歌舞伎学会事務局

歌舞伎学会の活動を広報します.

事務局インタビュー「この人、どんな人?(4)半田真由美」

2018-03-08 14:31:59 | 人物紹介
忘れた頃にやってきた、第4回です。今回のゲストは、半田真由美さん。
秋季大会にご来場経験のある方なら必ず見かけたことがある、書籍売り場を切り盛りされている女性です。いわゆる「研究者」ではありませんが、総目次(補遺も)を作成し、バックナンバー展示用の本棚(?)も自らご用意くださる半田さん。犬丸先生の回に引き続き、こちらも秋季大会の隙間をぬってのインタビューとなりました。
謎多きその内側が、少しでも垣間見れるインタビューとなれましたかどうか。
では、始まり始まり…。


半田真由美(はんだ まゆみ)
明治大学文学部日本文学科文芸学専攻卒業後、同大学院文学研究科日本文学専攻前期博士課程修了。修了時の研究テーマは曲亭馬琴の読本。現在は外来語史研究のための用例集めで下働き中。同人誌は「柏屋」で活動。主な頒布作品は『映画職人マキノ雅広』シリーズ。


―現在のご職業をお願いいたします。
えー…無職が一番近いかと思います(笑)。

―普段は、何をされていますか?
大学の先生が、まったくPCを使えないものですから、それの入力作業やら、外来語の索引を作るための作業の手伝いをしておりますが、予算がつかないもので、なかなか進みません(苦笑)。

―どちらの大学の先生ですか?
もう退官されましたが、元国際基督教大学(ICU)の先生です。

―先生がICUにいらした時から、今も引き続き、お手伝いを?
小学館で『大辞泉』という本の校正のバイトをしていた時に知り合って、「暇なら手伝ってくれ」と…。95年に出版されたので、その後からですね。御茶ノ水の茗渓堂(書店)が規模縮小するまでは、そこでバイトをしつつ、校正もして…と、ちょっとずつ重なるんですよ。大学に入って本屋のバイトをして、大学院に入って、本屋のバイトと『大辞泉』の校正もして、卒業してからもそれを並行してやっていて、『大辞泉』が終わって…。

―複雑ですね(笑)。
そうなんですよ。だから、履歴書を書くのが面倒くさくて(笑)。

―そもそも、半田さんが歌舞伎学会に入られた経緯は?
原道生先生が会長になられて、「(当時の)事務局の人が辞めたいと言っている」と。それで後任で、非会員のまま事務局をやるのもなんなので、ということで(笑)。二十数年前です。

―では、事務局をされるために入られたと(笑)。もともと歌舞伎自体は?
観には行くけど、熱心な研究者じゃないし、熱心なファンではないし、見巧者でもなければ贔屓というのでもないし…。

―初めてご覧になった歌舞伎は覚えてらっしゃいますか?
歌舞伎座で、『仮名手本忠臣蔵』の通し上演でしたね(※1)。
22、3歳ぐらいかな? おかるが玉三郎で、勘平が孝夫(現仁左衛門)。

―孝玉世代なんですね。そのブームに乗るようなことも特になく?
そうですねえ…。初めて観て、テレビで観ても言葉がわからないのに、舞台を観たらちゃんと聞き取れたので、面白いじゃないかと思いました。

―それはなぜだと思いますか? 集中力の違い?
音響じゃないですか。テレビの音って、わ~んとしたのが入ってくるから聞き取りにくいんじゃないかと。劇場内での録音と、劇場で自分が直に聞くのとは違って、太夫の台詞もわからなくもないなと。役者の台詞はもちろん劇場に行けばわかるし、太夫の声も現場で聞けば聞き取れるんだなと思って、それが私には結構ビックリでした。

―確かにそうかもしれないですね。そもそも、初めて歌舞伎を観たきっかけは?
田舎から出てきたんだから、東京の歌舞伎というものを一度観てみようと思ったんだと思います(笑)。

―研究者として入られたわけではなくて、これまでお書きになったことは?
学会誌「歌舞伎 研究と批評」にはありません。

―では、今まで読まれたなかで印象に残っているものは?
(向かい側の売り場にあった総目次を見て)「初代中村仲蔵」特集の26号ですね。今尾哲也先生の「仲蔵と定九郎」という、最初に載っているもの。

