【メモ】何時抜錨すべきやも知れざれば【メモ】

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(011210)中央日報 【噴水台】竜山基地

2001年12月10日 | Weblog



BBC World 【噴水台】竜山基地

大韓帝国末期、朝鮮(チョソン)の政界をモチを練るかのように扱った清国の公使遠世凱は、赴任当時、青二才の26才だった。たいそうハンサムだったというこの若造は、監国大臣の名で通っていた。

朝鮮の監督官という意味だ。属邦の国王をしのぐ威勢は、むしろ横暴だった。単独会談中、高宗(コジョン、注:朝鮮第26代王)に殴りかかりそうになったとの噂がソウルの外交街に出回るほどだったのだから…。ロシアに内密に求めた保護要請を激しく追究していた時のことだ。

日清戦争で逃げ出すまでの10年間、朝鮮をもてあそんだのは袁世凱の清だったが、やる方なく崩れ落ちたこの地から「一件」を拾ったのは日本だった。壬午事変(1882年)の最終局面で、警備軍隊の駐屯権を取り上げたのだ。

公使の保護が名目だった。この時結ばれた済物浦(チェムルポ)条約は、近代国家として外国軍の駐屯を許した初めての記録だ。こうして日本の兵力が居座った場所は、西大門(ソデムン)公使館と明洞(ミョンドン)1街の2カ所だった。

彼らが竜山(ヨンサン)に大挙して集ったのは、韓日併合の前後だ。今の南大門(ナムデムン)警察署から梨泰院(イテウォン)、南營洞(ナムヨンドン)一帯に兵営施設を着々と作り上げた後の1908年、盛大な落成式まで行った。当時、21の師団を保有していた日本は、第19、20師団を常駐させ朝鮮軍司令部と呼んだ。現在の行政区域上は、ソウル竜山区竜山洞だ。

解放後、皮肉なことに米第8軍がバトンを受け取ったが、この竜山基地4万5000坪に米軍用の1066世帯のマンション建設を進めているとの噂だ。基地内の建築物新改築は、韓米駐屯軍地位協定(SOFA)に伴い両国間の協議の対象だというのに、その心懐は簡単ではない。

まず竜山基地を烏山(オサン)、平沢(ピョンテック)近隣に移すことで韓米両国が合意したのが、10年前の盧泰愚(ノ・テウ)政府の時だ。ところが100億ドルという移転費用に押されてうやむやとなり、今日に至る。

事情がどうあれ、韓米連合司令部、国連司令部、在韓米軍司令部が集うこの地は、ソウルの均衡発展というレベルからも考え直すべき余地が多い。

漢江(ハンガン)の南北をつなぐ要地85万5000坪が、首都の腰を圧迫しているためだ。ワールドカップを行う国際都市のイメージにも程遠いものだ。

全国7500万坪という米軍の基地、訓練場にすぐに手を出すのは難しくとも、竜山基地から体裁を整えて解決してこそ、国家のメンツも立つというものだ。

米軍の使用する土地の無償供与を明文化しているSOFAの問題一つとってもそうだ。朝鮮戦争時、早急に枠組みが作られたSOFAに比肩される不平等協定には、エチオピア・米国協定がほぼ唯一だとか?どうだろうか。政権末期で余裕もなかろうし、次を待つべきなのだろうか?

趙佑石(チョ・ウソク)文化部出版チーム長 <wowow@joongang.co.kr >


2001.12.10 22:26




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