減しつづけた
結果、有効需要が減り続け、デフレが深化したことは
間違いないのだ。戦後、デフレに陥った国は、実は
日本しかないのだ。どの国もデフレに入る前に、結局は、
通貨を発行し、そのお金で国債を購入し、有効需要を
作って民間にお金を回しているのだ。
国債を発行することは、更なる借金額が増加し、
「借金大国!」という不安を煽るが、この借金は、
誰が誰にしているのかということが問われていない。
日本政府の借金は、政府が国債を発行し、ほとんど日本人に借金している
のだ。債権者は日本人なのだ。ギリシャとは状況が全然違うのである。
「孫の代に借金を残すのか!」という声をよく新聞・マスコミは
書き立てるが、その孫は債権者なのだから、借金を返してもらう立場
なのである。もしも、ギリシャのように債権者が外国人ならば、
話は別であるが。ギリシャの場合は、ユーロを発行することも
できないし、国債の長期金利が10年物の利回りが約35%(日本は1%)
となっており、誰もこんな国債は買わない。また、借金を返せる状態では
ないことが数字が物語っている。
OECD先進諸国と比べて日本の公共事業費は、
高い水準にあったが、最近、公共事業費の予算を削減した
ことで、やっとOECD先進諸国となったという。
しかし、先の震災を見てみれば、この国は、地震大国であり、
土砂災害や、台風による災害等、ヨーロッパの国々とは
様相が全然違うのだ。この国は土建で固めなければ崩れて
しまう立地的な条件がある。

私は、政府が経済成長のために行う現在の政策は間違っているとは
思う。
藤井聡教授が言うように、国債を発行し、公共事業費に充てて、国土の強靭化が
行われ、GDPの成長率が増え、失業率も下げることが
妥当だとは思う。
しかしながら、経済成長というものに、どうしても違和感を覚えるのだ。

デフレやインフレ、経済問題と人生

2012-04-29 08:34:17 | 文明論
今、日本はデフレ経済の渦中にはまり、
抜け出せないでいる。政府も日銀も、
デフレを抜け出す政策とは逆のインフレ時に
行う政策を行っているため、更なるデフレ状況を
作り出している。
デフレとは、供給が需要を上回る状態を指すが、
現在の政策は、規制緩和であるとか、TPPによる
関税撤廃によって供給を行いやすい状態にさせる
政策のため、ますます供給量が増し、競争が加速し、
価格が下がることで物の価値が下がっている。
もちろん、それは物の価値が下がるとは、それを
生産する労働の価値も下がるので、給与が下がる、
または、失業率が上がることとなっている。
デフレ期に入ってから、自殺者は、それまで2万人
位であったが、3万人を15年更新しているという。
プラス1万人を15年続けてるので、15万人の死者
があったというから、これは戦争なんかよりも多い死者数
といえる。

私の会社でも、このデフレの影響は色濃く、
労働の価値がどんどん低くなっている。
激しい競争原理のもと、価格破壊や入札の値が
更に低く見積もらなければ、企業としてやっていけない。
価格を下げて供給すれば、そのための労働負担が増える。
より少ない人員で、より効率的に行わなければならない
ことが求められるので、労働負担が増加するのだ。
労働負担が増せば、労働を従事し続けることにストレス
となり、人員が定着しないこととなる
例えば、私はたまに、中華ファミリーレストランの
「バーミヤン」にたまにいくが、いつも気になることが
サービスを行う店員が少なすぎると感じることだ。
このホールと席数から考えて、4人はいなければ
回せないところを、実際は2人で回しているという
景色を目にする。効率化のために、客が水を持ってくるとか
ドリンクバーだとか、呼びとめるときは、ボタンを押すだとか
工夫はしているが、サービスを行う店員の顔色を見ればわかる。
「やってらんねえ」という顔色が色濃い。
わたしだって、こんな状況でやってられるかと、あの店の
店員だったら思う。なので、あの店には、あまりいかない
ようにしている。

このように経済状況は、一人の生活に大きな影響を
及ぼしている。
ならば、経済成長をすれば、一人の生活が潤い
よくなるのか、経済成長を行う政策を政府が行えば
いいのか、ここを次回を考えたいと思う。