―その理由は?
ちょうど、舞台の『夢の仲蔵』(2000年9月日生劇場)を観た直後に読み直したのか…。それで、あの『夢の仲蔵』でいいのかどうかと(笑)。定九郎の拵えみたいなものがこういう風にできた、というのが確認できたという点でも面白かったし、こんな難しいもの、私には書けません(笑)。

―ところで、半田さんのイメージというと私の中では「同人(誌)」となるのですが(笑)、ジャンルは何でしょうか?
歴史ジャンルと映画ジャンルをやっていて、どちらかというと映画かな?

―テーマは?
ニッチ産業かな…(笑)。映画監督のマキノ雅弘の、作品紹介が多いかな?

―なぜ、マキノ雅弘を?
日活回顧の映画特集を、文芸座が壊される前、古い文芸座の、「映画百年」の頃にやったんですよ。あれで『阿片戦争』(1943年)と『鴛鴦(おしどり)歌合戦』(1939年)の二本立てを観まして…。

―「この監督は!」という運命の出逢いが(笑)。
はい(笑)。とても楽しい映画で。『阿片戦争』はカッコよくて。初代の猿翁(当時は二代目猿之助)が林則徐を演ってるんですけど…。

―それから「マキノ本」を作るようになり、今も?
やってるんですけど、何分にも散逸したフィルムが多くて、観られない作品が多いのが残念です。

―もしフィルムをお持ちの方がいたらぜひ、と(笑)。
でも映画会社がちゃんと管理しているものではないんですか?
戦前ですから。戦争もありましたし、焼いたらどんどん地方の映画館に流れていって、その先がわからないというのもあるし。もともと、一回上演したら、初期のビデオテープと一緒で、廃棄処分みたいな感じだったらしいんですよ。繋いでいって、フィルムがブチブチ切れるから、短くなってしまったりということで。

―公開当初の形で観れるものはほとんどない?
特に無声映画時代は、ほとんどないんじゃないですか。

―そういうものを探しながら、自分の目でちゃんと観られたものの評を、ということですね。
映画を観られたかどうかが、同人誌が作れるかどうかに直結するのでは?
そうです。だから、今はマキノ本じゃなくて、ポール・マクレーン(※2)という海外の俳優さんのを。

―そちらはわりと安定供給?(笑)
いやあ…何しろ、その人がまたあんまり出ない人で。脇役だから仕方ないですが(苦笑)。

―では最後にひと言、お願いいたします。
会員の方は、ぜひ会員を続けてください。

【MEMO】
※1 1986年(S61)2月歌舞伎座。通し狂言『仮名手本忠臣蔵』。
勘平、おかる以外の主な配役:高師直(五代目中村富十郎)塩冶判官(七代目中村芝翫)若狭之助(十二代目市川團十郎)顔世(中村時蔵)直義(中村橋之助)伴内<三段目・七段目>(二代目市村吉五郎)本蔵<三段目>(初代澤村昌之助)由良助<四段目>(十二代目團十郎)石堂(片岡孝夫=片岡仁左衛門)薬師寺(市川左團次)力弥<四段目>(中村芝雀)九太夫(五代目片岡市蔵)郷右衛門(六代目尾上菊蔵)源蔵(初代市川銀之助=市川團蔵)助右衛門(市川右之助)安兵衛(二代目坂東慶三=坂東秀調)又之丞(二代目尾上松鶴=六代目尾上松助)矢間重太郎(坂東正之助=河原崎権十郎)村松三太夫(六代目片岡十蔵=片岡市蔵)大鷲文吾(片岡亀蔵)伴内<道行>(三代目中村歌昇=中村又五郎)
定九郎(十二代目市川團十郎)与市兵衛(二代目助高屋小伝次)不破(三代目河原崎権十郎)千崎(三代目中村歌昇=中村又五郎)お才(十三代目片岡我童)おかや(初代澤村昌之助)源六(二代目坂東弥五郎)平右衛門(片岡孝夫=片岡仁左衛門)力弥<七段目>(片岡孝太郎)服部逸郎(三代目河原崎権十郎)

※2 Paul David McCrane(1961-)アメリカ合衆国の俳優。主な出演作(映画)は『フェーム(Fame)』(80年)、『ロボコップ(Robocop)』(87年)、『ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)』(94年)など。TVシリーズは『Xファイル(The X File)』(97年)、『ER救急救命室(ER)』(97-08年)、『24』(06-07年)、『CSI:科学捜査班(CSI: Crime Scene Investigation)』(10年)など。02年以降、TVシリーズの監督を務めることも。

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事務局インタビュー「この人、どんな人?(3)犬丸治」

2015-03-16 13:44:09 | 人物紹介
この突撃インタビュー企画も、めでたく3回目を迎えました(パチパチ)! 
お声をかけては「いやいや、私は(僕は)いいです~」とフラれ続けた事務局Sを「来ましたか」と迎えてくださった今回のゲストは犬丸治先生。
企画委員でもあり、歌舞伎学会奨励賞の選考委員でもある先生をつかまえたのは、先日、皆様のおかげで成功裏に終了しました秋季大会の初日が幕を開ける直前のことでした。では、始まり始まり…。



犬丸 治(いぬまるおさむ)
1959年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。歌舞伎学会運営委員、日本ペンクラブ会員。現在「テアトロ」、読売新聞夕刊に歌舞伎劇評執筆。著書に「市川新之助論」(講談社現代新書 2003。のち「市川海老蔵」岩波現代文庫 2011として増補)、「菅原伝授手習鑑精読 歌舞伎と天皇」(岩波現代文庫 2012)など。


―まずは現職を教えてください。
「演劇評論家」ですが、本職はテレビ局で放送内容の間違い・放送表現の是非などをチェックする「番組考査」という仕事をしております。
そもそも僕が歌舞伎を観始めたのは、昭和46年(1971)9月の国立劇場。演目は『東海道四谷怪談』で、それで歌舞伎が大好きになったんです。


―おいくつの頃でしたか?
小学校6年生ですね。
我が家の人間はそれほど歌舞伎というものに縁が無くて、どちらかというと欧米文化派。
僕みたいな「日本文化が好きだ」っていうのは異色だったんだけど(笑)、とにかく「昔のものが好きで、調べることが好き」で、っていう性格と歌舞伎とが、妙にマッチしてね。


―昔のものが好きというのは、小さな頃から?
古今東西の美術とかが好きで、美術全集を抱えては飽かずに眺めていた、マセた子どもでした。

―その『四谷怪談』は、誰が出ていたか覚えてらっしゃいます?
この前、三十三回忌をやった白鸚の伊右衛門。お岩が(十七代目)勘三郎(※1)
直助が猿之助(今の猿翁)で、与茂七が今の幸四郎。お袖が精四郎、今の澤村藤十郎でした。
なかなか良い舞台でね。最後の「蛇山庵室」が、原作通り、雪なんですよ。
伊右衛門がお岩さんに祟られて、よろぼい出たときに、雪が降っていて。後ろが黒幕なんだけど、それがパッと振り落とされて雪の遠見がわあっと拡がったときに、「なんなのこれ!?」って子ども心にすごく新鮮で。
鮮やかな記憶が今でも残ってますよ。


―その中で一番印象に残った役者は?
僕は猿之助ですね、不思議なんですけど。
「三角屋敷」で、(直助が)お袖とまさに関係をもとうとしている。上手のところで、衝立を立てて濡れ場になってて、そこに与茂七が訪ねてくるんだけれども、そのときに(直助が)上半身裸になって出てくるわけ。その肉体が生々しくてね。
あるいは、奥田庄三郎を殺して、顔の皮を剥ぐところなんか結構リアルに演ってねえ。そういう細部が、妙に印象に残ってるんですよ。「歌舞伎っていうのはこういうこともやるのか」って、すごく新鮮な感想をもちました。


―歌舞伎好きの犬丸少年が演劇評論家になるまでに、そこからどんな道のりがあったんでしょうか。
僕の家と家族ぐるみの付き合いがあった方に、巌谷慎一さんという方がいらっしゃいました。
歌舞伎座の監事室ってありますよね、客席の一番後ろの方の小部屋で、ダメを出したり、いつも観ている所。
巌谷さんはその監事室長だったのですが、なぜか、小学生か中学生くらいの僕をとても可愛がってくれて、いつも監事室に入れてくれたので、そこで観ていたんです。
僕は十一代目團十郎や寿海は間に合わなかったけども、(十四代目)勘弥や(八代目)三津五郎ってよく観てたので、それは良かったなぁと思います。
たとえば、勘弥の与三郎が「見染め」で浜辺というか客席を歩いてきて、監事室の前を通って、ガッと曲がるんですよね。ああいうところなんか、監事室側から勘弥の顔を見られる経験をしたという(笑)。
舞台稽古なんかも結構見せてもらって、勘三郎と(二代目)松緑の『安政奇聞佃夜嵐』とか、今でも覚えてますね。


―それは貴重なものをご覧になって。劇評を書いてみたいと思った一番のきっかけは?
いやぁ、なんでしょうね。
大学では歌舞伎研究会に入りました。慶應の歌舞伎研究会は、古くは戸板(康二)先生や渡辺(保)さんとかを輩出した歴史ある部で、今でもそうですが、学生は実演というのがありまして、僕も…。

―どのお役を?
僕は二年から入って、そのときが『盛綱陣屋』のあばれの信楽太郎を演って、三年のときが『伊勢音頭』の喜助。
―良い役ですね!(笑)
ねえ(笑)。ですから、書くことや調べることはもともと好きで、中学校のレポートで南北について書いたりもしてましたので、今にして思うと素地はあったのかなとは思いますけれど、当時は歌舞伎好きの若者に過ぎませんでしたね。

―それで、就活してテレビ局に入られるわけですよね。
テレビ局に入ってしばらくは、全然芝居が観られなかった。僕は、ラジオを経てテレビの報道に異動になったんですね。ちょうど昭和天皇の崩御とかにもぶつかって、宮内庁担当で宮内記者会(記者クラブ)にいたから、メチャクチャ忙しい。
ですから、勘三郎や松緑の晩年は見逃してるんですよ。
で、非現場(テレビの現場以外のセクション)に移ってからは少しは土日が空くようになって、自分の時間ができるようになったのね。そのときに「また芝居に行ってみようか」って昔の虫が疼いて。観に行ったんです。
そのうち「自分でも(劇評を)書いてみたい」という欲求が抑えきれず、「演劇界」の懸賞劇評に書いた頃もありました。
歌舞伎学会ができて一番魅力的だったのは、僕たちが憧れてた渡辺(保)さんや服部(幸雄)さんや、今尾(哲也)さんといった方々と、気鋭の学者が集まって「歌舞伎をなんとかしたい」「現状の歌舞伎を考えよう」という動きができたこと。
そのとき「自分も参加できたら」という熱い思いが込み上げたのは事実ですよね。
歌舞伎を観るだけじゃなくて、学んで、それを今の歌舞伎に反映させたい。その気持ちを実現できる場はないかと考えていたときに、歌舞伎学会ができた。
学会も開かれていたけれど、何より紀要(学会誌)が投稿を受け付けていたということですね。
そこで自分の力試しという気持ちもあって、応募したら、大変温かい評価をしていただきました。
また、その頃「劇評」という小さな雑誌があって、清水一朗さん(学会員)からも声をかけていただいて書くようになったり、そういったさまざまな巡り会わせが講じて、今に至るというか…。


―そうだったんですか。
紀要に投稿していくうちに、こちらでの発表もさせていただいて、その結果、僕が光栄にも委員にも選ばれて。
つまり歌舞伎学会での活動が、今の僕が新聞なり雑誌なりで、劇評家の末席に名を連ねることに繋がったという感じがします。
ですから、歌舞伎学会にもしご興味があるのでしたら、開かれた学会で、誰にでも開かれた道がある、ということを知ってもらいたい。決して、学問的に敷居が高いわけでもないし、歌舞伎が好きなら誰でも参加できますから。


―紀要が一般の方々にも開かれている点は特長ですよね。ちなみに、これまでの『歌舞伎 研究と批評』のなかで印象に残っているものは?
投稿したものでは、最初に書いた「明治婦人の観劇記録~演劇資料としての『穂積歌子日記』」(第7号)ですね。
これは、研究者としての僕なりの習作みたいなものなんだけれど、その次の「お辰の残像 『謎帯一寸徳兵衛』論」(第8号)は、自分の研究と劇評とがマッチングしたらどうなるだろうかっていう試みだったのね。
紀要でも「研究と批評」と謳っているから、「それをうまく融合させたものがなにかできないかな? それまでにないものを考えよう」という気持ちがありました。


―お読みになって印象に残っているものは?
渡辺(保)さんの「九代目団十郎の弁慶」(第7号)かな。
やっぱり、我々が『勧進帳』として後生大事に語っていたものがいかに崩れているか。
九代目がこれだけ掘り下げて、工夫してきたんだということを、非常に実証的に事例を挙げておられて「なるほどなあ」と思いましたよ。
これが一つの、僕なんかは、劇評を書くときのある意味での「お手本」というか。
型というものを知悉した上で書かなければ、ただの印象批評になってしまうし、建設的ではないなと思います。


―書くこと、読むこと、観ることが、歌舞伎学会の活動を通して先生の中で融和しているんですね。
たまたま、僕の中では、本当に幸福な出会いだったと思いますね。

<取材・文=事務局S>


【MEMO】
※1 お岩・小佛小平・吉野屋お波(十七代目中村勘三郎)伊右衛門(八代目松本幸四郎=初代松本白鸚)直助(三代目市川猿之助=二代目市川猿翁)与茂七(六代目市川染五郎=九代目松本幸四郎)お袖(澤村精四郎=二代目澤村藤十郎)喜兵衛(二代目市村吉五郎)奥田庄三郎(四代目市川段四郎)四谷左門(四代目坂東秀調)藤八(二代目市川子團次)秋山長兵衛(七代目市川寿美蔵)お梅(十七代目市村家橘)宅悦(二代目坂東弥五郎)宅悦女房おいろ(二代目中村小山三)後家お弓(中村万之丞=二代目中村吉之丞)ほか
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事務局インタビュー「この人、どんな人?(2)今岡謙太郎」

2014-12-03 21:17:31 | 人物紹介
前回に引き続き、歌舞伎学会の運営に携わられている方々への突撃インタビュー企画をお送りします。
第2回のゲストは、前期(2012-2013)まで学会誌の編集委員長を担当されていた今岡謙太郎先生。
余談ですが先生は噺家の声色がとってもお上手で、事務局Sが大好きな彦六師匠のモノマネは絶品です
(笑)。それでは本題へ…。


今岡謙太郎(いまおかけんたろう)
昭和39(1964)年、神奈川県生まれ。早稲田大学第二文学部卒業、同大学院修士課程修了、博士課程満期退学。主な研究テーマは江戸時代末期から明治にかけての歌舞伎、舌耕芸など。歌舞伎学会には平成元(1988)年入会。著書に『天衣紛上野初花』(古井戸秀夫氏と共編著。白水社『歌舞伎オン・ステージ』11)、『日本古典芸能史』(武蔵野美術大学出版局)がある。

―まずは現職とご専門を教えてください。
武蔵野美術大学 造形学部教授です。専門は、近世から近代にかけての諸芸能…と、歌舞伎。かな?(笑)

―「諸芸能」というところが先生のご研究の特徴ですよね。
僕は「落語の研究をしよう」という気持ちから始まったので、そこから入って、落語、講談というように…寄席芸ですよね。それからその周辺の、諸芸能(笑)。

―歌舞伎を観ていくなかで関連のある落語…たとえば『真景累ヶ淵』のようなものを寄席に聴きに行くというパターンもあると思いますが、ご研究が話芸から入って舞台芸術に及ぶようになったのは?
えーとねえ、一つは、どう考えても歌舞伎っていうのが当時一番メジャーな芸能なわけなので、落語を中心とした寄席の研究をしようとすると、それとの影響関係も考えなければいけないというのがあります。
もちろん落語でも芝居噺はありますし、演目ということで言えば講談と歌舞伎はかなりかぶるものがあります。
ですから、落語のことをわかるためには歌舞伎のことをわからなきゃいけないだろうし、義太夫節だってそうだろうし…というような感じから入りました。もちろん、お芝居を観に行くこと自体は好きでしたけどね。


―最初に観た歌舞伎のことって、覚えてらっしゃいますか?
それまでも観てたはずなんだけど、印象に残っていたのは、今の仁左衛門さんがまだ孝夫だった頃の歌舞伎鑑賞教室ですね。(※1)
その頃の鑑賞教室は地方にも回ってくれたんですよ。僕、横浜市の出身なんですけども…。

―横浜は地方じゃないですよ!(笑) (事務局Sは東北出身です)
それで、「出開帳」じゃないけども(笑)、横浜の青少年ホールみたいなところで『女殺油地獄』を観ました。

―相手役はどなただったんですか?
それが覚えてないんだよね~。いま「あ~」と思って…(笑)。
その舞台は印象が強かったですね。


―身近に歌舞伎をご覧になる方はいらっしゃいましたか?
もともと家族が普通に芝居が好きで、たまに観に行ってました。
下の妹と弟がちっちゃかったから、全員で行くというわけにはいかなかったけど。横浜在住だったので、遠いんですよ、東京は。子供にとってみればね(笑)。


―舞台はおいくつぐらいから観られてたんですか?
小学校高学年か、中学校くらいでしょうね。
むしろ僕は高校生ぐらいまでの頃は、新劇系のほうが馴染みがありました。
というのは、地方都市にはよく「演劇鑑賞協会」みたいなのがあって、ふた月か三月に二遍くらいは定期的に公演に来てくれるので、そういう団体に入って観に行くという…。
そこはわりと新劇系の舞台が多かったんです。いまでもそうでしょうけど、新劇系はそうやってずーっと回りますよね。


―文学座や俳優座なんかもわりと地方の劇場を回ってくれますね。ところで、これまでの『歌舞伎 研究と批評』のなかで印象に残っているものは?
ずいぶん僕は書かせていただいているので、いろいろあるんですけど…やっぱり最初に書いたものでしょうね。
黙阿弥の特集(第10号)のとき、『鼠小僧』で論文を書きました。少なくとも、歌舞伎に関する僕の文章で、最初に活字になったものが、歌舞伎学会で書かせていただいたものだったと思います。


―もう研究者にはなられてましたか?
修士課程は出てましたね。
読者としては、むかし「歌舞伎フォーラム」というのがあって、それを特集の一つに組み込んだのが第30号の「歌舞伎と諸芸」なんですけど、これはすごく印象深いですね。
『切られ与三郎』の一部で、芝居では普段出ないところを演ってもらったり、いわば講談の『勧進帳』のような『安宅の関』を演ってもらったりして、その後にシンポジウムというものでしたが、僕自身が前から観てみたかったものを実現してもらえた企画だったので…。


―最後に、会員の方や「歌舞伎学会に入会してみようかな?」と思ってらっしゃる方へひと言お願いします。
歌舞伎はとても広がりのある芸術で、僕の専門の落語や講談などはもちろん、新派や新劇などの近代劇、近代美術など、さまざまなジャンルと密接に関わってきました。なので、名前は「歌舞伎」学会ですが、歌舞伎にとどまらず関連する他のものも扱っています。
そうしたことに少しでもご興味があれば、ぜひご参加いただきたいと思っています。
また運営する側としては、会員の方がとっつきにくくしてはいけないので、間口をちゃんと広げつつ、レベルを落とさないことがやっぱり大事だと思っています。「歌舞伎学会ならでは」というのを考えていかなければならないけど、それと同時に、近接した文学系の研究だとか、同じ舞台芸術でも他のジャンルのものに関しても、ちゃんと高いレベルを保つことが大事なんだろうと。
仮に全部は理解できないとしても、レベルが高いものが出ていれば「わからないけど、すごく面白い」みたいなことってあるんですよ。僕も実際そうでしたからね。たとえば僕が大学院生の頃、指導教授は内山美樹子先生でしたが、非常にレベルの高いことを授業でなさってたと思います、今になってみると。
だから僕は大学院に入ってもサッパリ授業がわからなかった(笑)。「えぇ~大変なところに来ちゃった!」と思って、でも「すごいものなんだな」ということはわかりました。
一生懸命やっている人が、自分の研究に対する思いなり姿勢なりをバンと目の前に出して、ぶつけてきてくれている。それが当時は面白かったですね。内容がわからなくても興味をそそられたし、鼓舞されました。


―たしかに、会員の方でも「自分には難しすぎて…」というご意見は多いです。
もしわからないとしても、わからないなりに、何か「とっかかり」を見つけていただけたらと思いますね。
レベルが高いものを出し続けていれば、興味のない方にもいつか通用するはずだと思いながら、運営していますので…。
歌舞伎の舞台を観たって、僕だってせりふが全部わかるわけじゃない(笑)。でも「面白い!」ってはなるじゃないですか。難しい問題ではありますが、我々も一生懸命考えていかなければいけないし、そういうところを目指していかなければいけないんじゃないかと思います。
一回だめであっても、心の隅にちょっと留めておいてくだされば、ピタッと波長が合う日が来るかもしれないので(笑)、よろしくお願いいたします。


<取材・文=事務局>


【MEMO】
※1 昭和55年7月。『女殺油地獄』与兵衛(片岡孝夫=十五代目片岡仁左衛門)お吉(六代目澤村田之助)徳兵衛(七代目坂東簔助=九代目坂東三津五郎)おさわ(五代目上村吉弥)父太兵衛(初代市川銀之助=九代目市川團蔵)妹おかち(初代中村亀鶴)ほか。

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事務局インタビュー「この人、どんな人?(1)神山 彰」

2014-09-16 09:33:45 | 人物紹介
 歌舞伎学会では、さまざまな方が会の運営や学会誌『歌舞伎 研究と批評』の執筆・制作に携わられています。「夏の講演企画や秋季大会で姿は見かけるけど、この人はどういう人なんだろう?」という皆様のかねてからの(と勝手に決めつけておりますが)疑問にお答えすべく! ブログ限定企画【不定期更新】として、そうした方々へ突撃インタビューを掲載することになりました。記念すべき第1回のゲストは、現会長であり学会誌の編集委員長でもある、“兼ネル”会長・神山彰先生です。


神山 彰(かみやま あきら)
昭和25(1950)年、東京生まれ。国立劇場芸能部制作室で歌舞伎・新派の制作を18年間担当したのち、明治大学文学部教授。歌舞伎学会には平成2(1989)年入会。著書に『近代演劇の来歴』『近代演劇の水脈』(森話社)。共編著に『河竹黙阿弥集』(岩波書店)、『映画のなかの古典芸能』『忘れられた演劇』(森話社)など。

―まずは現職とご専門を教えてください。
明治大学教授で、専門は近代日本演劇です。

―そのご専門を選ばれた理由は?
僕はもともと商業演劇が好きだったのですが、新劇中心の演劇じゃなくって、それ以上に多くの人の記憶に残った新派や新国劇、あるいは特に明治期の歌舞伎、新歌舞伎が好きなので、「じゃあそこに絞って探ってみよう」ということですね。

―大学で教鞭をとられる以前はずっと国立劇場でお仕事をされてましたが、入られたのは新卒ですか?
いえ、大学院を出てしばらくしているうちにそういうお話があって、28歳の時かな? それから46歳頃まで在籍していました。

―その間、印象に残っている作品は?
いっぱいありますけれど、一番好きなのは『島鵆(月白浪)』ですね(※1)。制作で実際に担当していますが、担当していなかったとしても好きです。

―なぜ『島鵆』が?
『島鵆』は、小学校6年の時に寿海の島蔵と初代猿翁の松島千太で観てますが、その時の印象がものすごい強くってね(※2)。それと先程のように、明治時代の風俗――精神風俗も含めて非常に関心があるので、散切物が好きだということです。

―歌舞伎を観始めてしばらくすると、だんだん自分の傾向が分かってきますが、「散切物が好き」と思い始めたのはいつ頃ですか?
高校ぐらいじゃないですかねぇ。昭和42年に、十七代目勘三郎と十七代目羽左衛門で『島鵆』を二度目に観たんですが、その頃かなぁ?(※3) 
『お祭佐七』とか『侠客春雨傘』とか、『地震加藤』『酒井の太鼓』なんかもその頃はまだやってましたけれど、そういったものが好きで、考えてみたら、だいたい明治以降にできたものでしたね。
「古典歌舞伎」とは言っても実際には近代に入ってからできた演出をそう呼んでいるんだ、ということを考えたいと思ったのも、研究の一つの動機のような……まぁ、全部あとになって考えたことですけれど(笑)。高校の時はそこまで考えてませんが、「自分の好きなのは明治期のものだ」というのは、確かに意識はしてましたね。


―初めてご覧になった歌舞伎を覚えてらっしゃいますか?
祖母や、両親の仕事の関係で子供の頃から歌舞伎を観てはいましたけれど、意識的に覚えてるのは、昭和38年1月の新橋演舞場で、寿海の『石切梶原』とかをやっていた時です(※4)

―これまで刊行された『歌舞伎 研究と批評』のなかで、印象に残っているものは?
そうですねぇ…これは僕の性格的なものでしょうけど、やっぱり、第28号の「六代目中村歌右衛門追悼」ですね。あれは、他の方のもよく読みました。

―最後に、会員の方や「歌舞伎学会に入会してみようかな?」と思ってらっしゃる方へひと言お願いします。
歌舞伎は、「昔はよかった」と思わなければ観てられないものだと僕は思っておりますから(笑)、自分の観ているものが、過去の思い出と重なる時が、僕は一番幸せですね。そうじゃない舞台というのは、どうしても興味がもてない。
そうすると、若い方はどうすればいいのかっていうことになりますけれど、僕は、小学校や中学校の頃から、舞台そのものじゃなくても、なにか昔の記憶との関わりのなかで歌舞伎を観ていたように思うんです。好きな役者は寿海とか十一代目團十郎とか我童でしたけれど、思えば、最初に歌舞伎を観た時から「懐かしい」って感じだった。
ですから、たとえば若い方には、自分の直接の経験ではないけれど、『歌舞伎 研究と批評』を通じて昔の舞台に触れていただいて、今の観劇に役立てていただけたら。歌舞伎は「どうして懐かしさがくるのか」っていうのが、一つのテーマと言うと大げさですが、僕にとっては考えるモチーフだと思っています。


<取材・文=事務局>

※1 1983(昭和58)年3月。通し狂言。お照(七代目尾上梅幸)島蔵(七代目尾上菊五郎)松島千太(十代目市川海老蔵=十二代目市川團十郎)望月輝(十七代目市村羽左衛門)島蔵父磯右衛門(三代目河原崎権十郎)野州徳(七代目坂東簑助=九代目坂東三津五郎)妹お浜(二代目市村萬次郎)お仲(五代目坂東八十助=十代目坂東三津五郎)ほか

※2 1963(昭和38)年3月 歌舞伎座。三代目實川延若の襲名披露興行。寿海と初代猿翁のほかの配役は、弁天お照(七代目大谷友右衛門=四代目中村雀右衛門)福島屋娘お仲(七代目中村福助=七代目中村芝翫)島蔵の妹お浜(五代目澤村訥升=九代目澤村宗十郎)島蔵の父磯右衛門(八代目市川團蔵)明石屋店の者徳蔵実は野州徳(五代目片岡市蔵)ほか

※3 1967年10月 歌舞伎座。十五代目羽左衛門の二十三回忌追善、家橘の襲名披露興行。島蔵(十七代目羽左衛門)千太(十七代目中村勘三郎)徳蔵(二代目尾上九朗右衛門)お照(七代目梅幸)磯右衛門(四代目尾上菊次郎)お仲(十七代目市村家橘)お浜(五代目中村もしほ)ほか

※4 ちなみに『石切梶原』以外の演目は、同じく寿海の『少将滋幹の母』、二代目尾上松緑の『五斗三番叟』、七代目尾上梅幸の『娘道成寺』、松緑・十七代目市村羽左衛門・梅幸の『勧進帳』、三代目市川左團次・梅幸の『明烏』。
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